正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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【支那事変(日中戦争)の発端】

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件。8月13日、第二次上海事変

1840年の英清アヘン戦争後、英国を始めとする欧米列強国が
中国内に条約で租界(外国人居留地)を設置し始めた。
日本は1894年の日清戦争後、やはり条約で租界を設置。

上海はアヘン戦争後にイギリスが租借し、
その後、アメリカ、フランスなどと国際共同租界となり、
工部局が運営をしていたが、日清戦争後、
その工部局に日本も参加して運営し、
共同行政権と、それに伴う自衛権を得て、
日本は上海の虹口(ホンキュー)地区を担当していた。

1900年の北清事変で多くの外国人が殺害されたので、
日本を含む欧米列強の軍隊が出動して鎮圧し、
戦後処理の北京議定書(条約)に基づき、
日本を含む欧米列強11ヵ国の軍隊が
自国民保護のために中国に駐留する事となった。

支那事変(日中戦争)の始まりが盧溝橋事件(1937年7月7日)であれ、
第二次上海事変(1937年8月13日)であれ、どっちにしても、
中国側から日本に攻撃して来て始まった。

1928年の不戦条約は米英仏の要望で自衛権は除外されていた。

■1937年7月7日、盧溝橋事件。

1937年7月7日、夜10時40分頃、
北京(北平)西南方向12kmの盧溝橋北側の永定河左岸荒蕪地にて
演習を終えた支那駐屯歩兵第1聯隊第3大隊第8中隊に対して、
突如、数発の銃弾が発射された。
日本軍は約7時間、一発の反撃もせずに
軍使を派遣したり、調査をしていたが、
中国側の攻撃が止まないので、とうとう堪忍袋の緒が切れて反撃を開始し、
中国国民革命軍第29軍との間で戦闘になった。

その後、停戦協定を結んでも
中国は協定を破って攻撃して来るので日本軍は応戦していた。

1937年(昭和12年)
●7月4日、日本軍が中国側に7月6日から演習を行なうことを通知。
●7月6日、日本軍が演習を開始。
●7月7日、盧溝橋事件。→中国側から攻撃してきた。
●7月9日深夜2:00、停戦協議成立。12:20撤退完了。
蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣。
●7月10日、200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃再開
●7月11日20:00、『松井-秦徳純・停戦協定』成立。
―――――
1937年7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』
1.China第29路軍の代表による謝罪と直接責任者の処罰。
2.China軍は、彼らが日本軍に銃撃してきた盧溝橋(マルコポーロ橋)から
撤退すること。そしてその代わりに、China軍と日本軍が接触しないよう
充分に隔離する意図でもって平和維持部隊を配置すること。
3.反日的な青シャツ隊と共産党の活動を抑制するための適切な処置をする事。
―――――

日本政府、北支への派兵を声明。

●7月13日、大紅門事件。
支那兵が北平(北京)大紅門で移動中の日本軍トラック2台に
手榴弾を投げ込み日本兵4人が死亡。

●7月14日、中国兵が日本の騎馬兵を惨殺。
●7月16日、事件を収拾させようとする宋哲元に対し、
蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電。

●7月19日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
●7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける。
●7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける。

たび重なる中国からの攻撃のため、日本政府は不拡大の方針を
撤回、留保していた内地三個師団の派遣を命じた。
支那があまりにも停戦協定に対して背信行為が多いので、
とうとう我慢できなくなってこの不拡大方針を撤回するのが7月の終わり、
支那に対して最後通告を出して戦闘を始めるのが7月28日だった。

7月28日、支那駐屯軍は宗哲元率いる第29軍への総攻撃を開始した。
するとそれまで日本を挑発していた中国軍はあっという間に
北京、点新築を放棄して南の方へ逃げてしまった。
日本軍はわずか1日あまりで北京・天津地区を平定。

日本が優位に立った7月29日、天皇陛下から近衛首相に、
もうこの辺で外交交渉で決着させてはどうか、という意向が伝えられ、
そこで外務省が和平案を作成する事になった。

日本が北京・天津地方を占拠して圧倒的に優位にある時に、
中国に対する和平提案の発想が生まれていたのである。

しかしその7月29日、日本人居留民約260名が虐殺される通州事件が発生。

●1937年(昭和12年)8月9日、大山事件。
大山中尉と斉藤一等水兵が中国保安隊に惨殺される。
船津和平会談の日だったが中国保安隊が上海の虹橋飛行場近くで海軍陸戦隊の
大山勇夫中尉と運転手の斉藤要蔵一等水兵を惨殺して和平会談をぶち壊した。
この日の日本側の和平案は下記のように大幅に譲歩したものであった。
いかに日本が戦争をやめたがっていたのかがわかる。
◎塘沽協定の解消
◎梅津-何應欽協定の解消
◎土肥原-秦徳純協定の解消
◎冀察政権の解消
◎冀東特殊貿易の廃止
◎非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
◎華北における自由飛行の廃止
◎支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消

●1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変。

蒋介石の本隊が1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し
上海共同租界の日本軍・日本人を攻撃したが(第二次上海事変)、
蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げた。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げた。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げたので日本軍は重慶爆撃を行なった。

これが支那事変である、支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ
第二次上海事変であれ、どちらにしても中国側から攻撃して来た。

米英は蒋介石に資金・武器支援し、日本に対しては経済制裁を仕掛けた。

―――――経緯―――――――

1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が
1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。

日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行なったが、
反日・親蒋介石で固まっていた列国は全く取り上げようとはしなかった。

翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して
日本軍との間で戦闘状態となり、第二次上海事変が始まった。

ドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った
中国軍に対して寡兵の陸戦隊は奮戦した。

八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退。

日本人居留民はどんどん引き揚げたが、
通州事件が再現されるかもしれないとの恐れから、
残っている一人一人の邦人に警備がつけられ、
汽船やブロードウエイマンションに避難した。
それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の炊き出しに従事し、
残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作った。

英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、
日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。
以後は日本軍を除く英米仏軍が上海国際共同租界の
治安維持を担当するという理不尽な提案を行なった。
本来ならば1932年・上海休戦協定に違反して協定線内に進入して攻撃してきた
蒋介石軍に対して、日英米仏軍が一致して対処するのが本筋だった。

●8月14日、中国軍が上海市街のキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃。

中国人や外国人に大量の死傷者を出した。
中国はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝。

日本海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばし、
南京などにある中国軍の飛行場や前線基地を爆撃し(世界初の渡洋爆撃)、
上海などに居た日本人を助けた。

●8月15日、日本は正式に松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成。

●8月23日、中国軍が上海のデパートを爆撃。
これも日本軍の仕業と世界中に宣伝。

●10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。中国軍は南京方面へ敗走。
中国軍の退却時には堅壁清野と呼ばれる焦土作戦が行われる事が多く、
この時も中国側の敗残兵により掠奪、破壊、放火などが行なわれた。

上海フランス租界の重要機関は放火され、
避難民に紛れた敗残兵と便衣兵(民間人の服装をした兵士)と
フランス租界の警官との間で銃撃戦も起きた。

上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは
軍事上のこととは認めながらも残念なことであるとし、
一方、中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が
非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。

10倍近い中国軍を壊走させた日本の上海派遣軍は、
10月20日に編成された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。

●1937年11月2日~、第1次トラウトマン和平工作。
盧溝橋事件(1937.7.7)後、蒋介石(中央軍)が上海国際共同租界の日本人居留区
のみを攻撃して第二次上海事変が始まる前に日本側が提示した条件
『船津和平工作(1937.8.9)』と同じ内容で非常に寛大なものだった。
↓↓↓
◎塘沽協定の解消
梅津-何應欽協定の解消
土肥原-秦徳純協定の解消
冀察政権の解消
冀東特殊貿易の廃止
非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
◎華北における自由飛行の廃止
◎支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消

いわゆる「華北分離」とは。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-687.html



のちに、白崇禧将軍も「たったこれだけの条件なら何のための戦争か」
と言ったくらいの日本側の譲歩だった。
広田外相が正式に駐日ドイツ大使に仲介を依頼し、
日本側の和平条件を提示したが蒋介石は応じなかった。
日本は英米にも「寛大な内容だから蒋介石に応じるよう説得してほしい」と
頼んでいたのだが、米英も努力してくれなかった。
広田外相は「受け入れずに戦争を継続するなら条件を加重する」と警告。
このとき日本は大本営設置も南京攻略も考えていなかった。
【まとめ】
【1】第1次条件の時(継戦前)、すでに大譲歩の条件だった。
【2】そもそも、この事変は蒋介石の上海侵略で始まった。
【3】広田外相は「戦争を継続するなら条件を加重する」と警告していた。
【4】蒋介石は第1次条件を無視して継戦した。
蒋介石が損をする条件でなければならないはずであって、継戦後に継戦前条件
で終わりにしたら日本の泣き寝入りで終わるようなものだ。
蒋介石は侵略して起こした戦闘のあげく、大譲歩の和平案を無視して継戦し、
被害を甚大にした後、勝てそうにないからといって12月2日に継戦前の条件を
呑む事を「和平を受け入れようとしていた」というなら全くおかしな話である。

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『日独伊三国同盟の研究 三宅正樹著 P85~86』
トラウトマン工作と呼ばれたこの交渉は、
11月2日の広田、デイルクセン会談から実質的に開始されたが、
この会談で広田は和平条件としてさきの『支那事変対処要綱』の
主要な内容をつぎの7項目に要約して示した。
1.内蒙古自治政府の樹立。
2.華北での非武装地帯の設定と親日的行政長官の任命、
鉱物採掘権交渉の続行。
3.上海非武装地帯の設定。
4.反日政策の廃止。
5.共同防共。
6.日本商品への関税引き下げ。
7.外国人諸権利の尊重。
そして同時に広田は、戦争が継続される場合には、
この「条件ははるかに加重されるであらうと強調した。
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●1937年11月、蒋介石(国民党)、南京陥落前に南京から逃走。
最初は漢口、そして重慶に逃げ込んで重慶を首都にして重慶政府を樹立。

●1937年12月2日、蒋介石は第1次条件の受け入れを
駐南京ドイツ大使トラウトマンに伝達。

蒋介石は11月3日~のブリュッセルでの9ヵ国条約国会議に期待していたが、
良い結果が得られなかったうえ、戦局も中国側にとって、
かなり不利な展開になっており、南京防衛体制の未整に苦慮するうち、
ドイツの仲介を「時間かせぎ」に利用することを思いつき、
12月2日、蒋介石は11月に拒絶した日本の第1次トラウトマン和平条件の
穏当な内容を基礎として交渉に応じる意向をトラウトマンに伝達した。

それを、
●1937年12月7日になって、ようやくディルクセン駐日大使が広田外相に
伝えて回答を求めたが、第1次条件を提示した時とは状況が変化し、
日本軍は中国軍を全面壊走させ、南京陥落も間近に迫り、
日本に有利な戦況になっていたこともあり、どう対処するかの話し合いに
時間がかかる旨をディルクセン大使に回答した。

中国軍の態勢が整うのを待っているわけにもいかず、作戦は続行され、
●1937年12月10日、南京を包囲された中国軍が日本の降伏勧告を無視。
そして、ついに、
●1937年12月13日、南京は陥落した。

昭和12年(1937年)11月8日までの日本軍の戦死者9115名、負傷者31257名。
南京占領までの日本軍の戦死者21300名、負傷者5万余名。

●1937年(昭和12年)12月21日~、第2次トラウトマン和平交渉(工作)。
すでに南京攻略後で日本側に何万という死傷者が出ていたから、
以前のような寛大な案では済まなくなっていたし、
あいまいな回答で引き延ばし続けられた。

●1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の第2次和平案の返事を
聞くために蒋介石を訪問しようとしたが、蒋介石は会わず。

●1938年1月15日、日本の第2次和平案も蒋介石が拒否。
●1938年1月16日、第一次近衛声明「国民政府(蒋介石)を相手とせず」

●1938年6月12日、蒋介石軍が黄河の堤防を決壊させる。
日本軍による救出活動も虚しく住民60万人が罹災し12万人が行方不明。
中国軍はこの黄河と揚子江の堤防決壊を日本軍の仕業と世界中に宣伝

●1938年(昭和13年)10月26日、武漢三鎮陥落。

武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
(中国軍は武漢撤退の際、すべての建物に爆弾をしかけた。)

以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となった。

汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けたが11月10日、帰らぬ人となった。

翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。
戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げた。

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1937年11月2日~、第1次トラウトマンの内容は
第二次上海事変前の『船津和平工作(1937.8.9)』と同じ内容で
非常に寛大なもので、
白崇禧将軍も「たったこれだけの条件なら何のための戦争か」
と言ったくらいの日本側の大譲歩でした。

これ、日本側が戦闘に負けてるのか?と思うほどの内容です。
↓↓↓
●塘沽協定の解消
●梅津-何應欽協定の解消
●土肥原-秦徳純協定の解消
●冀察政権の解消
●冀東特殊貿易の廃止
●非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
●華北における自由飛行の廃止
●支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消

南京戦後は日本側の被害も増えてしまったため、
条件を加重せざるを得なくなりました。

【1】第1次条件の時(継戦前)、すでに大譲歩の条件だった。
【2】そもそも、この事変は蒋介石の上海侵略で始まった。
【3】広田外相は「戦争を継続するなら条件を加重する」と警告していた。
【4】蒋介石は第1次条件を無視して継戦した。

加重と言っても居留民の被害に対する賠償が追加されただけです。

それでも蒋介石は和平を拒否しました。

この内容で拒否するということは、
蒋介石は、まったく日本と和解して仲良くしていこうという
意思がないということです。

ですから蒋介石が第2次トラウトマン和平交渉を拒否した1938年1月15日の
翌日の16日、日本は蒋介石を相手にしない事にしたのです。

しかしながら1940年3月30日に汪兆銘の南京政府が樹立するまでは、
汪兆銘も蒋介石を主席として迎える余地を残すため、
汪兆銘は主席ではなく主席代理としていましたし、
日本は対重慶和平工作の努力を続けていました。

汪兆銘・南京政府樹立後も、
もし蒋介石側から日本に和平の打診があったなら、
必ずや日本は応じていたはずです。

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1937年12月2日に蒋介石が第1次トラウトマン和平条件の受け入れを
駐南京ドイツ大使トラウトマンに伝達する前後の流れ。

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中国、遷都と南京守城を決定。
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『 新「南京大虐殺」のまぼろし』 鈴木明著 P218~219

徐永昌の日記

11月15日

11時、蒋介石が会議を招集、私が先着し、何応欽、唐生智、白崇禧、
○○(判読出来ず。以下同じ)、劉斐が続いて到着。
この会議で、敵と交戦しながら、
首都機能を長江上流に移転されることが決定した。
私は、作戦を中断することは出来ないが、
急に臨んで、あわてふためくのは不可であると述べた。
会議後、何応欽は、銃弾を運ぶだけでも準備が10日は必要だ。
何故(蒋介石は)このことをもっと早く言ってくれないか、
と不満げな口ぶりだった。

16日

10時、何応欽宅にて、各軍事機関の移転を決定。
何応欽は細かく説明していたが、一向に要領を得ず。
12時帰宅、4時半(上海方面の)兵力配置を調整した。

広東軍と貴州軍を左翼 (南京から見て左、つまり揚子江の側)に、
広西軍、湖南軍を右翼(太湖の南)に投入、
左翼から中央軍を5、6軍団引揚げさせ、南京防衛に当られる方針。

6時から会議は再開。南京守城を決議。

唐生智が司令長官となり、
3ヵ月ないし1年を守衛出来るだろう、と皆に期待される。

続いて汪精衛が政府機関を動かす方法について報告。

最後に蒋介石は〝抗戦既に3ヵ月経って、
わが軍の死傷者は30万人に達した〟と報告。

次いで、日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし
(イタリアは、この日記の書かれた約10日前、
11月8日に「日独防共協定」に加わって、日独への好意を示していた)、
わが国の方は、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の応援があるが 
(11月から日本に対して非難決議を行うと期待されていた「9ヵ国会議」が、
11月22日からベルギーのブリュッセルで開かれており、
15日は、まだその会議が進行している最中だった)、
まだ対立点も残されており、予断は出来ない。

そのためには、ねばり強い抗戦を続けなければならず
(首都を重慶に移して ― 日本は重慶まで攻めてくることは出来ない)、
日本も戦いを止めるわけにはゆかず、
これによって、国際情勢の変化も考えられる。

抗戦を続けるに当って一番大切なことは、
持久戦に耐えられる民族精神を持つことである、と言う。

―――引用おわり―――――

この中で蒋介石は「日本はドイツ、イタリアの国際勢力を背景とし」
と言っているが、この言い方はおかしい。
ドイツ軍事顧問が現に中国軍を指揮し助けているではないか。
恩知らずにもほどがある。
ドイツは9ヵ国条約会議に参加しなかっただけで、
イタリアは日本糾弾宣言案に反対しただけだ。

ドイツが不参加なのは当然である。
この戦争は中国が仕掛けた事を内部から知っているのだから。
日本が侵略しているとは口が裂けても言えないし、
といって、中国が悪いとも、立場上いえない。
日独伊防共協定が敵とするのは共産主義であって中国ではない。

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1937年 和平条件の改訂
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日本の参謀本部では、戦線が進展したために、
従来の和平案を改訂する研究を進めていた。

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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P461

参謀本部第1部第2課第1班(戦争指導班)では、11月24日、
大本営政府連絡会議のあったその日、「現下緊急対策」案を作成し、

「現戦果ヲ拡張強化シツツ 速ニ 南京政府ト 日支全般問題ヲ
一括解決スルコトニ 諸般ノ措置ヲ講ス」

の方針のもとに、
各種対策を考究し、班長高嶋辰彦中佐が参謀次長に意見具申した。

次長は同意し、時機をみて最高国策を動かす決意をもったようであった。

次いで同班では、至急、軍の思想統一を図るため、
堀場一雄少佐が 「支那事変解決処理方針」 案を起案した。

その趣旨は

「事変解決ハ 日支間全般ノ問題ヲ 一括シテ根本的ニ 之ヲ行フモノトシ
其交渉ハ 日支直接ニ之ヲ行ヒ 第三国ノ干渉ヲ許サス
其過程ニ於テ 第三国善意ノ内面的斡旋ハ 之ヲ認ムルモ
正式交渉ニハ 関与セシムルコトナシ
解決条項中 満洲国ニ関係アルモノハ 
両国ニ対シ別途承認セシムルノ処置ヲ執ル」

「解決ノ斡旋 又ハ 交渉中ト雖 (いえども) 
支那側カ 全要目承認ノ時期迄ハ
休戦スルコトナク 所要ノ作戦行動ヲ継続ス」

とし、次いで締結方針を述べ、締結条項としては

(一) 支那ハ 満洲国ヲ正式承認スルコト

(二) 支那ハ 北支 及 内蒙ニ 夫々 日満支互助共栄 及 防共強化ノ具現ヲ
容易ナラシムヘキ政権ヲ 樹立スルコト

(三) 支那ハ 排日及反満政策ヲ 放棄スルコト

(四) 支那ハ 防共政策ヲ確立シ 日満両国ノ同政策遂行ニ協同シ
尚満洲国ト共ニ 日独伊防共協定ニ 参加ヲ約スルコト 日満支三国又ハ
何レカガ三国以外ノ国ヨリ 受クル侵略 特ニ武力侵攻 及
共産赤化工作ニ対シテハ 三国商議ノ上  直接若ハ間接ニ
協同防衛ノ措置ヲ執ルコト

(五) 日本ハ支那ノ新上海建設ニ関シ 協力スルコト

(六) 日満支三国ハ 資源開発物資交易 航空連絡交通等ニ関シ
所要ノ互恵的協定ヲ 設定スルコト

(七) 支那ハ本事変ノタメ  日本居留民ノ受ケタル損害ニ対シ
補償ノ責ニ任スルコト

(八) 日本ハ 本条約ノ成立ト同時ニ 左ノ諸協定ヲ廃棄スルコト
梅津 ・何應欽協定、河北停戦協定、 土肥原 ・ 秦徳純協定、
上海停戦協定 (昭和七年)

としている。

―――引用おわり―――――

この改定案では居留民の被害に対する賠償が追加されている。
これまでは賠償すら求めていなかった。
これほど譲歩していたにも関らず、
それを蹴って侵略呼ばわりしていたのだから中国の悪質さがうかがわれる。

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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P461~462

また、日支両国が本条約を誠意をもって履行するため約定する保障事項は

(一) 日本軍ノ進出セル地域ハ 非武装地域トナシ 現在スル日本軍ハ
地方治安ノ恢復(かいふく) ト共ニ 自主的ニ撤兵スルコト
北支ニ於ケル重要地域 及 上海附近ニ於テハ 日支協同シテ治安ノ維持
竝 (ならびに) 防共ノ為 支那警察隊ニ依ルノ外
最小限度ノ日本軍ノ駐屯 竝 此 必要ノ軍事施設
竝 主要交通ノ管理拡充ヲ 容認スルコト

(二) 支那ハ日本ニ対シ 北支五省ニ於ケル金融、関税処理、資源開発、
交通通信管理等ニ関シ 特殊権益ヲ与へ 所要機関ノ存置ヲ認ムルコト
日本ハ本条約 及 之ニ伴フ諸約定ノ実現ヲ 確認スルニ於テハ
右保証ノ為ノ約定ヲ解除シ 之ニ伴フ権益中 保証ノ目的ヲ以テ
保有セシ部分ヲ 支那ニ返還ス 之ト同時ニ日本ハ 支那ノ国権回復
及 其復興等ニ 協力ノ目的ヲ以テ 従来ヨリ有スル 其 在支利権ハ 
当時ノ情勢ニ応シ 之ヲ支那ニ 返還スヘキ用意 アルコトヲ約ス

と定めた。

本案は、12月1日、参謀本部案とし、
陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案とした。

―――――――――――――――――

この改定案では居留民の被害に対する賠償が追加されているが、
逆に、従来の利権を支那に返還する用意があるとも書かれている。
戦闘では勝っているのに、ここまで譲歩しようというのである。
しかし、こういう善人心は中国には通用しない。

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1937年12月1日、南京攻撃が決まる。
―――――――――――――――――

参謀本部の多田次長は南京攻略戦を阻止しようと努力していたが、
いかんせん、状況が不利だった。

蒋介石は戦争をやめる気はないし、
ラーベたちが安全区の承認を要求している。
いつまでも返事しないわけにもいかない。
南京戦を進めたい下村第一部長の都合のいいように全て動いている。
下村第一部長は南京攻略の研究を進め、多田次長を説得した。

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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P422~423

参謀本部第一部では制令線撤廃のころから
本格的に南京攻略の研究を始め、
また第一部長は、しきりに参謀次長の説得に努めたが、
次長は容易に同意しなかった。
事変処理の政略的要求を強く考えていたためである。

一方、現地軍は再三にわたり督促の意見具申をなすとともに、
その第一線を無錫-湖州の線以西に進出させていた。

よって第一部長は、11月27日、方面軍参謀長あて

「当部ニ於テハ 南京攻略ヲ実行スル 固キ決意ノ下ニ 着々審議中ナリ 
未タ 決裁ヲ得ル迄ニハ 至ラサルモ 取敢ス オ含ミマテ」

と打電した。 これに対し、

「唯今 貴電ヲ見テ 安心ス 勇躍 貴意ニ副フ 如クス」

との返電があった。

第1部長はさらに熱心に次長に意見具申するとともに、28日、

すでに作成していた作戦指導要綱を説明して、ついに次長の同意を得た。

これからは一瀉 (いっしゃ) 千里に事が運んだ。

12月1日、大陸命第7号により中支那方面軍の戦闘序列

(中支那方面軍司令部、上海派遣軍、第十軍から成る) が令せられた。

方面軍司令官は松井石根大将である。 同日、大陸命第8号をもって

「中支那方面軍司令官ハ 海軍ト協同シテ 敵国首都南京ヲ 攻略スヘシ」

との大命が下った。

また同日の大陸指第9号により、中支那方面軍司令官はその任務遂行のため
揚子江左岸の要地に一部の作戦ができること、
海軍との協同作戦については現地協定を実施すること、などが指示された。

この日、多田参謀次長は、方面軍のかねてからの要望により、
上海に到着し現地の実情を視察した。

2日、松井大将の上海派遣軍司令官の兼任が解かれ、
同軍司令官には朝香宮鳩彦王中将(20期)が親補された。

方面軍は、1日、南京攻略作戦のための命令を下達し、
隷下両軍を次のように部署した。

一、

上海派遣軍ハ 十二月五日頃 主力ノ行動ヲ開始シテ 重点ヲ丹陽、
句容道 方面ニ 保持シ 当面ノ敵ヲ 撃破シテ 麿盤山山系西方地区ニ
進出スヘシ
一部ハ 揚子江左岸地区ヨリ 敵ノ背後ヲ攻撃スルト共ニ
津浦鉄道 及 江北大運河ヲ 遮断セシムヘシ

三、

第十軍ハ 十二月三日頃 主力ノ行動ヲ起シ 一部ヲ以テ 蕪糊方面ヨリ
南京ノ背後ニ 進出セシメ 主力ヲ以テ 当面ノ敵ヲ撃破シ
リツ水附近ニ進出スヘシ 特ニ杭州方面ニ 対シ警戒スヘシ

これは一挙南京に向かい迫撃するのではなく、
南京要塞の抵抗、部隊の態勢整理を考え、磨盤山系西方 ― リツ水付近に
進出して南京攻略を準備しようとするものであった。

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1937年12月2日、日本、安全区に対し回答
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ラーベの日記 12月2日

フランス人神父ジャキノを通じ、
我々は日本から次のような電報を受け取った。
ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。

電報 1937年12月1日、南京大使館(南京のアメリカ大使館)より

11月30日の貴殿の電報の件

以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ

「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、
遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、
あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、
当局としてはいささかの責も負う意思はありません。
ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、
当該地区を尊重するよう、努力する所存です。」

ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。
だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、
言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。

そもそもこちらは、
日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。
結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存……云々」は、
非常に満足のいくものだ。

アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。

南京の安全区国際委員会の報告を
ジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。

「ご尽力、心より感謝いたします。
軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨
日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめております。
中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。
我々は安全区を組織的に管理しており、
すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。
しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、
安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。
また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、
難民の不安を和らげるであろうこと、
さらにまた速やかにその件について
公示していただけるよう心から願っていることも、
日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーベ代表」

トラウトマン大使とラウテンシュラーガー書記官が
漢口から戻ってきたのは、ちょっとしたセンセーションだった。

ローゼンに事情を聞くと、これは委員会とは無関係だとのこと。

こっそり教えてくれたのだが、
大使は私が総統とクリーベルに電報を打ったことに
かならずしも賛成ではないらしい。
あれは必要なかったと考えているのだ!
今日は時間がないので、あした大使を訪ねよう。
思うに、彼が戻ってきたのはドイツによる和平工作の件だろう。

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1937年 トラウトマンの和平工作
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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P459

蒋介石は明らかにブリュッセル会議に期待を寄せていたが、
同会議は実質的成果を挙げずに11月24日休会したので、
蒋介石は改めてトラウトマン大使の和平工作に期待を寄せ始めた。
11月28日、トラウトマン大使は漢口で孔祥煕実業部長と会見、
29日には王寵恵外交部長と会談したのち、12月2日、
徐謨外交部次長と同道して南京に行き、蒋介石と再び会談した。

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『日中戦争4』 P176~177

蒋介石は、南京防禦態勢の未整に苦慮するうち、
大使トラウトマンの来訪をうけ、
卒然として、ドイツの仲介を活用することを思いつき、
財政部長孔祥煕にも通報した。
「為緩兵計、不得不如此耳」
緩兵は、すなわち時間かせぎである。

12月1日には、ドイツ外相C・ノイラートが中国大使程天放に、
日本の軍事的勝利をくつがえすのは不可能に近い、
中国は一日も早く日本と「和解」すべきだ、と勧説した。

12月2日、蒋介石はトラウトマンと会見し、次のように言明した。
「日本側の和平条件には、その後、変化はないか」と尋ね、
「日本を勝者とみなす前提は受け入れられない」と指摘した。
日本側の条件が最後通告の性格であれば、それも受け入れられない。

そして、蒋介石は、中国側の条件として、

一、支那ハ 媾和交渉ノ 一基礎トシテ 日本ノ要求ヲ 受諾ス。

二、北支ノ 宗主権、領土保全権、行政権ニ 変更ヲ 加フ ベカラザルコト。

三、独逸ハ 当初ヨリ 媾和交渉ノ 調停者トシテ 行動スベキコト。

四、支那ガ 第三国トノ間ニ 締結セラレタル 条約ハ、
媾和交渉ニヨリ影響ヲ受ケザルコト。

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トラウトマンは日本側が和平条件の改訂を検討している事を知らない。
それにしても蒋介石はどこまで、ずうずうしいのか。
日本が善意で出した「大幅に譲歩した和平案」を蹴り、
かつ、日本を侵略者呼ばわりして国際連盟に訴えておきながら、
その結果がイマイチだったら今度は前の条件のままで交渉させろとは。
それも、「日本を勝者とみなす前提は受け入れられない」とか、
「日本側の条件が最後通告の性格であれば、それも受け入れられない」とか、
「一体、何様のつもりか」、「本当に和平する気あるのか」
と言いたくなるが、時間稼ぎが目的で、
本当に和平する気が無いのなら、これは当然の行為だろう。
この話を受けてドイツから話が日本に行くのは、なぜか12月7日になる。

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12月2日のトラウトマン・蒋介石の話を受けて、
12月7日、ドイツが日本に和平仲介の話を持って来た。

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『日中戦争4』 児島襄著 P189~190

12月7日、駐日ドイツ大使ディルクセンが広田外相に面会して、
外相ノイラートの指示による和平仲介の覚書を提出した。
大使ディルクセンは、すでに参謀本部の意向も承知している。
蒋介石側も交渉希望も明らかであり、
戦況も講和に適していると判断されるので、
日本側の「色良い」返事を期待した。

だが、広田外相の口から出たのは、予想に反する言葉であった。
「最近の偉大な軍事的成功により、
一か月前に起草された基礎の上で交渉が行えるかどうか疑問である。
陸海軍の意見も得て検討したのち返答する」

大使ディルクセンは「日本側の見解がいつ変わったのか」と質問した。

「ここ数週間の戦果が情勢を変化させた」

大使ディルクセンは、日本側は拡大した新要求を用意していると感得し、
広田外相に強調した。

「蒋介石と和平するのが、日本にとって最善の解決になる。
蒋介石の失脚、あるいは過大な要求をして和平を拒否させるのは、
かえって日本の不為になりましょう」

「貴国ならびに貴大使の好意に深謝する」というのが広田外相の反応だった。

―――引用おわり―――――

参謀本部はすでに12月1日に和平交渉条件の改訂案を作成していたから、
前のままでというわけにはいかないだろう。
即座に返答はできないので会議にかける事になった。

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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P460

早速、首陸海外4相会議を開き、日本側のとるべき態度について検討した。

1937年12月8日、和平案検討会議

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前日のディルクセン独逸大使よりの和平仲介の話を受けて、
和平条件についての検討会議が行われた。

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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P460

陸軍では、8日、大臣官邸で参謀次長を加えて会議を開いたが、

「蒋ハ 反省ノ色 見エサルモノト認ム、
将来 反省シ来レハ 兎ニ角、 現在ノ様ナ態度ニテハ 応セラレス、
併 (しか) シ 独逸大使迄ニハ 新情勢ニ応スル 態度条件ヲ
一応渡シテ置ク必要アリ、
大臣ハ海相、 首相ト会見シ 、一応拒絶シ 蒋ノ反省ヲ促シ
時ヲオキテ 独大使ニ 当方ノ考ヘアル 条件ヲ提示スル」

ことに決めた。

―――――――

注:7~9日の連日開かれた4相会議の結果、
ドイツの仲介を受諾して話を進めることを申し合わせ、
次いで新たにディルクセン大使に内示する和平条件を、
陸海外三省事務当局で協議することになったようである。

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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P462

12月1日に参謀本部案から陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案となった、
「和平交渉条件の改訂案」は12月8日、陸軍省が部外との折衝のために、
「多少ノ衣ヲ着セ」 「支那事変処理要綱案」 と称した。
・・・・
8日、省部関係者は、
先に大本営陸軍部案とした「支那事変解決処理方針」案を再検討し、
9日、これを軍司令部に内示して意見を求めた。

軍令部は、
「修正ヲ要スル点 無キニ非サルモ 大綱ニ於テ
之ヲ基礎トシ 差支へナキ モノト認ム」
という見解であった。

―――――――

注:9日のところで最初に「軍司令部」とあり、次に「軍令部」とあるが、
これは原文がそうなっているのであって、私の間違いではない。
おそらく「軍司令部」は「軍令部」の間違いだと思うが、
一応原文のままにしておく。

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1937年12月10~11日 和平案改訂検討作業

戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P463

大本営陸軍幕僚部では、10日、参謀次長の下に関係者が集まり、
前記の解決処理方針を基礎として、独大使に交付すべき前文及び条文を
研究作成し、条文は11日、大本営陸軍部の決定とした。

これより先、政府は、大本営側に連絡することなく、
10日の閣議で、独大使に交付する「前文」を決定し、
同日13時半、外相がこれを内奏したので、
陸軍幕僚部作成の前文は、単に意見開陳にとどまった。

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1937年12月14日 和平案改訂会議

戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P463

14日午後、第2回目の大本営政府連絡会議が開かれ、
独大使に対する回答案が提出された。
出席者は、大本営側から参謀次長、軍令部次長、
政府側から総理、陸、海、外三相のほか賀屋蔵相、末次内相 
(馬場鍈一辞任のため、14日、内閣参議から内相に就任)が出席し、
風見内閣書記官長と陸海軍両軍務局長(町尻量基少将と井上成美少将)が
幹事役であった。

この会議では、まず交渉成立の見込みが問題となった。
参謀次長は、陸軍部内でもこの見通しについては異論があるが、
次長としては見込みは少ないが一応筋を通して、
当方の誠意を示しておく必要があるという見解であった。

次いで独大使に示す案について検討したが、
初めて本案を見る人もあったので、明日更に会議を開くことになった。
また、あたかもこの日、北支に臨時政府が成立したので、
中国新中央政府の問題が論議された。

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1937年12月21日 和平案会議で異論続出
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『日中戦争4』 児島襄著 P256~257

参謀本部の思想は、政府、陸海軍省の大勢的考えとは相違し、
今後の政略方針の確立にあたっては、
基本的な立場で対立せざるを得なかった。

まっさきに政府側との衝突が具現したのは、
ドイツを仲介にする対中国和平条件についてである。

和平交渉は、蒋介石側が北支の宗主権、領土保全、
第三国との協約尊重などを前提にして原則的にドイツの斡旋を受諾し、
日本側が提示した条件にもとづいて交渉に応ずる意向を表明している。
南京陥落は、この和平条件も大きく湾曲させた。
「かかる条件で国民が納得するかね」
と、内相末次信正海軍大将が先頭にたって条件の加重的修正を主張した。

「犠牲ヲ多ク 出シタル今日、 斯クノ如キ 
軽易ナル条件ヲ 以テシテハ、之ヲ 容認シ難シ」

外相広田弘毅がそうあいづちをうつと、「同意」と陸相杉山元大将も応じ、
首相近衛文麿が付け加えた。「大体、敗者トシテノ 言辞 無礼ナリ」

このような雰囲気で、12月21日、

「日華和平交渉ニ関スル 在京独逸大使宛回答文」

の形で和平条件が閣議決定された。
南京からは、主力攻撃部隊のほとんどが転進した頃である。

条件は、防共政策の採用、非武装地帯の設置、経済協定の締結、
賠償の支払いの4つを主軸にし、
満州国承認を含む細目9項が付属していた。

前文には、戦局の「進展」と事態の「変転」によって前回の条件を
修正した旨を述べ、次のように強調されていた。

「支那側ガ 之ヲ 媾和ノ条件トシテ 総括的ニ承認シテ、
帝国ニ 和ヲ乞フノ態度ヲ 示シ来ルニ於テハ……
日支直接交渉ヲ 開始スル用意アリ」

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1937年12月21日 独逸大使宛回答和平案1
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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P464~465

日華和平交渉ニ関スル 在京独逸大使宛 回答文

昭和12年12月21日 閣議決定

本月7日 貴大使ヨリ 本大臣ニ対スル 口頭御説明 並(ならび)ニ
同日附覚書ニ依(よ)ル 日支事変ノ 和平直接交渉ニ対スル
貴国政府ノ 好意的御配慮 及 在支貴国大使ノ 御努力ハ
本大臣ノ感佩 (かんはい) スル所ナリ
然ルニ最近 戦局急速ニ発展シ 事態ニ大ナル変転ヲ 見タル情勢ニ鑑ミ
帝国政府ノ 提示セントスル 基礎条件ハ 左記ノ如キモノニシテ
支那側カ 之ヲ媾和ノ原則トシテ 総括的ニ承認シテ
帝国ニ和ヲ乞フノ態度ヲ 表示シ 来ルニ於テハ 帝国トシテモ 之ニ応シ
日支直接交渉ヲ 開始スルノ用意アリ 若シ 右原則ニシテ 受諾セラレサル
場合ニハ 帝国トシテハ 遺憾乍(なが)ラ 従来ト 全ク新ナル 見地ニ立チ
事変ニ対処スルノ 己(や)ムナキニ 至ル ヘキコトヲ 含ミ置カレ度(たし)

左記

一、

支那ハ 容共抗日満政策ヲ放棄シ 日満両国ノ防共政策ニ 協力スルコト

ニ、

所要地域ニ 非武装地帯ヲ設ケ 
且 該各地方ニ 特殊ノ機構ヲ 設定スルコト

三、

日満支三国間ニ 密接ナル 経済協定ヲ 締結スルコト

四、

支那ハ 帝国ニ対シ 所要ノ賠償ヲナスコト


口頭説明

(一)
支那ハ 防共ノ誠意ヲ 実行ニ示スコト

(二)
支那ハ 一定ノ日限内ニ 媾和使節ヲ 
日本ノ指定スル地点ニ 派遣スルコト

(三)
我方トシテハ 大体本年中ニ回答アルモノト 考へ居ルコト

(四)
蒋介石カ 只今内示ノ原則 承認ノ意ヲ表明シタル上ハ
独逸側ニ於テ 日支双方ニ対シ 停戦ノ慫慂 (しょうよう) ニアラスシテ
日支直接交渉方ノ慫慂ヲ 為サルル様致度 (いたしたし)

(五)
独逸大使ノ質問ニ応シ 只今内示ノ原則ヲ 一層具体化セル条件トシテ
我方ニ於テ 考慮シ居ル所ヲ 御参考迄ニ 申上クレハ 別紙ノ通ナリ
(極秘トシテ)

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1937年12月21日 独逸大使宛回答和平案2
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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P465~466

日支媾和交渉条件細目

一、

支那ハ 満洲国ヲ 正式承認スルコト

二、

支那ハ 排日及反満政策ヲ 放棄スルコト

三、

北支及内蒙ニ 非武装地帯ヲ 設定スルコト

四、

北支ハ 支那主権ノ下ニ於テ 日満支三国ノ 共存共栄ヲ 実現スルニ
適当ナル機構ヲ設定 之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ 特ニ日満支経済合作ノ
実ヲ挙クルコト

五、

内蒙古ニハ 防共自治政府ヲ 設立スルコト 其ノ国際的地位ハ
現在ノ外蒙ニ同シ

六、

支那ハ 防共政策ヲ確立シ 日満両国ノ 同政策遂行ニ 協力スルコト

七、

中支占拠地域ニ 非武装地帯ヲ設定シ 又 大上海市区域ニ就テハ
日支協力シテ 之カ治安ノ維持 及 経済発展ニ当ルコト

八、

日満支三国ハ 資源ノ開発、関税、交易、航空、通信等ニ関シ
所要ノ協定ヲ 締結スルコト

九、

支那ハ 帝国ニ対シ 所要ノ賠償ヲナスコト

附記

(一)

北支内蒙 及 中支ノ一定地域ニ 保障ノ目的ヲ以テ
必要ナル期間 日本軍ノ駐屯ヲナスコト

(二)

前諸項ニ関スル 日支間ノ協定成立後 休戦協定ヲ開始ス
支那政府カ 前記各項ノ約定ヲ 誠意ヲ以テ実行シ 日支両国
提携共助ノ 我方理想ニ 真ニ協力シ来ル ニ於テハ
帝国ハ 単ニ右約定中ノ 保障条項ヲ解消 スルノミナラス
進テ 支那ノ復興 及 其ノ国家的発展 国民的要望ニ
衷心協力スルノ 用意アルコトヲ茲 (ここ) ニ闡明 (せんめい) ス

別紙

(一)媾和交渉条件中 保障条項タルモノ左ノ如シ

一、

第三項ノ非武装地帯

二、

第四項ノ折衝ニ当リ 保障ノ目的ヲ以テ 設定セラルヘキ特殊権益
及 之カ為存置ヲ 必要トスル機関

三、

第七項ノ非武装地帯

四、附記

(一)

及之ニ伴フ軍事施設、主要交通ノ管理拡充ニ関スル権益

(二)

媾和ニ関連シテ廃棄スヘキ約定

一、

梅津・何應欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、上海停戦協定

二、

保障事項ノ解消ト同時ニ従来ヨリ有スル対支特殊権益
(例へハ治外法権、租界、駐兵権等ノ如シ) 廃棄ヲ考慮ス

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ここでは、梅津・何応欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、
上海停戦協定や治外法権、租界、駐兵権なども廃棄しようと言っている。
中国側や反日日本人は、この条件を過酷と言っているが、
こんなお人好しな条件があるだろうか。
付加した条件としては、賠償金が加わった事くらいだ。
あとは前の温和な条件とほとんど変わらない。

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1937年12月22日、独逸大使へ和平案を回答。

日本は独逸大使への回答の和平条件案が、
21日にやっと、まとまったので22日、独逸大使に回答した。

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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P466

22日、広田外相は、ディルクセン独大使と会談し、
12月7日、同大使からなされた連絡に対する正式の回答を行った。

大使は「これらの条件は、11月2日のものをはるかに越えており、
私は中国政府による受諾は極めて難しいと思う」と述べた。

外相は「軍事情勢の変化と世論の圧力により、
これ以外に各方面の意見をまとめることができなかった」と述べた。

また大使は「余日の少ない年内に中国側の回答を期待するのは無理だから、
1月5、6日ころまで延期してはどうか」と申し出たので、
外相はこれを承諾した。

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同じ事を児島襄氏の『日中戦争4』P257~258は23日の事として書いています。
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広田外相は、12月23日、駐日ドイツ大使H・ディルクセンを招き、
前文と4条件を列記した英文覚書を渡した。

「和ヲ乞フノ態度」なる表現は、さすがに不適当とみなされたものか、
英文では「インディケイト……ア・デザイア・ツー・メイク・ピース」
(媾和意思の表明)となっていた。

広田外相は、また、4条件の説明の形で細目9項を概括的に読みあげ、
大使ディルクセンに筆記させた。

大使ディルクセンが、条件加重を指摘して、
「中国政府が受諾する可能性は極度に少ないと思う」 旨を述べると、

広田外相は、「戦況の変化」と「世論の圧力」で、
これ以外の条件は認められない、と応えた。

さらに外相は、交渉妥結までは日本側は作戦をつづける、
中国側の回答は年内に期待する、といった。

「それは無理でしょう。本使はベルリンに打電し、
ベルリンが漢口の駐支大使に電報して、
また逆の経路をたどるほかに、中国側の検討の時間も必要です。
まず1月5、6日までは待たねばなりますまい」

「その程度なら……結構です」

広田外相は大使の勧告を受け入れ、
大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。

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1937年12月23日 和平条件、中国へ伝達
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戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P466

駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、
23日これを漢口のトラウトマン大使に伝達

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『日中戦争4』 児島襄著 P258

大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。
ドイツ外相 C・ノイラートは、覚書の語調と内容から「最後通告」等しい
との印象を受け、とっさに中国側への伝達は和平仲介の趣旨に反する、
と考えた。
しかし、駐支大使トラウトマンに転電するとともに、
中国大使程天放の来訪をもとめ、日本側条件を伝えながら、
このさいは、隠忍して受諾してはどうかと勧説した。

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こんなお人よしの和平案を「最後通告に等しい」とは、
どういう了見だろうか?
第一、とっくに戦争しているではないか。
いまさら「最後通告」して、何の意味がある?
もともと中国が戦争を仕掛けたのだから、中国が譲歩するのが当たり前。
それを日本が譲歩してやっているのに、
過重だとか、「最後通告」に等しいとか、ふざけるにもほどがあるだろう。
まー、ドイツ軍将校が中国軍の後ろで指揮しているのだから、当然の反応か。

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1937年12月、中国が和平拒否の場合の対案

戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P467~468

参謀本部第二課戦争指導班では、12月1日、
現国民政府との直接交渉により事変を解決する方策として
「支那事変解決処理方針」 を策定していたが、・・・
中国側が条件を受諾せぬ場合の考案を同時に取り扱う必要に迫られたので、
12月6日、大臣随員を加え、大本営陸軍部案とするよう
「事変対処要綱」案を合同起案した。その方針は次のとおりである。

一、対現中央政府解決ノ場合

(一)

現戦果ヲ 拡張強化シツツ 速ニ 現中央政権ト 日支全般問題ヲ
一括解決スルコトニ 諸般ノ措置ヲ統合ス

(二)

此間 爾後 持久戦争ニ移行ノ為ニ 必要ナル考慮ト 準備措置ノ実行トヲ
併セ行フ 但シ 之カ為 方針第一項ノ 達成ヲ阻害スル コトナシ

(三)

持久戦争移行 ノ為ノ決意ノ時機ハ 方針第一項ノ 目的ヲ
達成スルコト 能ハサル実情ヲ 確認シタルトキ
又ハ 現中央政権カ 実力上一方地方政権タルニ 至リタル時トシ
其 (その) 時機ハ 南京攻略前後トス

二、現中央政権否認ノ場合

(一)

従来ノ支那中央政権ヲ否認シ 北支ニ 親日満防共ノ政権ヲ樹立シ
之ヲ 更正新支那ノ 中心勢力タラシムル 如ク指導シ之ト連繋シテ
各方面共親日 (又ハ非抗日) 反共政権ヲ樹立シ 支那全局面ニ於テ
抗日共産政権ニ対スル 圧縮壊滅ヲ策ス

(二)

所要地域ニ於テ 我兵力ヲ以テスル 軍事的占拠 其地域内ニ於ケル
画期的善政指導 及 新樹立政権ノ勢力拡大等ニ依リ
之ニ伴フ領土喪失感ト 抗日共産領域内住民ノ 困窮トニ依リ
対抗政権 及 某所属民衆ヲシテ 抗日容共ノ非ヲ 悟ラシメ
時ト共ニ依日救国ノ大勢ニ 順応スルニ至ラシム

(三)

成ルヘク速ニ 全支ノ自然的統一状態ヲ誘致シ
無期分裂抗争ニ 基ク支那ノ赤化 又ハ 欧米勢力侵襲ノ
罅隙 (カゲキ:すきま) ナカラシム

(四)

全期間ヲ通シ 我国防国策ノ主脈ヲ 依然 対蘇反共ニ置キ
其以外数正面ニ亙ル 戦争準備ノ余儀ナキ情勢ニ 立チ至ラサル如ク
政戦両略ニ亙リ 運用施策ス

(五)

我国家総力 就中 (なかんずく) 国防力ノ培養強化
及 統整ヲ促進スルト共ニ支那ニ対スル我国カノ 消耗ヲ制限シ
且 対 「ソ」 作戦ノ準備ヲ強化整頓ス

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1937年12月26日 和平条件中国に伝わる

戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 P466

駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、
23日、これを漢口のトラウトマン大使に伝達し、
同大使は、26日、孔祥煕と宋美齢に伝えた。
(蒋介石は病臥)中国側はその内容に極めて強い驚きを示した。

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『日中戦争4』 児島襄著 P258~259

駐支大使トラウトマンは、26日、
行政院副院長孔祥煕と蒋介石夫人宋実齢に会い、日本側覚書を手交した。
大使は蒋介石との会見を申しいれたが、病気だとのことであった。
二人は、覚書内容の日本側条件が過酷なものに一変しているのに驚き、
夫人宋美齢は、大使に言った。
「まさか、ドイツ政府はこのような要求に味方されるはずはないでしょうね」
副院長孔祥煕も、大きく吐息して、大使に告げた。
「日本はきっと、10の自治政府、10の非武装地帯を要求するに違いない。
とても受けいれられない。日本は将来を考えるべきです。
必ず自滅する将来を、です」

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変化したと言っても、白崇禧将軍が
「たったこれだけの条件なら、何のために戦争しているのか」
といった条件と大して変わっていない。
ただ、賠償金が追加されただけだった。

なお、この日、第7連隊が去ったので、南京には第16師団しかいなくなった。

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1937年12月27日 中国 日本の和平案検討

『日中戦争4』 児島襄著 P259~260

12月27日、蒋介石が国防最高会議を招集して、
日本側提案を討議の対象にすると、
意外にも、とにかく交渉すべきだと主張する者が、いた。
交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰らである。
そして、会議後、交通部長愈飛鵬は大使トラウトマンを訪ねた。
「中国としては、日本の条件を受け入れるべきでしょうか。
大使閣下のご意見をうかがいたい」
「残念ながら、本使はその種の意見をのべる立場におりません」
「それでは結局、貴国のお力で停戦に持ち込むことはできないのでしょうか」

交通部長愈飛鵬は、
大使トラウトマンの明答を得られぬまま、肩をおとして帰っていった。

蒋介石は憤然とした。
「今日除投降無和平、捨抗戦外無生存、彼等実昧於大勢、不知国家利害、
此革命之所以未能成功、一至於此也」
(いまや降伏以外には和平はなく、抗戦する以外に生存の道はない。
彼らは世界の大勢に暗く国家の利害も知らない。
革命が成就できない所以は、まさにここにある)

蒋介石は、ソ連の援助を求める決心を固め、
立法院長孫科にモスクワ行を指示した。

行政院副院長孔祥煕は、
ドイツ商社『HAPRO』代表H・クラインを招いて述べた。
「(日本との)和平交渉開始の努力が成功しなければ、
国民政府は、たとえわが国が経済的に破綻しようとも、
また、たとえわが国民をソ連の腕の中に押しやろうとも、
最後まで抗戦するつもりです」

H・クラインから通報をうけた外務次官H・マケンゼンは、
駐支大使トラウトマンに、ソ連との接近強化は中独関係を
改変させる旨を中国側に伝えるよう指示した。

同時に、次官マケンゼンは、駐日大使ディルクセンにも、
中国の赤化は防共協定にそぐわない、
不満があっても日中関係を正常化して中国の赤化を防止すべきだと
日本政府に勧告せよ、と訓令した。

駐日大使ディルクセンは、
その程度の勧告で日本側の考え方を変えられるものでもない、
と思ったので、とっさには行動しなかった。

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蒋介石は
「いまや降伏以外には和平はなく、抗戦以外に生存の道はない。」
と言った。

何を妄想しているのか? 日本は、そんな要求はしていない。
彼らが勝手に妄想を抱いて解決を不可能にしているだけだ。
もともと戦争を仕掛けたのは中国。
日本は大幅に譲歩した和平案を出していた。
それを蒋介石が蹴って戦争を続けたからこうなった。
なぜ自分たちの非を悟らないのか・・・。

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以下、coffeeさんのブログより
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4724.html

当初、一部に軍中央の方針を無視した言動があったのは事実だが、
最終的に南京戦は軍中央も認めた。

南京に逃げ込んだ支那軍は日本の和平案を蹴って徹底抗戦を宣言して
いたのだから、戦争をやめたら反撃攻勢に遭うから継続は当然だった。

1937年11月2日、
広田外相は正式にドイツ大使に仲介を依頼し、日本側の条件を提示した。

日本が提示した和平条件の内容を、ディルクセン駐日独大使は
“穏当なもの、これなら支那側の面子も潰れないだろう”と言った。

のちに、白崇禧将軍も
「たったこれだけの条件なら、なんのための戦争か」
と言ったくらいだ。

日本の穏当な和平条件は、
トラウトマン駐支独大使から、11月6日、支那に伝えられた。

ところが、蒋介石はこれを蹴った!

図々しい蒋介石は、自分から戦争を仕掛けておきながら
9月12日に国際連盟に「日本が侵略している」と訴え、
これが9カ国会議に付託されて審議されていたので、
自分にもっと都合の良い結果が出るのを期待していたのだ。

すると呆れた事に国連は支那の言い分を受け入れ、
10月5日に日本の行動は9カ国条約に違反、
9ヵ国会議で解決すべきだと決議し、9ヵ国会議をブリュッセルで開催した。

日本は、戦争をやめたくても支那が止めない限りやめられない。

一方的に停戦しても向こうが喜んで襲撃してくるのは経験済みであり、
火を見るより明らかだったからだ。

一応、日本は追撃の限界線を蘇州までと定め、11月19日に蘇州を攻略した。

ところが、蒋介石は
「敵が南京に至れば我々は南京を防衛する。
敵が四川を攻撃すれば我々は四川を防衛する。
敵の侵略が続く限り我々は永久に戦い続けるであろう」
と世界に向かって公言した。

これではまるで日本が侵略しているかのように聞こえる。

そして11月20日の「遷都宣言」でも次のように述べた。
「盧溝橋事件発生以来…日本の侵略は止まる事を知らず…
各地の将士は奮って国難に赴き…死すとも退かず…
日本は更に暴威を揮い…わが首都に迫る…
およそ血気ある者で瓦全より玉砕を欲せざる者はない。…」

この時点で日本は南京攻略の予定はなかったから支那に
「戦争を止めよう」と提案したのに、
蒋介石はその和平案を拒否しながらこんなふざけた事を言ったのだ。

一部の日本の将軍には南京への進撃を訴えていが、
参謀本部は許可しなかった。

しかし、日本の参謀本部も、蒋介石が和平に応じず戦争継続を公言したため、
いつまでも“南京進撃”を抑制する事はできなくなった。

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my日本・佐藤卓
http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=507396

◆船津和平工作

盧溝橋事変発生後、日本は即座に和平工作に動く。

同事変は現地とは停戦決定したものの、蒋介石中央の介入で拗れる。

盧溝橋事変も満州事変と同様、支那軍による日本への侵略攻撃なので、
無論その処理協定は支那が懲らしめられる内容でなくてはならない。

しかし陸海外三省が合同で草案し、元駐支領事船津辰一郎が
根回しを担当した「船津和平工作」の内容は、
廊坊事件などの後にも関わらず、

満州事変以降の支那を膺懲する協定を解消。
非武装地帯設置。
冀察・冀東を解消し同地は蒋介石政府麾下に。
駐屯日本軍は満州事変以前の状態へ(増派引揚げ)。
反日やめろ、一緒に防共、満州国承認。

という、言うなればあれだけ散々、反日武力闘争事件起こした輩を
満州国承認だけで許してやるという寛大極まりない大譲歩案。
この第1回交渉が昭和12年の今日8月9日に行われたが、
同日大山中尉惨殺事件が起こり、この工作は頓挫する。

◆第1次トラウトマン工作

第1次トラウトマン工作と船津和平工作は
内容的には同じものだが性格は大分変わる。

なぜかと言うと同工作は船津和平工作を
ドイツ経由で11月に行ったものだから。

つまり既に大譲歩の船津和平工作を上海事変など数々の反日侵略攻撃以降も
条件加重せずに同じ内容で呑ませてやろうってのだから、
さらに大大譲歩ということ。「上海事変咎めないよ」と言ってるようなもの。

ここまで来ると日本国民から
「陸海軍は売国奴!」と罵られそうなものである。
この時、広田外相は「呑まずに戦争継続したら条件加重しますよ」
と警告してる。【→重要】

にも関わらず蒋介石は呑まなかった。
どうやらブリュッセル会議(3日~15日)の結果待ちをしたようで、
同会議で三国干渉のような反日決議を期待したのだろうと思われる。
日本は英米に「譲歩案なのだから蒋に呑ませるよう働きかけてくれ」
と言ったが英米は消極的。
(余談だがこの時日本は大本営を設置してないし南京攻略も考えていない)

しかし会議結果は彼奴の納得の行くようなものではなかったらしい。
5千京歩譲ってブリュッセル決議待ちだったとしても
決議終わったならば呑めばいい。

にも関わらず蒋はまたまた呑まず戦争継続、南京徹底抗戦を決心した。

つまりトラウトマン和平案をここで蹴ったということ。
この後、呑むとか言い出しても条件加重されるということ。

蒋介石が呑まないので20日大本営設置。12月1日南京攻略決定。

この翌日に怖気づいた蒋介石が第1次トラウトマン工作案を呑もうとする。
この「呑もうとしている情報」が日本に伝わるのは7日。
だが、知っての通り13日には南京は陥落し日本軍は南京入城する。
日本側被害は甚大。

つまり7日というのはそんな状況。

和平案(しかも譲歩)を無視され上海攻撃され、
それでも条件加重してやらないで
「継戦したら条件加重」の警告も出したのに無視して戦争継続してきて、
この期に及んで「継戦前の条件呑もうかな」なんて
常識的に通用するわけがない。
ここで呑ませたら日本の泣き寝入り。占領憲法9条並の馬鹿である。

冒頭でも述べたが基本、支那の侵略攻撃から始まった紛争なので
痛い目に遭うのは支那でなくてはならない。
これを「蒋介石が呑もうとしたら日本は条件重くした」と
日本を批判する奴がいるというのだから驚きだ。

◆第2次トラウトマン工作

ということで、本来「は?今頃何言ってんだよ」と無視して
徹底攻撃しても良いものの、
またまた器の大きい日本は条件を加重しただけで
和平交渉を続けさせてあげる。
これが第2次トラウトマン工作。

加重と言っても損害賠償などの追加であって、
支那の横暴から考えれば大譲歩に変わりない。
回答期限は年末までとしたが回答してこなかった。

それでも日本は諦めることなく、翌年1月「答えろ」と催促してやる。
にも関わらず蒋介石はまたまたまた呑もうとはしなかった。
いくら寛大な日本とはいえ我慢の限界。
数日後「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス」
当然の結果。普通。

◆援蒋

首都を陥落され窮地に陥った蒋介石なのに、
第2次案を即座に呑まなかった理由、

そもそも上海や南京という大都市を失い、というか大都市持ってた時でさえ
日本軍にコテンパンにされた弱小支那軍が何もない重慶に逃げ込んだのに
瞬殺されなかったのは英米からの支援があったから。

英米がテロ支援をしたせいで戦争長引くわ和平案不毛になるわ、
結果として共産が拡大する。
英も米もましてや蒋介石なんか台湾に逃げて何も得してない。

この和平工作経緯を見ても
まだ日本が侵略戦争だとか軍国主義だとか言い張るのか・・・。

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『大東亜戦争の大きな流れ』超短縮版
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隠蔽が続く大東亜戦争の発端
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★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
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2008/11/15 09:00|年表リンク用資料
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