●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1592~98年、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役 1592~96、慶長の役 1597~98)
豊臣秀吉の目標は、 明の属藩(属国)である朝鮮ではなく、その先の支那(明朝)だった。 すでに当時、 スペインがフィリピンのマニラ、 ポルトガルがマカオ、 オランダはジャワに 着々と東洋侵略の拠点を構え、次の目標は支那だった。 秀吉はこれらの白人勢力の先手を打って支那に勢力を伸ばし、 白人勢力に対抗しようとしたのである。 朝鮮出兵は明を討つための通路を確保するためのものだったが、 朝鮮がこれを妨害したために戦いとなった。 しかし出征中に秀吉が急死(1598年)したため、 計画は途中で終わることとなった。 ![]() 当時、朝鮮は明の属藩(属国)でしかなく、 講和交渉も日本と明の間で行われ、朝鮮は講和交渉にも参加していない。 朝鮮民衆が秀吉軍に参加して 「明軍&朝鮮支配階級軍」を相手に戦った事実は、 秀吉の朝鮮出兵では絶対に欠かすことの出来ない重要事実である。 「朝鮮の支配勢力(第14代宣祖王とその取巻き両班・軍隊)=明の手先勢力」 の圧政から開放を願っていた当時の朝鮮民衆が、 支配をアジア広域に広げようとした秀吉の政策と利害が一致し利用した。 よって秀吉軍と朝鮮人の連合軍が明軍と戦ったというのが史実である。 秀吉軍の半数は朝鮮民衆であり、明軍(一部は明の手下の朝鮮人)と戦った。 2009年11月29日放送NHK教育 【ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」第8回 豊臣秀吉の朝鮮侵略】 では、文禄の役で戦死したという王宮の女子供のドクロ(頭蓋骨)を放映し、 「秀吉軍による虐殺」と紹介したが、 実際には秀吉軍に参加した朝鮮民衆による虐殺であった。 http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4474.html 『宣祖実録』 「人心怨叛し、倭と同心」 「賊兵の数、半ばは我国人というが、然るか」 ――――――――――――――――― 『鶴峯集』金誠一 「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」 ――――――――――――――――― 『秀吉が勝てなかった朝鮮武将』貫井正之 日本軍は朝鮮上陸後わずか二十日間で首都漢城を占領した。 快進撃の背景には日本軍を解放軍として迎えた朝鮮民衆の支援もあったのだ。 ――――――――――――――――― 『龍を気取る中国 虎の威を借る韓国』黄文雄 景福宮などの焼失は、大部分の韓国の観光案内板によれば、 「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の兵によるもの」と書かれているが、 それは嘘だ。 李恒福の『白沙集』によれば、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。 それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。 ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、 奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。 それが歴史の史実だ。 ――――――――――――――――― 『日韓・歴史克服への道』下條正男 『宣祖実録』によれば、「人心怨叛し、倭と同心」 するような社会状況の中で、明軍が朝鮮軍支援にかけつけてみると、 「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」といったふうだったという。 また、江戸時代末期に日本で書かれた『征韓偉略』によれば、 秀吉の軍隊が京城に入城した時、兵士の半ばは朝鮮の民であったという。 また、韓国の教科書には「文化財の被害も大きかった。 景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているが、 火をつけたのは朝鮮の民であり、秀吉の軍隊が京城に入る前に、 既にそれらの建物は焼け落ちていたのである。 宣祖の京城脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が 略奪・放火をほしいままにしたのであり、 「虐げられた朝鮮の民衆にとって、 外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映った」との指摘すらある。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 朝鮮の宗主国だった「明」の記録 ――――――――――――――――― 「紀效新書」 戚継光 1595年 ――――― これは日本のサムライが明に攻めて来た時に初めてわかったことである。 彼らは舞うように跳び回り、前方への突進は光が閃くようで 我ら明の兵は、恐れおののくのみだった。 日本人はよく躍動し、一息で一丈(約3m)も飛び込んできて、 刀の長さは五尺なので一丈五尺の間隔があっても攻撃される。 我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎて、 (サムライと)遭遇すれば皆両断されて殺される。 これは彼らの武器が鋭利であり、 両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである。 ――――――――――――――――― 「揮刀如神」 明末期 ――――― 日本のサムライの剣術はまるで神の如しだ。 我々の兵士(明兵)はサムライを見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。 剣術に優れたサムライだが剣術だけではなく 飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。 弓の扱いも我が弓兵と互角、 その他あらゆる兵科と比べても不足が見つからない。 本当に日本人は殺戮者だ。 その家には刀を持たぬものは無く、 子供の頃から武術を鍛えられ始め、壮年にいたれば手に負えなくなる。 ――――――――――――――――― 「単刀法選」 程宗猷 1621年 ――――― 日本剣術は神秘的だ。 左右への跳躍が凄まじく誰にも予測できない。 そのため長技(槍)を使っても毎回刀に負けてしまう。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 秀吉の朝鮮出兵 http://bit.ly/1LVwVdE |
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