正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1942年(昭和17年)2月19日、午前9時58分、ダーウィン爆撃。

日本のオーストラリアへの最初で、かつ最大の空爆。
連合軍による(元)蘭印(インドネシア)などへの攻撃に、
オーストラリアの基地が使用されるのを遅らせることを目的として、
日本軍の艦載機がポート・ダーウィンの海軍基地と空軍基地を攻撃した。
日本の真珠湾攻撃直後にオーストラリアは日本に宣戦布告を行なっていた。

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日本がオーストラリア空襲にいたる経緯。

日本が支那と戦争中であったのに、
アメリカなど連合国側が支那への武器支援
を続けていたため支那が日本への攻撃をやめないので、
アメリカなどが支那(蒋介石の重慶政府)へ武器支援をする援蒋ルートを
遮断するために仏印と平和的に話し合って日本軍が仏印に進駐すると、
アメリカなど連合国側は日本への石油などの資源の供給を停止したので、
日本はアメリカやイギリスなどに話し合いを要求したが無視され、
追い込まれた日本は蘭印の石油を武力で確保する手段を選んだ。

その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
先手を打ってハワイのアメリカ海軍基地を攻撃した。

日本軍の真珠湾攻撃直後(1941年(昭和16年)12月8日)、
オーストラリアは日本に宣戦布告をおこなった。

日本軍は一挙に蘭印の石油確保のため、蘭印のアジア周辺地域にも展開し、
フィリピン、香港、ボルネオ、マレー半島などに上陸して
アメリカ、イギリス、オランダ軍、オーストラリア軍などと交戦中であった。

連合軍による(元)蘭印(インドネシア)などへの攻撃に、
オーストラリアの基地が使用される事を遅らせるため、
日本帝国海軍や日本帝国陸軍の航空機が、
1942年2月19日~1943年11月12日まで計64回にわたり、オーストラリア本土、
地域の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶などを攻撃した。

◆ダーウィン爆撃
1942年2月19日の最初の空襲が最も大規模な空襲で、
日本軍の航空母艦4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)から艦載機188機が発進し、
ポート・ダーウィンの海軍基地と空軍基地を攻撃した。
オーストラリアの艦艇だけでなく、アメリカ海軍の駆逐艦「ピアリ」を撃沈、
「バロッサ」、「ポート・マール」なども破壊した。
犠牲者は243名、負傷者は350名であった。
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日本軍は、
●被撃墜が九九艦爆1機(乗員2名戦死)
●零戦1機がメルビル島に不時着→この搭乗員はオーストラリアでの捕虜1号の
豊島一 一等飛行兵で、彼は1944年8月5日、ニューサウスウェールズ州の
カウラ第12戦争捕虜収容所から日本人1104名のうち545名以上が脱走する
「カウラ事件」を主導した。戦闘詳報では戦死となっている。
カウラ事件では日本人231名、オーストラリア人4名が死亡した。
捕虜収容所の脱走事件としては史上最多の脱走人数である。
●九九艦爆1機と九七艦攻1機が
タイヤのパンクや脚が出ないなどで艦隊附近に不時着水(乗員生還)
●零戦1機が樹木に衝突して主翼を破損するも母艦に戻り着艦(乗員生還)
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【出典】
当日攻撃参加部隊の「戦闘詳報」。
中野 不二男著「カウラの突撃ラッパ」。
※なお、1942年(昭和17年)2月21日の朝日新聞・東京版でも被撃墜は2機と報道されている。
ダーウィン空襲 1942年(昭和17年)2月21日 朝日新聞・東京版  ダーウィン空襲 1942年(昭和17年)2月21日 朝日新聞・東京版 一部拡大
当時は現在のように精密爆撃はできなかったので
民間人にも犠牲者を出してしまったが、
あくまで目標はオーストラリアの軍事基地や艦艇、航空機などを
使用不能にし、連合国によるアジアへの攻撃を遅らせて防衛しつつ、
そのあいだに蘭印の石油その他の資源開発と日本への安定供給を確保し、
自存自衛の体勢を構築することが目的であった。

オーストラリアは日本に宣戦布告をしていたので、オーストラリアにとって
日本軍の空襲は「寝耳に水」ではなかったはずである。


1943年(昭和18年)6月20日のダーウィン空襲に参加した
大日本帝国陸軍の100式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」(キ49)
大日本帝国陸軍の百式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」(キ49)

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2011年、ダーウィン爆撃式典
http://www.abc.net.au/news/2011-03-02/push-to-recognise-japan-wwii-soldiers-in-darwin/1963514

Bombing of Darwin
http://www.youtube.com/watch?v=3p_k7q_gc-8


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『孤高の鷲 リンドバーグ第二次世界大戦参戦記』より

8月11日 金曜日

オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの
話を覚えているかね?あるパイロットなど、僕にこういったものだ。
捕虜を機上から山中に突き落とし、
ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ。

例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知っているかね。
わが軍が通り抜けたとき生存者は一人ものこさなかったそうだ。

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『日本の反論』米田健三著 P171~172 より
※米田氏は『軍事史学 第三五巻第二号』喜多義人論文より引用されています。

ブーゲンビル島トロキナでは、
オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた。

ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、
1945年9月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。

同月20日にナウルの日本兵約2000名が
トロキナの仮収容所に移送されることとなったが、
栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、
気温35~38度の中を10マイル行進させられた。

翌日、到着の1250人も同様であった。
豪州軍の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、
水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。

体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、
川の両側に並んだ豪州軍将校たちが水を飲ませまいと、
足で水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。

10月8日に着いたナウルからの700人と
オーシャンからの513人も同じ扱いを受けた。

くわえて、10月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、
マラリヤに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。
捕虜のほとんど全員が感染、約700名が死亡したとみられる。

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『戦争プロパガンダの嘘を暴く』三好誠著 展伝社 平成17年刊 P118~119より

日本軍における捕虜の待遇

品目……捕虜g……兵士g……重労働g……軽労働g……一般g

主食……705………705…………570………390……………330
肉…………5………10……………0…………0………………0
魚………30…………30…………10…………10……………10
野菜……400………400…………200………200……………200
味噌……50…………50…………50…………50……………50
油………15…………10…………0……………0………………0
砂糖……5……………7…………0……………0………………0
牛骨……100…………0…………0……………0………………0

kcal……3000………3000………2200………1800…………1400

捕虜給与規則(昭和17年2月20日 陸軍大臣通達 第8号)

捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。

署名は陸軍大臣 東條英機。

表は昭和20年、大阪俘虜収容所における比較表。

このように捕虜と日本兵の食事のカロリーは同じであった。

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東京大空襲
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html
東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-430.html
2008/12/15 18:00|年表リンク用資料
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