正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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以下、「WiLL」2011年4月号より引用

『南京大虐殺は真実ではないと思う理由』 鈴木史朗(フリーアナウンサー)

『南京大虐殺は真実ではないと思う理由』

鈴木史朗(フリーアナウンサー)

1938年、京都生まれ。
62年、早稲田大学法学部卒業後、TBSに入社し、アナウンス部へ配属、
その後報道局なども経験。
主な出演作品に、TBS『さんまのスーパーからくりTV』、
『水戸黄門』(ナレーション)、日本テレビ『オジサンズ11』など。

著書に『鈴木史朗の健康道場 ご長寿TVで長寿のコツ』(小学館文庫)。

■もう一度南京へ

TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、
私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。

毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、
クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、
今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという
会津若松の方にお会いしたことがありました。

撮影の合間に南京の話になり、私が
「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」
と声をかけると、その方が
「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」
とおっしゃった。

私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、
こんな話をして下さいました。

「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。
軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、
家宝の掛け軸をくれたんです。

さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。
一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。
だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、
南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。

それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、
大変のどかな日々だったのです。

この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、
「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、
笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。

キャプションには、「残虐な日本兵によって、
逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

ところが、この写真を見せたところ、
南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。

「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、
ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。
この写真、いただいてもいいですか」

他にも、実際に参戦された方々から
さまざまなエピソードやをお話しいただきました。

「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。
だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」

「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、
機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。
武士の情で彼らの墓を作ってやりました」

「南京戦後、中国人から
『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、
泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。
気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」

そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、
東中野修道氏や北村稔氏、
また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が
自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、
また中国での日々を思い出せば思い出すほど、
「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

■天津での日々

私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。
直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、
それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。

残された母は、私が一歳になるのを待って、
一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。

南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、
その一年半後には、もう私の母は女一人、
子供を抱いて中国にわたっていたことになります。

そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。
元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは
非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。

南京大虐殺は真実ではないと思う理由

引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、
写真はかぎられたものしか残っていませんが、
一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の
民団住宅前で撮影したものです。
私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。
中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、
妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。
近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に
私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。
背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、
「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、
水道の水などをもらって帰っていました。

「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業も
うまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。

父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、
自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。
その夫婦は恩義に感じてくれたのか、
三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と
日本風の名前を付けていて、
私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、
毎日一人で通っていたほどでした。
道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、
身の危険を感じるうようなこともありませんでした。

虐殺などが本当に起こっていたとすれば、
日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、
少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、
そのようなことはありませんでした。

それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。
家の近くを運河が流れていたのですが、
土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。

溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、
自宅まで連れて帰ってくれたのです。
川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、
中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」
ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、
中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。

天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など
戦況についてよく話していましたが、
「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

■中国人女性にモテた父
 
父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。
王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、
当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。

太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が
自転車で走り去るのを見て、
子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、
母はとても苦労していたようです。
父は俳優の上原謙のような男前でしたし、
明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、
大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、
女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父に
それほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、
中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。

しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、
父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、
老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

■南京ののどかな光景

胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。
父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。
署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、
どちらもとても素敵な女性でしたが、
口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。
「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

しかし、そう感じたということは、
逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、
日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。

三、四歳の頃には南京へも行っているんです。
まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。
南京のある中国人が、そんなお前の態度を見て
とても気に入ってほめてくれたんだ。
しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、
自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』
といって抱き上げてくれたんだよ」

また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。
「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、
南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、
強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

この話は非常に印象的だったのですが、
後のこの話に通じる事実があったことを知りました。

あのジョン・ラーベも日本軍宛に
「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、
また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、
貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して
感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、
報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、
いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。

■命からがら引き揚げ

歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号
「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。

私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、
まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。
とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、
この映画にはワイドショットが多用されているのですが、
報道記者としての経験から言っても、
ワイドショットでは不都合なものがあった場合、
それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、
あのような撮影はしません。

「不都合なものなどない」から、
安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

優しく、子供好きの日本兵、
そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。

もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、
あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、
コロリと態度が変わりました。
わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」
などと言いだしたほどです。

こちらはせめてと思い、財産と引きかえに
「持って帰ってはいけないといわれているので、
写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、
届きませんでした。
送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係で
スパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。
一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、
父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、
私と母はとにかく引き揚げなければということで、
私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って
塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。

銃撃を受けながら、
ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が
「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。
鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」
と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、
港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

■テレビ局の「自主規制」

命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。
仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、
日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。

社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、
「虐殺はなかったんじゃないか」
ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。

それがテレビ局の「自主規制」なのか、
自虐史観を刷り込まれているからなのか、
はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、
TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、
講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。

それでも、雑誌やテレビが
「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」
について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』
(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、
制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」
と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、
と提案したことがありました。

この映画は他の局で放映されたことはないし、
これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。
南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。

プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、
私は本当に嬉しかったんです。
「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、
会議で上の人間から何か言われたのでしょう、
有無を言わさず却下されてしまいました。

その後はスタッフが私を見る目が変わり、
目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、
「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。
にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に
加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。

すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、
「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、
いや人間としての務めではないでしょうか。

■日中の未来のために

「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、
日中が手に手を取ってやってくことはできません。
日本と中国は永遠に隣同士ですから、
その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育は
たださなければなりませんし、
このような状況は日本にとっても中国にとっても、
「最大の悲劇」としかいいようがありません。

私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。
その中国の方々が、このような「嘘」を
永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。

映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。
「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも
南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。
その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」

我々は、どんなに時間をかけても
「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。
それが「我々の子孫」……
つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。

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以下、「WiLL」2015年7月号より引用

konnanimokireinakuni tengokumitaida


総力大特集~戦後70年、私はこう考える
【こんなにもきれいな国、天国みたいだ】

鈴木史朗(フリーアナウンサー)
1938年、京都生まれ。62年、早稲田大学法学部卒業後、
TBSに入社し、アナウンス部へ配属。
『さんまのスーパーからくりTV』ご長寿クイズの司会や
『水戸黄門』のナレーションも務める。

〈壮絶な引き揚げ体験〉

私の一家は戦前、父が中国で日中貿易や軍需関係の事業をしており、
北京、天津に会社を持っていました。当時の中国は実に穏やかで、
子供が一人で遊んでいても何の問題もなく、
もちろんデモも暴動もありませんでした。

現在、中国では年間十万件から十五万件のデモや暴動が
起きていると言われています。
戦中の中国はいまよりも治安がよく、平和だったのです。
日本の統治に、中国市民としては何の不満もなかったのでしょう。

日本の軍人たちは実に模範的な兵隊さんで、
むしろ日本兵は拍手で迎えられていたほどです。
それは南京でも同じでした。
当時、南京大虐殺などはなく、幼かった私は南京陥落から四~五年後の
南京市内にも行きましたが、中国人は日本人を恨むどころか、
私を抱き上げて頬ずりしてくれたのです。


(上)天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したもの。
鈴木さんと二人の妹さんと、近所の中国人の子が一緒に写っています。
(下)天津市須磨街の鈴木さんの自宅付近で撮ったもの。
近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に
鈴木さんたちを乗せて遊ばせてくれています。
(「WiLL」2011年4月号の鈴木さんの寄稿より転載)



戦中の中国というと、何かそこかしこで戦争ばかりやっていたような
イメージですが、実際はそうではない。
ともすれば、中国は内地よりも穏やかだったと言っていいでしょう。

戦闘が起こっている最中も、中国人の少年が一生懸命、
河を泳いで渡ろうとして溺れたところを、
日本の軍人さんがさっと軍服を脱いで飛び込み、
少年を助け上げて中国の陣地に届けたという話を、
軍人さん本人から聞いたこともあります。

こういう話は中国にたくさんあったはずで、私の記憶にも
「どこへ行っても拍手で迎えられる日本軍」のイメージしかありません。

ところがそんな中国での日々は、敗戦によって一変しました。
父は事業が事業だったため「スパイ容疑」で抑留され、
裁判にかけられて死刑になるのではないかというところ、
社員だった中国人たちが動いてくれました。
「中国に貢献した鈴木大人(リンムータイレン)を
死なせたら子孫から恨まれる」と言ってかばってくれ、
なんとか処刑されずに済んだのです。

しかし、父が汗水たらして手に入れた会社の社屋、わが家の不動産や貯金、
家財一切、およそ数億円単位の財産は、すべて没収されました。

引き揚げ者全体でみても、
国家予算に匹敵する十九兆円もの財産が没収されました。
これは国際法違反だと思いますが、
戦後、日本で中国に対して「財産を返せ」という声は上がらずじまいでした。

〈七年ぶりの帰国〉

当時、八歳だった私も、戦争が終わってしばらく経ってから着の身着のまま、
下着など身の回りの僅(わず)かな荷物だけを背負って、
北京からタンクーまで向かいました。
途中、軍のトラックや、石炭運搬用の列車にも乗りました。

列車は乗るというよりも、体の大きな男性が一番下に横たわり、
その上に女性や子供が詰め込まれるという劣悪な状態で、
さらにそこへ中国の軍が砲撃してくる。当然、命を落とした方もいました。
これこそ、何の罪もない民間人を虐殺した国際法違反ではないでしょうか。

あとの道のりのほとんどの部分は徒歩でした。
私は、母と妹たちと一緒に中国の荒野を歩いたのです。
男である自分が父の代わりに頑張らなければと思いましたが、
道中で一歳の妹が死に、泣いてむずかる四歳と三歳の妹の手を必死に引いて
歩いた体験は壮絶で、七十歳を超えたいまでも夢に見るほどです。

大人も子供も区別なく、産まれたばかりの幼子を抱いている人や
妊娠している女性も、何の区別もなく大陸を彷徨(さまよ)ったのです。
途中で餓死する人、力尽きて命を落とす人たちもたくさんいました。

よくやくタンクーについた時、裁判を免れて車でやってきた父と、
奇跡的に合流することができました。
そこからはアメリカの軍用フリゲート艦に乗ったのですが、
当然、客室などはなく、甲板の上の戦車を載せるスペースに、
筵(むしろ)を敷いて寝ていました。

私は船倉でじっとしていられず、よく甲板に出ましたが、
吹きさらす雨風に打たれて見渡す限りの海を見ていると、子供ながらに
「本当に日本に着くのか」と絶望感に苛(さいな)まれたものでした。

しばらくしてようやく、佐世保に着きました。ちょうど桜の季節で、
「こんなにもきれいな国があるのか。天国みたいだ」
と思ったことを覚えています。中国は乾燥していて、
黄砂で空も空気も黄色く濁っていますから、非常に対照的に思えたものです。

一歳で祖国・日本を離れてから七年ぶりの帰国でした。

『忘却のための記録』という本によれば、引揚者は三百十九万人。
そのうち、私と同じように中国から引き揚げて来た人たちが五十万人。
その他、軍人・軍属が三百十一万人いますから、
計六百三十万人が戦後、壮絶な引き揚げを体験したのです。


産経新聞2015年8月5日朝刊より



〈この七十年を評価せよ〉

なぜ、このような引き揚げの事実が戦後の日本で
ほとんど顧みられなかったのか。朝鮮半島からの引き揚げ体験を書いた
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんの『竹林はるか遠く』が
アメリカで発刊されると、在米韓国人らが猛反発して
出版停止に追い込んだということもありました。

朝鮮半島で日本人たちが暴行や強姦、略奪に遭っていたという、
韓国人らにとっては「不都合な真実」が綴(つづ)られていたからでしょう。

日本でも戦中の加害行為ばかりが取り沙汰され、
一般市民である我々のような立場の人たちが一切合財(いっさいがっさい)、
財産を没収されたことについて、中国への非難どころか、
ほとんど話題にすら上らなかったのはどうしてでしょうか。

中国や韓国の世論工作や「敗戦国である」との負い目から、
日本政府自身が封印してしまったのかもしれません。
しかし戦後七十年を迎え、引き揚げ経験者たちもこの世を去るか、
残っていても高齢の方ばかりです。幼少期に引き揚げを経験した
私たちの世代が辛うじて残っているくらいでしょう。

私たちの財産を取り上げた中国が、
いまも謝罪や賠償を求めてくるのはとても許せない。
歴史の事実として、引き揚げ体験者がどのような目に遭ったのかを
是非、多くの人に忘れないでいただきたいのです。

戦後七十年、日本はよく頑張りました。
世界の平和と安寧、繁栄のために力を尽くしたと思います。

安倍総理が米議会演説で言ったように、戦後の日本ほど痛切な反省のもと、
世界平和と民主主義のためにここまで模範的に努力した国は、
他にはないのではないかと思います。

世界は「戦後七十年」を評価すべきであり、
七十年より前のことばかりを騒ぎたてるのはおかしい。
ならば他国はこの七十年、一体何をしてきたか。
なかでも日本を「軍事的に台頭しようとしている」「歴史を忘れるな」
などと折に触れて批判してきた中国はこの七十年、
戦争や他民族の弾圧ばかりを行ってきたではないですか。

日本統治の穏やかな間は文句を言わなかったにもかかわらず、
日本が負けた途端に足元を見て市民の財産まで奪い、
なおも「謝罪がない。賠償せよ」と騒ぎたてる中国は卑怯者と
言わざるを得ない。その尻馬に乗って騒いでいる韓国はなおのことです。

〈日本は胸を張っていい〉

日本人は戦後、一貫して「反省」と「謝罪」の姿勢を取ってきました。
しかし、いつまでもウジウジと過去ばかり振り返るのではなく、
この戦後七十年の間に民主主義と平和を重んじる国に成長し、
国際社会に貢献している日本は立派だ、
と自らを肯定してもいいのではないでしょうか。

東南アジアへの援助を惜しまず、中国に対してすら、
ODAで莫大な資金と技術を提供してきた。
お礼を言われてもいいくらいで、謝罪を求められる筋合いはありません。

黄文雄さんが「中国は謝罪しろという前に感謝しろ」と仰っていましたが、
中国、韓国以外のアジアの国々も内心、
そう思っているのではないでしょうか。

アメリカ一極支配が弱まり、今後は日本がアメリカを
支えなければならなくなってきました。
かつての敵同士が手を組み、世界の平和と民主主義のために手を携える。
そして世界に民主主義と平和と法の支配を実現した国として、
日本は世界のお手本にならなければならない。未来志向でいきましょう。

戦後も七十年、もう胸を張ってもいい頃です。これからも頑張ろう、日本!

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いわゆる南京大虐殺・URL図書室
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2008/11/04 09:00|年表リンク用資料
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