正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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■第一次大戦と『対華21ヵ条の要求→日華条約』

『大東亜戦争への道』中村粲(あきら)著1990.12.8(展転社)より(現代語訳)

◆第一次大戦

1914年(大正3年)6月28日、ボスニアの首都サラエボで
オーストリア皇太子夫妻がセルビアの一青年に暗殺された。

7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦。

8月1日、ドイツがロシアに宣戦。

続いて仏・英も対独参戦。

このようにして第一次世界大戦が勃発した。

8月4日、イギリスもドイツに宣戦布告し、
同日、グリーン駐日イギリス大使が加藤高明外相を訪ね、
イギリスの対独参戦について説明し、
万が一、戦争が極東に波及し、香港・威海衛が攻撃された場合は
日英同盟に基づく日本の支援を希望してきた。

すぐに日本政府は中立の立場を表明するとともに、
「万が一、日英同盟の目的が危うくなった場合は、
日本は同盟の義務として必要な措置を取ることもあるが、
そのようなことにならないよう希望する。」
との声明を公表した。

同じ日、イギリスではグレー外相が井上駐英大使を招いて
「イギリスは日本の寛厚な申し出に深く感謝する」と述べたあと、
「日露戦争当時、フランスはロシア艦隊に援助を与えていたので、
日本は日英同盟上、イギリスに援助を
要求する事ができたにもかかわららず、要求しなかった。
これは日本の誠実と自制による立派な態度である。
日本のこの寛大な精神を汲み、今日のイギリスも努めて
日本に累を及ぼすことを避ける考えであるが、
日本の援助を必要とする時は、喜んで日本に依頼する。」

と語った。

その後、イギリスから日本に対し、
「支那海でイギリスの貿易を攻撃するドイツ仮装巡洋艦を撃破してほしい」
との正式な参戦要請があった。

日本の交戦すべき地域的範囲をめぐって日英の見解に若干の齟齬があったが、
結局8月15日、日本はドイツに対して、
最後通牒の性質をもつ次の勧告を行なった。

【1】日本及び支那の海洋からドイツ艦船が
即時に退却するか武装解除すること。

【2】ドイツは膠州湾(山東省)租借地を、支那に還付する目的を以て
9月15日限り無条件で日本に交付すること。

参戦することを望まなかった日本は、
最後通牒の期限を一週間(8月23日)という
外交史上例のない長期のものとしたが、
8月23日、ドイツが無回答の意思を通告してきたため、
日本は同日、対独宣戦した。

日本軍は直ちに青島攻略を開始、11月初旬には山東省の膠州湾、
青島及び膠済(膠州 - 済南)鉄道全線を占領した。

一方、海軍は10月中旬、赤道以北の独領南洋諸島を占領した。

日本が対独参戦した1914年秋頃より、
英・仏・露は日本軍を欧洲に派遣するよう懇請してきたが、
日本はこれを拒絶した。

イギリスから再度の出兵要請が来た時、加藤外相は
「帝国軍隊の唯一の目的は国防にあるが故に、
国防の本質を完備しない目的のために
帝国軍隊を遠く外征させることは、その組織の根本主義と相容れない」
と述べて強い拒絶の意を表明した(『加藤高明』下)。

この他ベルギー、フランス、セルビアの諸国からも
日本陸軍の欧洲派兵を勧誘してきたが、日本はいづれも拒絶した。

出兵要請の際、イギリスは、日本の出兵費用はイギリスが負担することや、
欧洲出兵により日本は戦後の列国間商議で有力な発言権を
持つことになるはずであること等を申し出たが、
それにもかかわらず日本は出兵を断ったのである。

我が陸軍に対する出兵要請と前後して、
9月2日、イギリスは日本艦隊の地中海派遣をも要請してきたが、
日本は
「日本海軍は外敵防御の標準で組織されてをり、外征を企てる余力はない」
旨を以て返答した。

その後11月15日、イギリスは重ねて日本に対し、イギリス艦隊と協力して
ドイツ・トルコ艦隊を封鎖するため、ダーダネルスに一艦隊を
派遣してほしい旨を申入れてきた。

その場合、日本の船体の損失はイギリスが補償し、
燃料・軍需品はイギリスが無料で一切の便宜を図るという
条件付きではあったが、日本は前記の理由の他に、
日本艦隊の欧洲派遣は日本の国防を危うくし、
かつ日本艦隊主力の東洋留任は
極東の平和に不可欠の保障であることを指摘して、艦隊派遣を拒絶した。

しかしながら、ドイツ艦船の活動が盛んとなり、
1917年1月、イギリスは日本の艦艇の地中海派遣を求めてきたため、
日本は熟慮の末これを応諾し、
2月初旬、巡洋艦1、駆逐艦8から成る一水雷戦隊を地中海方面へ派遣した。

ちなみにドイツは同じ2月、世界の非難を顧みず無制限潜水艦作戦を
宣言して決行、連合国側の船舶が多大の被害を被った。

日本の欧洲航路客船の多くも、
大西洋、地中海、インド洋で撃沈されたのである。

このような戦況下、今までは艦隊の地中海派遣を拒絶した日本が、
その立場を変えたのも止むを得ない次第であった。

しかし日本は大隈前内閣の艦隊派遣拒否の決定を
寺内現内閣が翻すには有力な根拠が必要であるとして、
山東省と南洋諸島に関する日本の要求に対するイギリスの保証を得たい旨を
申し入れたのに対し、2月16日、イギリスは講和会議に際し、
山東省のドイツ諸権利と赤道以北の独領諸島(南洋諸島)に対する
日本の要求を支持することを応諾する旨、正式回答してきた。

日本が第一次大戦に参戦するに至った事情を簡単に述べた。

それは例えば、
「日本はアジアで勢力を広げる絶好の機会が到来したものと考え、
日英同盟にもとづいて対独宣戦した。」
といった高校教科書記述が示唆するほど
邪悪で利己的な意図ではなかったことが分かるであろう。

列国の要請、他国との友誼盟約、国軍の本義、戦況の展開、
そして我が国益等さまざまな要素を深思検討の上、
参戦や派兵は決定されて行ったのであり、
決して不当な底意によるものであったということはできない。

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◆「二十一ヵ条要求」の背景

第一次大戦中、日華関係を紛糾させたのが、
いわゆる「二十一ヵ条要求」である。

これは対華侵略の代名詞のように悪名高いもので、
『直木孝次郎他「日本史三訂版」平成元年実教出版』
は次のように記述する。

「(日本は)1915年、袁政府に対して二十一ヵ条要求をつきつけた。
これは主権を著しく侵害するとして中国側の猛反対を招き、
アメリカも日本を牽制したが、日本は一部を削除したのみで
最後通牒を発して強引に承諾させた。」

他の日本史、世界史の教科書の記述も大同小異だ。

しかし、二十一ヵ条問題とは、
そんなに単純に日本を悪玉と裁断できるようなものなのであろうか。
グリスウォルド(前出)は、この問題の背景をこう説明する。

「日露戦争後、日本の富強は大いに増大したが、
まだ目標には到達しておらず、朝鮮や満蒙の地位も完全とは言えなかった。
いかに条約を結んでもロシアは依然として北方の脅威であり、
英米の態度も不安の種だった。
現にノックスの満洲中立化計画と錦愛鉄道計画は
満洲に於ける日本の特殊地位を脅かした。
中国本土の原料や資源はヨーロッパ諸国にとっては
一個の投機の対象でしかなかったが、
日本にとっては生きるための鮮血だった。
西洋列強にとって支那の政治経済的意義は、
日本にとってよりも遥かに少なかった。
これらの列強が戦争に没頭している今こそ、
日本が事態をきちんと整える時だった。
三国干渉以来、西洋の干渉主義者達は、
日本が正当かつ死活的に重要な政策を遂行するのを繰返し妨害してきた。
日本は満蒙と山東省の地歩を確固たるものにし、
第二の三国干渉に抵抗しようとしたのだ。
日本は近代産業国家として欠かせない支那の原料や
経済的特権を確保しようとしたが、
経済力でこれらを達成できない日本は政治的に達成しようとした。
戦後、ヨーロッパの関心が解き放たれた暁、欧洲列国の相談で
支那との約定がぶち壊されることのないよう、
日本は今のうちに支那との約定を
充分拘束力のあるものにしておきたかったのだ。
簡単にいえば、これが二十一ヵ条要求の理由であった」

この記述こそ、「二十一ヵ条要求」を
提出した我国の立場と史的背景を説いて余す所がない。

◆不当な要求であったか

1915年(大正4年)1月、新生した中華民国に駐在する日置益公使が
加藤外相の訓令で袁世凱大統領に提出した「二十一ヵ条要求」とは
概略、次のような内容である。

第1号は、山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について
事前承諾を求める4ヵ条。

第2号は、旅順・天連租借期限と南満洲・安奉(安東・奉天間)両鉄道の
期限の99年間延長、南満洲・東部内蒙古での
日本人の土地所有権や居住往来営業権、
また鉄道建設や顧問招聘に於ける日本の優先権を要求する7ヵ条。

第3号は、漢冶萍公司を適当な機会に
日支合弁とすることなどを求める2ヵ条。

第4号は、支那沿岸の港湾や島嶼を他国に割譲しないことを求める1ヵ条。

第5号は、支那の主権を侵害するとされた
7ヵ条の希望(要求ではない)事項で、
―――――――
第1条:日本人を政治・軍事顧問として傭聘すること。

第2条:日本の病院・寺院・学校に土地所有権を認めること。

第3条:必要の地方で警察を日支合同とすること。

第4条:日本に一定数量の兵器の供給を求めるか
支那に日支合弁の兵器廠を設立すること。

第5条:南支での鉄道敷設権を日本に与えること。

第6条:福建省の鉄道鉱山港湾に関する優先権を日本に与えること。

第7条:支那での日本人の布教権を認めること。
―――――――
このように要求は14ヵ条で、第5号7ヵ条は希望条項だった。

それゆえ「21ヵ条要求」という呼称自体が誇大宣伝のために
中国が創作したものであり、誤解を与える原因であった。

さて「21ヵ条要求」とは果たして、それほど不当なものであったのか。
その2、3項目を取り上げて検討してみる。

例えば第2号の満蒙条項。

旅大租借地と満鉄等の99年間延長は決して例外的ではなく、
1898年にイギリスが清国から租借した香港は、やはり99年間の期限であった。

また中国側は、日本人に治外法権がある以上、
満蒙での日本人の居住営業、土地所有は満蒙の植民地化になると反対した。
これには一理あったが、中国はすでに外蒙において同様の特権をロシアに
許与していたのであり、その反論には説得力が欠けていた。

第3号の漢冶萍公司に関する要求も新奇なものではなく、
同公司と日本との長い関係に基づくものだった。
漢冶萍公司とは、1892年(明治25年)、
湖広総督・張之洞が漢陽に鉄廠を設立し、
大冶鉄山を採掘して製鉄事業を開始したのが淵源であった。

その後、官僚資本家・盛宣懐が経営を担当し、
漢陽製鉄所、大冶鉄山、それに萍郷炭鉱の三者を合わせて
漢冶萍公司を設立したのは1896年(明治29年)、日清戦争の翌年である。

同年、日本は八幡製鉄を設立したが鉄鉱に乏しい日本は1899年(明治32年)、
互いに同量の鉄鉱石輸入と石炭輸出の契約を同公司と結んだ。

義和団事件後、ドイツが日本の権益の妨害を企てたため、
1904年(明治37年)、我国は公司と300万円の借款契約を結び、
その担保とされた大冶鉄山は以後60年間は他国に売却しない事を取り決めた。

日露戦争中の厖大な鉄鉱需要はこれによって賄われたのである。

1911年、辛亥革命が起こると、同公司は革命軍に没収されようとしたため、
盛宣懐は200万元で没収を免れようとし、
その金額の調達を日本に交渉したので、
日本はその条件として日支合弁を提議して
漢冶萍公司日支合弁仮契約が結ばれた。

このようにして同公司は日本との関係を一層深めたが、
中国側には同公司国有化の動きがあり、
日本にとって死活的重要性をもつ同公司は非常に不安定な状況に陥った。

これが第3号提出の背景だったのであり、
決して唐突に新たな権益を求めた訳ではなかった。

◆「主権侵害」とはいえない第5号

中国の主権を侵害するものとされた第5号にしても、
相当の経緯と理由あってのことだった。

例えば福建省に於ける優先権、
これは第4号の沿岸不割譲の要求と関連する。

この歴史的背景はこうである。
列強が清を分割した1898年、日本は清との間に
福建省不割譲(何れの国にも譲与しない)の約定を結んだが、
1900年12月、米国は同省沿岸・三沙澳漠の租借を企てた。

日本は三沙澳の租借は日清約定に違背し、
また米国が提唱する中国領土保全主義にも反するとして反対したため、
米国はこの企図を放棄した。

この一件は、米国が自己の主張に反して
清国の主権を侵そうと企てたことを意味する。

ところで、高木八尺博士によれば(『米国東洋政策の史的考察』)、
この事件が公表されたのは米国務省文書
「米国の対外関係/1915年」の中においてであり、
それが出版されたのは1924年であるから、
「21ヵ条」が国際的に論議されていた1915年には、
三沙澳租借問題について世界は何ら知る所がなかったわけである。

それゆえに、福建省に関する日本の希望と要求は、
その歴史的背景についての国際的無知の中で
一方的な批判を受ける結果となったのであり、
「21ヵ条」批判が公正ではない一例をここに見るのである。

もう一例を挙げておく。
「21ヵ条」交渉中の1915年3月中旬、中国革命の指導者である孫文は
外務省政務局長・小池張造に書簡を送り、その中で「日中盟約案」として

【1】日中共同作戦を便ならしめるため、兵器は全て日本と同式にする。
【2】中国の軍と政府は外国人を聘用する時は日本人を優先させる。
【3】鉱山・鉄道・沿岸航路経営のため外国資本を要したり
合弁を行なう場合は、まず日本と協議する。

などを提案した(臼井勝美『日本と中国/大正時代』)。

この「盟約案」は第2号、第3号及び中国の主権を侵すものと
非難された第5号の第4、5、6条の趣旨と
ほぼ完全に符合する驚くべき提案であった。

この孫文提案は、日本の要求と希望が図らずも孫文のそれと
一致していたことを立証するものであり、
あれほど中国その他の批判を浴びた「21ヵ条要求」が、
実は中国側の希望に他ならなかったというこの事実は、
「21ヵ条」をめぐる対日批判の大部分を無意味にするものと言ってよい。

◆「支那の言辞無礼なり」(朝日新聞)

「21ヵ条」をめぐる日華交渉は期間4ヵ月、
正式交渉だけでも25回という息の長いものとなり、
その間、日本は中国側の希望に応じて一部を撤回し、
大部分は修正したが、なおまとまらず、
遂に第5号は「他日の交渉に譲る」こととして削除した上で、
残余16ヵ条を最後通牒を以て中国に受諾させ結着した。

最後通牒を発出したことが力で押しつけた印象を与えているが、
最後通牒の発出が、実は袁世凱自身の要請によるものであった事実は、
今日ほぼ確定している。

また最後通牒発出を促した背景に、
新聞などの強硬な国内世論のあったことを記しておくのは、
言論人の責任を考える上で無意味ではなかろう。

各紙の社説は、

東京朝日 5月1日 「決答期を限れ」
東京朝日 5月4日 「支那の責任」
東京日日 5月4日 「最後通牒の外なし」
時事新報 5月5日 「最後通牒は当然の順序なるべし」

等の強硬論を展開し、5月5日付の東京朝日新聞に至っては
「支那政府最終回答は言辞極めて無礼なり」とまで中国側を非難し、
「帝国の要求は東亜百年の大計のため已むを得ざるもの」と主張した。

当時の代表的進歩派知識人の吉野作造ですら
「事ここに至れば最後通牒を発するの外にとるべき手段はない」
と断じたのであり、これらがその頃の指導的言論だったことは、
しっかり記憶しておくべきだろう。

◆歪曲された「21ヵ条」

中国が形式上「最後通牒を受諾」して交渉は終結、
撤回した第5号を除き、日本の要求は相当に修正されたものの、
1915年(大正4年)5月25日、大体16ヵ条分が日華条約として調印成立した。
この日華条約をめぐる、その後の波紋の2、3に触れておこう。

1915年(大正4年)5月11日、ブライアン米国務長官は日華双方に
「中国の政治的領土的保全及び門戸開放主義に反する
いかなる協定も承認せず」と通告してきたが、
これがその後「不承認主義」として
有名になった門戸開放主義に立つ米極東政策の先駆けである。

このブライアンの不承認主義はやがて満洲事変で
スチムソン国務長官の不承認主義として継承され、
一層広く知れ渡り、後年、支那事変から日米交渉においては
ハル国務長官の硬直した原則尊重主義となって
日米関係を大きく阻害し、遂に戦争を引き起こすことになる。

このような見地に立つ時、「21ヵ条」問題に関して
声明されたブライアン不承認主義は、
大東亜戦争への過程に於ける重要な一石と評して間違いなかろう。

次に中国側が「21ヵ条」の内容を、はなはだしく歪曲誇張して
内外に喧伝したことが、不必要な誤解を招いた点を指摘しておこう。

「21ヵ条」否認は以後、中国の排日運動の中心題目となったが、
参考までに当時、最有力の排日団体であった
湖北全省商界外交後援会の作成した「21ヵ条」非難の説明書を見ると、

「南満洲の警察と行政権を日本に譲渡する」

「中国の陸海軍は必ず日本人を教官とする」

「中国の学校では必ず日本語を教える」

「中国に内乱がある時は日本に武力援助を求め、
日本また中国の秩序維持に当たる」

「中国の石油特権を日本に譲与する」

「中国全部を開放し、日本人に自由に営業させる」

などとあり、日本の要求とは全く違う事を捏造して列挙していた。
このような虚偽歪曲の宣伝が、さらに問題を悪化させた。

さらに在華米国公使がポール・ラインシュであったことも不幸を重ねた。
彼は「国務省の公式代表者と支那政府の非公式顧問という一人二役」
を演じたといわれるほど親中反日派で、
米国の史家チャールズ・タンシルによれば、

「ラインシュの一連の日本非難の電報こそが米国人の心に
日本は邪悪なりとの固定観念を作り上げ、遂には日米戦争の確率を高めた。
またこの日米戦争の公算はブライアンの不承認主義通牒で更に高まり、
やがて満洲事変の際、スチムソン国務長官はこの不承認主義を
一箇の手榴弾に作り変え、
それによって日米の平和的関係一切を破壊することになった」
のである。

◆「21ヵ条」その後

さて1915年(大正4年)、日華条約として落着した
いわゆる「21ヵ条要求」はその後いかなる運命をたどったか。

中国は日華条約が日本に「強迫されて」結ばれたもので、
中国の自由意思によるものでないゆえ無効であると強弁して、
その実施を妨害し、1923年(大正12年)、中国国会は条約の無効を決議した。

だが、多少とも圧力をかけたことを口実として条約を無効にできるのなら、
世界に現存する条約の大部分は即刻無効となるだろう。

例えば日清戦争後の遼東還付条約は、まさしく三国干渉によるものである。
中国の論理を用いれば「強迫」された遼東還付条約は無効であり、
日本は下関条約どおり、遼東半島を「永遠」に領有する権利があり、
「21ヵ条」の満蒙条項のような「99ヵ年」の租借期限など
全く要らないことになるが、中国はこれに承服するだろうか。

また、力でドイツに押しつけられたヴェルサイユ条約も、
原爆投下を背景に日本に強要されたポツダム宣言も無効になるはずだ。

中国の論理の独善性は明白である。
第一、日本は中国の自由意思を束縛したこともなく、
4ヵ月にも及ぶ外交交渉の結果成立した条約ではないか。

驚くべきことは、中国が条約調印直後の1915年6月に
「懲弁国賊条令」なるものを公布したことだ。

これは日本人に土地を貸した者は国賊として公開裁判なしに死刑にする
という峻厳を極めた法令で、勿論、日本人の土地取得得妨害が目的である。

同時に中国は南満洲の官吏に「商租地畝須知」なる秘密の手引書を頒布して、
日本人に対する土地商租の妨害を命じた。
このため、日華条約で確定したはずの南満洲における日本人の土地商租権は、
条約調印と同時に事実上、空文と化したのである。

国際条約調印と同時に、政府が法令を以て
その実施を妨害するとは世界に類を見ない背信行為というほかない。

この結果、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利は、
ことごとく中国側に侵犯され、
満洲における日華関係を極度に緊迫悪化させ、
満洲事変の重大原因となった。

21ヵ条のうち、最終的に中国側に要求したのは
約16ヵ条分であったことは既に述べた。
これらが日華条約となったのであるが、
1922年のワシントン会議で、日本は中国に山東省を返還し、
満蒙に於ける鉄道と顧問傭聘に関する優先権を放棄した。

さらに「他日の交渉に譲る」ことになっていた
第5号希望条項も全面的に撤回した。

これにより、ワシントン会議が終了した1922年には、
当初の21ヵ条の大半は消滅し、条約として残存していたのは、
わずか10ヵ条に過ぎなかったのであるが、
それらでさえ激烈な排日の中で
事実上、空文化していったところに問題の重大性があった。

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第一次大戦と『対華21ヵ条の要求→日華条約』
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第一次大戦と『対華21ヵ条の要求→日華条約』(『大東亜戦争への道』より)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-559.html
『対華21ヵ条の要求』と日華条約
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-219.html
日華条約が結ばれると、すぐにアメリカがこの条約に難癖をつけてきた。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-439.html
2008/11/10 09:00|年表リンク用資料
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