●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1863年6月、イギリス・フランス軍が横浜に駐留開始。(以後12年間駐留)
前年1862年の生麦事件をきっかけに英仏両国は英仏居留民の保護、 居留地の防衛を名目に横浜に英仏軍を駐留させることを 1863年4月8日、江戸幕府に通告した。 幕府はこれを受け入れざるを得ず、 同年5月18日、英仏は幕府と正式な文書を交わし、 翌6月より山手に両軍隊の駐屯が開始され、 その兵舎などの設営・補修などの経費は、 江戸幕府および明治政府の「思いやり予算」とされた。 ――――――――――――――――― 横浜山手114番地の南陣地と山手116番地の北陣地 (現在の「港の見える丘公園」付近)には、 英国海兵隊第20連隊分遣二個中隊1500名、近衛陸戦隊軽歩兵530名、 第67歩兵連隊、ベルチタン土人兵、工兵隊、輜重隊から成る 大規模な陸軍部隊が駐留していたが、 特に英国歩兵は赤い制服を着ていたので「赤服」、 砲兵は青い制服を着ていたので「青服」と呼ばれていた。 横浜山手186番地(現在の「フランス山」)には、 フランス軍アフリカ猟兵第3大隊分遣隊250名 及び海兵隊50名から成る陸軍部隊が駐留していたが、 特に仏国の兵士は青い上着に赤いズボン (このズボンに用いられる赤を、俗に「パンタロンルージュ」と呼ぶ) を着用していたので、「青服」と呼ばれていた。 ――――――――――――――――― 1864年、長州藩が異国船を砲撃した下関戦争(=馬関戦争)のときに 英仏米蘭4ヵ国の軍隊が下関を砲撃した際は、 この横浜の英仏軍も砲撃に参加した。 明治政府成立後、外国軍隊の駐屯は日本の国家主権を侵すものとして 撤退を要求、1871年にイギリス軍が駐屯軍の大幅削減に応じ、 1875年(明治8年)3月2日に両軍の全面撤退が完了した。 (撤退後はイギリス海軍病院などに転用) ――――――――――――――――― 日本の外国人居留地 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-45.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 横浜開港資料館 館報 『開港のひろば』 第42号 P6 『資料よもやま話』 平成5年(1993年)10月30日 http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_42.pdf 慶応の大火とイギリス軍 1866年11月26日の朝9時頃に末広町から出火し、 折からの強風にあおられ、関内地区の大部分を焼け野原とした大火は よく知られている。C.ワーグマンが本国の週刊誌 『絵入りロンドン・ニューズ』(1867年2月9日号)に寄稿した大火の模様を 伝えるイラストは、当時の貴重な資料として、大火を扱った展示や本で たびたび紹介されてきた(挿絵)。 絵の中央奥に消火活動に向かう一団が見えるが、 当時、横浜に駐屯していた兵士の一行であろうとみなされている。 大火時の本町通り ![]() 兵士、水兵、市民らが力を合わせて消火活動にあたったが 火は瞬く間に広まっていったとワーグマンは記している。 当時、横浜には中国から移駐してきていたノックス大佐率いる イギリス第9連隊第2大隊、砲兵隊と工兵隊、 フランスの海兵隊が駐屯していた。 しかし『史料でたどる明治維新期の横浜英仏駐屯軍』 (横浜開港資料館編、1993年)編集の際、この『絵入りロンドン・ニューズ』 とは異なる記述のある資料が確認されたので、 それを紹介することとしたい。 大火後の12月1日付の2新聞 『ジャパン・ヘラルド・メイル・サマリー・ マーケット・リポート・アンド・プライス・カレント』 と 『ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メイル』 に大火の詳細な模様が記されていた。 これらの新聞はともに駐日イギリス公使オールコックから 本国外務省宛報告の付属資料として残っていたものである(FO 46/72)。 新聞では駐屯軍のうち、第9連隊第2大隊の兵士と、 横浜港に停泊していたイギリス艦隊の水兵らが取り上げられている。 前者の新聞によると 「…第9連隊のノックス大佐は[消火活動の]陣頭指揮をとった。 …午前11時頃までは兵士は任務に服しよく働いた。 しかしこの時までにわずかの節操のある立派な例外者を除き、 すでに多くの兵士は酒を飲む方法をみつけ、ほとんど理性を失うほど 酔っ払っていた。自分たちの士官のすぐ目の前でずっと活動することは 不可能であったので、目の届かないところに行くやいなや、 嘆かわしいことに、彼らの最も邪悪な感情が、たちまちのうちに 露呈したのである。…ある紳士は、自分の倉庫が火に包まれたので隣接の 商館に入ってみると、食堂で家財道具を移す手伝いに よこされた数名の兵士が、勝手にワインを開けているのを見つけたので、 拳銃を抜いて彼らを家から追い出した。 多くの兵士が、ただ略奪目的で侵入してきた。 ある兵士が、任務を忠実に遂行している歩哨に向かって、 ちょっとの間だけ目をつむっていてくれれば、あとで山分けしてやるから、 と言っていたという話をきいた。 またある兵士が同僚に、ここで一番の商館はどこか知っているかと 尋ねたという話もある。 質問者の意図をはっきりと暴露している質問である。」 後者の新聞は次のように書いている。 「…しかし、もし我々が第9連隊の兵士と艦隊の水兵が恥も外聞もないほどの 行動をとったという事実を伏せてしまったとしたら、 我々は公衆に対する義務を大いに欠くことになるだろう。 横浜ばかりでなく、イギリスや、我々の陸海軍の軍隊が大切に思われている あらゆる所に住む公衆に対して。 月曜[11月26日]の午後から火曜の夕方までの間中、 公平な観察者の目から見て、ずっと街が襲撃され、 かつ武装した群衆に強奪された状態にあったとは言い難い。 最初のうちは兵士はよく働いており、完全に彼らの士官の指揮下にあった。 しかし、いくつかの貯蔵室が開けられ、とくに本町通りのボイド氏の酒店の 内部が焼かれたあとは、士官とともに行動していた わずかの立派な兵士を除き、多くの兵士が酒を飲む姿が見られた。 そして第9連隊の兵士と艦隊の水兵が火災と同様、 外国人居留地の危険な敵と化すおそれが生じた。 …兵士のあいだに、酩酊状態での見張りや任務の放棄といった 最も凶悪な犯罪が行なわれているのを見かけたのは、 一度や二度ではなかった。 …プリンセス・ロイヤル号の水兵がある商人の商館に入り込み、 かなりの高額の財産が入った金庫を盗んだという 完全に証拠のある場合もあった。 その商人は水兵を追って軍艦まで行き、金庫を探そうとしたが、 つまみ出され、口汚くののしられ、暴力で脅され、 また軍艦の士官も水兵の側に立っていて、まったく助けてくれなかった。」 消化活動にあたっていた駐屯軍兵士と艦隊の水兵らが 次第に略奪者と化していった様子が記されている。 第9連隊第2大隊は居留民の保護という名目で駐屯し、 かつ日頃から軍楽隊が演奏会を開いたり、 競馬やレガッタに参加するなどして居留民との交流を深めていた。 また艦隊乗組員も軍艦内や街の劇場で演劇を催すなどしていた。 兵士らがとった普段とあまりに違いすぎる大火の際の行動は、 居留民にとって驚きと恐怖以外の何ものでもなかったに違いない。 (中武香奈美) |
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