正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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上海租界 英米日仏伊軍 警備分担地区

大東亜戦争にいたる大きな流れ【2015.4.7版】

1840年・英清アヘン戦争後、欧米各国は中国と条約を結んで
中国内に租界・租借地を設置していきました。

日本も日清戦争後、中国と条約を結んで中国内に租界を設置しました。

「1900年・義和団の乱」で、
義和団や清国軍が外国人排斥運動を起こして外国人を虐殺しまくったので、
列強8ヵ国軍が出動して2ヵ月後に鎮圧しました。
(イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、
イタリア、ロシア、オーストリア(=ハンガリー)と日本)
1901年、戦闘事後処理の『北京議定書』(条約)が北京で調印され、
自国民保護のため欧米・日本の11ヵ国の軍隊が
中国に駐留していいことになりました。
(中国が11ヵ国軍の軍隊駐留を了承したということ。国と国の約束)

支那事変の発端である「1937年7月7日・盧溝橋事件」、
「1937年8月13日~第二次上海事変」ともに
中国側から日本側に武力攻撃してきて始まりました。

「盧溝橋事件」以前も中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(宋哲元29軍)との軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えて差し支えありません。

支那事変の発端は「第二次上海事変」です。

上海共同租界の行政機関である工部局の外国人職員の
ほとんどはイギリス人で、工部局の最高意志決定機関である参事会の参事は
年一度の選挙で選出されていました。(事前に候補者は調整済みの選挙)
1914年までの参事会の構成はイギリス人7名、アメリカ人1名、ドイツ人1名。
1915年の一次大戦からイギリス人7名、アメリカ人1名、日本人1名。
1927年にイギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名となり、
1928年、初めて中国人が入って
イギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名、中国人3名。
1930年、さらに中国人が増員され、
イギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名、中国人5名となりました。
(阿片戦争後の戦後処理条約で、もともと上海はイギリスの租借地だった。)

上海共同租界は、中国と最恵国待遇を含む条約を結んでいる国なら、
どの国の人間でも進出していいことになっていましたので
日本人も進出しており、特に虹口(ホンキュウ)地区に
多くの日本人が居留していて日本人町(日本人居留区)となっていましたが、
正式な日本租界(日本の領域)というわけではありませんでした。

上海共同租界内の警備はアメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍とともに、
日本海軍陸戦隊も加わっていました。
日本海軍陸戦隊は日本人が多く住む虹口地区を含む地区の
警備を担当していました。

【第二次上海事変】
1937年8月12日、蒋介石軍が「1932年の上海休戦協定」に違反して
協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲したので、
日本領事は「1932年の上海休戦協定」の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、蒋介石軍の撤退を要求する共同抗議、および
何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが英米仏は無視しました。

翌13日午前9時30分ごろ、蒋介石軍が日本人町を武力攻撃してきたので、
その地区の警備に当たっていた日本海軍陸戦隊が応戦したものです。
これが支那事変の始まりであり、大東亜戦争の始まりでした。

蒋介石軍は宣戦布告なしに、自衛でもなく何の理由もなく、
事前の予告文書も口頭での通告も要求もなく、
突如として「1932年の上海休戦協定」に違反して協定線内に侵入したうえ、
上海共同租界の日本人居留区域を武力攻撃してきたのです。

日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石は武漢に逃げたので日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。
これが支那事変です。

確認ですが、上海国際共同租界は日本領ではありません。
上海国際共同租界のなかの比較的、日本人が多く住んでいた虹口地区が
通称「日本租界」と呼ばれていた日本人町(日本人居留区)で、
正式な日本租界ということではありませんでしたし、
虹口地区には日本人だけでなく欧米人や中国人も住んでいたのですが、
その日本人町だけが「蒋介石の地上軍」に武力攻撃を受け、

(蒋介石軍の一部はフランス租界にも侵入したため、
一時的にフランスの警官隊とも銃撃戦になった。)

「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町だけでなく、
上海国際共同租界の、あちこちに無差別爆撃を行ないました。
「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町を標的にしたけど、
正確に爆弾を落とすことができずに日本人町以外にも無差別爆撃する
結果になったのか、わざと日本人町以外も爆撃したのかは不明ですが、
蒋介石は「日本軍機が無差別爆撃をやった」と世界に宣伝しました。

しかし上海国際共同租界内には約20ヵ国の居留民が暮らしていて、
各国の領事館もありましたので、
蒋介石軍機が無差別爆撃をやっていたことは皆わかっていたはずです。

実質、上海共同租界を支配していたのはイギリスで、
そのイギリスには上海共同租界内の治安を維持し、
居留民の生命・財産を守る責務があったのですが、
上海共同租界内の日本人居留区が蒋介石軍に武力攻撃されたり、
上海共同租界の日本人居留区以外の地区も蒋介石軍に無差別爆撃され、
日本人に限らず、欧米人や中国人を含む約3000人もの居留民が犠牲になり、
租界内の多くの建物が破壊されているにも関わらず、
日本軍と一緒に蒋介石軍と戦うどころか、
逆にイギリスやアメリカなどは蒋介石側に資金・武器テロ支援をしました。

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以下『居留民の上海』藤田拓之著 P184~185より引用。
藤田拓之(ひろゆき)同志社大学講師【専攻:イギリス帝国史、上海史】
http://wk.tk/7aqGpw
※1~4行目『NCH,18 August 1937,p.277.』
※5~6行目『上海共同租界誌』上原蕃 著 P162~172
※7~16行目『回想録』上原蕃 著 P817~818
※上原蕃(しげる)氏は上海共同租界 工部局警察 総監補だった人物。
―――――引用はじめ―――――――
(前略)1937年8月に始まった第二次上海事変では、戦闘が始まると早々に、
当時の警視総監代理ボーンが戦闘地域となっていた虹口や楊樹補地区からの
工部局警察の撤退を指示した。その結果、土着派を中心とした
日本人居留民の大半が居住していたこの地域は無警察状態に陥った。
当時日本隊の指揮を執っていた上原は、直ちに日本隊警官を虹口署に招集し、
工部局警察の命令系統から外れた形で、独自に同地域の警察活動を開始した。
(中略)工部局の行動は「反日色彩が濃厚」となり、
「その機能を日本軍作戦妨害と支那支援に集中」しているとみていた。
その事例として、24階建てブロードウェイ・マンションに展望台を設置し、
イギリス人警官が中国軍のために日本軍陣地までの着弾距離を計測したり、
中国軍に電話で戦況を伝えていることや、貯蔵されていた物資を
中国軍に提供しているといったことが挙げられている。(中略)
しかし戦闘の激化にともない、工部局の「利敵行為」が明白なものとなると、
前回事変と異なり、上原は日本隊を日本軍の指揮下におくことは
拒否したものの、「日本軍のために総ゆる努力を傾倒し」、
積極的にその軍事行動に協力したのである。(後略)
―――――引用おわり―――――――
━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

蒋介石は英米などからの強力な資金・武器支援が続けられているので、
日本から蒋介石への、たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルート遮断のため、
日本は仏印と話し合って条約を結び、
米中が正式政府と認めるフランス・ヴィシー政権の認可のもと、
合法的に日本軍は仏印に進駐しました。

「仏印が弱っているときに日本が話し合いを持ちかけた」
と批判する人がいますが、
日本が、うまく外交できなかったら無能だとバカにし、
うまく外交できたら、ひどいことをしたと非難する・・・
結局は何でも批判しておけばいいという批判です。

相手が弱っているとき、自国に有利な条約を結ぶというのは、
うまく外交をやったということであって、
相手が強い立場になるのを待ってから外交交渉を持ちかけるというのは、
それこそ無能だと批判されるのではないでしょうか。

仏印と話し合って、条約で進駐したのですから、
なんら批判されることではありません。

1937.8.13~第二次上海事変で
蒋介石から不法テロ攻撃を受けて日本は戦っているのに、
米英が援蒋するから蒋介石は日本からの和平交渉を拒否し続け、
テロ蒋介石側にテロ支援してるのが米英で、
その援蒋ルート遮断のために条約によって合法的に
日本軍は仏印に進駐しているわけで、
仏印進駐は国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。
権益地との距離が縮まっただけで経済制裁を発動して良いなんて、
どこの無法者の理屈なのでしょうか。
米英がテロ支援しなければ仏印進駐などしなくて良かったのです。

日本が仏印進駐すると英米蘭は日本に対して石油禁輸をしてきました。

英米による蒋介石への資金・武器支援や、
日本に対する経済制裁などは、英米にとって何の自衛でもありませんでした。

アメリカは国連か何かのつもりだったのか、
日本に中国から出て行くよう要求していましたが、
なぜ中国から出て行かなければならないのか、
なぜアメリカ一国の言うことを聞かなければならないのか、
被害側の日本にとっては、まったく意味不明なことでした。

日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました。(日米戦争)

支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

ちなみに満洲事変は1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で
終結していましたので、4年後の1937年になって満洲事変を理由に
盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

―――――――

日本の行動で批判されているポイントに対する反論を中心に記述しています。
ソ連の工作に対する日本の対処が批判されているわけではありませんので…。

蒋介石軍を追撃した日本が悪いという人がいますが、
追撃しようとしまいと自衛であることに揺らぎはありません。
攻撃された後、正当防衛して犯人が逃げ、
それを追わなければ自衛で、追ったら自衛じゃないとはなりません。

蒋介石軍が自衛でもなく何の理由もなく、
事前の予告文書も口頭での通告も要求もなく、
突如として「1932年の上海休戦協定」に違反して協定線内に侵入したうえ、
上海共同租界の日本人居留区域を武力攻撃してきたのです。
応戦して当然です。応戦しないほうが、おかしいのです。

攻撃してきた相手は、相手国の正規の軍隊です。

相手国の民間の暴力集団による犯罪なら
蒋介石政権に逮捕や処罰や引渡しを求めたりできるでしょうが、
相手国の正規の軍隊(蒋介石軍)が侵略してきたのですから、
相手が和平交渉に応じないとなれば、
こちらとしては自衛の戦闘を続けて相手を追い込んで
和平交渉に応じさせるという自衛の行動をしても
何ら、おかしくはありません。
1928年の不戦条約は米英仏の要望で自衛権は除外されていました。

日本軍以外の米英仏軍などは
蒋介石軍を追っ払おうとはしませんでした。
日本から応援の上海派遣軍が行って追っ払いました。

日本軍だけが上海租界を守ったという異常な状況でした。

相手国の正規の軍隊によるピンポンダッシュを認めるのでしょうか?

多くの民間人の犠牲者を出されたり建物を破壊されたりしているのに、
去って行く相手の正規軍を、ただ見てるだけでいいのでしょうか?
また来るかもしれませんし、現行犯が逃げているのです。

国際的に主張しても、蒋介石軍を追っ払おうとか、
追い詰めて蒋介石に賠償させようとか、
懲らしめようという雰囲気ではなく、
英米は逆に蒋介石側を応援しているわけです。

今後も無差別爆撃されようが、協定線外から砲撃されようが、
租界に侵入して来て民間人を殺戮されようが追撃しないのでしょうか?
こちらは侵略されている側であり、
こちらからの和平交渉に応じようとしていないのですから
追撃は自衛の行動です。

本来なら英米軍も日本軍と一緒に蒋介石を追い詰めて、
蒋介石と和平交渉して戦闘事後処理の停戦協定を結ぶべきなんです。
蒋介石に責任を取らせ、損害賠償させて、
蒋介石軍が入ってはいけない協定線を もっと上海から離すとか、
日本軍を増派しなくてもいいように、
蒋介石軍の規模を縮小させるなどの条約を締結すべきなのです。

日本軍の追撃を批判しておきながら、
真珠湾攻撃後のアメリカ軍の追撃&原爆投下には何も言わないというのは、
いったい、どこの国の人間なんだ?と言いたくなります。

―――――――

大東亜戦争にいたる大きな流れ【2015.4.7版】
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-684.html

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【平成26年(2014年)4月12日 19:53】

日本は鎖国して自給自足で平和に暮らしていたのですが、
アメリカに無理やり開国させられました。
日本は、ほかのアジアのように欧米列強に侵略されないように、
天皇を頂点として一致団結して欧米列強のシステムに合わせ、
体制を整えて生き抜こうとしたのが明治維新でした。
以後、日本は伝統、文化、価値観、暮らし方、習慣、考え方などが
「自由」と「合法」という形で外国からの侵略を受け続けながら、
自給自足できない世界システムに組み込まれてしまいました。

上記の「侵略」の意味は、
他国に足を踏み入れ、交流すること自体が
侵略することになっていくという深い意味での侵略ですが、
開国後の日本は「やむを得ず」欧米が作った世界秩序に
合わせて行動するしかなかったのであり、
「そういう意味では、条約は侵略ではない」となりますし、
【いま現在でも】そういう世界です。

一般的には大東亜戦争の始まりは1937年(昭和12年)7月7日の
「盧溝橋事件」とされていますが、
まあ、その盧溝橋事件も中国側から攻撃してきたのですが、
それまでも中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(宋哲元29軍)との軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えて差し支えありません。
また、盧溝橋事件があったからといって、
上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。
蒋介石軍3万人が1932年の上海休戦協定の協定線を超えて上海共同租界に侵入
してくることは協定違反ですし、上海共同租界は日本ではありません。
上海共同租界の行政機関「工部局」(イギリス人が圧倒的な権力を握る組織)
に対して日本は日本租界の設置を要請しても英米は認めませんでした。
日本人が比較的、多く集まっていた虹口(ホンキュー)地区は通称「日本租界」
と呼ばれてはいましたが日本軍の軍事基地だったわけではありません。

大東亜戦争の始まりは1937年(昭和12年)8月13日~の第二次上海事変です。

◆【1937年8月13日~ 大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)】
蒋介石軍3万人が上海国際共同租界の日本人居留区のみを包囲、攻撃してきて
始まった第二次上海事変が支那事変(日中戦争)の始まりであり、
その蒋介石軍に武器や資金の支援を続けていたのが
アメリカを筆頭とする欧米で、日本に対しては経済制裁をし、
蒋介石は日本からの和平提案を拒否し続けていました。
それが日米戦争(太平洋戦争)へとつながりました。
それらを総称したものが「大東亜戦争」だといえます。
攻撃されたから応戦、反撃したまでで、
攻撃されなかったならば「アジア開放のため」という理由だけで
日本から米英に戦争を仕掛けるはずはありませんでした。
1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された
大東亜共同宣言で日本はアジア諸国の独立を承認していますので、
国際法上はアジアを解放したといえますし、同共同宣言において、
それを成すための戦争継続が明記されていますので、
アジア解放戦争で間違いありませんが、
日本からすればアジア開放が第一の目的ではなく、
第二次上海事変や援蒋、対日経済制裁という原因あっての大東亜戦争であり、
第一の目的は自存自衛であって、アジア解放はいわばその手段とも言えます。
(アジア開放で自由貿易できるようにして資源確保で生き延びるという事)
【大東亜戦争 開戦の詔勅】
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-636.html
戦争遂行のために敵地から物資を頂戴することは禁止されておらず、
敵・白人列強の持ち物である東アジアを奪取したのですが、
日本はそこを植民地にはせず大東亜共同宣言で独立を承認しました。

※蒋介石軍、あるいは、それに追随した英米と戦わなければ、
国際法に則った日本の権利や、現地邦人の命が危ぶまれる事態でした。
国民の生命と財産を守るのは国家の義務です。
宣戦布告後、敵の物資奪取(植民地奪取)は包囲網という事実がある以上、
ハーグ陸戦条約 第2款 第1章 第23条「禁止事項」
「7.戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。」
には違反しておらず、国際法違反ではありません。

◆【1939年9月1日~ 第二次(欧州)大戦】
ドイツがポーランドに侵攻して始まりました。

◆【1941年12月8日~ 太平洋戦争=日米戦争(日米の直接戦争)】
日本が米国・ハワイの真珠湾を攻撃し、米国との直接戦争が始まりました。

━─━─━隠蔽が続く大東亜戦争の発端━―━―━─━─━─━─━

中国における日本租界は、
1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約(下関条約)や、
1896年7月21日の日清通商航海条約により設置されていました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
1901年9月7日の北京議定書(条約)により欧米列強の軍隊とともに
自国民の保護の為に日本軍も中国に駐留していました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-98.html
日本は欧米と同じように条約によって中国に租界を設置し、
日本は欧米と同じように条約によって中国に軍隊が駐留していました。

―――――――――――――――――

日本にも1863年6月から英仏両国が英仏居留民の保護、居留地の防衛を名目に
イギリス軍、フランス軍が横浜に駐留していました。

1863年4月8日、英仏両国は横浜に英仏軍を駐留させることを
江戸幕府に通告し、幕府はこれを受け入れざるを得ず、
同年5月18日、英仏は幕府と正式な文書を交わし、
翌6月より山手に両軍隊の駐屯が開始され、
その兵舎などの設営・補修などの経費は、
江戸幕府および明治政府の「思いやり予算」とされました。

明治政府成立後、外国軍隊の駐屯は日本の国家主権を侵すものとして
撤退を要求し、1871年にイギリス軍が駐屯軍の大幅削減に応じ、
1875年(明治8年)3月2日に両軍の全面撤退が完了しました。

日本は条約で駐留していた外国軍隊を武力で排除したのではなく、
外交交渉で条約によって外国軍隊の撤退を実現したのでした。

―――――――――――――――――

大東亜戦争は日本から始めた戦争ではありません。

1936年(昭和11年)12月12日、西安事件。

もともと蒋介石は日本に留学経験もあり対日戦には消極的で
共産軍を攻撃していました。
蒋介石は陝西省の延安に追い詰めた壊滅寸前の共産軍に総攻撃をかけるため、
彼の部下である張学良(東北軍)を陝西省の省都・西安に送り込んだのですが、
張学良は共産軍との戦いに消極的であったため、
あとから蒋介石も西安に督戦(監視)に行ったのですが、
すでに共産党に寝返っていた張学良に捕らえられ
共産軍の捕虜となってしまいました。
蒋介石は助命の代わりに共産党掃討をやめ、
一緒に日本と戦う事を約束して第二次国共合作が成立し、
絶滅寸前だった支那共産党は生き返りました。

これにより1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が
1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海国際共同租界の日本人居留区域のみを包囲。
(軍事基地ではなく民間人居留区を包囲してきたテロ行為であったし、
上海には英米仏などの租界もあったのに日本人居留区のみを標的にしてきた)

日本領事は1932年の上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが、
反日・親蒋介石で固まっていた欧米列国は
全く取り上げようとはしませんでした。

翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し、
突如、機関銃による射撃を開始して第二次上海事変が始まりました。
(このとき蒋介石は日本に宣戦布告していない。)

日本海軍陸戦隊は、「最新の兵器を持つ蒋介石軍」に対して奮戦しました。
八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退。
日本人居留民はどんどん引き揚げましたが、
通州事件が再現されるかもしれないとの恐れから、
残っている一人一人の邦人に警備がつけられ、
汽船やブロードウエイマンションに避難しました。
それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の炊き出しに従事し、
残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作りました。

※1928年の不戦条約は米英仏の要望で自衛権は除外されていました。

英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、
日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。
それまでは日本軍も欧米軍と一緒に上海の警備を地区ごとに
役割分担していたのに、
http://blog-imgs-59.fc2.com/s/e/i/seitousikan/2014011208074981d.jpg
上海租界 英米日仏伊軍 警備分担地区
以後は日本軍を除く英米仏軍などが上海の租界における
治安維持を担当するという理不尽な提案を行ないました。
本来ならば1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入して攻撃してきた
蒋介石軍に対して、日英米仏軍が一致して対処するのが本筋でした。

この第二次上海事変が支那事変の始まりであり、大東亜戦争の始まりでした。

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蒋介石は日本に言いたいことがあるのなら、まずは口頭や文書で話し合いを
持ちかければ良かったのであり、いきなり民間人地区を攻撃してきた行為は
テロ以外の何ものでもありませんでした。
このようなテロ行為集団の蒋介石軍に対してアメリカを筆頭とする欧米は
武器支援、資金支援をし続けたので、
日本が蒋介石に対して戦闘をやめる提案を何度も何度も打診していたのに、
蒋介石は応じようとはしませんでした。
アメリカが蒋介石に武器を輸送する援蒋ルート遮断のための
日本軍による仏印進駐も条約によって合法的に行なわれました。
それに対してアメリカなどは日本に経済制裁をしてきたのです。
日本は開国後、一貫して「条約」によって行動するという
欧米が作った世界秩序を守って行動していました。
日本は欧米と同じように条約によって日本人は中国にいたし、
条約によって中国に軍隊が駐留していたのです。
日本は何も悪いことはしていなかったのに攻撃され、経済制裁されました。

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白人は中国と条約を結んで租界を設置していました。
日本も中国と条約を結んで租界を設置していました。

白人は中国と条約を結んで
自国民保護のために軍隊を中国に駐留させていました。

日本も中国と条約を結んで
自国民保護のために軍隊を中国に駐留させていました。

上海国際共同租界にはアメリカ租界やイギリス租界、
日本人が多く住む虹口(ホンキュウー)地区(通称:日本租界)などがあり、
南西に隣接してフランス租界もありました。

蒋介石軍は日本租界のみを攻撃してきたのです。
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「条約」が侵略だというのなら、
たとえば日米安全保障条約は侵略なのでしょうか?
日米安全保障条約で日本の領土にアメリカ軍は駐留していますが、
日本の領土なので自衛隊はアメリカ軍を攻撃していいのでしょうか?
条約というものは、いつも対等、公正に結ばれるとは限らないのです。

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日本本土で援軍(上海派遣軍)が編成され、上海へ向かいました。
(同年11月5日、第10軍[増援軍 柳川兵団]が編成され上海南西の杭州湾に上陸)

蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げました。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げました。

日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。

ちなみに、侵略者を追っ払っただけなら自衛だけど、
追撃したから自衛じゃないとか言う人がいますが、
追撃しようがしまいが自衛であることに揺らぎはありません。
攻撃されて正当防衛したら、犯人が逃げて、
「追わなければ自衛で、追ったら自衛じゃない」とはなりません。
追わなければ賠償させることはできません。



これが支那事変です。
支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ第二次上海事変であれ、
どちらにしても中国側から攻撃して来たのです。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-120.html
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html
日本は何度も何度も和平交渉を申し込んでいました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html

アメリカなどは中国の蒋介石(国民党)重慶政府に武器を提供し続け、
資金も提供し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平交渉の提案を何度も拒否して
戦争をやめようとしなかったので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐しました。
―――――――
1940年8月30日の『松岡-アンリ協定』により北部仏印進駐。
1941年7月23日の『日・仏印共同防衛協定』により南部仏印進駐。
―――――――
するとアメリカが日本への石油禁輸をしました。

1941年8月8日、日本側から日米首脳会談を提案しましたがアメリカは無視。

8月18日、豊田外相がグルー駐日米大使に首脳会談への協力を
要請しましたが無視され、

9月6日、近衛首相、グルー駐日大使を通じて、
日米首脳会談の実現を再度依頼しましたがアメリカ政府は無視。

9月30日、豊田外相がクレーギー英駐日大使に日米首脳会談への
協力を要請し、クレーギー大使はイギリス本国政府に重大性を
進言しましたが英国政府は無視。

日米開戦直前、石油の補給は極めて困難であり、
石油消費量は毎年、軍需民需合わせて550万トンになりますが、
それは1943年(昭和18年)度までは何とかなるものの、
それ以後は南方石油に頼る他ありませんでした。

11月開戦ならば30ヵ月、3月ならば21ヵ月で、
我が国の備蓄石油はゼロになる計算でした。
海軍は毎時400トンの油を消費しており、
石油貯蔵量からして、戦機はすでに秒読みの段階に入っていました。

1941年(昭和16年)11月1日午前から政府・統帥部連絡会議が開かれ、
延々17時間におよぶ白熱の討議が行なわれました。
統帥部側は外交交渉の期限を11月30日としたところ、東條首相は、
「12月1日にはならないか。1日でも長く外交をやることはできぬか。」
と切言しましたが、塚田参謀次長は東條の懇望を拒否し、
結局、外交交渉は11月30日夜12時までとされました。
連絡会議は2日の早暁にまでおよび「帝国国策遂行要綱」を決定。
東條首相は会議の経過と結論を涙を流しつつ委曲内奏しました。
聞き終えられた陛下は、「事態が謂う如くであれば作戦準備もやむを得なか
ろうが、なんとか極力、日米交渉打開を計ってもらいたい」と沈痛な面持ち
で御憂慮の言葉を述べられました。(『大東亜戦争への道』中村粲著より)

11月21日、米国に三国同盟死文化を申し入れました。

11月26日、アメリカがハルノートを提示。

石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
ABCD包囲網【米(America)英(Britain)中(China)オランダ(蘭Dutch)】
の一国であるオランダが支配する蘭印の石油を
日本は武力で確保する決断をしました。

その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したので自衛戦争でした。

アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、日本は攻撃されているから反撃したのです。

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1938年(昭和13年)10月26日の武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)陥落後は、
米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となりました。

汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けましたが11月10日、帰らぬ人となりました。
翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。

戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため、
ソ連が支援する毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げました。

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【短縮版】隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-633.html

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以下、BIGLOBE百科事典 『第二次上海事変』 「評価と解説」 より
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/5c/26/66/cf06df30037976dc9335437cfe89006b.htm

東中野修道は、日中戦争は日本が土足で侵略したのでなく、
第二次上海事変で中国が先に日本人居住の租界地を襲撃した事で
全面戦争となった事についてあまり知られていない事を批判し、
また、日本人租界区を警護した少数の日本兵が
その何十倍もの中国軍に襲撃される事を
『横須賀の米軍が過激派に襲われたら反撃する』と解説。

自衛隊の元航空幕僚長・田母神俊雄は演説のなかで
この事件を触れていない風潮を批判しており、
蒋介石軍の攻撃を『米軍基地に自衛隊が攻撃を仕掛け、
アメリカ兵及びその家族などを暴行、惨殺するようもの』と述べている。

以下、BIGLOBE百科事典 『第二次上海事変』 「補足」 より
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/5c/26/66/cf06df30037976dc9335437cfe89006b.htm#.E8.A3.9C.E8.B6.B3

2010年放送の番組
『池上彰の戦争を考えるSP~戦争はなぜ始まり、どう終わるのか~』
のなかでナレーターが
「盧溝橋の銃声に始まった日中戦争の戦火は拡大。
短期決戦と見ていた日本は早々に上海を攻撃。
そして、国民党政府の首都南京を攻略した。」
と説明していたが、中国側から攻撃してきた盧溝橋事件はボカし、
第二次上海事変は、まったく逆、ウソを放送していた!

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【あくまで盧溝橋事件が支那事変の発端だという方へ】

たしかに、1937年(昭和12年)9月2日の近衛内閣の閣議で
―――――――
『事変呼称ニ関スル件 今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト呼称ス 理由』
今回ノ事変ハ北支蘆溝橋附近ニ於ケル日支兵衝突ニ端ヲ発シタルモノナルモ
今ヤ支那全体ニ及ブ事変ト化シタルヲ以テ其ノ呼称モ名実相伴フ如クシ
国民ノ意思ヲ統一スルノ必要アルニ依ル
―――――――
とされ、「支那事変」の呼称と「支那事変は蘆溝橋事件が発端である」
ことが閣議決定され、

1941年(昭和16年)12月12日の東條内閣の閣議で
―――――――
今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ
支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス
―――――――
と閣議決定されているので「大東亜戦争」が正式な名称であり、

1942年(昭和17年)2月17日には「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」に
改める法律第9号の閣議決定が行われていますので、

法的には大東亜戦争の発端は蘆溝橋事件となるわけですが、

戦争の原因を考察すれば、
蘆溝橋事件は単なる地方軍閥との軍事衝突事件であり、
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の『松井-秦徳純・停戦協定』で
終了していますので、
停戦済の軍事衝突事件は蒋介石・中央政府軍が上海を侵略し、
無差別空爆する理由にはなりませんし法的根拠はありません。

たとえ盧溝橋事変が発端だと解釈するにしても、
蘆溝橋事件も第二次上海事変も、どちらにしても支那軍からの攻撃であり、
それに対して日本軍は応戦・反撃していただけです。

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1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変。

日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)』
によって得られた正当なものでした。

満州内で日本人や日本の関係施設などが、
さまざまなテロ攻撃を受けていました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html

しかも、その武装盗賊テロ集団に武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。

しかし日本政府は何ら有効な対策を打とうとせず、
「嫌なら帰って来ればいい」という態度だったのです。

そこで準備万端で一気にやり返すため、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
日本軍(関東軍)が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)して、
警察行動である満州事変が勃発しました。

5ヵ月後の1932年2月上旬にはテロ集団を満州から追放する事に成功し、
満州の治安は回復しました。

他の列強国が閉鎖的なブロック経済を構築していくなか、
日本は生きていくための日本独自の経済圏をめざしていたこともあり、
そもそも1911年の辛亥革命で支那満州は別になったはずでしたので、
1932年3月1日、日本がバックアップして清の宣統帝溥儀が満州国建国を
宣言し、支那に侵略されていた満州を満州族が取り戻しました。

その後も満州-支那の国境付近で張学良軍や中国国民党軍が
テロ攻撃してくるので、それらを排除する作戦などを行ない、
1933年2月初旬、熱河作戦。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-466.html
1933年5月3日~25日、関内作戦。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-467.html

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変は終結しました。

■テロ攻撃■アメリカが支援
・「満州の張学良率いる武装盗賊テロ軍閥」
・「中国国民党が推進していた苛烈な抗日テロ運動」

■ロシア南下の脅威■ロシア・コミンテルンが支援
・「共産パルチザン等のテロ集団」
これらのテロ攻撃から日本の満州権益を守り、日本人居留民の安全を確保
するために、上記テロ集団を満州から追放するのが主目的でした。

■列強の経済ブロックに対処■
また、他の列強国が閉鎖的なブロック経済を構築していくなか、
日本は生きていくための日本独自の経済圏もめざしていました。

■支那の侵略からの満州族の独立運動を支援■
●1911年10月10日、辛亥革命
支那人(漢民族)たちが清王朝(満州族)を打倒して清国政府を、
その故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、中華民国を建てた。
これで支那は満州から分離独立して支那と満州は別になったはずだった。
「満洲」は民族の名満州と支那は別
●1912年1月1日、中華民国成立(支那独立)宣言。
孫文(漢民族)を初代臨時大総統とする中華民国が南京に成立。
1911年の辛亥革命で漢民族(支那人)たちが清王朝(満州族)を打倒し、
清国政府をその故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、翌1912年1月1日、中華民国を
建てたので支那と満州は別になったはずだったが、中華民国は清朝の支配地域
を全て継承したいがため、漢民族とチベット民族、ウィグル民族、
蒙古(モンゴル)民族、満州民族は、つまり「中華民族」であるという
新たな民族概念を創出し、漢民族だけでなく「中華民族」の土地は
すべて中華民国(支那)の土地だと主張するにいたり、チベット、ウイグル、
蒙古(モンゴル)、満州が独立するのを認めなかった。
日本は満州に権益があったこともあり、親日の満州族やモンゴル族を支援し、
治安を良くして発展することに尽力した。
★「支那」呼称について★満洲★清★辛亥革命~第一次国共合作
清朝(満州族)は北洋軍閥を率いる袁世凱に反乱軍(辛亥革命)の鎮圧を
命じたのだが、袁世凱は反乱軍(革命派)側と極秘に連絡を交わし、
事態収拾のため「中華民国」を建てて革命派の孫文を臨時大総統にする事を
清朝に進言する代わりに、すぐに自分を大統領にする事を孫文に求め、
自分が大統領に就任したら、清朝の皇帝・宣統帝を退位させ、
共和制に移行する事も孫文と約束していたので、
約束どおり孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。
1912年2月12日、袁世凱は最後の皇帝・宣統帝を退位させ清朝は滅亡、
しかし袁世凱は孫文と対立し、革命派を弾圧して独裁体制を取るようになり、
革命は名ばかりとなった。

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【満州の歴史】
●1616年、女真族が「後金」王朝を建てる。
●1636年、「後金」が朝鮮を征服。国号を清(清国、清朝)と称し、
民族名を「女真族」から「満洲族」に改める。
●1644年、清国(満洲族)は万里の長城を越えて「明」を倒して領土を拡大。

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満州地域における日本人や日本関係施設の被害
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html
満州善後条約
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-672.html
満州事変 関連議論
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-675.html
清室優待条件(協定)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-647.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
日露戦争後の「アメリカの反日政策」と「日本の歩み」年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-510.html
関東軍1万人で張学良軍30万人らを満州から追放した。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-112.html
『満州事変』についての反応
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-113.html
東京裁判 弁護側資料 満州関連
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-422.html
「リットン報告書」について~『 アメリカの鏡・日本 』より抜粋
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-115.html
『リットン報告書』は日本の正当性を裏付ける内容だった!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-116.html
満州事変前~満州事変~支那事変まで
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-465.html
義和団の乱
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-98.html
1900年(明治33年)、ロシアが『義和団の乱』に乗じて満洲を占領。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-408.html
満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-291.html
満洲事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-334.html
『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-387.html
門戸解放宣言(通牒)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-200.html
もう一つのアメリカ合衆国 『満州』
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-22.html
不戦条約と自衛権
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-287.html
大東亜戦争までの内閣
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-524.html
日米開戦前 日本の和平努力
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-285.html
ハル・ノートに対する日本の回答入電「これは戦争を意味する」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-311.html

満州事変については、正統史観年表(トップページ)の
1931年9月18日『満洲事変』の前後をご覧下さい。

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★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明

大東亜戦争は支那事変(日中戦争)から始まった!

日本は中国大陸でも戦争していたので、
アメリカ視点の「太平洋戦争」という表現自体、おかしいと思いますが、
日本は1937年から中国と戦争中でした。
しかも日中戦争は中国から日本に攻撃して来て始まりました。

その、日本が戦争してる相手の中国にアメリカが軍事資金や武器を
援助し続けていたので、
中国が、いつまで経っても戦争をやめようとしないので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐しました。

するとアメリカが日本への石油禁輸をしたので、
石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をしました。

その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したのです。

アメリカは日本に、
「仏印から撤退しろ!、中国、満州から撤退しろ!」
と言っていましたが、
日本軍の仏印駐留も、中国の日本租界も日本租界を守る日本軍も、
満州の権益も、すべて「条約」による正当なものでした。

日本以外の欧米列強の国々も中国に条約で租界を設置し、
欧米列強の軍隊も条約で中国に駐留していました。

日中戦争は中国から日本に攻撃してきたものであり、
不戦条約が認めていた「自衛権」の発動でした。

日本から見れば、「先の大戦」といえば大東亜戦争です。
大東亜戦争は日中戦争から始まり、
その日中戦争にアメリカが間接的に参戦していた格好です。

米英蘭などは自分たちから日本に間接的に中国軍を使って代理戦争を
仕掛けていたようなものなのに、日本は交渉しながら、
英米蘭を直接は攻撃せずに、
中国への支援ルートの遮断を「条約」で行ない、
英米蘭との戦争を回避しつつ日中戦争の早期終結を模索していました。

村山談話では「日本がアジアを侵略した」となっていますが、
日本は、「アジアを植民地にしていた白人」と戦ったのです。

あのような漠然とした談話は卑劣です。
どこまで白人に服従するのが好きなのでしょうか?
なぜ白人を擁護したいのでしょう?

白人は中国大陸から日本と一緒に自分たちも撤退するという事ではなく、
日本にだけ、中国大陸から撤退しろと言っていたのです。

アメリカ様の命令なら、どんな理不尽な事であっても従えというのは、
ただ単に「強い者に従え!」という独裁者の理論と、
それに服従する奴隷根性であり、そこには何の正当性もありません。

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支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
盧溝橋事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-120.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
第二次上海事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html
「支那」呼称について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-21.html

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もっともっとコンパクトに説明!

大東亜戦争は支那事変(日中戦争)から始まり、
その支那事変は中国から攻撃してきたものであり、
その中国に武器支援していたのがアメリカであり、
その武器支援ルートの遮断のために、
アメリカを直接、攻撃するのではなく、
仏印と平和的に話し合い、
日本軍は仏印に進駐して武器輸送ルートを遮断しました。

するとアメリカが日本への石油禁輸をしてきたので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
先手を打って真珠湾を攻撃したものなので自衛戦争でした。

アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、攻撃されているから反撃したのです。

「真珠湾攻撃で戦争が始まった」
と勘違いさせるために「太平洋戦争」という言葉が作られました。

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日本は全滅しませんでした。
そしてまた独立できました。
念願の自由貿易ができるようになって繁栄しました。

結果としてアジアの国々も独立できました。(特定国を含む)
白人はアジアの植民地を失いました。

戦後、アメリカは蒋介石への支援をやめたので蒋介石は台湾へ逃げ、
ソ連が支援する毛沢東が勝ち、中国は共産化しました。

アメリカは日本との戦争でアメリカ兵16万人が戦死し、
中国や満州の権益を得ることはできませんでした。

戦後、日本への石油禁輸は解除し、沖縄を返還しました。

日本の代わりにアメリカが防共をしてきました。

アメリカは、いったい何がしたかったのでしょう?

日本という国が無かったら今ごろ中国や韓国は、どうなっていたでしょう?

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『大東亜戦争にいたる大まかな流れ』いろいろな説明の試み
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-531.html

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『大東亜戦争にいたる流れ 2012年3月6日バージョン』

【まず、朝鮮併合について】

日本は朝鮮を清朝から独立させ、二国間での取り決めで
ロシア南下などの白人列強によるアジア掌握に対抗しようとしたのですが、
清朝が朝鮮を手放さず日清戦争が勃発。

日本が勝ったので朝鮮は形の上では独立したのですが、
朝鮮国王はロシア公使館に亡命してロシアの傀儡国家になりました。

日本はロシア南下等に対抗しようとして日清戦争したのに
清属国から今度は露属国になったので日韓併合論が起こりました。

日韓併合反対頭目の伊藤博文が韓国人に暗殺されたことや、
日本が義和団事件の功績でイギリスと同盟を組み、ロシアをも倒したことで
朝鮮の政治家等が親露反日から知日に変わり、
韓国側から日本に日韓併合を打診してきました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-101.html

【日清戦争】

朝鮮は昔から国内の政争に外国の軍隊の力を借りて対処してきました。

朝鮮は、ずっと中国の属国で、
中国は、いつも朝鮮に武力介入していました。

1894年、朝鮮の「東学党の乱」鎮圧のため清国軍が出動。
日本と清で甲申政変の事後処理の天津条約どおり、
清は日本に出兵を事前通知しましたが、
そこには「属国を保護するために出兵」と書かれていました。
日本は朝鮮が清国の属国である事は認められないため、
朝鮮に兵を送って戦争となりました。

両国の宣戦布告文
◆日本
朝鮮はわが国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに
清は常に朝鮮を自分の属国といって内政に干渉し続けている。
◆清国
朝鮮はわが大清国の藩属たる事2百年、毎年朝貢している国である。

結果、日本が勝ち、日清戦争の戦後処理の下関条約で
朝鮮は中国の属国ではなくなりました。

■下関条約 第一条
清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国である事を確認し
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は
永遠に廃止する。

【日露戦争】

しかし朝鮮は次にロシアの力で国内を治めようとして
朝鮮内にロシア軍基地を作り始めました。

シベリア鉄道が完成してロシアの強大な軍隊が来て
太刀打ちできなくなる前に、
日本は先手を打ってロシアに戦争を仕掛けて勝ちました。

日露戦争の戦後処理の講和(平和)条約の『ポーツマス条約』により、
ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南部)の租借権と、
長春~旅順間の南満州鉄道と鉄道沿線の両側15km(鉄道付属地)と、
その範囲内にある炭坑などを日本に譲渡しました。
南満州鉄道と沿線付属地域の警備を
満州の左隣の関東州の日本軍が担当しました。

1905年(明治38年)12月22日、満州善後条約により、
日本の満州権益を清国が了承。

その後、朝鮮は自力で近代化したり国防できる見込みはなかったので、
日本になって日本の国力で近代化する道を選び、
1910年に日韓併合条約を結び、朝鮮半島は日本となりました。
以後、35年間で日本本土の税金65兆円を朝鮮半島に投入して
朝鮮半島は近代化していきました。

日本と朝鮮は戦争しておらず、
条約によって朝鮮半島は日本になりました。

韓国は、日本が武力を背景にしていたから日韓併合条約は無効であり、
侵略だと主張していますが、武力を背景にしていない国はありません。
条約というものは、いつも対等に結ばれるとは限りません。

【1914年(大正3年)、第一次大戦】

1914年(大正3年)6月28日、ボスニアの首都サラエボで
オーストリア皇太子夫妻がセルビアの一青年に暗殺されました。

7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦。

8月1日、ドイツがロシアに宣戦。

続いてフランス・イギリスも対独参戦。

このようにして第一次世界大戦は勃発したのですが、
第一次大戦は、ひと言で言えばヨーロッパ白人たちの
世界植民地の奪い合いの末の、分け前をめぐる内輪もめでした。

膨大な収奪をしまくった先発組の
イギリス、フランス、ロシア(三国協商軍、連合国)
と、
まだ収奪し始めたばかりの後発組の
ドイツ、オーストリア、イタリア(同盟国)などの醜い争いでした。

8月初旬、イギリスが日英同盟に基づいて
日本に対独参戦の要請をしてきたので応諾し、日本はドイツに宣戦布告。

日本軍は支那大陸の山東半島のドイツ租借地の膠州湾、青島、
膠済(膠州~済南)鉄道全線を占領し、太平洋の赤道以北の
ドイツ領南洋諸島(カロリン諸島、マーシャル諸島、マリアナ諸島)を
占領しました。

欧州でドイツに劣勢だったイギリスは日英同盟を根拠に、
さらに日本軍の欧州への派兵も要請してきました。
三国協商側のフランスやロシア、さらにはベルギー、セルビアまでもが
日本に欧州派兵を要請してきました。

イギリスは日本軍の燃料、軍需品などの欧州派兵費用はイギリスが負担し、
船体の損失もイギリスが補償するという条件まで出し、
日本の欧洲出兵は戦勝後の列国間商議で
日本が有力な発言権を持つことになるという展望も説明するなど、
特にイギリスは積極的に日本の欧州派兵を要求していました。

しかし日英同盟の範囲はインドまでだったことと、
日本は欧州にまで派兵して参戦する理由はありませんし、
日本軍は日本を守るための組織作りがなされており、
遠くに派遣する余力はなく、
日本軍の欧洲派遣は日本の国防や極東の安全保障を危うくする
などの理由を挙げて、欧州派兵の要請を拒否し続けていました。

ところがドイツの潜水艦が無差別攻撃を開始し、
日本の欧州航路客船も危機にさらされるようになりました。

そこで日本は欧州派兵して勝利後は、山東省や南洋諸島のドイツ権益を
日本が引き継ぐことをイギリスが戦後処理の講和会議のなかで支持する
という確約を得たのち、
巡洋艦1隻、駆逐艦8隻から成る一水雷戦隊を地中海方面へ派遣しました。

ただし、日本は地中海に海軍は派遣しましたが、
最後まで陸軍の欧州派遣は行ないませんでした。

戦後、
1919年1月18日~の第一次大戦の講和(平和)会議であるパリ講和会議の
なかの戦後処理条約のベルサイユ条約(6月28日)で、
山東省のドイツ権益を日本が受け継ぎ、
ドイツ領の南洋諸島は日本の委任統治領となることが認められました。

【第一次欧州大戦に本格的に参戦して株を上げたアメリカ】

アメリカは第一次欧州大戦を良好な米英関係を構築する好機ととらえ、
141隻もの軍艦を派遣し、陸軍をヨーロッパ戦線に送り、
多くの戦死者を出しながらも三国協商側(連合軍)を勝利に導きました。

アメリカは、この貢献によりヨーロッパの戦勝国に恩を売り、
戦後、ヨーロッパに対しての発言権を大きく増しました。
イギリスやフランスはアメリカに頭が上がらなくなり、
アメリカは超大国となっていきました。

【日本も本格的に参戦していれば・・・】

第一次世界大戦もシベリア出兵も日本はイギリスに頼まれて、
しぶしぶ兵を出しましたが、欧州にも陸軍を出して本格的に参戦して
貢献していれば、戦後の日本の地位は、もっと上がり、
その後の日英同盟の破棄はなかったかもしれませんし、
大東亜戦争も起こらなかったかもしれません。

【1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変】

満州内で日本人や日本の関係施設などが、
さまざまなテロ攻撃を受けていました。

そこで準備万端で一気にやり返すため、
奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
日本軍(関東軍)が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)して、
警察行動である満州事変が勃発しました。

■テロ攻撃■アメリカが支援する
・「満州の張学良率いる武装盗賊テロ軍閥」
・「中国国民党が推進していた苛烈な抗日テロ運動」

■ロシア南下の脅威■ロシア・コミンテルンが支援する
・「共産パルチザン等のテロ集団」

これらのテロ攻撃から日本の満州権益を守り、日本人居留民の安全を確保
するために、上記テロ集団を満州から追放するのが主目的でした。

■列強の経済ブロックに対処■
また、他の列強国が閉鎖的なブロック経済を構築していくなか、
日本は生きていくための日本独自の経済圏もめざしていました。

■支那の侵略からの満州族の独立運動を支援■
1911年の辛亥革命で漢民族(支那人)たちが清王朝(満州族)を打倒し、
清国政府をその故郷である満州に追い返し、
長年にわたる満州族の支配からの民族独立(三民主義の一つ)を
めざして戦い、翌1912年1月1日、中華民国を建てたので
支那と満州は別になったはずでしたが、
中華民国は清朝の支配地域を全て継承したいがため、
漢民族とチベット民族、ウィグル民族、蒙古(モンゴル)民族、
満州民族は、つまり「中華民族」であるという新たな民族概念を創出し、
漢民族だけでなく「中華民族」の土地は
すべて中華民国(支那)の土地だと主張するにいたり、
チベット、ウイグル、蒙古(モンゴル)、
満州などが独立するのを認めませんでした。

日本は満州に権益があったこともあり、
親日の満州族やモンゴル族を支援し、
治安を良くして発展することに尽力しました。
満州族が支那の侵略(中華民国)から独立(1932年)する事にも貢献できました。

【1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件。8月13日、第二次上海事変。】

1840年の英清アヘン戦争後、英国を始めとする欧米列強国が
中国内に条約で租界(外国人居留地)を設置し始めました。
日本は1894年の日清戦争後、やはり条約で租界を設置。

上海はアヘン戦争後にイギリスが租借し、
その後、アメリカ、フランスなどと国際共同租界となり、
工部局が運営をしていましたが、日清戦争後、
その工部局に日本も参加して運営し、
共同行政権と、それに伴う自衛権を得て、
日本は上海の虹口(ホンキュー)地区を担当していました。

1900年の北清事変で多くの外国人が殺害されたので、
日本を含む欧米列強の軍隊が出動して鎮圧し、
戦後処理の北京議定書(条約)に基づき、
日本を含む欧米列強11ヵ国の軍隊が
自国民保護のために中国に駐留する事となりました。

支那事変(日中戦争)の始まりが盧溝橋事件(1937年7月7日)であれ、
第二次上海事変(1937年8月13日)であれ、どっちにしても、
中国側から日本に攻撃して来て始まったのです。

1928年の不戦条約は米英仏の要望で自衛権は除外されていました。

■1937年7月7日、盧溝橋事件。

1937年7月7日、夜10時40分頃、
北京(北平)西南方向12kmの盧溝橋北側の永定河左岸荒蕪地にて
演習を終えた支那駐屯歩兵第1聯隊第3大隊第8中隊に対して、
突如、数発の銃弾が発射されました。

日本軍は約7時間、一発の反撃もせずに
軍使を派遣したり、調査をしていましたが、
中国側の攻撃が止まないので、とうとう堪忍袋の緒が切れて反撃を開始し、
中国国民革命軍第29軍との間で戦闘になりました。

その後、停戦協定を結んでも
中国は協定を破って攻撃して来るので日本軍は応戦していました。

■1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変。

1936年(昭和11年)12月12日、西安事件。

もともと蒋介石は日本に留学経験もあり対日戦には消極的で
共産軍を攻撃していました。
蒋介石は陝西省の延安に追い詰めた壊滅寸前の共産軍に総攻撃をかけるため、
彼の部下である張学良(東北軍)を陝西省の省都・西安に送り込んだのですが、
張学良は共産軍との戦いに消極的であったため、
あとから蒋介石も西安に督戦(監視)に行ったのですが、
すでに共産党に寝返っていた張学良に捕らえられ
共産軍の捕虜となってしまいました。

蒋介石は助命の代わりに共産党掃討をやめ、
一緒に日本と戦う事を約束して第二次国共合作が成立し、
絶滅寸前だった支那共産党は生き返りました。

これにより1937年8月12日未明、蒋介石軍が1932年の上海休戦協定に違反して
協定線内に進入し、上海国際共同租界の日本人居留区域だけを包囲。
翌13日、午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して
日本海軍陸戦隊との間で戦闘状態となり、
日本本土から上海派遣軍を編成して上海へ応援に向かいました。

蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げました。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げたので日本軍は重慶爆撃を行ないました。

これが支那事変です。
支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ第二次上海事変であれ、
どちらにしても中国側から攻撃して来たのです。

その、日本が戦争してる相手の中国にアメリカが軍事資金や武器を
援助し続けていたので、
中国が、いつまで経っても戦争をやめようとしないので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐しました。

するとアメリカが日本への石油禁輸をしたので、
石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をしました。

その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したので自衛戦争でした。

アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、日本は攻撃されているから反撃したのです。

このように大東亜戦争は支那事変(日中戦争)から始まったのですが、
「真珠湾攻撃で戦争が始まった」と勘違いさせるために
「太平洋戦争」という言葉が作られました。

1938年(昭和13年)10月26日の武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)陥落後は、
米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となりました。

汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けましたが11月10日、帰らぬ人となりました。
翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。

戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため、
ソ連が支援する毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げました。

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ほかのアジアのように欧米列強に日本が侵略されないように、
天皇を頂点として一致団結して欧米列強のシステムに合わせて
体制を整えて生き抜こうとしたのが明治維新です。

明治維新は「日本の独立維持のため」でありましたし、
日清戦争は、中国が欧米列強の植民地化していくなか、
朝鮮半島が中国の属国状態から抜け出して独立、近代化し、
ロシア南下侵略に対抗して日本の盾となってほしかったのであり、
ところが朝鮮は今度はロシア属国となり始めたので
日露戦争でロシアを追い払い、結果として朝鮮半島は朝鮮からの要望もあり
日本となり、第1次欧州大戦ではイギリスからの参戦要請があったので、
日英同盟の維持→日本独立維持のために出兵し、
満州事変はアメリカやロシアの支援を得たテロ集団が
日本の関係施設や日本人にテロ攻撃を繰り返しているのに
日本政府が何も対策を打たなかったので軍が一気にやり返したのであるし、
支那事変(日中戦争)は蒋介石軍が上海国際共同租界の日本人居留区のみを
攻撃してきたから応戦、反撃して始まったのであり、
その中国軍を武器・資金支援していたのは特にアメリカだったので、
その武器支援ルートを絶つために条約で仏印に進駐したら石油禁輸され、
いよいよ日本もアメリカの属国になる局面になったから、
蘭印の石油を武力で確保する前にアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
先手を打って真珠湾攻撃をして最後の抵抗をしたのが日米戦争で、
その結果、やはり残念ながら日本はアメリカの属国となり、
現在にいたります。

このように大東亜戦争(支那事変~日米戦争、アジア太平洋戦争)は
攻撃されたから応戦、反撃したまでで、
攻撃されなかったら「アジア開放のため」という理由で、
日本から米英に戦争を仕掛けるはずはありませんでした。
日本には、そんな余裕などありませんでした。
攻撃してきたから抵抗しました。ただ、これだけのことです。

次の「維新」があるとすれば、
それも、やはり「自存自衛で独立」できることですから、
◆潜水艦発射の核武装
◆海底のエネルギー・資源を開発して自国内で調達
◆食料自給率100%を達成
◆スパイ防止法の制定
◆できれば鎖国する
これが次の維新の主なものではないでしょうか。
グローバルは、まったく逆だと思います。

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「とにかく抵抗しなければ幸せになれる」とは限りません。

「戦争をして人命を失うくらいなら、他国の奴隷となって命を大切にしよう」
という考えは、実際には逆に、
戦争をして失う人命を遥かに超える人命を失う場合もあります。

たとえば中国によって侵略されて支配された東トルキスタンや
チベットの惨状を見ればよくわかります。

1949年に中国によって侵略された東トルキスタン
(中国は「新疆ウイグル自治区」と改称)では、
楼蘭などで中国に46回も核兵器を使用(大気圏核実験)されたため、
19万人が急死し、129万人が健康被害者となりました。

人類の歴史における核兵器使用には、アメリカによる日本への2回のほか、
中国による東トルキスタンへの46回も含めるべきです。

1951年から始まった中国によるチベット侵略の結果、
犠牲になったチベット人は120万人にものぼります。

死んだ120万人の大半のチベット人は
武器を手にとって戦って死んだのではなく、
中国人たちに虐殺されたり処刑されたりして死んだのです。

さらに、中国は、チベット人をこの世から抹殺しようとし、
チベット人男性に断種治療を行い、
女性にも不妊や堕胎のための治療(手術)を行ったり、
漢民族の子孫にするため強姦したりしました。

また、イギリスに植民地にされたアイルランドの人口は、
1841年の820万人が1911年には444万人と約半分になりました。

1939年9月に始まったドイツとポーランドの戦争で
ポーランド人が失った命は人口の0.4%にあたる約13万人でした。
ところが、1941年、ドイツとソ連の戦争が始まり、
ポーランドで独ソ両軍が死闘を繰り広げたら、
ポーランドは人口の20%が死ぬという悲劇に見舞われました。
つまり、ポーランドでは、戦争で抵抗をして死んだのは人口の0.4%でしたが、
戦争などの抵抗も出来ない状況において死んだのは人口の20%でした。

攻撃された場合、抵抗しない選択肢もあるでしょうが、
抵抗する選択肢もあるわけです。
どちらが正しいとか、間違っているとか決まっているわけではありません。
どちらも正しいといえます。

ある人が抵抗しないほうを選択するからといって、
それが絶対的に正しいと決め付け、
抵抗して殺害された人たちをバカにしていいということにはなりません。

「負けそうなら抵抗するな!」、もしくは「勝てそうなら、やってしまえ!」
という考え方は、法など関係なく、とにかく強い者に従えという
独裁者の虐殺の理論を肯定するものに近いのではないでしょうか。

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『大東亜戦争の大きな流れ』超短縮版
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-665.html
隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-633.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html

「正統史観VS自虐史観」の議論例 (mixi)
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my日本での議論【佐藤卓さん&hayekさん VS notoichiさん】
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my日本での尾辻蒼志vs鮎川龍人
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明治以降の日本は世界最高水準の自由な民主主義国家であった!
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大東亜戦争までの内閣
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先帝陛下(昭和天皇)に戦争責任はない。
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東京裁判(極東国際軍事裁判)
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盧溝橋事件
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中国の租界
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第二次上海事変
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「支那」呼称について
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日露戦争後の「アメリカの反日政策」と「日本の歩み」年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-510.html
『大東亜戦争にいたる大まかな流れ』いろいろな説明の試み
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-531.html
中学【自虐】歴史教科書に反論!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-615.html

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朝日新聞 昭和16年(1941年)12月9日

宣戦の大詔ここに渙発され、
一億国民の向かうところは蹶として定まったのである。
わが陸海の精霊はすでに勇躍して起ち、
太平洋は一瞬にして相貌を変えたのである。

帝国は日米の平和の道を求めるため、
最後まで条理を尽くして米国の反省を求めたにもかかわらず、
米国はわが公正な主張に耳をそむけ、
かえってわが軍の中国からの全面撤兵、南京政府の否認、
日独伊三国同盟の破棄というような要求を強要するのみならず、
対日包囲攻勢を強化し、わが平和達成のへの努力は水泡に帰した。
いま大詔を拝し感激に堪えないとともに
満身の血がふるえるのを抑えることができない。
一億同胞は一身一命を捧げて決死報国の大儀に殉じなければならない。

敵は豊富な物資を有し、
無法な世界をほしいままに制覇する意思を抱いている。
したがって、これを撃破し帝国の自存を確立し、
東アジアの新秩序を建設するためには、戦争はいかに長期にわたろうとも、
国民はあらゆる困難に耐えて、この天の試練を突破しなければならない。

宣戦とともに、早くも刻々として捷報を聞く。
まことに快心の極みである。
御稜威のもと儘忠報国の鐵の信念をもって戦うとき、
天佑は常に皇国を守るのである。

いまや皇国の隆替を決するの秋(とき)、
一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである。

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『侵略の定義』
「1974年12月14日 第29回 国際連合総会において決議された侵略の定義」
『国連総会決議3314・第1条』
国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する、
または国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、
この定義に述べられているものをいう。
―――――引用おわり―――――――
1974年12月14日に国連で定義されてはいるが、
過去に さかのぼって適用することはできない。

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1931満洲事変―――1933塘沽停戦協定で終結

1937支那事変(中国大陸)―――――――――――1945終結
―――1939第二次欧州大戦(欧州)―――――――1945終結
――――――1941日米直接戦争(太平洋)――――1945終結

↓↓↓

1937支那事変+1941日米戦争=大東亜戦争

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『支那事変+日米戦争=大東亜戦争』

満洲事変は1933年5月31日の
『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結していました。
4年後の1937年になって
満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

1900年「義和団の乱」で中国軍と義和団が外国人多数を虐殺したから
欧米軍と日本軍が出動して鎮圧し、それ以後、
条約で自国民保護で欧米日軍が中国に駐留していい事になりました。

満州はポーツマス条約(1905年9月5日)や満州善後条約(1905年12月22日)、
日本軍は国際法に則って条約で満州や中国に駐留していました。

日本軍だけが中国に駐留していたのではありません。
欧米11ヵ国軍が条約で合法的に中国に駐留していました。

いわゆる「日中戦争(支那事変)」というのは
1937.7.7盧溝橋事件もしくは1937.8.13~第二次上海事変から始まりますが、
実質、支那事変の始まりは第二次上海事変であり、
その支那事変が大東亜戦争の始まりでした。

蒋介石軍が1932年・上海休戦協定の協定線を越えて上海共同租界に
侵入したことも協定違反ですが、蒋介石は何の自衛でもなく宣戦布告もなく
突然、上海共同租界の日本人町を包囲して(1937.8.12)
武力攻撃してきました(1937.8.13)。
蒋介石軍による上海無差別爆撃では、
日本人だけでなく欧米人を含む約3000人もの民間人が犠牲になっています。

上海共同租界内は米英伊日軍が役割分担で警備地区を決めて警備していて、
日本軍は日本人町を含む東側の地域を警備していました。

1937年8月13日、蒋介石軍が攻撃してきたので日本軍は応戦したのです。

アメリカは蒋介石側に資金や武器を支援し、日本を批判。

本来、国際社会は国際法違反による
侵略・武力攻撃をした蒋介石軍を懲らしめなければならないはずですが、
白人は蒋介石側に資金や武器を支援しました。

米国が蒋介石に武器輸送する援蒋ルート(仏印ルート)遮断のため、
日本は仏印と話し合って条約を結び、
米中が正式政府と認めるフランス・ヴィシー政権の認可のもと、
日本軍は条約で合法的に仏印に進駐しました。
国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。
「権益地との距離が縮まったら経済制裁していい」
というのは何を根拠にしているのでしょう?

すると英米蘭は日本を批判し、日本に経済制裁を仕掛けました。
いわゆるABCD包囲網です。
石油や鉄などが入らないため、武器は作れない、艦は動かない、
飛行機は飛ばない、これでは蒋介石との戦いに敗れてしまうだけでなく、
経済活動が何もできなくなってしまいます。

なぜ日本は石油禁輸されなきゃいけないのでしょう?

アメリカは日本に対して中国から出て行けと言っていましたが、
なぜ日本だけ中国から出て行かないといけないのか意味不明です。
日本は攻撃を受けた被害側なのです。
なぜアメリカから、あれこれ言われないといけないのでしょう?
アメリカ一国で国連か何かのつもりだったのでしょうか?

蒋介石軍、あるいは、それに追随した英米と戦わなければ、
国際法に則った日本の権利や、現地邦人の命が危ぶまれます。
国民の生命と財産を守るのは国家の義務です。

包囲網という事実がある以上、宣戦布告後、戦争遂行のために
敵地から物資を入手することは禁止されていません。
↓↓↓
―――――――
ハーグ陸戦条約 第2款 第1章 第23条「禁止事項」
「7.戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。」
―――――――
ですから敵・白人列強の物資奪取(アジア植民地奪取)は
国際法違反ではありませんし侵略ではありません。

日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前に先手を打ってハワイの米国艦隊が来るのを
遅らせるために真珠湾攻撃しました。

当時、日本の周りは、ほとんどが白人の植民地であり、
日本だけは何もしなくても植民地にはならないという根拠はありません。
覇権争いは今でもあります。
日本は武力攻撃を受けている自衛側なのですから
相手が強いから戦わないというわけにはいきませんでした。

上海共同租界の日本軍駐留等の権利は
英米と同じ法律で行なっている完全合法行為です。

これに対して上海共同租界の日本人町や上海の街を
無差別爆撃をした蒋介石の行動は何の法的根拠もありません。

無論これへの自衛が違法なわけがなく、
よってこの蒋介石のテロを支援したり、
自衛した日本を制裁するのは違法であり不当となります。

支那事変は蒋介石の侵略攻撃なので抗戦しなければ負けます。
合法権利も不当に奪われます。

対して英米がテロ支那を支援する自衛的理由はありません。
日本を制裁することも何の自衛でもありません。
援蒋と不当制裁がなければ英米と戦っていませんし、
援蒋だけでも不当ですが日本は我慢して合法遮断に徹しました。

援蒋及び不当制裁されているので延ばせば延ばす程、
日本は不利な状況になり、戦わなければ資源が底を突き、
史実の初期戦勝も無理になるのです。

不当経済制裁されていたから、その国が持つ資源(植民地)を奪取、
つまり開戦したのです。
奪わなければ時間、日にちと共に
資源武器弾薬燃料が底をついて戦えなくなります。

8月に全面禁輸されて4ヶ月も我慢して平和的解決に尽力して、
もう限界だったのです。

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戦前、日本は中国に軍駐留権をもっていました。
これらの駐留は侵略ではなく、
ポーツマス条約、満州善後条約、北京議定書などの
国際法に則っての駐留なので、
日米安全保障条約によって日本に駐留している米軍のようなものです。

いわゆる「日中戦争」は、
蒋介石軍が上海租界に侵略し、日本軍を攻撃した所から始まります。

本来、国際社会は国際法違反による侵略・武力攻撃
をした蒋介石軍を弾圧しなければならないのですが、
白人は日本を批判し、経済制裁を仕掛けました。いわゆるABCD包囲網です。
石油や鉄などが入らないため、武器は作れない、艦は動かない、
飛行機は飛ばない、これでは蒋介石との戦いに敗れてしまいます。

米中が正式政府と認めるフランス・ヴィシー政権の認可の下での仏印駐留、
および宣戦布告をした後の敵の物資奪取(植民地奪取)は、
包囲網という事実がある以上、

ハーグ陸戦条約 第2款 第1章 第23条「禁止事項」
「7.戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。」
に違反していませんので国際法違反ではありません。

蒋介石軍あるいは、それに追随した英米と戦わなければ、
国際法に則った権利はおろか、現地民の命が危ぶまれる事態です。

当時、日本の周りは殆どが白人の植民地であり、
日本だけは何もしなくても植民地にはならないなどありえない話です。
覇権争いは今でもあります。国民の生命と財産を守るのは国家の義務です。

相手が強くて戦っても勝てないだろうとか、そんなことは関係ありません。
これらの駐留はすべて白人、とりわけロシア南下に抵抗しての策です。
自衛なわけです。

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1931満洲事変―――1933塘沽停戦協定で終結

1937日中戦争(中国大陸)―――――――――――1945終結
―――1939第二次欧州大戦(欧州)―――――――1945終結
――――――1941日米直接戦争(太平洋)――――1945終結
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1900年・義和団の乱で中国軍と義和団が外国人多数を虐殺したから
欧米日8ヵ国軍が出動して鎮圧し、以後、欧米軍と同じ条約で
日本軍も自国民保護のため中国に駐留していたのですが、
1937年、中国軍が日本軍のみを攻撃してきて日中戦争が始まり、
米国は中国側に資金・武器テロ支援し、日本には経済制裁しました。
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前に米国艦隊が来るのを遅らせるために
先手を打って真珠湾攻撃しました。
つまり、日中戦争+日米戦争=大東亜戦争なのです。
【「支那事変」ですが分からない人がいるので「日中戦争」と表現しました】

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★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明 http://bit.ly/1WzbZ2U
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2016/01/15 06:00|年表リンク用資料
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