●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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三国同盟を推進した当事者の手記
『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) より抜粋 三国同盟を推進した当事者の動機と目的は何処にあったのか。 当時、首相であった近衛公の手記によれば、 ――――――――――――――――― 「……日米関係は悪化し、殊に支那事変以来両国国交は極度に行詰った。 かかる形勢では松岡外相の云へる如く 最早礼譲や親善希求のみでは国交改善の余地はない。 歴代の外相、殊に有田、野村両外相は対米交渉で 日米間最大の問題たる支那問題について了解に達せんと 惨澹たる努力を重ねたが何らの効なく、 最早米国相手の話合いによっては解決は絶望視されるに至った。 ここに於て唯一の打開策は独伊、 更にソ連と結んで米国を反省させる外なくなった。 即ち日独ソの連携も最後の狙いは対米国交調整であり、 その結果としての支那事変解決であった。 余は対ソ警戒論者であった。 対ソ接近を好まざる余が日独ソの連携に賛成したのは、 これが米国との了解に達する唯一の途と考へられたのみならず、 ソ連の危険は日独が東西よりソ連を牽制することで緩和し得ると 信じたからである」(『平和への努力』) ――――――――――――――――― 三国同盟に踏切った我が国当事者の真意は ほぼここに尽されていると思はれる。 戦後、三国同盟推進者としての松岡に対しては 仮借ない批判が浴せられてきたが、 彼の真意図はあくまで米国を説いて支那事変を終局せしむる点にあった。 昭和16年4月、日ソ中立条約の調印を終えてモスクワから 帰朝の途にあった松岡の胸中にはすでに壮大な和平構想が描かれていた。 彼は帰国後、6月27日に重慶へ赴き蒋介石と差しで話合って説得する。 直ちにチャイナ・クリッパー機で一緒に米国へ飛んで ルーズヴェルトを交へた三人で膝をつき合わせて 支那事変解決の話をつける。 事変解決の条件としては満洲国の承認と冀東地区の中立化だけとし、 ただこれだけの約束で日本は支那と仏印から一兵も残さず撤兵する――― これが松岡の東亜和平の構想だった。 (岡村ニ一「回想の松岡洋右」、『正論』昭和52年1月号所収)。 この対支和平案は昭和12年の船津工作案と 殆ど変らぬもののやうに見える。 これを誇大妄想と片付けるのは間違ひだらう。 独ソ戦といふ事態が発生しなかったならば、 この和平構想が実行に移されてゐなかったとは云ひ切れないからである。 日米開戦の報を病床で聞いた松岡は流沸してかう語ったと云ふ。 「三国同盟は僕一生の不覚だった。…… 三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、 世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが、 事ことごとく志と違ひ、今度のやうな不祥事件の遠因と考へられるに至った。 これを思ふと、死んでも死にきれない。 陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない」 結果から見れば確かに松岡は誤算を犯したことになる。 だが、我方の宥和政策を以てしても、 或いは三国同盟を含む松岡の和平構想を以てしても 何ら反省も改善も見られなかった硬直した米極東政策は、 歴史の大局から見て正しかったと云へるだらうか。 誤算をしたのは松岡だったのか、それとも米国だったのか。 ◆評価と責任 三国同盟は日米開戦を惹起した大失策と一般に云はれてゐる。 三国同盟に対する評価と責任について再考してみよう。 再び近衛の手記を引用するなら、 ――――――――――――――――― 「余は今以て三国同盟締結は当時の国際情勢下では 止むを得ない妥当の政策であったと考へて居る。 当時独ソは親善関係にあり、欧洲の殆ど全部はドイツの掌握に帰し、 英国は窮境にあり、米国は未だ参戦せず、 かかる状勢下で日独ソ連携によって英米に対する 我が国の地歩を強化することは支那事変を解決し、対英米戦をも回避し、 太平洋の平和に貢献し得るのである。 したがって昭和15年秋の状勢の下に於てドイツと結びしことは 親英米論者のいふ如く、必ずしも我が国にとりて 危険な政策なりとは考へられぬ。 これを強ひて危険なりといふは感情論である。 感情論にあらざればドイツの敗退を見て後からつけた理屈である。 ……しかしながら昭和15年秋に於て妥当なりし政策も、 16年夏には危険なる政策となった。 何となれば独ソ戦勃発で日独ソ連携の望みは絶たれ、 ソ連は否応なしに英米の陣営に追込まれてしまったからである」 ――――――――――――――――― 三国同盟が論議された頃、ドイツ不信論、対米衝突を危惧する意見などが 一部にあったことは事実だが、それらは近衛が指摘する通り、 ドイツの敗退を科学的根拠より予想せる先見の明に基づく 冷静な判断とは云ひ難く、国際的な政治力学に拠る三国同盟論に 対抗するだけの力はなかったのである。 三国同盟を推進したのは決して一部の政治家や軍人だけではない。 前々たる親独世論を形成するのに与って最も力あったのは新聞だった。 デビッド・J・ルーはこう書いている。 「もし1940年9月27日に世論調査が行なはれたとすれば、 おそらく日本国民の圧倒的大多数が最近の政府の『外交の勝利』 つまり三国同盟の締結に拍手を送ったであらう。 新聞は連日ドイツの勝利を報じ、 その間、イギリスが優勢であっても全く取り上げないか、 ごく小さく報じるだけであった」と。 もし三国同盟の責任を論ずるならば、 世を挙げての親独世論を作り上げた新聞にこそ 最も重大な責任があったと云ふべきである。 近衛白身、三国同盟について全く後悔していない訳ではない。 近衛手記の最初の草稿で彼は 「今少しく慎重な態度を採るべきであった」と述べ、 当時陛下が近衛に対し 「今暫く独ソの関係を見究めた上で締結しても遅くはないではないか」 と仰せられたことにつき、 「陛下の御思慮深きに今更ながら敬服し奉る」と記し、 ドイツを信じて「早急に事を運んだ不明」を後悔している。 (矢部貞治『近衛文麿』下)。 たしかに、独ソ関係の帰趨について、 これほど明確に危惧の念を表明されたのは、 陛下おひとりではなかっただらうか。 だが、それにしても阿部、米内内閣の対米宥和外交が失敗に終り、 蘭印との外交交渉も米国の策動で進捗せぬ以上 「高姿勢の政策やドイツとの同盟が賢明であったかどうかを 疑ふ人がかりにあっても、 やはりそれが日本にとって唯一の残された途であり、 希望であったことは認めざるを得ないであらう」 と云ふデビッド・ルーの見解に結局は落着く他ないやうに思はれる。 |
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