正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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経済封鎖に挑んだ日本

■1.新興工業国・日本の台頭■

1932(昭和7)年、日本の総輸出のなかで綿製品が25%に達し、
それまでの輸出の柱であった生糸の21%を超えた。

同時に日本の綿製品の輸出量は、
それまでの覇者英国を追い抜いて世界一となった。
日本が原材料輸出国から、工業製品輸出国に成長した記念すべき年であった。

日露戦争が近代戦争において黄色人種が
初めて白色人種を打ち破った戦いだとすれば、
日本が綿製品の輸出で世界一になったという事は、
近代工業において黄色人種が白色人種を
追い抜いたという世界史に残る出来事であった。

新興工業国・日本の台頭は、綿製品ばかりではない。
世界の工業製品輸出の中でのシェアを見ると、
1926-29年の平均3.6%から、1936-38年には7.0%へと、
ほぼ倍増している。

同時に英仏米の合計が48.8%から40.9%へと落ちている。
先進国が失ったシェアの半分ほどを日本が独り占めした形となっている。

しかし、当時の国際環境は、新興工業国・日本にとって、
あまりにも厳しかった。

米国は1930年に貿易収支をバランスさせるために、
スムート・ホーレイ法を制定して、外国製品に極めて高額の関税をかけた。
これをきっかけに各国での関税引き上げ合戦が始まり、
世界貿易は縮小していく。
その中でも特に日本製品は高関税と輸入制限で狙い打ちされた。

英国は1932年にオタワ会議を開き、
英連邦内外からの輸入に関して高額の関税をかけた。
世界経済は、このオタワ協定で「自由貿易」の幕を閉じ、
保護主義の時代に入った。

さらに重要な輸出市場であった中国においては、
その数年前から国民党が反日デモと日本商品ボイコット運動を展開していた。

日本が近代工業国家として世界市場に登場した時には、
すでにその力を自由に発揮できる舞台は、なくなっていたのである。

■2.対米輸出の急減■

ペリー来航から始まった日米貿易は着実に拡大し、
米国は日本の最大の輸出市場となっていた。
1926年には日本の総輸出の42%が米国向けであった。

しかし、わずか8年後の1934年には、18%まで落ち込み、
その後いくらかは改善したが、もとに戻ることはなかった。
その原因として以下の3つが挙げられる。

第一に、米国経済が未曾有の大恐慌に見舞われたことである。
米国は国内の失業対策として、スムート・ホーレイ法により、
輸入品に極めて高率の関税をかけた。

これは交易相手国からの手厳しい反発を招き、
米国の貿易量は1934年には1929年の水準の約3分の1まで減少した。

第二に、日本の対米輸出の8割以上を占めていた生糸が、
アメリカでのレーヨン(絹に似せて作った再生繊維)の普及によって、
価格急落に見舞われたことである。

最高品質の繭でも市価は生産費の6割にしか達しなかった。
このために、1932年秋までに日本の養蚕農民の1300万人が
大打撃を受け、破産者が続出した。
特に養蚕が盛んだった長野県では、
約20万人の小学児童が昼の弁当を持って来られなかった。

第三に、スムート・ハーレイ法の反省から、
1933年以降は、ルーズベルト政権は関税軽減の方針をとったが、
日本に対しては、逆に関税引き上げや数量制限が加えられた。

たとえばシャープペンシルの平均的な関税は58.3%だったのに、
日本製品のみは86%だった。

こうした差別的関税により1934年には日本製シャープペンシルが
米国市場の81%ものシェアを押さえていたのに、
1937年には0%となってしまう。

■3.日本を狙い撃ちにした差別的関税■

ルーズベルト政権が日本を狙い撃ちにするような関税政策をとったのは、
関税引き下げに反対する勢力の批判をかわすために、
特定国への関税を引き上げるポーズを取る必要があったからだ。

そして、その対象として、
米国からの輸出の3%を占めるに過ぎない日本が選ばれた。

また日本製品が集中豪雨的に輸出を伸ばした分野での
米国内生産者の反発に応える面もあったであろう。

さらに、非白人国として世界でただ一国、
工業製品でアメリカに挑戦してくる「小生意気」な国、
という人種差別的感情も、あったと推察される。

それでも陶器や白熱電球など、
他国よりも10%から20%も高い関税をかけられながらも、
米国市場でのシェアを守った製品もある。
必死の思いでコストダウンに取り組んだ我が先人の姿が思い浮かぶ。

■4.英連邦からの日本製品の締め出し■

1932年に日本の綿製品の輸出量は世界一となったが、
これは当然、それまでの覇者・英国との間で様々な軋轢を引き起こした。
カナダ、オーストラリアなど、
英連邦諸国では公然と対日貿易差別の圧力をかけた。

英連邦の中でも、インドは、英国の産業革命以来、綿花を輸入し、
綿製品を輸出するという重要な市場であった。

このインド市場で、日本製綿布は強い競争力で急速にシェアを伸ばした。
1925-26年のシェア14%から、1931-32年には44%に達した。
それとともに、英国製綿布は82%から46%へと後退した。

1932年に結ばれたオタワ協定では、
英連邦全体から外国商品を閉め出すことを目的として、
外国商品に対しては高関税を課し、
連邦内の商品に対しては無税または低関税とした。

それまでもインド市場において
日本製品は英国製品より5%高い関税をかけられていたが、
1932年秋には、英国製品25%に対し、50%もの関税を課せられた。

これにより日本製綿布の輸入拡大は止まったが、
そのシェアを下げるまでには至らなかった。

そこで1933年6月、インド政庁は英連邦諸国以外からの
すべての綿製品の輸入関税を75%に引き上げた。
「英連邦以外」としながらも、
実質的にはシェア45%を持つ日本製綿布をターゲットとしたものであった。
この極端な差別的関税により、日本製綿布の輸出は急減した。

日本からインドへの輸出の柱は綿製品であったので、
これによって、インドへの輸出全体が大きく落ち込んだ。
日本の輸出全体の中で、インド向けは1932年には13.6%を占めていたが、
1937年には9.4%へと縮小した。

■5.オランダ領インドネシアでの日本製品輸入制限■

オランダの植民地であったインドネシアは、当時、蘭印と呼ばれ、
日本にとって、アメリカ、中国、インドと並んで、重要な輸出市場であった。

インドネシアの全輸入の中で、日本のシェアは1913(大正2)年には
わずか1.6%に過ぎなかったが、
1929(昭和4)年には10.6%、そして1937年には25.4%となった。
同時期に宗主国オランダからの輸入は、33.3%から19.1%と減少した。

日本からの輸入の半分が、やはり綿布であった。
1933年には日本製綿布がオランダ製や英国製、米国製を退けて、
綿布輸入量の8割を占めるに至った。

オランダは緊急輸入制限を発動し、各国に割当量を課した。
オランダ当局は割り当ては平等に行ったと説明したが、
許可が与えられる貿易会社は
ヨーロッパの商業組合の会員でなければならず、
この条件にかなう日本の輸入業者は三井物産など、わずか3社だけだった。

また輸入割当量は1930年の輸入高によって決められたため、
日本からの輸入は半分に落ち込んだ。

興味深い点は、日本からの輸入は落ち込んだが、
オランダからの輸入はさほど増えなかった点である。

実は、廉価な日本製品は現地人の需要を開拓していた。
その日本製品が制限されても、
現地人には高価なオランダ製品には手が届かなかったのである。

■6.日本製品の差別的規制は、「国際的に了解ずみの事実」■

インドネシアにおける日本製品の急成長ぶりに関して、
1933年に英国外交官が本国に送った報告書がある。
そこでは「日本人はダンピングしている」「彼らのやり方は汚い」
「日本政府は繊維産業に補助金を与えている」と非難していた。

しかし、東京の英国大使館からは、それに反駁する数通の報告書が送られた。
その報告書は、日本ではいかなる輸出産業にも日本政府の補助金交付という
違反行為を発見したことがなかった、と言明し、続けてこう述べていた。

もし日本綿製品の輸出の成長が、ダンピングとか不法な補助金とか、
また日本人の押しの強さだけを原因としているのであるならば、
英国は日本の(綿工業の)強さを忘れてもよいのである。

そうではなくて、私達が心配しているのは、
日本が本当の競争力を身につけてしまったことなのである。

オランダ政府は、綿製品以外にも、化繊、陶磁器、セメント、
タイヤ、ガラス製品、ビールなど、
次々と輸入制限を広げ、日本からの輸入を抑え込んでいった。

日本政府はオランダ政府との交渉を行ったが、オランダ代表はその席上で、
日本製品を差別的に規制することは、「国際的に了解ずみの事実」であり、
「正当化」された仕打ちである、とまで述べた。

すでにアメリカや英連邦が公然と行っていることを、
オランダが追随して何が悪いのか、と言うのである。

■7.対中輸出の急減■

中国は、1926年以前の20年間、
日本の輸出の約20%を占める重要な市場だった。

しかし、その後の対中輸出は急減し、
1937年には5.6%に落ち込んでしまった。
その最大の理由は日貨排斥であった。

中国ではしばしば外国製品のボイコット運動が起きていた。
その根底にはアヘン戦争後に西洋諸国と結ばれた不平等条約があった。
この条約のために、外国人には治外法権と租界が認められ、
対外貿易の関税率も5%に固定されていた。

半植民地状態になった中国において、民族主義の高まりが、
外国製品に対するボイコット運動として現れたのである。

1926年頃までのボイコット運動は英国が対象であった。
しかし、1915年の21カ条の要求、日本の満洲への勢力伸長に伴い、
その矛先は日本に向けられていった。

特に1926年以降は、国民党が対日ボイコット運動のリーダーシップをとり、
日貨排斥が組織的に進められていった。

1928年、長江中流の中心的都市・漢口において
日本海軍兵士が中国人クーリー(苦力、天秤棒で荷を担ぐ労働者)を
オートバイ事故で死亡させるという事件が起こり、
それをきっかけにして、漢口は激烈な対日ボイコット運動の中心となった。

多くの「抗日協会」が組織され、
協会員は日本の商品を「敵国の品物」として保留し、
罰金を科して、抗日協会や救国組織への献金とした。

同時にストライキを指導して、日本の貨物の運搬、荷下ろし、
運送、積み出しを拒否し、日本人のために働いた中国人を処罰した。
日本商品の郵便小包さえも没収された。
このため、漢口港への日本からの輸入は途絶えてしまった。

1929年に入ると、綿花、麻、穀物などの対日輸出についても、
50%の額を救国基金に献金することが決められたため、
対日輸出もストップした。

中国に進出していた日本の紡績企業の製品もボイコットの対象となった。
日本商品のディーラーも店を閉めていった。

大勢の中国人が失業し、日本のために働く中国人は食料の販売を拒否された。
29年1月末には、日本商品は漢口の倉庫に溢れかえっていた。
その大部分は砂糖と綿布であり、市中は中国の新年を控え、
これらの商品は品不足で価格は高騰した。

■8.暴力的な日貨排斥■

1931(昭和6)年、満洲事変が勃発すると、
日貨排斥運動の波は中国全土に広がっていった。

抗日協会は日本とのすべての経済関係を打ち切る事を決定し、
日本人の工場、企業、および家庭で中国人が働くことをすべて禁じた。
これに背く者には、死刑と私有財産の没収をも含む厳罰をもって当たった。

さらに中国人は、日本船への乗船、日本の貨幣・銀行・保険会社を使うこと、
日本の新聞雑誌を読むこと、私的にも公的にも日本人を訪問したり、
招待することを禁じられた。

こうして日本からの中支(上海を中心とするシナ中部)向け輸出は、
1931年10月からの半年間で、前年同期の16%の水準に落ち込んだ。

南支(広東を中心とするシナ南部)では、
最も激しいボイコット体制が敷かれ、
この地域向けの日本からの輸出はほとんど停止した。
そのために地元経済は深刻な不況に陥った。
日本人居住者は安全な地域へと避難した。

1937(昭和12)年7月7日、
北京郊外の蘆溝橋で日本軍と国民党軍の衝突が起きると、
日貨排斥はもっと暴力的なものとなった。
日本商品を扱った中国人の商店や職業組合には、
恐喝の手紙と爆弾が送られ、実際に死傷者まで出た。

日本からの綿布や機械類の輸出が激減するにつれて、
英米からの輸入が激増していった。

■9.二度の経済発展■

こうして中国から暴力的に排斥され、米国には高関税の狙い撃ちをされ、
英領インドやオランダ領インドネシアからも閉め出された日本は、
中近東や南米にまで輸出市場を見出そうとするが、いずこにおいても、
先進欧米諸国のシェアを荒らす新参者として、差別的な取り扱いを受けた。

それでもあきらめずに、
地球の裏側までも出かけていった我が先人たちの労苦は報われることなく、
最後には満洲を新天地として、
そこに王道楽土の夢をかけるしかなかったのである。

わが国は戦前と戦後と、
二度にわたって奇跡的とも言える経済発展を成し遂げた。

その一度目は、非白人国家で初めての工業化に成功した国として、
欧米諸国の植民地主義と保護主義に阻まれた。

二度目はたまたまソ連との冷戦を戦うアメリカによって
自由貿易体制が実現され、その中でようやく花開くことができた。

戦後の高度成長も、ゼロからスタートしたものではない。
その技術基盤は戦前の植民地主義と保護主義の厳しい国際環境の中で
叩かれても叩かれても屈することなく工業化を進めた
当時の先人たちに多くを負っているのである。

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国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(486) より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog486.html
2008/11/27 18:00|年表リンク用資料
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