●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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すばらしい日本
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他サイトの内容を100%支持している わけではありません。完全に意見が 一致する人など存在していません。 ならば、なぜリンク紹介しているの かというと、大東亜戦争後、日本国 内が、あまりにも、いわゆる左巻き の論調に偏ってしまっているので、 全体的に見ると少数ながら存在して いる保守側の意見を、いろいろな 角度から知ってほしいからです。 ブログ記事の右下の日付について
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1860年、北京条約
1858年2月、アロー戦争でイギリスとフランスの連合軍が 清国の広州を占領し、さらに北上して天津を制圧し、 その天津でアロー戦争の事後処理のために、 清国とイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4ヶ国と天津条約を結んだ。 戦争と全く関係のないロシアとアメリカまでもが条約を結んで利益を得た。 この条約で決まった主なものは以下のとおり。 ・外交官の北京駐在 ・外国人の支那での旅行と貿易の自由 ・キリスト教布教の自由と宣教師の保護 ・10港の開港 しかし、イギリス・フランス軍が引き上げると 清国では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。 このためイギリス・フランス軍は再び天津に上陸、北京を占領した。 そして、ロシアの仲介で清国とイギリス・フランスと それぞれ条約が結ばれた。 また、仲介したロシアまでもが清国と条約を結んだ。 これが北京条約である。 この条約で決まった主なものは以下のとおり。 ・イギリス・フランスへの賠償金の支払い (清朝が条約を守らなかった)天津条約の実施 ・北京への外交官の駐留 ・天津の開港 ・イギリスへの九竜半島の一部(香港島に接する部分)を割譲 ・ロシアへの沿海州の割譲 このようにロシアは、清国とイギリス・フランスとのトラブルにつけ込み、 ロシアも清国と北京条約を結び、ウスリー川以東の沿海州を奪取した。 そしてロシアは、ウラジオストック(ロシア語で「東方支配」という意味) に念願の不凍港の軍港を建設し始めた。 ロシアが沿海州を得たことにより日本への脅威は現実のものとなった。 ロシアの次の侵略目標は満州と朝鮮である。 |
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