正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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アヘン戦争~林則徐はなぜ敗れたのか?

■1.失敗の予感■

1838年 (道光18)11月,湖広総督・林則徐(りんそくじょ)は
時の清国皇帝・道光帝から
欽差大臣(皇帝の命により全権を与えられた特命大臣)として、
イギリス商人によるアヘン密輸入根絶の勅命を受け、広東に向かった。

出発に際して、林は、

死生は命なり。成敗は天なり。
(生き死には運命であり、事の成就、失敗は天命である。)

と語って涙を流したという。失敗を予感していたのであろう。
この予感は当たり、清帝国はアヘン戦争敗北の代償として
莫大な賠償金をとられ、香港を割譲し、
これ以降、列強の餌食になっていった。

当時の清国のある高官は、英国を「ケシ粒のような小国」と呼んだ。
その英国に、世界の中心たる大清帝国が戦って敗れようなどと、
林則徐以外に誰が予想できたろう。林は、そして清国は、なぜ敗れたのか?

■2.英国のアヘン輸出の狙い■

当時、中国から輸入される茶は、英国人の生活の必需品であった。
ところが英国から輸出できるものは何もない。
ここで英国が目をつけたのがインド産のアヘンであった。

インドからアヘンを中国に輸出し、
そのインドにはイギリスの工業製品を売り、
そこで得た代金で英国が中国茶を買う、という三角貿易を成立させた。

しかし中国ではアヘン中毒患者が激増し、
1838年当時の輸入金額は1400万両以上に達していた。
清朝の年間歳入4千万両の実に1/3以上である。

輸入超過は支払いのための銀の流出を招き、
銀貨の高騰が税金を実質的に高めて、農民を苦しめた。

清朝はアヘン輸入を禁じたが、アヘンの価格を高騰させ、
密売の利益を高めるだけで、密輸入は後を絶たなかった。

英国の商船と清国の密売人が、
賄賂として2%の現物を警備当局に納めると、見逃してくれるだけでなく、
清国海軍が密輸船を海賊から保護までしてくれる。

当局は賄賂の半分を自分の懐に入れ、
残りは「密輸入品取り押さえ」の証拠として政府に提出する、
という見事な密輸入システムが出来上がっていた。

手を焼いた清国朝廷で、アヘン厳禁論が起こり、
その具体的な政策を提言した林則徐の上奏文が皇帝の目にとまり、
特命全権大臣としてアヘン撲滅を命ぜられたのだった。

■3.戦いの開始■

どうして汝らの国でさえ吸食しないアヘンをわが国に持ち込み、
人の財を騙し、人の命を害するのか?

1839年2月4日、林則徐はこのような書面をアヘン商人達につきつけ、
積み荷のアヘンをすべて供出するように命じた。

この時のイギリス貿易監督官チャールズ・エリオットは、
いったんは要求を拒否したものの、
林則徐による広州のイギリス商館封鎖という強攻策に屈して、
イギリス商船が持ち込んでいたアヘン2万283箱(1425t)を
中国側に引き渡させた。
林はこの大量のアヘンを衆人環視の中で焼却して、
アヘン撲滅の決意を見せつけた。

さらに林則徐は「将来アヘンを中国に持ち込まない。
もし違反した場合には積荷は没収、人は処刑されても構わない」
という誓約書の提出を求めたが、エリオットはこれを拒否し、
広州に滞留するイギリス人全員をマカオまで退去させた。

5月27日、香港の対岸で、イギリス人水夫達が上陸し、酒に酔って、
一人の中国人を暴行し、死亡させるという事件が起こった。

林則徐はただちにエリオットに犯人を中国官憲に引き渡すよう要求させた。
エリオットは犯人不明と称して拒否したが、
林則徐はマカオに移ったイギリス人商人に対して、食糧供給を絶った。
エリオットは50数家族とともに、沖に停泊中のイギリス貨物船に移った。

ここにイギリス軍艦ボレジ号、続いてヒヤシンス号が到着し、
誓約書を提出して正常な貿易を再開しようという
一部のイギリス商船を押さえつつ、清国軍艦や砲台を攻撃して、
小競り合いを繰り返したが、清国側は林則徐のもとに
一致団結して反撃に転じ、イギリス船を外洋に追い出した。

道光皇帝は林則徐の果断な処置を「朕の心はために深く感動す」と賞賛した。

■4.イギリス軍来襲■

英本国では、政府が議会で清国への派兵を提案した。
グラッドストン議員は、

「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、
私はかつて知らないし、読んだこともない」

と反対した。

しかし投票の結果は、271票対262票の僅差で戦費の支出が承認された。

兵員4千、軍艦16隻、大砲540門、輸送船および
武装船等32隻からなる派遣軍が1840年6月に清国の近海に姿を現した。

イギリス軍はいったんは広州湾を封鎖したが、
林則徐によって固められた防備に乗ずる隙がないと見ると、
北上して上海の近くの定海を襲い、
さらに北京を指呼の間に臨む天津沖に姿を現して、
英外相の書信を北京政府に手渡した。

それには没収したアヘン代金の賠償、謝罪、
沿海の島の割譲などを要求していた。

宮廷の権臣たちは動揺した皇帝を説得して、
イギリス側が要求もしていないのに、林則徐を罷免させ、
「国を誤り、民を苦しめること、これより甚だしきはない」と叱責させた。

■5.清国が防備を固めて持久戦に持ち込めば、、、■

林則徐は、このような事態を正確に見通していた。
イギリス艦隊が広東に姿を見せた時に夫人に送った手紙にはこう書いている。

いま、イギリスの兵船は中国海域に現れたが、
広東に対してはどうすることもできないと分かれば、
きっと他の省に対してその矛先を向けるに違いない。

だが、他省の海港には何ら防備がなされていないから、
諸省の総督・巡撫は、少しでも自分たちに都合の悪い事態が出てくれば、
罪を余になすりつけて、
余の誤った処置が敵の攻撃を挑発したと非難することであろう。
余としては、その是非をただ公論にゆだねるのみである。

まだ清国は、イギリス軍の攻撃にほんのかすり傷を受けたにすぎない。
自国の広大な領土、厖大な人口を考えれば、戦いは序の口であった。

一方、イギリス軍も、定山占領後、4千の兵員のうち、
マラリアや赤痢などで4百数十名の死者を出していた。
またイギリス本国からの
兵員の補充、武器弾薬の輸送は膨大な負担となっている。

さらにこの戦争で貿易を阻まれている各国の商人は、みな憤懣の情を抱き、
本国から兵を呼び寄せてイギリスと戦おう、という声すらあった。
イギリスは進退窮まっており、清国が防備を固めて持久戦に持ち込めば、
敗退の運命にあった。

林則徐は最後の抵抗として皇帝に出した上書の中で、
次のように述べている。

広東の海関は道光元年以来すでに3千万両の銀を徴収しておりますが、
その利益は当然外夷(海外の野蛮国)の
侵攻を防ぐために使われるべきであります。

もし、これまでの関税の十分の一を大砲と軍艦の製造に
投入しておりましたならば、
彼等を制することまことに容易であったでありましょう。・・・
現在、広東の各地は厳重な防備を備えており、敵の乗ずる隙はございません。

■6.清国の敗北■

しかし、この上書は「たわごと」と退けられた。
林則徐の後を継いだ善(きぜん)はイギリスのご機嫌取りのために、
林則徐が雇い入れた水勇(義勇兵)をすべて解散し、
英艦の侵入を防ぐために港に敷設していた筏(いかだ)や鉄の鎖を取り払った。

善は香港割譲などを含む仮条約を結んだが、
英軍が天津を離れて危機感の薄らいだ皇帝は、強硬姿勢に変わり、
「土地は寸度と言えども割譲することを許さない」として、
再びイギリスに宣戦布告をした。

しかし防備を解いた広東は、イギリス軍の攻撃にひとたまりもなかった。
また広州に送られてきた4万の外省兵は、
城外に英軍が迫っているというのに、城内で民家を略奪し、
暴力沙汰を繰り返したので、住民と外省兵が戦うありさまであった。

さらに英軍の手先となって偵察をしたり、軍夫として英軍の大砲を引いたり、
さらには清国兵船を焼いたり、清国軍を襲撃した中国人も多かった。

1842年8月29日、道光帝は和議に同意せざるをえなくなり、
江寧条約(南京条約)が結ばれた。

香港割譲、広東・廈門他5港が開かれ、
さらに没収アヘン代金、英軍遠征費用など
21百万ドルの支払いが約束された。

大清帝国の威勢は地に落ち、列強による中国半植民地化への動きが始まった。

■7.清国はなぜ敗れたのか?■

林則徐が広東で実施し成果を上げた政策と防備を
中国全土に展開できていれば、アヘン追放に成功し、
英軍を撃退することができていたのは間違いない。

その林則徐を背後から倒したのは、彼の成功を妬み、国家の安泰よりも、
自身の権勢を先にする権臣たちが、皇帝を左右したからであった。

また国防に十分な努力も払わず、
アヘン密輸を手助けして賄賂をせしめていた地方行政官たち、
収入を得るために英軍の手先になった兵員たちも同罪である。

これらの人間に共通しているのは、国家という「公」よりも、
私利私欲、すなわち「私」を優先させていたことだ。

「公」よりも「私」を優先していた、という意味では、
道光帝自身も同じである。
英軍が遠い広東で戦っている間は強硬姿勢をとっていたのに、
北京に近づくとすぐ屈服してしまったのは、
国家の独立よりも自らの安泰を優先していたものと言わざるを得ない。

皇帝から、権臣、地方役人、兵員にいたるまで
「私」の横溢する国家の中では、
林則徐の「奉公」は孤独な、かつ無益な努力であった。

林自身、それを知っていたからこそ、皇帝から欽差大臣に任命された時に、
「死生は命なり。成敗は天なり。」
と言って涙を流したのであろう。

失敗して失脚すると知りつつ、なおもアヘン撲滅に立ち上がった林則徐こそ、
真の愛国者と言わねばならない。

■8.アヘン戦争とペリー来航■

アヘン戦争終結の11年後にペリーがわが国に来航した。
ペリーが幕府に白旗を渡して、
開国要求を聞かなければ戦争になり当然日本が負けるから、
降伏する時にはこれを用いよ、
と脅した事実はすでに本講座149号で紹介した。
わが国も清国と同様の危機がやってきたのだった。

この時に、吉田松陰が決死の覚悟で黒船に乗り込み、
欧米の軍事技術を学ぼうとした。

こうした多くの志士たちの献身的な活躍の結果、迫り来る欧米勢力を前に、
わが国は明治維新を断行して近代国家建設に成功し、
その成果が日露戦争勝利となった。

日露戦争とアヘン戦争とは、
日中両国それぞれの近代世界システムとの対決であるが、
その過程も結果も対照的であった。

開国と攘夷、尊皇と佐幕と、日本国内でも鋭い意見の対立はあったが、
それらは政策の違いであって、どちらの側にも国を売ってまで、
保身を図ろうとする人物はいなかった。

最後の将軍・徳川慶喜が潔く大政奉還をしたのも、
徳川家という「私」より
国家の統合と独立の維持という「公」を優先した証左であろう。

■9.「奉公」の精神を点火した「無私」の祈り■

この慶喜の父、水戸藩主・徳川斉昭はペリー来航時に
幕政参与として重きをなした人物だが、次のような歌をのこしている。

身は辺地に在りと雖も心は皇室を奉ず
大君につかへささぐる我がこころ都のそらに行かぬ日ぞなき

その都の空のもとでは孝明天皇が次のような
御製(天皇の御歌)を詠まれていた。

あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異国(とつくに)の船
ましえぬ水にわが身はしずむともにごしはせじなよろづ国民

1首目は、黒船を国の独立と民の安寧を脅かす存在として受けとめられ、
重苦しい不安を感じられていた事が窺われる。

2首目はご自身の身は澄ましえぬ汚濁の水に沈もうとも、
千万の国民が植民地化された諸国民のように、
隷従の憂き目にあうような事があってはならない、という祈りであろう。

このような無私の祈りが国家の中心にあり、
それが幕府の要人にも、草莽の志士にも、
「公」を思う気持ちを点火したのである。

林則徐が孤独に抱いていた「奉公」の精神は、
わが国では朝野に充満しており、
それがわが国を植民地転落の運命から救ったといえよう。

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以上、『国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(173)』より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog173.html



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1860年の遣米使節の一員・玉虫左太夫誼茂の『航米日録』「香港で見たもの」

「(町を)徘徊すでに一時ばかりなりければ、
数十の支那人群がり、予らの装いを見んとす。
英国の兵卒、傍にあり。鉄棍をもって撃ち払う。
あたかも犬馬を追うが如し。これを以ってはなはだ心を傷ます。」

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1862年、上海に渡った高杉晋作が帰国後に著した記録書『遊清五録』より

ヨーロッパ諸国の商船や、軍艦のマストが
港を埋め尽しているさまは森の如く、
陸上には諸国の商館が壁を連ねること城郭の如く
その広大なことは筆舌に尽くしがたい。」

「この地はかって英夷に奪われた場所であって港が賑わっているといっても
それは外国船が多いためである。
中国人の居場所を見れば、多くは貧者で不潔な環境に置かれている。
わずかに富んでいるのは外国人に使役されている者だけである。」

「つくづく上海の形勢を見れば、支那人はすべて外国人の使役となっている。
イギリス人、フランス人が街を歩けば、支那人は傍らに避けて道をゆずる。
じつに上海の地は、支那に属すると言うが、
英仏の属地と言うこともできる。」
2008/11/29 18:00|年表リンク用資料
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