正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『海槎録』 慶暹 (1607年 江戸時代最初の朝鮮通信使)

●大阪城下(当時はまだ豊臣家の領地)の様子

海水は襟や帯のように取り巻き、湖と浦が周りを巡らし、
城郭が重なり、楼閣が層をなし、青い瓦と白い城壁が雲樹の間に陰映する。

板橋が川に横たわり、高さが三丈ほど、その下を舟行した。
橋を過ぎて上陸すると、役員の騎馬が無慮数百頭も、皆鞍をつけ待っていた。

轎(かご)に乗って行くこと四五里、
民家や官庁の建物が四方を取り囲み、
街路と墻壁とが連なって各方面に通じている。

男女老少が争って遠近から集まって町に満ちあふれ、その喧騒は天をも衝く。

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『扶桑録』 李景稷 1617年 二度目の通信使

(大坂夏の陣からわずか九年後にもかかわらず、
既に日本が復興している様子に驚いている。)

●大阪

西に大市街を過ぎたが、街路が往々にして横に分れ、
みな井の字の形で方方正正、四方に通達す。

貨物が山積みにされ、百物が備わっていた。

民家は六十戸をもって町となし、
町ごとに一つの里門をおいて、夜は鍵をかけて守った。

また水桶を屋上に置き、
長いハシゴを家の前に立て掛けて失火に備えていた。

商家では、それぞれ扱う商品を分かりやすくぶら下げていた。
(商品の形の看板のこと)

南に大阪を望むと、城中の層楼や飛閣は秀頼の敗戦で焼尽したのに、
今まさに工事を起こして築城は完成しており、
木工だけは終わっていなかった。

工事の規模の大きさが形容できないほど、
人力によってできるものとは思われなかった。

城外の廬舎もまた焼尽したのに、今は復旧して荒虚は一つもない。

人家と物力の豊富さを知ることができる。

『扶桑録』 李景稷 1617年 二度目の通信使 大阪


●京都

東寺から大徳寺に至る二十里は、商街の中を通過した。

人家の周密、市貨の豊富、男女の混雑が大阪の十倍であった。

街路は方正で井の字のごとく、まっすぐな街路を町といい、
横の街路を通りといい、町と通りが交差して、そのいくばくかは知れない。

●京都から伏見までの様子

京都から伏見までは、三十里あまり、民家があい連なり、

五町橋を過ぎると、東の方は、民家の盛が京都ほどではなかったが、

ただ左右に切れ目無く連なっており、それがすべて飲食店であった。

都の北から東の伏見に至るまで、松林や竹林が続き、
寺刹が相接して、浮屠や層塔が中空荷そびえていた。

その中でも東福寺と大仏寺が、最も大きい寺刹であった。

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江戸、品川の様子

『東槎録』 姜弘重、1624年、家光将軍職襲位祝賀使

●品川

民家はきわめて盛んで、店舗も物が豊富、
地勢は平坦で、一面が海に臨み、日本の都市の中でも形勝の地である。

品川


●壮大な江戸城の威容に驚く

新将軍の邸宅から城内を一巡して、東に行くこと幾十里あまり、
(朝鮮の一里は日本の十分の一)内城の周囲もまた五里は下らなかった。

築城の石は皆大石をもってし、
その勢いに従って積み上げ面を削っているのが神業のように巧妙であった。

内に高楼傑閣が起ち、将軍はその中にいる。

別に五層の飛ぶような楼閣が中央に起ち
見張りをして守備をするところで、天守台といった。

金色の甍と白い壁が堀の水に影を落とし、
光彩が人を照らして心魂を眩乱する。

(大名)各家で兵を養い、兵器が便利で精巧であり、
軍糧が山積みされ、戦艦が海に満ち、常に臨陣対塁の心構えができている。

だから兵を動員しようとすれば命令に従って直ちに出動できる。

壮大な江戸城の威容に驚く


●御座船の豪華さに驚く

夜明けに河口に舟を移した。河口はすなわち店舗である。

上使と従事はそれぞれ大阪から送られてきた小楼船に乗った。

舟の造りは奇巧を極め、板壁を装うに金箔をかぶせていた。

木版は黒漆を塗り、並べてある器具も奢麗を極め、
壁には丹青で絵を描き人の目を眩乱させた。

御座船の豪華さに驚く


朝鮮通信使の記録で目に付くのは、
「眩惑される」、「人力とは思えない」、「神業の様である」
などの日本の各地の繁栄ぶりを見たときの
信じられないというような、驚嘆の表現です。

このように江戸初期であってもすでに日本の国力と繁栄の様子は
朝鮮通信使を大いに驚かしていました。

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『日韓・歴史克服への道』 下條正男著 より引用

日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、
いかに感じて帰国していたのであろうか。

室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。
それによると「日本の農人水車の設けあり」として、
学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、
鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。

この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、
その中で技術に言及していたのは、
渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、
日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
(略)
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、
水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が
『徒然草』(第五十一段)に記されている。

その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、
当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。

したがって、韓国の歴史教科書にあるように
「技術を学ぶのに苦労していた」のは、
日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。

そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が
日本や清との技術的格差を深刻に捉え、
その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、
近世に入っても変わりがなかったのである。

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日本を見た朝鮮通信使
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2008/11/14 09:00|年表リンク用資料
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