正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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【1】中国の南京大虐殺関連の日本への非難は、12月13日から6週間とされ、
(南京大虐殺記念館の石碑にも、1937年12月13日から1938年1月とされ)
ている。中国側はこの頃この期間を広げようとする試みがあるので要注意。

【2】中国側の公式発表は「中国人虐殺の数は30万人」

【3】中国側の公式発表は「強姦数は2万から8万」

【4】日本大使館員福田トクヤス氏の話に寄れば、
南京安全避難区の外国人のところに、毎日のように中国人が駆け込み、
「あっちで日本軍が略奪を行っている」とか「女性が強姦された」と報告し、
それを避難区の外国人はろくに調べもしないでレポートを書いていた。

また、国際連盟において南京大虐殺をアピールした中国の
顧維鈞氏の演説が行われたのは、第百会期国際連盟理事会であり、
その開催時期は1938年1月26日から2月2日、彼の演説の議事録は、
理事会第六会議議事録として、1938年2月1日にまとめられているので、
中国側は1937年12月13日から1月中旬までに
日本軍による虐殺があったと責めている。

しかし、「陸軍大将 畑俊六日誌」に見られる畑陸軍大将自身は、
1938年2月14日に、松井大将の後釜で赴任している。
彼はそんな話を自分の目で見たこともないわけだ。

ここで優しく時系列に並べると、

【1】日本大使館員福田氏により、
中国人による日本軍の蛮行でっち上げがされていた。
それが南京安全避難区の外国人によって宣伝された。

【2】1938年1月26日から2月2日までの間、
国際連盟において中国の顧維鈞氏が、南京大虐殺をアピールした。

【3】1938年1月29日から2月6日までの間、陸軍大将 畑俊六は
第七師団、第八師団留守隊の教育状況視察の為北海道、弘前地方に出張した。
この時以下のような記述を書いた。しかも日本で。

「支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の
誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、
此際召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、
又上海方面にある松井大将も現役者を以て代らしめ、
又軍司令官、師団長等の召集者も
逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。」

【4】そして1938年2月中国入り 

【5】戦後に書いた記述は以下の通り。

「昭和十三年二月、私は松井石根大将のあとをうけて上海に到着した。
私は直接には兵団と関係がなかつたので、
各郷土の特質についてはあまりよく知らないが、上海に到着するまで、
南京の虐殺ということは夢にも考えていなかつた。

南京に到着してみても、なんの痕跡もなかつたし、人の耳にも入つていない。
ところが、東京裁判が始まると南京虐殺の証拠が山のように出された。
それがために松井石根大将はついに悲惨な最期をとげられた。
それも運命と思えばあきらめられないこともないが、いまにして思えば、
南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。

そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。
けれども、これは戦場という特種の環境の下で
はたらいた心理作用のなせる業で、平静にかえつたとき、
これを責めるのも無理だと思つている。

もともとこの裁判の遠因が、
いわゆる復讐のための裁判だつたのだからやむをえないことだろう。」

確かに彼は
「南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。
そして虐殺ばかりでなく、掠奪もたしかに行われていた。」
と戦後書いているが、彼自身がそれを目撃したわけではないのである。

なぜ確信してしまったのかは、貴殿と全く同じ理由である。
中国側の見事な宣撫工作に、
その見てもいない噂が確信へと傾いていったのであろう。

では百歩譲って小なりあったとしよう。
それが、現代の日中間を揺るがすほどの大きな歴史問題となる理由は全くない。

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次に「岡村寧次大将資料」を見てみよう。

岡村寧次(おかむらやすじ)大将は、南京大虐殺があったとされる後の、
1938年6月に「第十一軍司令官」に就任している。
ちなみに中国側の南京大虐殺があったとされる時期は、
1937年12月から1月までのたったの6週間。彼自身も目撃者などではない。

また彼はこのように書いている。
「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、
中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から
聴取したところを総合すれば次のとおりであった。

一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の
大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

つまり彼はそのように話を聞いたのである。
中国側が頑張って宣伝した日本軍の蛮行の噂が、
如実に「ほんとうだってばよ。」と報告させた、
まさしく中国宣伝工作の大成果である。
東日本大震災後にも噂された「これはHAARP攻撃だ」と同程度の嘘に、
人間はにわかに惑わされるものである。

河辺虎四郎・参謀本部作戦課長及び真崎甚三郎大将にしても全く同じだ。
彼らも南京大虐殺があった時期、どちらも南京市にはいない。

人間は今でも同じような間違いをおこす。
たとえばこれをお読みの貴殿が、新しい町に引っ越したとしよう。
貴殿のことが気に入らない人が若干いて、
彼らが「あいつは過去に犯罪を起しこの町に逃れてきた。」と噂を流した。
その話を聞いた人が、日記に書いた。
また貴殿の友達もその話を聞き、日記に書いた。だからその話は本当か?
そうは思わない。

最後に東京裁判における南京大虐殺関連のレポートを読んでみると、
おもしろいことが解ってくる。
1945年11月、中国側は東京裁判に向けて
日本人の蛮行証拠を集めるなどの準備をやり始めた。

しかし、当初それらの証拠は集まらないばかりか、
虐殺行為を否定するものまでいたそうだ。
その後何とかして集めたのはたったひとり。
Lu Suという中国人の証言のみだった。


「岡村寧次大将資料」について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-509.html

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畑陸軍大将について

東京裁判での中国の公式見解では、
いわゆる「南京大虐殺」が行なわれた期間は、
南京陥落日から6週間と主張していますので、
1937年(昭和12年)年12月13日から翌1938年(昭和13年)年1月24日あたり
までとなっています。それを中国は正式に訂正していませんので、
現在でも中国の公式見解は変わっていないということになりますが、

松井石根大将の後釜として畑俊六陸軍大将が赴任したのは
1938年2月14日です。
つまり中国政府が主張する南京大虐殺の期間後に
畑俊六陸軍大将は中支那派遣軍司令官として赴任していますし、
「畑俊六日誌」が書かれた時期については、
畑俊六陸軍大将は1938年1月29日から2月6日までの間、
第七師団、第八師団留守隊の教育状況視察のため、
北海道の弘前地方に出張していたときに日本で書かれた日誌です。

ですから畑陸軍大将自身は、そんな話を自分の目で見たこともないわけです。
2008/11/13 09:00|年表リンク用資料
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