正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1942年9月9日、史上唯一、日本軍のアメリカ本土空襲(ルックアウト空襲)。

帝国海軍の潜水艦伊25
帝国海軍の潜水艦伊25

以下、Wikipedia「アメリカ本土空襲」より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

■1回目の空襲

1942年8月15日、帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)は横須賀を出港。
アリューシャン列島をかすめて9月7日にオレゴン州沖に到着。

零式小型水上偵察機天候の回復を待ち沖合いで2日待機した後、
9月9日の深夜に空襲を決意し、田上艦長ら搭乗員が見守る中、
藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は
76キロ焼夷弾2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立った。

目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してから内陸に進み、
カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊の森林部に
2個の焼夷弾を投下し森林部を延焼させた。

地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、
沖合いで待つ「伊25」に帰還した。

なお、実は藤田機は空襲を終えて「伊25」に帰還すべく飛行中に、
オレゴン州森林警備隊の隊員であるハワード・ガードナーによって
発見されアメリカ陸軍に通報された結果、
アメリカ陸軍航空隊のロッキードP-38戦闘機が迎撃に向かったものの、
防空体制の不備により発見されることはなかった。

また、突然の空襲を受けて、陸軍や地元警察が沿岸地域を徹底的に捜索した。

なお、藤田機の帰還後、「伊25」は沿岸警備行動中の陸軍航空隊の
ロッキードA-29ハドソン哨戒爆撃機に発見されて攻撃を受けたが、
損害は受けなかった。

■2回目の空襲

2回目の空襲は、20日後の9月29日の真夜中に行われ、
藤田機は同じく76キロ爆弾2個を再びオレゴン州オーフォード近郊の
森林部に投下森林部を延焼させ、「伊25」へ戻った。

なお、2回目の空襲の際も地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく
無事任務を遂行し、無事に沖合いで待つ「伊25」に帰還した。

「伊25」には予備の爆弾がまだ残っていたものの、前回の空襲の結果、
太平洋沿岸部の警備が厳しくなっていたことから、
2回目の空襲を最後に空襲を取りやめ帰還することとなった。

「伊25」はその後10月4日と6日に
アメリカのタンカー(SSカムデンとSSラリー・ドヘニー)
を1隻ずつ撃沈したのち、太平洋を横断し母港の横須賀へと帰還した。

なお、帰還中の10月11日に、ウラジオストクからパナマ運河経由で
ムルマンスクへ回航中のソ連海軍の潜水艦L-16を
「アメリカ海軍の潜水艦」と思い込んで撃沈している
(なおこの時点で日本とソビエト連邦の間には
日ソ中立条約が締結されており、戦争状態になかった)。

藤田信雄とEY14水上機
藤田信雄とEY14水上機

■アメリカ側の被害と反応

サンフランシスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内と
日系アメリカ人に対する強制退去命令2回の空襲とも
「アメリカ本土爆撃」というシンボル的効果を狙ったものである上に、
森林を爆撃することによる延焼被害を狙ったものであり、
直接的に人的被害を出すことを目的とした空襲でなかったこともあり、
軍人や民間人に死者は発生しなかった。

また、9月初頭と爆撃前日に降り続いた雨により湿気があったためもあり、
空襲による森林の延焼は本格的な消火活動が行われる前に自然消火するなど、
空襲による直接的な被害は大きなものではなかった。

政府による空襲対策 [編集]しかし、
アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲に驚いたアメリカ政府は、
太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍の敗北に
意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、
軍民に厳重な緘口令を敷きこの空襲があった事実を極秘扱いにした。

しかし、まもなくマスコミに知れ渡ることになり、
当時太平洋戦線で負け続きであったアメリカ国民を大いに怯えさせ、
この空襲以降、西海岸地域を問わずアメリカの全ての沿岸部における
哨戒活動及び防空が厳重なものとなり、
併せてサンフランシスコなどの西海岸地域の大都市には、
日本軍機による空襲に備えたシェルターや防空壕が
急遽設置されるようになった。

またこの空襲作戦の過程においては、日本人移民や日系アメリカ人の関与、
協力などは何もなかったにも拘らず、
人種差別的指向を持っていたフランクリン・ルーズベルト大統領の命令により
1942年2月からハワイを除くアメリカ全土で行われていた日系人の
強制収容を正当化する口実の1つになった。

藤田信雄海軍兵曹長
藤田信雄海軍兵曹長

■敵軍の英雄

終戦後の1962年に、藤田飛曹長はオレゴン州ブルッキングス市から
招待を受けアメリカに渡り、同市市民から
「歴史上唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受け、
同市の名誉市民の称号を贈られた。

またその時、同市市民から藤田飛曹長が投下した焼夷弾の破片を贈られた。
その破片からはかすかに火薬の臭いがしたという。

なお藤田飛曹長は、
戦争中、軍刀として用いた愛刀をブルッキングス市に寄贈した。

この招待は外務省を通じて伝えられたが、
当の本人には招待の趣旨が知らされていなかったため、
現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思っており、
寄贈した軍刀は戦後も密かに所持していたものを、
収監されそうになった時には自決するため、
荷物に忍ばせて持参したものであった。

その後、藤田飛曹長は贖罪の意味を込めて同市に植林を行ったり、
同市市民を日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費やした。

また、そのような貢献を受けて、
後にロナルド・レーガン大統領よりホワイトハウスに
掲揚されていた星条旗が贈られた。

なお、現在爆弾片と星条旗は、
茨城県土浦市の「まちかど蔵野村」に保存公開されている。

このエピソードは1995年12月29日放送の
『たけし・さんまの世界超偉人伝説』(日本テレビ)で取り上げられ、
藤田飛曹長本人も出演している。

しかし日本では余り知られる事がなかった事もあり、
ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も
「この話は全く知らなかった」と発言している。




以下、「NEWSポストセブン 2011.12.08 07:00」 より引用
http://www.news-postseven.com/archives/20111208_74572.html

米本土爆撃した日本人 爆撃地から“敬意表したい”と招待状

12月8日は、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃し、
太平洋戦争が開始してから70年目の日である。

そして 1942年6月、日本はミッドウェー海戦で敗退。
戦局は大きく米国側に傾きつつあった。

そこで、起死回生の一撃を見舞うという意図のもとに
計画されたのが米本土爆撃計画だった。
同年7月、伊号25潜水艦の藤田信雄飛曹長が海軍省に呼ばれ、
作戦を指示された。

同年9月9日、米西海岸沖600カイリの地点から
パイロットの藤田を乗せた零式小型水偵が、オレゴンに向けて飛び立った。

520個の小型焼夷弾が詰められた76キロ爆弾2個を投下、
オレゴンの森を火に包んだ。
歴史上初めて、米国本土が航空機によって爆撃された瞬間だった。

戦後の1962年5月、藤田の元に招待状が届く。

米国はオレゴン州ブルッキングス市からのものだった。
「貴方の勇気と愛国心に敬意を表したい」と書かれていた。
爆撃したその地の人々から、なぜ招待されるのか。
日本で評価されなかった自分が、どうして敵国から敬意を表されるのか。

藤田は“万が一”の時に備え、伝家の日本刀を荷物に忍ばせた。
いざとなったらこれで割腹自殺する覚悟だった。

だがそれは杞憂だった。
ブルッキングス市民は、
「米国本土を爆撃したただひとりのサムライ」と心から称えていたのだ。
藤田は感激し、罪滅ぼしとして、持参した日本刀を寄贈した。

それから36年後の1998年10月、藤田の遺族が同市を訪れた。
1年前に亡くなった藤田の遺灰を、
「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」
と書かれた標識の袂に埋めるためだった。
遺族らが歓迎を受けたのは言うまでもない。

※SAPIO2011年12月28日号
2008/11/06 09:00|年表リンク用資料
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