正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『暗黒大陸中国の真実』 1933年
アメリカの元上海・福州副領事 ラルフ・タウンゼント著

幣原宥和外交の恩を仇で返す中国人

1928年から31年、4度も妨害・嫌がらせを受けては、
さすがの日本人も怒りを抑えることができない。

汗と涙の結晶である満州の鉄道は、
満州が無法地帯であるがゆえに減益となるばかりか、
鉄道付属施設が破壊等の反日政策の脅威に晒されていた。
日本側の報告によれば1929年と30年の損失は以下のとおりである。

鉄道運行妨害・・・・・171件
鉄道運行中の強盗・・・189件
鉄道施設の略奪・・・・ 92件
電線の略奪・・・・・・ 26件

これに対し中国側は、
「日本人の護衛を撤退させ、中国人に護衛させよ」
と言ってきた。

滑稽極まりない回答である。
自国の鉄道の警備さえできない国が他国の鉄道を守れるはずがない。

そこで登場するのが張学良である。
日本との条約を勝手に破棄しだした。
日本は、いわゆる幣原外交と非難された男爵幣原が外務大臣であった。
幣原は「中国政府との交渉には寛容と忍耐が求められている」
と発言している。

この間、中国人は何をしてか。
例によって反日運動を盛り上げるネタにしたのである。

そこで「軟弱幣原外交は全く通じない。
中国人の暴虐ぶりは減るどころか激増しているではないか」
と大日本帝国陸海軍は噛み付いた。

何も今に始まったことではない。
いずこの国も中国人には恩を仇で返されてきたのである。

話を続けよう。

1929年のアメリカの株価暴落で日本の絹産業が打撃を受けた。
貿易が停滞し、日本の労働者、その家族数百万に不況風が吹き荒れた。
中国では、国民党の反日運動が吹き荒れていた。

そして満州では、それ以上に張学良の反日運動の嵐が吹き荒れていた。
日本人の怒りは、いや増しに増すばかりである。
中国はとっくに期限の切れている借金の返済を渋るどころか、
返済を拒否すると宣言する始末である。
こういう中国側の動きを見せ付けられて、
「毅然とした態度を」という意見が確実に強くなっていった。

P259~260

軍艦を盾に賠償金を取った田村総領事

中国全土と同じで、福州でも収奪目的の学生秘密結社が
いくつも存在していて日本人も被害に遭っていた。
ある日本人教師夫妻が標的にされた。「殺す」と脅されていた。
脅された教師には何の咎もなかった。

ただ、家が中国人の家の近くにあり、
警備が十分でないのでカモにされたのである。
日本人子女の先生だから、中国人と接触し挑発することはない。

日本総領事は、ばかばかしいことではあるが、
主権国家に対する礼儀を重んじ、
福州当局やら警察やらに状況を説明し、警備を要請した。
日本側でできるのではあるが、
そうすると主権国家間の慣行に反すると判断したのである。

要請を受けた中国側は教師宅の前に中国兵を配置した。
この中国兵は、数日間は交代で24時間警備に当たった。

ところがある夜、何の前触れもなく、消えた。
説明も何もなく突然いなくなったのである。
策を講じるまもなく、夫妻は襲われ、殺されてしまった。

信頼させておいて寝首を掻く中国の軍隊、警察のいつものやり口である。
当局が秘密結社と組み、殺害させたのではないとしても、
ぐるになって襲撃の時に警備を引き揚げさせたとしか思えない。

日本人の怒りは頂点に達した。
田村総領事は中国当局役人を呼び、こう述べた。
「非難するつもりはないが、双方の同意に基づいた警備に落ち度が
あったから今回の事件が起きたのである。
この重大な過失に対し、ご遺族に5万ドル賠償願いたい」。

対する中国側は言を左右してまともな返事をしない。
業を煮やした田村総領事が、

「よろしい。これ以上申し上げることはない。
後はそちらのご判断しだいである。

一言申し添えるが、当方はすでにことの詳細を海軍に打電し、
軍艦数隻がこちらに向かっている。おわかりかな。
熟慮のほど、重ねてお願い申し上げる」

と席を立とうとすると、

中国側は「艦砲射撃を喰らっては職も失う」と思ったのか、
「局に持ち帰って相談してみます」と持ちかけた。
「5万ドル耳をそろえて持ってくるまでは面会無用」と席を立った。

徹夜で相談した中国側は、
明け方になってようやく5万ドルを現金で持ってきた。
直後、日本の軍艦が到着した。
艦長たちは事が収まったと聞いてがっかりしたに違いない。
これは第一次上海事変の1ヵ月前のことであった。

P273~274

日本領台湾に憧れる中国人の行列

中国人には田村式が一番である。
私は実際、田村氏が中国人と対応している場面をこの目で見ているが、
実に丁寧である。公平であり信念の人である。
中国人に対してもこれは変わらない。

愉快なことに、あの件があってから福州では
日本人に対する態度が一変した。
日本人殺害はもちろん、あらゆる反日行動がぴたっと止んだ。

日本人は最高の扱いを受け、最も尊敬される外国人となった。
アメリカ領事は軟弱政策ゆえに、反米運動の対処に忙殺されている。
イギリスも似たりよったりだ。

日本領事はどうだ。
「いつでも軍艦を呼ぶぞ」という毅然とした田村総領事のおかげで、
自国民を保護し、全世界の在中国領事が束にかかっても叶わない、
いやその十倍の成果を上げている。

毎日、私は昼食のため、日本領事館の前を取ったが
「門前市をなす」である。
台湾行きのビザ取得のためである。台湾は日本領である。
中国では働いても働いても、同じ中国人の役人に搾り取られるが、
台湾に行けばそんなこともなくなるからである。

福州事件は中国全土で起きている。
現実的政策に裏打ちされた断固たる態度でしか事件は解決できない。
中国人にはそれ以外考えられないし、そういう人を尊敬する。
ちゃんと証拠がある。

しばらくして田村氏はシンガポール総領事に転任となり、
送別会が設けられた。
中国人役人にも尊敬され、好感を持たれているのである。
稀に見る賛辞が寄せられた。市民は心から田村氏を讃えた。
数ある領事の中で一番の人気者であった。

田村氏が教師夫妻殺害事件を毅然とした態度で解決して以来、
福州在住日本人3千人は何ら危害を加えられることなく、
略奪されることなく、平穏に暮らすことができた。

中国人だってその気になれば、日本人であろうと誰であろうと、
危害を加えることを止めることができるということである。
2008/12/09 12:00|年表リンク用資料
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