●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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すばらしい日本
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他サイトの内容を100%支持している わけではありません。完全に意見が 一致する人など存在していません。 ならば、なぜリンク紹介しているの かというと、大東亜戦争後、日本国 内が、あまりにも、いわゆる左巻き の論調に偏ってしまっているので、 全体的に見ると少数ながら存在して いる保守側の意見を、いろいろな 角度から知ってほしいからです。 ブログ記事の右下の日付について
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
大東亜戦争にいたる大まかな流れ【超短縮版】改 【動画テキスト】
イギリスは植民地のインドに アヘンを栽培させ、 清国(中国)に売り、 莫大な利益を得ていた。 ――――――― 1840年、英清アヘン戦争 清国はアヘンを拒否 イギリスは清国に軍隊を送って戦争となり イギリスの圧倒的な勝利で終わった。 ――――――― アヘン戦争後、欧米列強は清国に 租界(外国人居留地)を 「条約」で設置し始めた。 日本も1894年の日清戦争後、 欧米と同じく、 「条約」で清国に租界を設置。 ――――――― 1900年、清国で義和団が 外国人排斥運動を起こし、 多くの外国人を殺害。 (北清事変=義和団の乱) 欧米列強と日本、 8ヵ国の軍隊が出動して鎮圧。 戦後処理条約の北京議定書に基づき、 列強11ヵ国に自国民保護の目的で 中国での駐兵権が認められた。 ――――――― このように中国に駐留していた軍隊は 日本だけではなく、 欧米列強10ヵ国の軍隊も 同じ「条約」によって駐留していた。 しかし中国は徐々に日本だけを 攻撃のターゲットにしていった。 ――――――― 1928年(昭和3年)、不戦条約 国際紛争を解決する手段としての 戦争を放棄し、 紛争は平和的手段により 解決することを 規定した条約であったが、 英米仏などの要望により 自衛戦争は除外されていた。 ――――――― なぜ日本軍が満州にいたのか? 【日露戦争の発端】 北清事変で勝手に満州を 占領していたロシアは 1903年、満州の兵力を増強。 さらに南下政策を進め、 朝鮮半島にも軍事基地を造り始めた。 ――――――― ロシアが1891年に建設を始めた シベリア鉄道は完成に近づきつつあり、 シベリア鉄道が完成すれば ロシアの兵員・物資の 移動が格段によくなる。 日本の10倍の国家予算を持つロシアが 極東に強大な軍隊を配置すれば、 とても日本は太刀打ちできない。 侵略されてしまう。 ――――――― そうなる前に、 シベリア鉄道が完成する前に ロシアの南下侵略を阻止するため、 日本は先手を打って ロシアに戦争を仕掛けて勝ち、 (1904年~1905年・日露戦争) ――――――― 戦後処理のポーツマス条約により、 ロシアは清国の同意を得て、 関東州(旅順・大連を含む遼東半島南部) の租借権と長春~旅順間の南満州鉄道、 その附属地(炭坑など)を日本に譲渡。 ――――――― その南満州鉄道と沿線付属地域の警備を 左隣りの関東州の日本軍(関東軍)が担当。 そういう理由で 「条約」で日本軍は満州に駐留していた。 1905年12月22日の満州善後条約 により日本の満州権益を清国が了承。 ――――――― 満州事変(1931年)にいたる経緯 満州内で日本人や日本の関係施設が 様々なテロ攻撃を受けていた。 【テロ攻撃】 (アメリカが支援の集団) ●満州の張学良率いる武装盗賊テロ軍閥 ●中国国民党が推進していた抗日テロ運動 【ロシア南下の脅威】 (ロシア・コミンテルンが支援の集団) ●共産パルチザンのテロ集団 ――――――― 満州事変はテロ攻撃から 日本の満州権益を守り、 日本人居留民の安全を確保するため、 テロ集団を満州から 追放する事が主目的であった。 ――――――― テロ集団に準備万端で 一気にやり返すため、 奉天(現:瀋陽)郊外の柳条湖付近で 日本軍(関東軍)が南満州鉄道の 線路を爆破(柳条湖事件)し、 警察行動である満州事変が勃発した。 ――――――― 【欧米列強の経済ブロックに対処】 他の列強国が閉鎖的な ブロック経済を構築していくなか、 日本は生きていくための 日本独自の経済圏もめざした。 ――――――― 支那の侵略からの満州族の独立運動を支援 1911年の辛亥革命で 漢民族(支那人)が270年にわたる 満州族の支配からの民族独立 (三民主義の一つ)をめざして戦い、 清王朝(満州族)を打倒し、 清国政府をその故郷である 満州に追い返し、 1912年に中華民国を建てたので 支那と満州は別になったはずだった。 ――――――― しかし中華民国は清朝の支配地域を 全て継承したいがため、 漢民族とチベット民族、ウィグル民族、 蒙古(モンゴル)民族、満州民族は、 「中華民族」であるという 新たな民族概念を創出し、 ――――――― 「中華民族」の土地は、すべて 中華民国(支那)の土地だと 主張しはじめ、チベット、ウイグル、 蒙古(モンゴル)、満州が 独立することを認めなかった。 ――――――― 日本は満州に権益があった事もあり、 満州族やモンゴル族を支援。 満州族が支那の侵略(中華民国)から 独立する事にも貢献した。 ――――――― 1921年~1922年、 ワシントン会議での九ヵ国条約は 支那権益に関して、どの国も 平等であるという内容なのだが、 すでに1911年の辛亥革命で 支那と満州は別になっていたので、 満州は『九ヵ国条約』の 範囲ではなかったはずだった。 ――――――― このとき日本は世界に、 支那は満州族の支配(清朝) から独立して支那と満州は 別になっていることを、 もっと世界に主張すべきだった。 ――――――― また、南下侵略して来るソ連は 『九ヵ国条約』に入っていなかったので ソ連は権益を南に 自由に広げることができるので ソ連の侵略に抵抗しなければ ならない日本にとっては 不利な条約であった。 ――――――― 1917年の石井・ランシング協定で、 日本は満洲の権益、 米国はフィリピンの権益を持つ事を 日米両国は認め合っていたのだが、 ――――――― この九ヵ国条約によって支那に関して どの国も平等となってしまい、 欧米の植民地はそのまま維持され、 石井・ランシング協定は解消、 アメリカのフィリピン権益は 維持されたまま、 これ以降、新たな植民地は 作ってはいけない事になった。 ――――――― 日露戦争後からアメリカは 一貫して反日政策を取り続けていた。 ――――――― 1924年 米国で『絶対的排日移民法』が成立。 ――――――― ヨーロッパからは 毎年何十万人もの移民を 受け入れていた時期に、 日本人移民は一人も 入れない法律を作った。 これは日米通商航海条約 違反であった。 ――――――― また、アメリカは 1929年(昭和4年)に ホーリー・スムート法を作り(下院)、 1000品目以上で100~200%、 なかには800%の高率関税をかける 無茶苦茶な保護貿易を始めた。 ――――――― それが引き金となって 世界恐慌が起こり、 英国ブロック、米ブロック、 仏ブロック、ソ連ブロックなど、 世界はブロック経済化に向かい、 自由貿易できない状況だった。 日本も、できれば満州などの親日国と 経済圏を確立し、自存自衛の 体制をめざしたいのは当然であった。 ――――――― 米国は他の欧米列強国に 遅れてアジアに来た。 すでにアジアは他の列強国の 権益範囲ばかりだった。 米国自身は「門戸開放、機会均等」 していなかったのだが、 アジア権益に関して米国は 「門戸開放、機会均等」などと 聞こえの良い事を言い、 支那や日本の満州権益に目を付けていた。 ――――――― 1932年(昭和7年)のオタワ会議でも イギリス連邦の経済ブロック政策 による高関税政策が開始され、 日本はインド・イギリスブロックからも 事実上、締め出されたことから、 満州や台湾など(円ブロック)が 貿易の対象となり、重工業化へ向けた 官民一体の経済体制への 転換を打ち出した。 ――――――― 1937年、支那事変(日中戦争)は 盧溝橋事件が始まりであれ、 第二次上海事変が始まりであれ、 どっちにしても 中国から日本に攻撃して来て始まった。 ――――――― 1936年、西安事件 もともと蒋介石は 日本に留学経験もあり、 対日戦には消極的で 共産軍を攻撃していた。 蒋介石は陝西省の延安に 追い詰めた壊滅寸前の 共産軍に総攻撃をかけるため、 彼の部下である張学良(東北軍)を 陝西省の省都・西安に 送り込んだのだが、 ――――――― 張学良が共産軍との戦いに 消極的であったため、 あとから蒋介石も西安に 督戦(監視)に行ったのだが、 すでに共産党に 寝返っていた張学良に捕らえられ、 共産軍の捕虜となってしまった。 ――――――― 蒋介石は助命の代わりに 共産党掃討をやめ、 一緒に日本と戦う事を 約束して第二次国共合作が成立し、 絶滅寸前だった支那共産党は生き返った。 (「国共合作」=国民党と共産党の協力) ――――――― これにより蒋介石の本隊が 1937年(昭和12年)8月13日 上海共同租界の日本軍・日本人を 攻撃したが、(第二次上海事変) ――――――― 蒋介石は日本軍に 返り討ちにされ、南京に逃げた。 ――――――― 日本軍は追撃して南京を陥落。 蒋介石は武漢に逃げた。 ――――――― 日本軍は追撃して武漢も攻略。 ――――――― 蒋介石は重慶に逃げたので 日本軍は重慶爆撃を行なった。 ――――――― これが支那事変であるが、 支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ 第二次上海事変であれ、 どっちにしても 支那側から攻撃して来たのである。 日本は応戦していたのだが、 米英は日本に経済制裁を仕掛け、 蒋介石に軍事援助を続けた。 ――――――― 日本が支那と戦争しているのにアメリカが 支那(蒋介石の重慶政府)に軍事資金や 軍事物資を支援し続けていたので支那は、 いつまで経っても日本への攻撃をやめないので ――――――― アメリカが支那(蒋介石の重慶政府)に 武器を送る「援蒋ルート」を 遮断するため、日本は 仏印と平和的に話し合って 日本軍は仏印に進駐した。 ――――――― するとアメリカが日本への 石油禁輸をしたので 石油がないと国を守れず、 治安を維持できず、 経済活動もできなくなるので、 日本は蘭印の石油を 武力で確保する決断をした。 ――――――― その前にハワイのアメリカ艦隊が 来るのを遅らせるため、 先手を打って真珠湾を攻撃したのである。 ――――――― 戦争しないのは簡単で、 単に戦わなければいい。 その代わり宗主国に理不尽な 要求をされても断れなくなる。 戦わずに従属するという事である。 ――――――― 戦わずに条約を結んで 他国の属国になるのか、 ギリギリまで戦ってから 条約を結んだほうが 良い結果になるのか、 ――――――― 極めて不利で 限られた選択肢しか残っておらず、 その状況は、まさに国難であった。 追い込まれた日本は、戦う道を選んだ。 |
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