正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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★「支那」呼称について★満洲★清★辛亥革命~第一次国共合作

★「支那」呼称について
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かつて日本では支那人(漢民族)の支配地域を「支那」と読んでいた。

「支那」は蔑称ではなく、
そもそも「支那」という漢字を使ったのは支那人本人である。

「支那」の語源は始皇帝の「秦」で、
西方においては「シン」と呼ばれており、
現在ではフランス語で「シーヌ」、イタリア語で「チーナ」、
ドイツ語で「ヒナ」、英語で「チャイナ」と言う。
要するにみんな「支那(シナ)」と呼んでいる。

一方、「中国」というのは本来は、、自国内で「わが国」という意味である。

支那が言う「中国」とは、「世界の中心。天子がいる文化の高い国」
という意味の尊称である。「中華」も同じ意味。

支那人が「中国」というとき、周辺の諸民族を
「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」として差別的に見下している。

昭和20年(1945年)に「戦勝国」の一国となった中華民国は、
日本政府に「支那」ではなくて「中華民国」を使うよう要請してきた。

日本の外務省は、各省庁に、中華民国の国名として
歴史的・地理的・学術的叙述以外では「支那」を使わないよう、通達した。
もちろん一般の日本人は「自国を何々と呼べ」などという
支那の内政干渉など無視して従来どおり「支那」と呼ぶべきである。

そもそも日本には「中国(地方)」があり、
支那を「中国」と呼ぶのは混乱の元であり止めるべきだろう。

今日の支那では「支那」という言葉は、禁句とされている。
といっても世界中で「シナ(あるいはそれに近い言葉)」で呼ばれており、
日本人も支那の内政干渉的要求に付き合う必要はない。

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★満洲

現在、中華人民共和国(支那共産党)は満洲を「東北」と呼ぶが、
中華民国時代は「東三省」、それ以前は「関外」と呼ばれていた。

「関外」とは、万里の長城の東端の外という意味である。

支那人(漢民族)にとって
万里の長城より北は歴史的に異民族の土地であった。

大東亜戦争以前に支那が満洲の領土になったことはあるが、
満洲が支那の領土になったことはない。
このことは以下の歴史を見れば明らかである。

辛亥革命とは、被征服民族の漢民族(支那人)が
征服民族の満洲人の王朝(清朝)を倒す運動であった。

これによって支那を治めていた清朝皇帝が北京で退位したとしても、
単に支那という地域の統治を放棄しただけであり、
決して満洲が支那になったわけではない。

かつて13世紀にモンゴル帝国が支那を支配して元朝となったが、
その元朝が14世紀に滅びてモンゴル族が故地の蒙古へ帰ったように、
満洲族が故地の満洲へ帰るのはおかしなことではない。

しかも、清朝は他の民族が満洲に入らない政策(封禁政策)をとっていて、
支那と満洲を別の地域として扱っていたから、
この点からも蒙古と同じように考えて差し支えない。

今の支那共産党政府(中華人民共和国)が
満洲までも自分の国と言い張るのは、
イギリス人を追い払ったインド人がイギリスはインドだ、
というのと同じ論理である。

同じようにチベットやウイグルまでも自分の国だと主張するのは、
インド人がオーストラリアやニュージーランドもインドだというのと同じで
ナンセンスなことなのである。

日露戦争前には、清国は満洲がロシア領にされてしまったと認識していた。
満洲のとある地域に役人を派遣する際、
ロシアの許可をもらっているのである。

日露戦争においては清国は完全中立のはずだった。
日本はロシアを追い払ったのち、
鉄道と遼東半島の租借という少しばかりの報酬で手を打って、
満洲全体を清国に返してあげた(ポーツマス条約)。

ところが実は、清国とロシアは密約を結び、
日本と戦うというような話までしていたのである(露清密約)。

そのことを知っていれば日露戦争は清国との戦争でもあり、
勝った時点で日本が満洲を取っても文句は出なかった。

清国とロシアの密約が判明したのは大正10年(1921)になってからであり、
非常に残念なことだった。

満洲と支那の違いが分かっていない人がやたらと多い。

このため、「満洲も支那だ」という支那のプロパガンダ(宣伝)に
乗せられて、日本が侵略したような印象になっている。
外国人の多くはまだ満洲王朝の清国(清朝)を
支那人の王朝だと勘違いしている。

満洲族は満洲語を持っている。
清朝は満洲に他の民族が入るのを嫌がって封禁政策を取ったし、
東三省(満洲)の将軍には満洲人を任命し、支那人を使わなかったのである。

辛亥革命で標語と成った「滅満興漢」とは、
清朝による漢民族(支那人)支配を廃することを意味した。
つまり支那人が支那人の国を作るということである。
そうであれば、蒙古、ウイグル、チベットといった民族も
それぞれ自分達の国を作るのは道理であり、満洲民族もまた同じである。

ところが、孫文は臨時大総統になると、
蒙古、ウイグル、チベットが清朝の支配から独立するのを認めなかった。

蒙古、ウイグル、チベット、満洲が支那の領土ということは
歴史的にまったく根拠がない。
それを強引に自分の領土としてしまっているのが
現在の支那(中華人民共和国)である。

大東亜戦争後、満洲が支那の手に入ると、
支那は満洲人をなくす運動を進めた。
満洲人を大量に蒙古やウイグルに移動させた。

このため現在では満洲語を話せる人も満洲人と称する人も
ほとんどいなくなってしまっている。
その結果、満洲独立を唱える声はほとんど絶えてしまった状況である。

万里の長城の外の「満洲」の地にはツングース語系の満洲族が住んでいて、
古来、支那人は彼らを「化外の地」の民と呼んでいた。
17世紀に彼らは天下を取り、清王朝を樹立させた。

清は周辺地域への侵略を繰り返し、領土を従来の3倍にまで膨張させ、
他民族を蹂躙し、圧政を敷いた。
支那にいた支那人もその支配下に入ったのである。

「満洲」はもともとは清朝をつくっていた満洲族の出身地だった。
満洲族が清朝を樹立した際、
満洲族は民族を挙げて万里の長城の内側に移住し、
満洲の地は万一の際に帰れるように無人地帯にされていた。

支那の革命家にしても、
当初は満洲を支那の領土であるとは考えていなかった。

革命派のナショナリズムはもともと、
異民族である満洲人の支那人支配への憤りに発した漢民族主義である。

彼らにとって万里の長城以北の満洲など、
たんなる「満奴」や「韃奴」の地であって、
せいぜい革命後における満洲人の放逐先であり、
むしろそこに日本の勢力が進出してくれば、
支那はますます安泰になると考えていたのだった。

だから、孫文などは革命の際、満洲を支那の一部とはまったく考えておらず、
日本に満洲売却交渉まで持ちかけていた。
自分達の土地ではなく異民族(満洲族)の土地であるから
外国にくれてやってもかまわなかったのだ。

桂首相に対しては、革命後に
満洲を日本と支那の共同で開発しようといった提案まで行っていた。

だが革命がなって中華民国が成立すると、
この国は清国の版図をすべて継承したいがため、新たな民族概念を創出した。

つまり、漢人だけでなく、満洲人、チベット人、モンゴル人をも
包含する「中華民族」というものであり、
漢人だけでなく中華民族の土地はすべて支那の土地だと主張するにいたった。

今日の支那(中華人民共和国)では満洲という言葉は禁句としている。
その代わりに、自己中心主義的な、
包囲しか示さない「東北」という呼称の使用を、日本人にまで強要している。
もちろん日本人はそんなことに付き合う必要はまったくない。

支那は満蒙(満洲と蒙古)の地は、
支那の神聖不可分の固有の領土と勝手に決めつけ、
高句麗史まで支那の一地方史と主張してはばからない。

清朝が支那を支配すると、
満洲族が大挙して支那(万里の長城以南)に移住した。
そして満洲は荒れ果てた地になっていた。

そこを日本が、ロシアの南進を阻止するために日露戦争を戦い、
インフラを整備し、近代産業を移植し、治安を維持し、
支那の内乱が及ばない別天地にしたのである。

そこで大量の支那人(漢民族)が内乱に明け暮れる支那から、
安定した満洲へ流入してきた。
満洲の人口は日露戦争の頃(1904年)には1000万人、
辛亥革命(1911年)の頃には1800万人、
満洲事変の頃には3000万人と激増した。

清朝崩壊の結果、支那の治安は乱れ、
今度は日本を追い出せという運動が始まった。
日本製品の不買運動、日本人に土地を売るな、貸すな、
日本人の家の使用人になるなという運動にまで広がり、
満洲に居住する日本人の生命が危ぶまれる状態となった。

辛亥革命が起こったところで溥儀が満洲族を率いて
すぐに満洲の地に引き揚げていれば、その後の満洲独立の必要もなく、
そのまま安穏に暮らせていた。

ところが、清朝は袁世凱に革命軍(国民党軍)の討伐を
命ずるなどしてぐずぐずと抵抗を続け、機を逸した。
しかも、その袁世凱は清朝を裏切り、
中華民国政府と交渉して孫文に代わって
自分が大総統に就任するなどしたため事態はますます混乱した。
支那全土に軍閥が乱立し、支那は内乱状態に陥り、
満洲でも張作霖などの軍閥が台頭してきた。

張作霖は奉天(現在の瀋陽)を中心に勢力を伸ばし、
一時は北京を占領し自らが中華民国の主権者であると宣言するほどであった。

しかし、結局は蒋介石の軍隊との戦いに敗れ、
1928年6月4日、列車で奉天に戻る途中、何者かに爆殺される
(張作霖爆殺事件。以前は関東軍の河本大作大佐の指揮によるものと
されていたが、最近ではこれを行なったのはコミンテルンという
有力な意見が出されている)。

そうして状況の中、1931年9月18日に満洲事変が起こることになる。

今日の支那では「満洲」という言葉は「支那」と同様禁句で、
「東三省」または「東北地区」と言い換えている。
だが共産党満洲委員会が存在したように、かつては禁句ではなかった。

だから今日でも支那では「満洲事変」という言葉もなく、
「九・一八事変」と呼ぶ。これは事変勃発が9月18日だったためである。
現在「九・一八」は抗日戦争の記念日に指定されている。

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満洲の歴史

●10~12世紀、五代十国~宋の時代、満洲には契丹族が「遼」を建国。

●12世紀、ツングース系女真族が「金」を建国し、
遼を西方に追い、宋を南に追いやった。
遼は西方で「西遼」を建国し、宋は南に移り「南宋」となった。

●13世紀、モンゴルが支那に「元」を建国すると満洲もその一部になった。
つまり、蒙古族が支那と満洲を支配したのである。

●14世紀、「元」は支那人の王朝「明」に滅ぼされたが、
明は満洲にいた女真族を支配できなかった。

●1616年、ヌルハチという満洲族の首長が
現在の東満洲地区を征服して「金」という名の王朝を建てた。
ここから満洲の歴史が始まる。
歴史上「金」という王朝は何度も出るので、
ヌルハチの金は「後金」と称している。

●1636年、ヌルハチの息子のホンタイジは、朝鮮を征服した後、
国号を「清(清国、清朝)」と称する。女真の民族名を「満洲」に改めた。

●1644年、太宗の息子の「世宗」のとき、
清は万里の長城を越えて北京を占領し、
「明」に代わって支那も支配するようになる。

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★清(清国、清朝)

徳川家康が死んだ1616年ごろ、ヌルハチが満州族の勢力を伸ばして
支那(当時は明朝)から独立し、満州の地に金(後金)という国を建てた。

ヌルハチの息子のホンタイジは朝鮮を征服し、
1636年に年号を清(大清)と称した。

その子供の順治帝が北京を攻め落として明朝を滅ぼし、支那全土を占領した。
つまり、清国というのは満州族の王朝である。
(ここを理解していない日本人、外国人が多い)

支那大陸には支那帝国というものは古来あったためしがなく、
あったのは常に王朝だけである。

蒙古人が征服すれば蒙古人の王朝が建てられ、
満州人が征服すれば満州族の王朝になる。
支配している民族がまったく違うのである。

満州族の王朝である清朝は長く支那の土地を支配するが、
19世紀半ばになると西欧列強の脅威にさらされることになる。

とりわけ、1840年から起こったアヘン戦争、
1957年から起こったアロー戦争でイギリスに破れ、
不平等条約の締結を強いられ、
次々に西欧列強の進出を許し、植民地化されつつあった。

19世紀末になると、
やりたい放題の外国人たちに不満を募らせた民衆が結集し、
「扶清滅洋」(清を助け西洋を滅ぼす)を掲げて清国軍とともに
北京にいた外国人を取り囲むという事件(義和団の乱)が起こった。
このとき、日本をはじめとする列強8ヶ国が
自国民の保護を理由に軍隊を派遣した(北清事変)。

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●1900年、北清事変(義和団の乱)

反乱はすぐ鎮圧されたが、ロシアの軍隊が混乱に乗じて満州に侵攻し、
満州全域を占領してしまった。

日米英は抗議するが、ロシアは居座り続け、
さらに南下して北朝鮮に入ろうとした。

ロシアの朝鮮半島への南進は日本の脅威であり
絶対に阻止しなければならないということで日露戦争が勃発したのである。

●1905~1906年、 日露戦争

日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約によって
ロシアを満州の地から追い払い、満州を清国に返還した。

その代わりにロシアが持っていた権益の一部を
譲り受けて南満洲鉄道(満鉄)の経営を始めた。

その後、平和な状態が続いていたが、
1911年(明治44)に辛亥革命が起こると情勢は一変した。

●1911年、辛亥革命

翌12年には孫文を臨時大統領とする中華民国(国民党政府)が樹立され、
これによって清朝第12代皇帝である宣統帝(溥儀)は退位させられ、
清朝は崩壊する。

●1912~、中華民国

実は辛亥革命とは革命などではなく、
満州族を滅ぼして漢民族(支那人)を興す(滅満興漢)という
満州族からの支那人の独立運動だったのである。

この後は、満州事変、満州国建国と続く。

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清国の歴史

●1616年ごろ、ヌルハチが金(後金)を建てる。

●1636年、ヌルハチの息子のホンタイジは、朝鮮を征服した後、
国号を「清(大清)」と称する。女真の民族名を「満洲」に改めた。

●1644年、太宗の息子の「世宗」のとき、
清は万里の長城を越えて北京を占領し、
「明」に代わって支那も支配するようになる。

●1900年、義和団の乱(北清事変)

●1911年、辛亥革命

●1912年、中華民国(国民党政府)が樹立。
清朝第12代皇帝である宣統帝(溥儀)は退位。清朝は崩壊した。

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★1911年の辛亥革命から1924年の第一次国共合作までの中華民国

1911年(明治44年)、辛亥革命

このとき、清朝の宣統帝が退位し、
ヌルハチの建国から300年弱で清が滅びると、
替わって中華民国が新しい支那の国として成立した。

年表風にいえばこうなるが、内実はそれほど単純でない。

辛亥革命の翌年、1912年1月1日、
南京で中華民国の建国を宣言し、孫文は臨時大総統に就任した。

清朝は、北洋軍閥の長・袁世凱の出馬を仰ぎ、事態の収拾を図ろうとした。

ところが、袁世凱が革命政府と気脈を通じていたため、
1912年2月、清朝は倒れてしまった。

そこでかねての約束どおり、孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。
袁世凱は皇帝の退位と共和制への移行を認める代わりに
大総統への地位を求め、孫文が承諾していたのだ。

ところが大総統に就任した袁世凱は一転、孫文と対立、
革命派を弾圧し独裁体制をとるようになる。

こうして中華民国の実権は袁世凱に握られてしまい、
革命は名ばかりとなってしまった。

孫文は支那南部で兵を挙げた(第二革命)が敗れ、日本へ亡命する。

袁世凱は帝政を復活させて自ら皇帝になろうとした。

革命によって清朝を倒して皇帝を廃したのに、
袁世凱は今度は自分が皇帝になろうとしたわけだ。

しかし袁世凱は支那南部の反乱によって帝政をあきらめ、1916年に急死する。

その後継をめぐって政府は分裂。
各地方の軍閥が入り乱れ、支離滅裂の状態になる。
それぞれが「自分こそが正当な支那政府」と言い張り、
支那大陸は果てしなき内戦の時代となる。

袁世凱が死んだ翌年の1917年、
孫文は広東に入って大元帥になり第一次広東政府が成立する。

しかし、外交機関は相変わらず北京にあり、
北京政府と広東政府が支那に存在することになる。

さらに両政府内には軍閥・派閥の戦争があり、
どこが支那政府かわからない状態だった。
支那は軍閥・匪賊が跋扈する複数政府状態が延々と続く。
そのため、列強が植民地化した「租界」の中だけが「桃源郷」となった。

辛亥革命から支那事変に至るまでの支那は
軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦が休みなく続いた戦乱の時代であった。

北洋軍閥を中心とした北京政府の実権をめぐる攻防戦だけでなく、
南方においても各省の軍閥間で戦争が繰り広げられていた。

全国的に見ても省VS省、村VS村といった戦争は絶えることがなく、
たとえば四川省だけでも約500回もの軍閥内戦があった。

中華民国時代に各地にはびこった軍閥は、
清帝国時代の総督より実権は強大だった。
清の総督はあくまで中央から派遣された地方官であったのに対し、
民国の軍閥は私兵を有しながら専制権を確立していた。
住民に対しては封建的搾取をほしいままにする”半独立”諸侯だった。
軍閥は勢力の維持・拡大のため、
他の軍閥と合従連衡し、同時にそれぞれが外国列強と手を結んでいた。

袁世凱の権力の「遺産」をめぐる軍閥割拠の内戦では、
覇者は走馬灯のように入れ替わり、いずれも三年ともたない混戦ぶりだった。

当時の支那を二分していたのは段祺瑞らの北京の北洋軍閥と、
その対抗勢力として南方の西南軍閥だった。
孫文は革命拠点を築くため、西南軍閥と提携した。
孫文が目指したのは、
西南軍閥の軍事力を利用しての南北統一(北伐)だった。

のちの国民党軍の北伐の最中、同党内だけでも
武漢政府VS南昌・南京政府、南京政府VS北京政府、
その後も広東政府VS南京政府など、政府乱立による政府間抗争が相次いだ。

続く国共内戦時代では国民党VS地方ソヴィエト政府の戦いが、
そして支那事変時代には南京、重慶、延安の各政府による三つ巴の攻防戦が、
それぞれ熾烈に展開された。

中華民国の時代とは「一国多政府時代」である。
決して「中華民国」なる統一された一つの
近代国家が存在していたわけではない。
どの政府にも支那全土を支配する力はないのに、
自分たちこそ「全支那に支持された正当政府」と主張していた。

辛亥革命で共和制が敷かれたものの、
当初各省・各県を支配したのは、各地方の武装勢力だった。

それは軍閥であり、革命派であり、あるいは単なる匪賊集団だったが、
どれ一つとして支那を再統一したものはなかった。

大勢力を誇る北洋軍閥(北京政府)や南方革命派(広東政府)でさえ、
それぞれ南伐、北伐を試みたが成功しなかった。
1920年代に台頭してきたのが連省自治派である。

そんな中、コミンテルンが近づき、孫文は国共合作を行ってしまう。
国民党と支那共産党が手を結ぶこととなり、
共産党員が国民党内に入ってくることになってしまった。

孫文は、連ソ容共の姿勢をとったが共産主義者に転向したわけではなかった。
コミンテルンの国際共産主義を、
自分が唱える「三民主義」の一部(民生主義)だと錯覚し、
得意になっていただけである。

【ここまでの支那の状況】

支那、相変わらず軍閥・匪賊が跋扈し、複数政府状態

主要な政府

◆張作霖の奉天政府

◆袁世凱を継ぐ軍閥による北京政府

◆孫文の広東政府

蒋介石により中華民国が一応の統一をみた後、
支那の内戦は本質的に重大な変化を遂げる。
軍閥の群雄割拠から、
国民党と共産党の二大勢力が対決する国共内戦へと変わった。
2008/11/19 09:00|年表リンク用資料
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