正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日本の何年何月何日の何が「侵略」なのだろうか?

■韓国

朝鮮は昔から国内の政争に外国の軍隊の力を借りて対処してきました。

朝鮮は、ずっと中国の属国で、
中国は、いつも朝鮮に武力介入していましたが、
日清戦争で朝鮮は中国の属国ではなくなりました。

しかし朝鮮は次にロシアの力で国内を治めようとして
朝鮮内にロシア軍基地を作り始めました。

シベリア鉄道が完成してロシアの強大な軍隊が来て
太刀打ちできなくなる前に、
日本は先手を打ってロシアに戦争を仕掛けて勝ちました。

その後、朝鮮は自力で近代化したり国防できる見込みはなかったので、
日本になって日本の国力で近代化する道を選び、
1910年に日韓併合条約を結び、朝鮮半島は日本となりました。
以後、35年間で日本本土の税金65兆円を朝鮮半島に投入して
朝鮮半島は近代化していきました。

日本と朝鮮は戦争しておらず、
条約によって朝鮮半島は日本になったのです。

韓国は、日本が武力を背景にしていたから日韓併合条約は無効であり、
侵略だと主張していますが、武力を背景にしていない国はありません。
条約というものは、いつも対等に結ばれるとは限りません。

大東亜戦争が始まったとき、
すでに朝鮮は日本になって31年が経過していました。

朝鮮の日本兵は、ほぼ全員が志願兵でした。
朝鮮半島の徴兵は1944年9月から始まりましたが訓練中に終戦となったので、
実際には戦地に出征していません。

大東亜戦争では、朝鮮の志願の日本兵も一緒に戦いました。
戦争が終わると韓国は「戦勝国だ」と言い始めました。
わけがわかりません。

なぜ韓国は、いわゆる「A級戦犯が祀られている靖国神社」ということで
批判しているのでしょうか?
A級戦犯と言われている方たちが、韓国に何をしたというのでしょう?

ちなみに日韓併合時の桂太郎元総理大臣は
戦争で亡くなったわけではないので靖国神社には祀られていません。

■日本統治時代
●階級による身分差別を撤廃。
●両班による搾取・虐待から農民を救った。
●移住の自由を認めた。
●残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止。
●女性再婚の自由を保障。
●人権尊重などの法治国家の基礎を作った。
●学校教育制度を導入し、読み書きを教え、
ハングル文字を復活・普及させた。
●台湾では改姓名の運動が起きても1~2%にしか許可しなかったが、
85%の朝鮮人には創氏改名を許可した。
●鉄道網、道路網を整備した。
●港の開設工事、水力発電所を建設、重化学工業を興し、
緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、
河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、
世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、
平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、
内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

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「朝鮮総督府統計年報」 朝鮮総督府編
 
年次……年末常住人口

1910年…1312万8780人 (日韓併合年)
1915年…1595万7630人
1920年…1691万6078人
1925年…1854万3326人
1930年…1968万5587人
1935年…2124万8864人
1940年…2295万4563人
1944年…2512万0174人 (5月)

このほか日本内地や満州にも多くの朝鮮人がいました。
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200411150000

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■中国

以下、「満州」と「支那」を区別するために
「中国」とは書かないことがあります。
(1911年の辛亥革命で支那と満州は別になったはずでした。)

中国の「国父」といわれる英雄「孫文」も
日本に入国した時、国籍は「支那」と書いていました。

中国人が「中華人民共和国」や「中国」と呼べと言う相手は、
日本以外にあるのでしょうか?

日本以外の国は、「チャイナ」や「シーヌ」や「シーナ」で良くて、
日本だけに「シナ」ではなく「中国」と呼べと言ってるのでは?

中国が日本に「中国と呼べ」と言って来たのは、終戦の翌年1946年でした。
戦後、国民党政府(蒋介石)が占領統治で主権のなかった日本に対して
要求したのです。

「日本では敗戦直後の1946年に中華民国からの要望により、
支那を中国と呼ぶように外務省から通達が出され、
公務員が公務を行っている時のみは「支那」を使うことや
公共電波での支那呼称は禁止されています(当時の外務省局長級通達による)。

ただし、上記通達で禁止されているのは
「国名としての『支那』」呼称のみであり、
歴史的・地理的および学術的呼称の場合は必ずしも従う必要はありません。
上記通達でも「東シナ海」「支那事変(日支事変)」などの名はやむを得ない
とされています(現実には支那事変は日中戦争に取って代わられました)。」

また、「支那」という言葉(表記)は、大昔からありました。

「支那」という表記を発明したのは古代シナ人だったのです。

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"支那"原是"Cina" 的音譯,是古代印度対古代中国的称呼,
最早出現在梵文佛経中。
梵文Cina進入不同的語言中,其読音変化不大,
譯音是"China"、"支那"、"脂那"、"至那"或"震旦"。
1999年5月7日付けの「人民日報、支那源流考」

――――

中国でも仏典や、「宋史」などに支那という語が使われているそうです。
北京かわら版 1999年3月 第90号 雑学
中国を繙く24「支那」は本当に悪くない言葉か
(1)櫻井澄夫(元JCB北京事務所所長)

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梵語(サンスクリット語)
チーナ,ティン

漢訳仏典
支那,脂那,チナ

フランス語
ラ・シーヌ

英語
チャイナ

ドイツ語
ヒーナ

イタリア語
ラ・チーナ

オランダ語
シーナ

ポルトガル語
シーナ

スペイン語
チナ

日本語
支那,シナ

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盧溝橋事件は支那から攻撃して来ました。

支那には欧米の租界も条約によって設置されていましたし、
自国民保護のための欧米の軍隊も条約によって駐留していました。
欧米と同じように日本も条約によって租界が設置され、
軍隊も条約によって駐留していました。

支那は日本だけを攻撃するようになっていき、
日本が、やり返すと侵略だと言われたのです。
不戦条約は自衛権を除外していました。

【1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件】

1937年(昭和12年)7月7日、夜10時40分頃、
北京(北平)西南方向12kmの盧溝橋北側の永定河左岸荒蕪地にて
演習を終えた支那駐屯歩兵第1聯隊第3大隊第8中隊に対して、
突如、数発の銃弾が発射され、
中国国民革命軍第29軍との間で戦闘になりました。

★中国側の行為
●現地日本軍の対応
■日本政府、陸軍中央の対応

7月7日
22:40
★盧溝橋付近に駐屯していた日本軍(支那駐屯軍)が演習を終えた時、
突如、数発の銃弾が河畔堤防の竜王廟付近よりなされた。

★再び十数発の銃撃が日本軍に向かって浴びせられた。

●日本軍は軍使を派遣することになった。

7月8日

3:25
★再び竜王廟方向より三発の不法射撃が行われた。

4:20
●砲撃を受け、日本軍の連隊長は攻撃を許可したが、
事件拡大を恐れて、直前で攻撃を中止した。

5:30
★日本の攻撃中止を臆病だと思った竜王廟の支那兵は
日本軍に猛射を浴びせてきた。

●事ここに至って日本軍もついに反撃の火ぶたを切った。
最初に不法銃撃を受けてから実に7時間、
一発の応射もせず隠忍自重を堅持したのだった。

●この戦闘で敵兵の遺体を調査したところ、
攻撃していたのは支那29軍正規兵であることが判明。

■事件の不拡大、現地解決を決定する。

■杉山陸相は内地3個師団の派兵を主張したが、
広田外相をはじめ全閣僚が全面戦争誘発の危険ありとして反対。

7月9日
2:00
★現地停戦協議成立。

●当時河辺旅団は、宛平県城の攻撃を開始する体制にあったが、
停戦協議成立の報を得たので、攻撃準備停止を命令。
■停戦協議成立を受け、派兵提案は見送られる。

7月10日
★停戦協議が成立したにもかかわらず
支那軍が協議で約した撤退をせず挑発を続ける。

■支那の挑発に加え、中央軍北上の報も伝えられたため、
政府は関東軍より2個師団、朝鮮軍より1個師団、内地3個師団を
派兵することを内定。

7月11日
■差し当たり内地3個師団を派兵することを閣議決定。

8:00
★●■停戦協定が成立

■停戦協定成立を受け、内地師団動員を見合わせる。
■盧溝橋事件を「北支事変」と命名する。

7月13日
10時
★停戦協定はまたもや支那側によって破られた。
北平大紅門を通過中の日本の天津砲兵隊修理班が支那兵に襲撃され、
4名が虐殺される。停戦協定から40時間と経っていなかった。

7月14日
★天津駐屯騎兵隊が通州を経由して豊台に向かう途中、
落鉄のために遅れた近藤二等兵が支那兵に襲撃され、惨殺される。
近藤二等兵は軽機の銃弾を六発受けて即死し、
倒れた後、青竜刀で頭を二つに割られ、脳漿はなく、
右脚も無残に切り落とされていた。目も当てられぬ残忍な殺し方だった。

7月19日
★●■停戦協定中の第三項排日取り締まりに関する細目協定成立。

7月20日
★協定に基づき保安隊と交代するため撤退するはずの盧溝橋城の支那軍が
日本軍に一斉射撃を開始。

●支那の一斉射撃に対して、日本軍も盧溝橋城に対して砲撃を行う。
■支那側の不法射撃に、日本政府は同日夜、動員発令後も事態が好転すれば
直ちに復員するという条件付きで、陸軍中央が前日に内定していた
内地三個師団の派兵を承認。(二度目の派兵決定)

7月21日~22日
■現地から戻った軍務課長から、満洲・朝鮮からの増派で十分であり、
内地師団の派兵は必要ない旨の報告を受ける。
また、天津軍参謀長よりも、冀察が19日の細目協定を実行しつつあり、
支那軍が撤退を開始したことを伝えてきたため、
再度内地師団の派兵を見合わせる。

7月25日
★日本側の善意と忍耐も空しかった。
廊坊(ろうぼう)の電線修理に派遣された日本の電信隊一個中隊が
支那軍に包囲され、攻撃される。(廊坊事件)

7月26日
★北平(北京)居留地保護のため支那側と諒解を遂げた上で
北平・広安門を通過中の天津駐屯軍が、城壁上の支那軍より乱射浴びる。
(広安門事件)

■二回にわたる騙し討ち(廊坊事件・広安門事件)を受け、
不拡大方針を変更せざるを得なくなり、
陸軍中央は見合わせていた内地三個師団の動員を命じる。
陸軍不拡大の中心たる石原莞爾までもがあきらめた。
閣議はただちにこれを承認。

7月27日
■「北支事変」を「日支事変(日華事変)」と改める。

7月28日
■日本は支那軍の一片の誠意に信を置き、
それゆえに盧溝橋事件発生以来三週間にわたってあらゆる侮辱に耐え、
隠忍自重に努めた。だがここに至っては
武力不行使の大方針も放棄する他なくなる。

●日本軍(天津軍)は支那第29軍に開戦を通告。同払暁より全面攻撃を開始。

7月29日
★支那第29軍は南へ敗走。
●日本軍、平津(北平・天津)地域の平和を回復する。

★北平東方の通州で、支那保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生。
(通州事件)

【参考】 『大東亜戦争への道』 中村 粲(あきら)著 (展転社)

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●1936年(昭和11年)12月12日、西安事件。

もともと蒋介石は日本に留学経験もあり
対日戦には消極的で共産軍を攻撃していました。

蒋介石は陝西省の延安に追い詰めた壊滅寸前の共産軍に総攻撃をかけるため、
彼の部下である張学良(東北軍)を陝西省の省都・西安に送り込んだのですが、
張学良は共産軍との戦いに消極的であったため、
あとから蒋介石も西安に督戦(監視)に行ったのですが、
すでに共産党に寝返っていた張学良に捕らえられ
共産軍の捕虜となってしまいました。

蒋介石は助命の代わりに共産党掃討をやめ、
一緒に日本と戦う事を約束して第二次国共合作が成立し、
絶滅寸前だった支那共産党は生き返ってしまいました。

※「国共合作」とは国民党と共産党が協力すること。

これにより蒋介石の本隊が上海共同租界の日本軍・日本人を攻撃しましたが
(第二次上海事変)蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げました。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げたので日本軍は重慶爆撃を行ないました。

これが支那事変ですが、支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ
第二次上海事変であれ、どちらにしても支那側から攻撃して来たのです。

これに対して米英は日本に経済制裁を仕掛け、
蒋介石に軍事援助を続けました。

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中国は、
「日本軍が上海を攻撃し、上海を南京攻略の第一歩とした。」
と主張していますが、意味不明です。

第二次上海事変の前から上海国際共同租界の行政機関である工部局に
日本は参加していました。自国民を守るための軍隊も駐留していました。

アヘン戦争後、上海国際共同租界は中国ではありませんでした。

上海はアヘン戦争後にイギリスが租借し、
その後、アメリカ、フランスなどと国際共同租界となって
工部局が運営をしていましたが、日清戦争後、
その工部局に日本も参加して運営し、
共同行政権と、それに伴う自衛権を得て、
日本は上海の虹口(ホンキュー)地区を担当していました。

上海にいた軍隊は日本海軍陸戦隊だけでなく、自国民を守るために
米軍2800人、英国軍2600人、仏軍2050人、伊軍770人など
列強の軍隊が駐留していたのです。

それらの軍隊は条約によって駐留していました。

1901年9月7日、『義和団の乱』平定後、列国と清国・義和団とのあいだで
戦闘事後処理の『北京議定書』が北京で調印され、
この『北京議定書』に基づき、
列強各国に自国民の保護の為に中国への駐兵権が与えられ、
イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、
オーストリア(=ハンガリー)など出兵した8ヵ国と、
ベルギー、スペイン、オランダを含めた11カ国の軍隊が
中国に駐留していました。

日本軍も同じ条約で駐留していたのです。

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●1937年(昭和12年)8月9日、船津和平会談の日だったが、
中国軍が日本兵2人を惨殺してぶち壊した。

●1937年8月12日、中国軍3万人が上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。

●1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変。

午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が日本軍陣地に対し、
突如、機関銃による射撃を開始して日本軍との間で戦闘状態となり、
「第二次上海事変」が始まった。

ドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った
中国軍に対して寡兵の陸戦隊は奮戦した。

八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退。

日本人居留民はどんどん引き揚げたが、
通州事件が再現されるかもしれないとの恐れから、
残っている一人一人の邦人に警備がつけられ、
汽船やブロードウエイマンションに避難した。
それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の吹き出しに従事し、
残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作った。

●8月14日、中国軍が上海市街のキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃。

中国人や外国人に大量の死傷者を出した。
中国はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝。

日本海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばし、
南京などにある中国軍の飛行場や前線基地を爆撃し(世界初の渡洋爆撃)、
上海などに居た日本人を助けた。

●8月15日、日本は正式に松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成。

●8月23日、中国軍が上海のデパートを爆撃。
これも日本軍の仕業と世界中に宣伝。

●10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。中国軍は南京方面へ敗走。
中国軍の退却時には堅壁清野と呼ばれる焦土作戦が行われる事が多く、
この時も中国側の敗残兵により掠奪、破壊、放火などが行なわれた。

上海フランス租界の重要機関は放火され、
避難民に紛れた敗残兵と便衣兵(民間人の服装をした兵士)と
フランス租界の警官との間で銃撃戦も起きた。

上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは
軍事上のこととは認めながらも残念なことであるとし、
一方、中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が
非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。

10倍近い中国軍を壊走させた日本の上海派遣軍は、
10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。

●1937年11月2日~、第1次トラウトマン和平交渉。
広田外相が正式に駐日ドイツ大使に仲介を依頼し、
日本側の和平条件を提示したが、蒋介石は応じなかった。

●1937年11月、蒋介石(国民党)、南京陥落前に南京から逃走。
最初は漢口、そして重慶に逃げ込んで重慶を首都にして重慶政府を樹立。

●1937年12月10日、南京を包囲された中国軍が日本の降伏勧告を無視。

●1937年12月13日、南京陥落。

●1937年(昭和12年)12月21日~、第2次トラウトマン和平交渉。
すでに南京攻略後で日本側に何万という死傷者が出ていたから、
以前のような寛大な案では済まなくなっていたし、
あいまいな回答で引き延ばし続けられた。

●1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の第2次和平案の返事を
聞くために蒋介石を訪問しようとしたが、蒋介石は会わず。

●1938年6月12日、蒋介石軍が黄河の堤防を決壊させる。
日本軍による救出活動も虚しく住民60万人が罹災し12万人が行方不明。
中国軍はこの黄河と揚子江の堤防決壊を日本軍の仕業と世界中に宣伝

●1938年(昭和13年)10月26日、武漢三鎮陥落。

武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
(支那軍は武漢撤退の際、すべての建物に爆弾をしかけた。)
盧溝橋事件から始まった支那事変は、これで本格的な戦闘は終了した。

以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となった。

汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けたが11月10日、帰らぬ人となった。

翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。
戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げた。

―――――――――――――――――

日本は、すべて条約に基づいて行動していました。

日本も開国後、日本各地に租界のような外国人居留地がありました。
不平等条約を結ばされていました。

日本は最初は少し武力抵抗したこともありましたが、
すぐに欧米の優秀な技術を認めて、それらを真面目に学び、
国際法、条約なども学び、徐々に近代化していきました。

そして日本は欧米にバカにされないように技術を一生懸命に学び、
近代化の努力と「言論」によって
平和的に外国人居留地をなくし、不平等条約を撤廃しました。

一方、中国はどうだったでしょう?
中国は条約など関係なしに武力攻撃するだけだったのです。

もともと日本軍は欧米と同じように条約によって上海にいたのであり、
中国軍が上海の外からやって来たのです。

そもそも、なぜ中国は日本だけを攻撃していたのか?

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