正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1857年6月6日~1859年7月、セポイの反乱(第一次インド独立戦争)
(=インド大反乱=シパーヒーの乱)

インド中北部一帯での、イギリス東インド会社の
インド人傭兵「セポイ(sepoy)」の反乱を発端とし、
インド人がイギリス支配に対し、初めて起こした民族的な大反乱。

1600年に設立されたイギリス東インド会社を通じて
イギリスはインドの植民地化をすすめ、ムガル帝国を形骸化させ、
19世紀前半にはインドの征服をほぼ完了していたが、
各地でインド人の反感を招いていた。

1700年代のアメリカ独立革命とイギリス産業革命が進行し、
イギリスの商品は資本主義の形成によって、
インド社会にも大きな変化をもたらした。

それまでイギリスはインドで作られていた綿織物を輸入していたのに、
今度はイギリスの商品がインドに殺到するようになる。
綿製品の輸出国であったインドは、
イギリスの綿製品を強引に買わされる側にまわり、
農村・家内工業は大打撃を受け、
国内は混乱し、土着の綿工業は急激に衰退した。

この過程で権力や財産を失ったかつての支配階層から
木綿工業の衰退による失業者まで階層を問わず、また市民・農民の区別なく、
多くのインド人がイギリスへの反感を持つに至った。

ヒンズー教徒にとって牛は神聖な動物で、
ムスリムにとって豚は口に入れない物なのだが、
1857年6月、新型のP1853エンフィールド銃の紙製の弾薬包に
牛と豚の脂が塗られていて、薬包を使う際、
これを口でかみ切らなければならず、彼らはこれを宗教的侮辱と受け取り、
弾薬の受領を拒否するなどしたが、これらの行為は懲罰の対象とされた。
この処置への反発が直接の原因となり、セポイによる武装反乱が起こった。
反感を持っていた商人や農民もこれに参加し、反英独立戦争の様相をみせた。

ヒンズー教徒は死ぬことは厭わないものの、
身体がバラバラになることを恐れていたので
イギリスは捕虜となったセポイの反乱軍兵士を大砲の砲口に縛り付け、
木製の砲弾を発射して体を四散させるという
見せしめの処刑をおこなった。

イギリスは捕虜となったセポイの反乱軍兵士を大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して体を四散させる処刑をおこなった。

1859年7月、反乱軍の不統一などの要因もあり乱は鎮定された。
これに懲りたイギリスは用心深くなり、
インド監督局と東印度会社を一つにしてインド省とし、
1877年にはイギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ね、
インド帝国の成立を宣言。
以後、インドはイギリスの直接支配下に置かれることになった。

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イギリスは飢餓を植民地コントロールの一つの手段にしていた。
ガーディアン紙。飢餓は大英帝国によって植民地をコントロールするために使用された。
2010/03/08 06:00|年表リンク用資料
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