正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった。

■1.感謝の印のシガレット・ケース■

1982年3月12日付けエルサレム・ポスト誌に
タブロイド判1頁を費やして次のような記事が掲載された。

1941年3月、このシガレット・ケースは39年以来、
上海でユダヤ関係機関長であった犬塚惟重海軍大佐が、
3百名のユダヤ神学生を日本占領区域に収容してくれたこと、
1万8千名のドイツ、オーストリー、ポーランドからの
避難ユダヤ人を救ったことへの感謝の印に贈られたものである。

このシガレット・ケースは犬塚未亡人から
米国のラビ・トケイヤーの手を経て今、
エルサレムのヤッド・バシェムに贈られ、
大虐殺追悼記念館の収集品に加えられた。

(寄贈)式はアラド総裁事務室で地味に挙行され、
犬塚大佐がこの贈り物を受け取るまでの経緯を総裁が述べ、
ユバル副総裁が1948~49年に上海で見聞した犬塚大佐は学者肌で
人道主義の寛大な日本士官で、特にユダヤ民族の更生に
力を尽くした非凡な人物との評価を披露した。

また、彼の指揮によって、日本人学校校舎が避難ユダヤ人たちの宿舎になり、
病院建設に協力したり、シナゴーグ(ユダヤ教教会堂)建設工事に
セメントを融通するなどの助力を惜しまなかった。・・・

■2.上海へのユダヤ難民■

上海に最初のユダヤ人難民が流入したのは、1938年秋、
ナチスが当時ヨーロッパで最大のユダヤ人口を持つオーストリアを
併合してからであった。

その後、チェコ、ポーランドとドイツの支配圏が広がるにつれて
数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるをえなくなったが、
彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは
入国ビザの発給を制限していた。

ユダヤ難民がビザなしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の共同租界、
日本海軍の警備地になっていた虹口(ホンキュー)地区だけだった。

ここにユダヤ難民がどっと押し寄せたのを、現地ユダヤ人らが、
もとの小学校や中学校などの無人の建物に収容して、
給食や生活保護を行うことにしたのだった。

船が着くたびに上陸するユダヤ難民はたちまち1万8千人に膨れあがった。

1939(昭和14)年夏、犬塚大佐は東洋一と言われた17階建ての
ブロードウェイ・マンション・ホテルの16階に事務所兼住居を定めた。
25畳ほどのリビング・ルームにベッド・ルーム、
クローク・ルームなどを備えたスイート・ルームだった。

謀略嫌いの海軍の工作機密費はわずかだったので、
犬塚は自分の退職金をすべてユダヤ工作につぎ込むつもりだった。

海軍武官府からは贅沢だと非難する向きもあったが、
哨兵の経つ武官府ではユダヤ人達が気安く出入りしにくく、
また極東のユダヤ財閥の首脳部に応対するためには、
こうした見栄も大切だった。

■3.栄達の道を投げうって■

陸軍でのユダヤ問題の第一人者・安江仙弘(やすえのりひろ)大佐に対して、
犬塚大佐は海軍の第一人者であった。

そのユダヤ研究は海軍内でも着目され、首脳部から命ぜられて、
1928(昭和3)年からは大使館付き武官補佐官としてパリに駐在して、
ユダヤ社会での見聞を深めた。

1930(昭和5)年12月に帰国してからは、軍令部で防諜、思想戦、
ユダヤ問題の統括を任され、言論界の指導層に対して、
「ユダヤ民族には共産主義者や米国での反日主義者もいるが、
八紘一宇の精神で人道主義的、平和主義的に転向させるべき」と説いた。

昭和13(1938)年には、安江大佐とも協力して、
関係方面に精力的に働きかけ、
世界中で排斥されつつあるユダヤ難民に対しても、
他国人と同様の公正な取り扱いを行うという
五相(首相、陸・海・外・蔵相)会議決定を実現した。

満洲・北支(シナ)方面のユダヤ工作は安江大佐が担当していたが、
上海の海軍警備地区内での難民対応、ユダヤ財閥の反日運動対策、
そしてユダヤ人が実権を握る米国マスコミへの工作を考えると、
犬塚大佐は上海に腰を据えて、ユダヤ問題に専念しようと決心した。

ちょうど、人事局の方から「少将への昇進の過程として、
一時、海上勤務にまわるように」という内意がもたらされたが、
自分がユダヤ問題を担当することが日本にとってもユダヤ人にとってもよい、
との判断から、栄達の道を投げ打ち、
予備役編入とともに、上海勤務を願い出たのである。

■4.ユダヤ居住区設定の提案■

上海に居を構えて数ヶ月後、1939(昭和14)年12月21日、
犬塚大佐は上海ユダヤ首脳部から午餐の招待を受けた。

ユダヤ避難民委員会副会長M・スピールマンが、
ヨーロッパ各国を歴訪した結果を聞く集まりであった。

報告は非常に悲観的なもので、9月の第2次大戦の勃発により、
パリやロンドンのユダヤ人団体からの上海への送金も途絶えてしまった。

またアメリカのユダヤ人団体もヨーロッパでの大量難民救済に追われて、
上海への送金もいつ停止するか分からない状態だった。

万策尽きた段階で、犬塚大佐は「一つ私からの提案がある」と切り出した。

アメリカに日本の必要物資を供給させることができれば、
私はユダヤ難民に満洲国か支那の一部をユダヤ人居住区として開放し、
まず試験的に2,3年にわたり、毎年約1万5千人ぐらいの避難民を
移住させる案を考えているが、皆さんはこれを支持できるだろうか?

一同は即座に賛成したが、アメリカのユダヤ勢力が国務省を動かして、
日本への重要物資禁輸政策を転換させるだけの
力があるかどうかは分からなかった。

犬塚大佐は「国務省に対し、全力を尽くして運動します」と約束すれば、
日本政府はユダヤ居住区の案を好意的に考慮するだろうと答えた。

■5.ユダヤ人居住区を求める請願■

その翌々日、満洲ハルピンにて第3回極東ユダヤ人大会が開かれ、
日本、および満洲帝国が人種的、宗教的差別をせず、
各民族に平等に権利を認めている点を感謝する決議を行った。

その間に秘密代表会議が開かれ、犬塚大佐の案に基づいて、
日本政府にユダヤ人居住区設定の請願をし、
アメリカのユダヤ人社会に協力を求める決議を行った。

大日本帝国は、・・・極東在住ユダヤ人に対して、八紘一宇の国是に基づき、
人種平等の主張を堅持し、何らの圧迫偏見なく、
大なる同情をもって保護を与え居らることは、
我ら同族の感謝に堪えざるところなり。・・・

帰るに国なき我ら同族に対し、
大日本帝国の尽力により極東いずれかの方面にユダヤ民族のため、
一部の地域を設定し、安居楽業の地を与えられなば、
我ら全世界ユダヤ民族の幸福にして永遠に感謝するところなり。・・・

1939年12月25日

極東ユダヤ人代表会議議長 カウフマン

大日本帝国 内閣総理大臣 阿部信行閣下

■6.米国ユダヤ人指導者の反日姿勢転換■

ステファン・ワイズ・ユダヤ教神学博士は、
米国のユダヤ指導者階級の中心人物のみならず、
全世界ユダヤ民族の指導者ともいうべき人だった。

ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、
必ず影のようにワイズ博士がついていたと評され、
その政策を左右する実力を持っていた。

このワイズ博士が頑迷な反日主義者だった。1938(昭和13)年10月、
米国ユダヤ人代表会議での対日態度決定の討議でも、
ワイズ博士がただ一人、対日強硬姿勢を主張したため、
遂に未決定に終わったことがあった。

1938年と言えば、
その前年12月にハルピンで第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、
この年3月には約2万人(一説には数千人)のユダヤ難民が
シベリア鉄道経由で満洲に押し寄せ、吹雪の中で立ち往生している所を、
樋口季一郎少将が中心となって、特別列車を出して救出していた。

こうした事実にも関わらず、ワイズ博士が反日強攻姿勢を貫いたのは、
ナチス・ドイツ敵視から
その友好国日本も同様の反ユダヤ国家と見なしていたためであろう。

しかし、上海のユダヤ人指導者から犬塚提案がもたらされると、
ワイズ博士の態度は大きく変わった。東京在住のユダヤ人を通じて、
次のような回答がもたらされた。

ユダヤ避難民問題を日本において解決せんとの案なれば、
それがいかなる提案にせよ、もし日本の権威ある筋よりのものとせば、
我らユダヤ機関は深甚の考慮を以て受理すべきものなり。

またワイズ博士はその友人に、もし真に日本政府が満洲国において
ユダヤ避難民問題の解決に興味を有するならば、
「公然と日本の友たるべき決心」である旨を伝えたという。

■7.ユダヤ人の日本支援案■

居住区設定に対しては、陸軍側から、
これ以上の難民収容は物理的に困難だとか、
ナチスの反ユダヤ思想に影響されての反対があったが、
犬塚大佐は粘り強く反論していった。

犬塚大佐の根回しが奏効しつつあった1940年9月、
大佐の意を受けた日本人ビジネスマンが、
ニューヨークでユダヤ首脳と会談し、次のような合意に達した。

日本側は上海虹口側に住むユダヤ難民1万8千人を含めて
3万人を上海浦東に居住地区と定め、
米国ユダヤはこれに対して2億円の対日クレジット(貸付け枠)を設定し、
うち1200万円で避難ユダヤ人の失業救済として皮革会社を設立し、
残余の1億8千8百万円は日本の希望する物資、屑鉄、
工作機械などを無制限に供給する。
これの公式請願と具体案協議のため、米国ユダヤ数名を日本に派遣する。

米国の戦略物資の対日禁輸を打ち破るかもしれない画期的な合意だった。
ワイズ博士の親日への転向が大きな原動力となったいたのであろう。

米国の禁輸政策が、日本の軍事力を時々刻々と弱め、座して死を待つよりは、
と開戦に立ち上がった経緯を考えれば、この合意が成立していれば、
日米開戦は避けられたかもしれない。

しかし、それからわずか1週間後の日独伊三国同盟締結のニュースが、
この合意を吹き飛ばした。ユダヤ首脳は次のように言って、肩を落とした。

実は日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種偏見を持たず、
公平に扱ってくださる事実はいろいろな情報でよく知っていました。
その好意に深く感謝し、今回の借款でその恩に報い、
われわれの同胞も救われると期待していましたが、
今日の米国政府首脳や一般米人の反日感情の大勢に
逆行する工作を行う力はありません。

政府は対日クレジットや戦略物資輸出は許可しないでしょう。
残念ながらわれわれの敵ナチス・ドイツと
軍事同盟した日本を頼ることはできなくなりました。

■8.「命のビザ」の陰に■

このような大きな工作の傍らで、
犬塚は地道なユダヤ人保護の活動も続けていた。

この年の7月26日、上海ユダヤ中でも
最高の宗教一家アブラハム家の長男ルビーから、
「宗教上の大問題でぜひ会っていただきたい」と電話があった。

ポーランドがドイツとソ連に分割され、
ミール神学校のラビ(ユダヤ教の教師)と神学生ら約5百人が
シベリア鉄道経由でアメリカに渡るために、リトアニアに逃げ込んだという。

そしてアメリカへの便船を待つ間、
日本の神戸に滞在できるように取りはからっていただきたい、
というのが、ルビーの依頼であった。

宗教上の指導者ラビと神学生を護ることはユダヤ人にとって
大切なことであり、将来これらの人々が世界各地のユダヤ人の
宗教上の指導者として多大の影響を及ぼすことは、
犬塚大佐はよく分かっていた。

よろしい。ユダヤ教の将来のために、さっそく関係当局を説得しよう。
期待して待っていてよろしい。

大佐が胸を叩くと、ルビーは涙ぐんで「アーメン」と指を組み、
伏し拝まんばかりに感謝した。

犬塚大佐は外務当局に働きかけ、
公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが、黙認はすることとなった。
この情報が上海のユダヤ首脳部を通じて現地にもたらされ、
神学生たちは8月中旬、リトアニアの
領事代理・杉原千畝からビザを受けることができた。

ただし杉原はこの「黙認」の工作を知らされず、
発給規則逸脱で職を賭して「命のビザ」を書き続けたのである。

■9.「上海は楽園でした」■

この件で、感謝の印として贈られたのが、冒頭のシガレット・ケースだった。
それまでユダヤ人から何一つ受け取っていなかった犬塚大佐だが、
自分のイニシャルと感謝の辞が刻まれてあったので、快く受け取った。

また犬塚大佐のユダヤ人保護工作への感謝から、
ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに
記載したいという申し出があったが、
犬塚は「私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、
しいて名前を載せたければ陛下の御名を書くように」と固持した。

日米開戦後も犬塚大佐のユダヤ人保護工作は続いた。
1942(昭和17)年1月、ナチスがユダヤ人絶滅の決定をした頃、
上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を
提供するという申し出があった。
それを阻止したのが犬塚大佐だった、というユダヤ人の証言がある。

大戦中も「上海は楽園でした」という詩を
当時の難民生活を経験したユダヤ人女性が残しているが、
その楽園の守護者は犬塚大佐だったのである。

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国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(260) H14.09.29 より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog260.html

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人種平等の精神を国是とする大日本帝国が、ユダヤ難民救出に立ち上がった。

■1.ユダヤ人排斥■

1933(昭和8)年1月、ヒトラーは首相に就任すると、
4月1日にユダヤ人排斥運動声明を行い、ユダヤ人商店のボイコット、
ユダヤ人の公職追放、教師・芸術家・音楽家の締め出し、
ニュルンベルク法(1935)によるドイツ市民資格剥奪、
と矢継ぎ早にユダヤ人排斥政策が打ち出していった。

急増するドイツ、オーストリアからのユダヤ人難民を救うために、
米国のハル国務長官が1938(昭和13)年3月に
国際委員会を組織する提案を行い、その第1回委員会がフランスで開かれた。

しかし国際社会はユダヤ人に対して冷たかった。
米国の議会は自国の政府提案を拒否。
ベルギー、オランダ、アルゼンチン、ブラジル等は、
移民受け入れの余地なしと回答。

カナダは協力の意向あるも、収容能力に限度あり。
イギリスは、農業移民ならギニア植民地に収容できるかもしれない、
といかにも老獪な事実上の拒否。

同年11月7日にユダヤ系ポーランド人の一少年が、
パリのドイツ大使館書記官を暗殺したのを機に、
宣伝相ゲッベルスは報復を呼びかけた。

その結果、ドイツ全土のほとんどのユダヤ教会堂が焼討ちや打ち壊しにあい、
7千5百のユダヤ人商店が破壊された。

街路がガラスの破片で覆われて輝いたので、
「水晶の夜」とよばれる。ユダヤ人の死者は91人、
強制収容所送りは2万6千人に達したという。
この事件を機に、ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。

■2.帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神■

水晶の夜から1ヶ月も経たない昭和13年12月6日、
日本では5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で
「猶太(ユダヤ)人対策要綱」が決定された。

これはユダヤ人を「獨国(ドイツ)と同様極端に
排斥するが如き態度に出づるは
啻(ただ)に帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神に合致せざる」
として、以下の3つの方針を定めたものであった。

・ 現在日本、満洲、支那に居住するユダヤ人は
他国人と同様公正に扱い排斥しない。

・ 新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。

・ ユダヤ人を日本、満洲、支那に積極的に招致はしないが、
資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。
(すなわち招致も可)

この時、日本はドイツ、イタリアとの
三国同盟の前身たる防共協定を結んでいた。
その同盟国のユダヤ人排斥を「人種平等の精神に合致せざる」と批判し、
かつ世界各国が受け入れを拒否した難民にも、入国規則内で公正に対応する、
というのである。

「帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神」の代表的なケースが、
1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で、国際連盟規約の中に
「人種平等条項」を入れるよう提案した事だろう。

しかし日本提案は圧倒的多数の賛成を得ながら、
議長の米国大統領ウィルソンの策略で否決された。

有色人種国家として、ただ一国近代化に成功して、
世界5大国の一角を占めるようになった日本にとって、
長年戦ってきた人種差別に今また苦しめられているユダヤ民族の苦境は、
他人事ではなかった。

■3.陸軍随一のユダヤ問題研究家・安江仙弘大佐■

5相会議での「猶太(ユダヤ)人対策要綱」策定に
大きな力となった人物がいた。

安江仙弘(やすえのりひろ)陸軍大佐である。

安江大佐は幼年学校時代からロシア語を学び、シベリア出兵時に武功をたて、
その後、陸軍随一のユダヤ問題研究家となった。

この前年の昭和12(1937)年12月26日、満洲ハルピンにて、
第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、
ハルピン陸軍特務機関長の樋口季一郎陸軍少将が、
ドイツのユダヤ人排斥政策を批判し、
「ユダヤ人を追放するまえに、彼らに安住の地をあたえよ!」
と演説して、聴衆を感激させた。

この大会のわずか3日前に樋口少将を補佐するために
陸軍中央部から派遣されたのが、安江大佐であった。

大会後、翌13年1月21日には、安江大佐が中心となって、
関東軍は「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」を策定し、
世界に散在せるユダヤ民族を
「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合するを理想とする」とした。

「八紘一宇」の八紘とは、四方と四隅、
すなわち、世界中のことで、一宇とは「一つ屋根」を意味する。

初代・神武天皇が即位された時に、
人民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、
天の下のすべての人民が一つ屋根のもとで家族のように仲良く暮らすことを、
建国の理想とされた。

英語では、UniversalBrotherhood(世界同胞主義)と訳されている。
関東軍はこの八紘一宇の精神をもって、ユダヤ民族を助けるべきである、
と安江大佐は主張したのである。

同時に「施策要領」は
「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」とした。
ユダヤ難民をあくまで人道的に取り扱うが、
ユダヤ資本をあてにするような事はしない、という方針である。

この後、3月8日から12日にかけて、約2万人(一説には数千人)
のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で押し寄せ、
吹雪の中で立ち往生している所を、
樋口季一郎少将が中心となって、特別列車を出して救出した。

■4.八紘一宇を国是として■

安江大佐は9月19日、外務省本省において、外務、陸海軍関係者を集めて、
ユダヤ問題に関する講演を行い、次のように述べた。

ユダヤ人は従来第三者のごとき地位にあったが、
支那事変とともに我々の軒先に入ってきたのである。
これをいかに扱うか。
ドイツのごとき方法を取るべからざることは明瞭である。

日本の八紘一宇、満洲の諸民族協和の精神からしても
排撃方針は不可である。
よろしく保護し、御稜威を彼らにおよぼすべきである。

御稜威(みいつ)とは皇室の民を守る威光のことである。
その威光をユダヤ難民にも及ぼすべく、
安江大佐は日本帝国全体の国策決定を
板垣征四郎・陸軍大臣に働きかけた。

曰く:

我国は、八紘一宇を国是としておりユダヤ民族に対しても
これを例外とすべきではない。彼らは世界中に行先無く、
保護を求めているのである。

窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずという。
況(いわ)んや彼らは人間ではないか。

講演、板垣大臣への説得とも、
常に「八紘一宇」が安江大佐の主張の基盤となっていた。
こうした働きかけにより12月6日の五相会議において、
板垣陸軍大臣より「猶太人対策要綱」が提案され、
国策として決定されたのである。

■5.安居楽業■

五相会議の20日後、12月26日から3日間、
第二次極東ユダヤ人大会がハルピンで開かれた。

上海、青島、天津、大連、などから1千余名のユダヤ人が集まった。
日満側からは安江大佐やハルピン副市長・大迫幸男などが参列した。

大会では以下のような決議文を採択し、
カウフマン会長名でニューヨーク、ロンドン、
パリのユダヤ人団体等に打電された。
(漢字、カタカナ書き、句読点を一部改める)

この日本国ならびに満洲国の示されたる誠意と同情的処置とは
吾人をここに安居楽業せしむると共に、吾人特有の文化を発展せしめ、
かつ日満両国に対し、善良なる人民たらしめ得るものとす。

ここに民族大会において吾人はユダヤ民族が民族的平等と民族的権利とを
国法にしたがい享受すると共に東亜新秩序の再建に努力しある日満両国に
対し、あらゆる協力をなすべき事を誓い、かつこれを吾人同族に対し、
呼びかけるものなり。

■6.安江機関■

昭和15(1940)年12月、安江大佐は予備役に編入され、
またその年の第4回ユダヤ人大会は中止命令が出た。

安江大佐の推測では、この二つは東条陸軍大臣の直々の命令であり、
それは9月に締結したばかりの日独伊三国同盟の手前、
ナチス・ドイツへの気兼ねと、
大佐が東条と対立関係にあった石原完爾中将の同志であった、
という2点が理由だった。

安江大佐が松岡外務大臣を訪ねると、
自分から満鉄の佐々木副総裁によく話をしておくとして、

今後は外務省とも密接に連絡して戴きたい。
私は貴君に働いて戴き度い事が色々ある。
ユダヤ人に対しても八紘一宇の大精神で向かわねばならない。

ドイツの尻馬に乗って日本がユダヤ排斥を
やらねばならぬ理由がどこにありますか。
日本には日本の立場がある。
今、日本を見渡した所、
真にお国のためにユダヤ人に接している人は貴君しかいない。
とにかく貴君の今後の活動のために尽力します。

松岡外相の尽力で、安江大佐は満洲国政府顧問、
および満鉄総裁室付嘱託となり、
安江機関が昭和16年1月に大連に誕生して、
満洲・支那在住のユダヤ人保護の活動を続けた。

■7.ゴールデン・ブックへの記載■

昭和16年11月1日、安江大佐に対し、
ハルピン市のホテル・モデルンで数百人のユダヤ人列席のもと、
世界ユダヤ人会議代表M・ウスイシキン博士署名の「ゴールデン・ブック」
への登録証書授与が挙行された。

ゴールデン・ブックは、ユダヤ人の保護・救出で
功労のあった人を顕彰するためのものである。

この時、吹雪の中で2万人とも言われるユダヤ難民を救出した
樋口季一郎少将、および、樋口・安江と力をあわせてきた
満洲ユダヤ人社会のリーダー、カウフマン博士もともに記録された。

恐らく同時期であると思われるが、海軍の犬塚惟重大佐も、
ゴールデン・ブック記載の申し出を受けた。

犬塚大佐については、いづれ稿を改めて紹介するが、犬塚機関を作って、
安江大佐とも協力しながら、上海のユダヤ人社会を保護した人物である。

犬塚大佐は次のように述べて、申し出を辞退したという。

私の哀れなユダヤ難民を助け東亜のユダヤ民族の平和と安全を守る工作は、
犬塚個人の工作ではなく、
天皇陛下の万民へのご仁慈にしたがって働いているだけである。

私はかつて、東京の軍令部にいた時、
広田外相からこんな話を伺ったことがある。

広田外相が恒例の国際情勢を陛下に奏上申しあげたうちで
ナチスのユダヤ虐待にふれたところ、
陛下は身を乗り出されて憂い深げにいろいろご下問なさるので、
外相は失礼ながら陛下はユダヤ人を日本人と
思い間違いあそばしているのではないかと不審に存じ上げたが、
陛下は「いやユダヤとわかっているが、哀れなもの」と仰せられて、
そのご仁愛のほどに恐懼したというのだ。

私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、
しいて名前を載せたければ陛下の名を書くように。

■8.もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか■

ユダヤ人を救出して顕彰せられた日本人としては、
「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受けた杉原千畝がいる。
ポーランドの独ソ分割によって追われたユダヤ難民6千人(推定)に対して、
日本へのビザを発行して命を救ったカウナス
(バルト3国の一つ、リトアニアの臨時首都)領事代理である。

大量のビザ発行手続きに関しては、外務省訓令を逸脱していており、
これをもって杉原の行為を、国策に反した個人的善行と見なす見方があるが、
五相会議決定、安江機関、犬塚機関という
一連の流れの中で見なければならない。
杉原自身はユダヤ人救出の動機を後年、こう述べている。

それは私が、外務省に仕える役人であっただけではなく、
天皇陛下に仕える一臣民であったからです。
悲鳴をあげるユダヤ難民の前で私が考えたことは、
もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか、ということでした。
陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろうか。
それとも温情をかけられるだろうか。
そう考えると、結果ははっきりしていました。
私のすべきことは、陛下がなさったであろうことをするだけでした。

もし外務省に(ビザ発給に関する)訓令違反を咎められたら、
私が破ったのは訓令であって、
日本の道徳律ではないと思えば良いと腹を決めました。

■9.八紘一宇が作った「楽園」■

安江大佐が説き、日本政府が制定したユダヤ人保護政策は
常に「八紘一宇」をその根拠としてきた。

それははるか神話の時代から皇室の理想として綿々と受け継がれ、
当時においては昭和天皇の民族の分け隔てなく
人民を愛する一視同仁の大御心に体現されていた。

安江大佐が「八紘一宇」というのも、犬塚大佐や杉原領事代理が
「昭和天皇の御心」というのも、同じなのである。
それぞれがこの理想に導かれて、
それぞれの場でユダヤ人保護・救出に尽くしてきたのだった。

日本占領下の上海で犬塚機関が保護したユダヤ難民は2万5千人を超え、
大戦中も「一つ屋根」の楽園だった。
そこで暮らした経験を持つヒルダ・ラバウという女性が
次のような詩を残している。

ちかごろ上海のことを見聞きするにつれ
わたしは神にいのるしかるべき人々に称賛が与えられますように!
かれらがあらたに誇りが持てますように

その人たちは上海のナチが振るおうとしていたおそろしい暴力から、
わたしたちを守ってくれました救助者がだれだったか、
あばくのは簡単なはずいまではだれもが知っている、
その正体は日本人「憎しみ」ばかりが広まっていたとき
かれらはユダヤ人に親切だったみなさん!

あの悲劇で6百万人が消えた道をわたしたちは逃れたのです。
異国にあって、わたしたちは「自由」だった・・・
収容所のことで不満をいう人はいますが、
皆殺しになった人びとを思えば、「上海は楽園でした」

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国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(257) H14.09.08 より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog257.html

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2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog085.html

■1.偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口■

イスラエルには世界的に傑出したユダヤ人の名を代々登録し、
その功績を永遠に顕彰する「ゴールデン・ブック」という本がある。

その中に、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの
傑出したユダヤの偉人達にまじって、
「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」
とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。

樋口季一郎少将-6千人のユダヤ人を救ってイスラエル政府から
「諸国民の中の正義の人賞」
を授けられたた外交官・杉原千畝氏(本講座21号で紹介)とともに、
日本人とユダヤ人との浅からぬ縁を語る上で、不可欠の人物である。

■2.ユダヤ人排斥は日本の人種平等主義に反する■

1933年にドイツにナチス政権が誕生して以来、
大量のユダヤ人難民が発生した。

しかし、難民を受け入れる国は少なく、
ユダヤ人に同情的だった英米でさえ、入国を制限していた。

難民のドイツ脱出がピークに達した39年には、
ドイツ系ユダヤ人難民930人を乗せたセントルイス号が、
英国、米国での接岸をそれぞれの沿岸警備隊の武力行使によって阻まれ、
結局はドイツに戻って、
大半が強制収容所送りになるという事件も起きている。

こうした中で、当時の日本政府もユダヤ人難民に対する方針を
明確にする必要に迫られ、
39年12月に5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で
「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定した。

その内容は、ユダヤ人排斥は日本が
多年主張してきた人種平等の精神と合致しない、として、

・ 現在居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。

・ 新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。

・ ユダヤ人を積極的に招致はしないが、資本家、技術者など
利用価値のある者はその限りではない。(すなわち招致も可)

という3つの方針を定めたものであった。

1919年、国際連盟の創設に際し、人種平等条項を入れるように提案した
(本講座53号、米国大統領の拒否により失敗)事に見られるように、
当時の日本は有色人種の先頭に立って、人種平等を訴えていた。
その立場からしても、ユダヤ人排斥は当然反対すべきものであった。

■3.ユダヤ人の脱出ルートを確保した日本■

この方針は現実に適用された。当時の日本軍占領下の上海は、
ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の上陸可能な都市だった。

ユダヤ難民は、シベリア鉄道で満洲のハルピンを経由し、
陸路、上海に向かうか、日本の通過ビザを取得して、ウラジオストックから、
敦賀、神戸を経由して、海路、上海を目指すルートをとった。

杉原千畝氏が命がけで日本の通過ビザを発行した6千人のユダヤ人難民は、
後者のルートを通った。

そして、前者のルートで3万人のユダヤ人を救ったのが、
本編の主人公・樋口季一郎少将である。

ちなみに、当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していた。
42年には、東京のドイツ大使館からゲシュタポ(秘密治安警察)要員が
3度にわたって、上海を訪問している。

この事実をつきとめたドイツ・ボン大学のハインツ・マウル氏は、
上海にドイツと同様のユダヤ人強制収容所を
建設する事を働きかけたと見ている。

しかし日本側は居住区を監視下においたが、
身分証明書を示せば自由に出入りできるようにしており、
大半のユダヤ人は戦争を生き抜いて、無事にイスラエルや米国に移住した。

猶太(ユダヤ)人対策要綱は、日米開戦後に破棄され、
新たに難民受け入れの禁止などを定めた対策が設けられたが、ここでも
「全面的にユダヤ人を排斥するのは、
(諸民族の融和を説く)八紘一宇の国是にそぐわない」とした。
樋口季一郎少将はこの精神をそのまま体現した人物であったと言える。

■4.反ナチ派の闘士・カウフマン博士の依頼■

「夜分、とつぜんにお伺いしまして、恐縮しております。」
流暢な日本語でカウフマン博士は毛皮の外套を脱ぎながら言った。

昭和12(1937)年12月、満洲ハルピンの夜は零下30度近くまで下がり、
吹雪が続いていた。
博士は、50を超えたばかりの紳士で、ハルピン市内で総合病院を経営し、
日本人の間でもたいへん評判のよい内科医であった。
大の親日家であると同時に、ハルピンユダヤ人協会の会長として、
反ナチ派の闘士でもあった。

カウフマン博士が訪ねたのは、8月にハルピンに赴任してきたばかりの
ハルピン特務機関長・樋口季一郎少将である。

樋口少将は、着任早々、満洲国は日本の属国ではないのだ。
だから満洲国、および、満洲国人民の主権を尊重し、
よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい。

と部下に訓示し、「悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命じた。
カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきたのである。

それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を
開催するのを許可して欲しいということだった。
ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙を
世界の良識に訴えたいというでのある。

樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、
ロシアを旅行して、ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。
樋口は即座に快諾し、博士を励ました。

■5.ユダヤ人に安住の地を与えよ■

翌13年1月15日、ハルピン商工倶楽部で、
第一回の極東ユダヤ人大会が開催された。
東京・上海・香港から、約2千人のユダヤ人が集まった。

樋口も来賓として招待されたが、
部下は身の危険を心配して辞退するよう奨めた。

当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化しており、
治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席しては、
ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあったからだ。

しかし、樋口は構わず出席し、
カウフマン博士から求められる来賓としての挨拶をした。
曰く、
ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、
法律上同胞であるべき人々を追放するという。
いったい、どこへ追放しようというのか。
追放せんとするならば、その行先をちゃんと明示し、
あらかじめそれを準備すべきである。

とうぜんとるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、
虐殺にひとしい行為と、断じなければならない。
私は個人として、このような行為に怒りを覚え、
心から憎まずにはいられない。

ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ!
そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。

演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、
熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。
協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。

■6.日独関係とユダヤ人問題は別■

大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、
いっせいに樋口を包囲した。
イギリス系の記者が、ぐさりと核心をついた質問をしてきた。

ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係に
あきらかに水をさすような内容である。
そこから波及する結果を承知してして、あのようなことを口にしたのか。

樋口はまわりを取り囲んだ十数人の新聞記者やカメラマンに
やわらかい微笑をかえして言った。

日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、
ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。
祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、
日本人の古来からの精神である。
日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。・・・

今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。
しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、
迫害することを、容認することはできない。・・・

世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、
この問題は解決しないだろう。

樋口の談話は、それぞれの通信網をへて、各国の新聞に掲載された。
関東軍司令部内部からは、特務機関長の権限から
逸脱した言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。
ユダヤ人迫害は人種平等の国是に反するという
国家方針に沿ったものであったからであろう。

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2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog086.html

■1.2万人のユダヤ人、吹雪の中で立ち往生■

昭和13(1938)年3月8日、
ハルピン特務機関長・樋口少将のもとに重大事件のニュースがもたらされた。

満洲国と国境を接したソ連領のオトポールに、
ナチスのユダヤ人狩りからのがれてきた約二万人のユダヤ難民が、
吹雪の中で立往生している。

これらのユダヤ人は、満洲国に助けを求めるために、
シべリア鉄道を貨車でゆられてきたのであるが、
満洲国が入国を拒否したため、難民は前へ進むこともできず、
そうかといって退くこともできない。

食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために、
凍死者が続出し、危険な状態にさらされている。

これらのユダヤ難民は、フランクフルトからポーランドに流れ込んだのだが、
すでに数百万のユダヤ人を抱えていた同国は、
彼らを体よくソ連領に追いやってしまった。

ソ連は難民達をシベリアでも
ほとんど開発を放棄した酷寒の地に入植させたのだが、
都市生活者ばかりの難民達に開拓ができるはずもなく、
彼らは満洲国を経由して、上海へ脱出しようとして、
オトポールまでたどりついた所であった。

■2.難民の件は承知した■

ハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士も飛んできて、
樋口に同胞の窮状を訴えた。

しかし、満洲国外務部(外務省)を飛び越えて、
独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱である。

なぜ外務部は動かないのか。ユダヤ人問題で下手に動いて、
ヒットラーから横やりでも入ったら、関東軍からにらまれるからだろう。
樋口は腹立たしさを覚えた。

彼らは満洲国の独立国家としての自主性をまったく失っている。
満洲建国の理想として世界に掲げた旗印は「五族協和」であり、
「万民安居楽業」ではなかったか。

博士! 難民の件は承知した。だれがなんといおうと、私がひきうけました。
博士は難民のうけいれ準備にかかってほしい。

力強い樋口のことばに、カウフマン博士は感きわまり、声をあげて泣いた。
「博士、さあはやく、泣いている場合ではありませんぞ。」
樋口はすぐに満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車の交渉を始めた。

■3.難民、到着■

それから2日後の3月12日。
ハルピン駅では列車の到着を待つカウフマン博士をはじめ、
十数人のユダヤ人協会の幹部が、救護班を指図しながら、
温かい飲み物や、衣類などの点検に忙しそうに動きまわっていた。

やがて、轟然たる地ひびきをたてて、列車がホームにすべりこんできた。
痩せたひげだらけの顔が、窓に鈴なりになって並んでいる。

期せずして、はげしいどよめきの声が、ホームいっぱいにひろがった。
列車が停止すると、救護班がまっさきに車内にとびこんだ。
病人や凍傷で歩けない人たちが、つぎつぎにタンカで運ぴだされてくる。

ホームのあっちこちで、だれかれのべつなく肩にとびつき、
相擁して泣き崩れる難民たち。
やつれはて、目ばかりギョロつかせていた子供たちは、
ミルクの入った瓶をみると、狂ったように吠え、
わめき、オイオイと泣きだした。

「よかった。ほんとによかった!」
カウフマン博士は、涙で濡れた顔をぬぐおうともせず、
ホームを走りまわって、傷ついた難民にいたわりの声をかけている。

数刻後、樋ロは、オトポールの難民ぜんぶが、
ハルピンに収谷されたという報告をうけた。
凍死者は十数人、病人と凍傷患者二十数名をのぞいた全員が、
商工クラブや学校に収容され、炊きだしをうけているという。
救援列車の手配がもう一日おくれたら、
これだけの犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言っていた。

難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていったが、
あとの4千人は開拓農民として、ハルピン奥地に入植することになった。
樋口は部下に指示し、それらの農民のために、
土地と住居をあっせんするなど、最後まで面倒を見た。

■4.ドイツ外相からの強硬な抗議■

樋口のユダヤ難民保護に対して、案の定、ドイツから強硬な抗議が来た。
リッべントロップ独外相は、
オットー駐日大使を通じて次のような抗議書を送ってきた。

満洲国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、
わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、
ヒトラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのである。

かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、
日独共同の目的を侵害するばかりか、
今後の友好関係に影響をおよぼすこと甚大である。
この要人についてすみゃかに、貴国における善処を希望している。

樋口は、関東軍司令部からの出頭命令を受け、
参謀長・東条英機(後の首相)に対して次のように述べた。

もし、ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、
追放したユダヤ民族を進退両難におとしいれることにあったとすれば、
それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策ではないか。

そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に
協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、
人倫の道にそむくものであるといわねばならないでしょう。

私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、
日本はドイツの属国ではないし、
満洲国もまた、日本の属国ではないと信じている。

樋口は、東条の顔を正面から見据えて言った。
「東条参謀長!ヒトラーのおさき棒をかついで、
弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」

東条は、ぐっと返事につまり、天井を仰ぐしぐさをしてから、言った。

樋口君、よく分かった。あなたの話はもっともである。
ちゃんと筋が通っている。
私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう。

■5.ゼレラル・ヒグチの出発■

樋口を待っていたのは、「不問」どころか、
参謀本部第2部長への栄転だった。

ドイツからの「善処」要求のわずか5ヶ月後に、
このような人事を行ったということは、
「人種平等を国是とする我が国はヒトラーのお先棒は担がない」
という強烈なメッセージではなかったか。

出発の当日、駅頭は、二千人ちかい見送りの群集で、埋めつくされていた。
その人波の中には、数十キロの奥地から、
わざわざ馬車をとばして駆けつけてきた
開拓農夫の家族たちなどもまじっていた。
樋口が土地や住居の世話をしたユダヤ難民たちであった。

樋口が駅頭に立つと、いっせいに万歳の声がわきおこった。
日の丸と満洲国旗とをうちふり、
「ゼネラル、ヒグチ!」と、ロ々に連呼しあう。

孫に手をひかれた白髪のユダヤの老婆は、
路面にひざまずいて樋口を拝み、涙をながしつつけていた。

待合室に入ると、カウフマン博士が、
白系ロシア人の代表者ロザノフとともにやってきた。
ユダヤ人と白系ロシア人は、血なまぐさい暗闘を繰り返していたのだが、
樋口が親睦のクラブまで作って、仲介に努力していたのである。

ロザノフは、カウフマン博士の頬に長い接吻をし、巧みな日本語で言った。
これが閣下に対する餞別です。
閣下の言葉を忘れず、これから仲良くやっていきます。

樋口が「あじあ」号の最後尾の展望台に立つと、
列車は高らかに警笛を響かせて、ゆっくりと動き出した。

「ヒグチ!」「ヒグチ!」。

群衆は堰を切ったように改札口を乗り越え、ホームにあふれ出した。
あどけない顔をした少年達は銀髪を振り乱し、
両手を振り上げながら、あじあ号を追って走り続けた。

■6.オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない■

終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、
連合軍総司令部に引き渡しを要求してきた。

停戦後の8月19日まで、北千島を攻撃してきたソ連軍は、
北方防衛の責任者であった樋口に大損害を与えられ、
北海道上陸を阻止された事を恨んでいたのである。

樋口の危機を聞いて、
ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ協会が動き出した。
その幹部の中には、オトポールで救われた人々もいた。

「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」
世界各地に散らばっているユダヤ人に檄がとび、樋口救出運動が始まった。

世界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、
マッカーサー総司令部は、ソ連からの引き渡し要求を拒否し、
逆に擁護することを通告したのである。

長い歴史を通じて迫害を受けてきたユダヤ人は、
それだけに他人から受けた恩義を簡単には忘れないのだろう。

ユダヤのために貢献した人々を顕彰するゴールデン・ブックに
「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」と記されているのはその証である。

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六千人の命を救った外交官 杉原千畝
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-131.html
杉原千畝氏は日本政府の指示にしたがって通過ヴィザを発給した http://bit.ly/1m5Uv22
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-703.html

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2008/11/28 18:00|年表リンク用資料
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