正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1858年(安政5年)、安政の大獄

日米修好通商条約の後、日本で攘夷運動が激化した。
幕府の大老、井伊直弼は前水戸藩主、徳川斉昭や吉田松陰など
尊皇攘夷派100人あまりに徹底的な弾圧を加えた。
萩にいた吉田松陰は、江戸に呼び戻され、牢で処刑された。

1860年には、大老・井伊直弼が江戸城桜田門の近くで、
安政の大獄に憤った浪士たちに暗殺される。

吉田松陰の尊皇攘夷思想は幕末の志士たちを動かすことになる。
長州藩は、幕府批判勢力の中心だった。
吉田松陰は、松下村塾という私塾で、
弟子達に尊皇攘夷を説いて大きな感化を及ぼしていた。

松蔭が安政の大獄で処刑されると、
その弟子であった高杉晋作や木戸孝允らが藩を動かすようになり、
長州藩は一部の公家と結んで、朝廷を強硬な攘夷論へと導いていった。

●尊王
天皇や皇族を尊び、天皇を国政の中心と考えること。

●攘夷
夷(えびす)を攘(はら)うこと。つまり外国から来た野蛮を追い払うこと。

●尊王攘夷

天皇を尊崇し外国人(この場合西洋人を指す)を排斥しようとする思想。
もともと尊王と攘夷は別個の思想であったが、
幕末期、幕藩体制の矛盾と諸外国の圧迫による危機感の中で両者は結びつき、
次第に討幕運動へと展開、
王政復古に至る幕末政治運動の指導的役割をになった。

●1860年(万延元年、安政7年)3月24日、桜田門外の変
(事件当日は安政7年だが、3月18日に万延と改元された。)

1860年、大老・井伊直弼は江戸城に出勤する途上、
江戸城桜田門の近くで、
安政の大獄に憤った水戸藩などの浪士たちに暗殺された。

水戸浪士のほかに薩摩藩士が一名加わっていた。
参加した18人全員が、その場あるいはその近くで自殺した。

この事件で幕府の権威はますます失われた。
幕府とはその程度のものか、と皆が思った。

それからわずが7年後の1867年(慶応3年)には
徳川慶喜による大政奉還がなされる。

翌年には明治帝が王政復古を宣言し、
徳川幕府の倒壊を経て明治新政府の成立へと、
桜田門外の変を契機に一気に時代が旋回した。

●大老
江戸幕府の職名。
必要に応じて老中の上に置かれ、政務を総轄した最高の職。
2010/03/04 06:00|年表リンク用資料
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