正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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白人の侵略の歴史~鎖国~明治維新~日清戦争

「日本の歴史再発見(8)白人の潜在的特性」より引用
http://servelle.main.jp/elife/02/post_29.html

「日本の歴史再発見」なのに、中国のことや白人のことをなぜ?
と思われる方もいらっしゃると思います。

しかし、日本の歴史、特に近代史を理解するためには、
日本と関わった国々のことを知る必要があるのです。

中国、韓国、ロシア、ヨーロッパ、アメリカなどの歴史と
彼らの特徴が理解できれば、私ちたち日本人が洗脳された日本の歴史の
「嘘」が見抜けるようになるので、しばらく我慢してお付き合いください。

今回は、つい70年ほど前まで
世界を植民地化していた白人の特性についてです。

いつも言うように、中国や韓国同様、
白人の方々も個人的には素晴らしい方々だと思いますが、
大きくマクロの歴史をみると肉食系の一面が見えてきます。

今回と次回は少し残酷な描写になりますが、
歴史を理解する上での大きなポイントになりますので悪しからず!m(_ _)m

●白人はなぜ侵略的なのか?

それは彼らの住んでいるヨーロッパの
地理的特徴や天候と無関係ではありません。

ヨーロッパの土地は日本よりもはるかに北に有ります。
たとえばイギリスの位置は、日本のはるか北の千島列島の、
さらに北のカムチャッカ半島と同じ緯度です。

大地は大昔、氷河により地表の土壌が削り取られて、
岩石や砂利が地表を覆っています。
だから石の遺跡が数多く、石の加工のためにノーベルがダイナマイトを
発明するのもこうした事情があったのです。

そのような理由で農業には適さず、
昔は日本などに比べると同じ面積で採れる作物は
数分の1だったと言われています。

冬の長いヨーロッパでは、天候不順は致命的な飢饉を招き、
来年の種用にとっておいた穀物まで
食用にしなければ飢え死にしてしまいます。

このような過酷な風土では、コツコツと農業で作物を収穫するよりも、
略奪によって食糧を奪う方が
手っ取り早い(効率が良い?)ということになります。

よって中世までのヨーロッパでは、
普通の庶民でさえ略奪や防御のために自宅に武器を持ち、
少し荒っぽい連中は欲しいものを手に入れるために、
船でヨーロッパ中を駆け巡って略奪をして回ったのです。
(ヴァイキングの発生)

日本などでは泥棒や強盗は昔から悪い、というのは当たり前の感覚でしたが、
ヨーロッパの白人にとっては、略奪は勇ましく勇敢で頭が優秀な証拠でした。

今でもヨーロッパの人は、
先祖が勇敢なバイキングだったことを誇らしげに語ります。

日本では戦前までは家に鍵をかけないのが普通でした。
当時の白人社会は隙さえあれば略奪、強盗が当たり前で、
自分のものは鍵をかけて守らなければならなかったのです。

●白人はなぜ残虐的なのか?

また土地が農業に向かないので、狩猟や牧畜や酪農が生活の基本になります。

狩猟は動物を盗るために罠や囮を仕掛け、
獲物を騙したりおびき寄せたりします。

捕まえた動物を食べる為には殺して皮をはいで血を抜き、
料理する必要があります。
動物が可哀そうなどと憐れみをかけていては、
ヨーロッパでは生きて行けなかったのです。

ユダヤ教やキリスト教でも「子羊」を殺し、その血肉を神に捧げます。
アブラハムは自分の子であるイサクを殺して神に捧げようとしますが、
天使に止められます。(旧約聖書)

この様に何千年にもわたる厳しい環境の中で、
ヨーロッパの白人たちがどう猛な肉食動物の如く
残虐性を持つようになったは、ある意味仕方無かったのかもしれません。

しかしそのお陰で、その後の歴史で世界中の有色人種が、
白人から動物同様に虐待され何億人も殺されたり奴隷にされたのは、
人類にとって大不幸と言わなければなりません。

つまりどうやら白人の言う「動物」とは、
黒人や黄色人種も含まれているのです。

そう考えれば、アメリカがドイツやイタリアではなくて、
日本に原爆を落としたり、100以上の都市を無差別空襲して
市民をゴミのように焼き殺したにもかかわらず、
全く罪悪感を持っていない理由も容易に理解できるのです。

●ヴァイキングの侵略

ヴァイキングは8世紀から300年以上に渡り、
ヨーロッパ中を侵略して恐れられました。
主に現在の北欧地域の武装船団(海賊)が中心でした。

北欧(ノルウェー、スウェーデン、デンマークなど)というと、
現在では世界一の福祉、環境、教育先進国として、
共生的で住みやすい国造りをしていますが、
昔はヨーロッパ中を席巻した海賊だったのです。

今の北欧諸国を見ていると、
歴史上の何れかの時点でヴァイキングの遺伝子が、
全てアメリカに移ってしまった様な気がします。(^_^;)

とにかくヴァイキングは、
その卓越した航海技術で細長いロングシップを多くのオールで漕ぎ進み、
ヨーロッパ中を略奪して回りました。

●十字軍の正体

ヴァイキングのヨーロッパ内の侵略が一段落すると、
次はヨーロッパによるイスラム圏への侵略がはじまりました。
その侵略者の名は十字軍!

十字軍とは1096年から1270年まで7回にわたって行われた、
キリスト教徒による遠征です。
私たちは十字軍と言うと、西欧のキリスト教徒が
聖地エルサレムを異教徒の手から奪回するという
聖なる遠征だと教えられています。

しかしそれは美化された歴史です。

エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の
三つの兄弟宗教(兄弟であるがとてつもなく仲が悪い)の共通の聖地です。

当時のエルサレムは、イスラム教を国教とする
セルジューク・トルコ王朝の支配下に有りました。

この聖地エルサレムを取り戻す、というのが表向きの遠征理由ですが、
実はヴァイキングの延長のようなものでした。

参加した兵士たちは宗教的信念と言うよりも、
イスラム社会で略奪した戦利品の山分けや土地の分配など、
財産を得たい欲求に煽られた人々だったのです。

第1回目の十字軍遠征でエルサレムが十字軍の手に落ちると、
大虐殺、大略奪が行われ、大勢のイスラム教徒やユダヤ教徒は
生きながら焼き殺されました。

7回にわたる十字軍の東方遠征の暴徒によって
その沿道での略奪、暴行、殺りくは凄まじく、
まるで野蛮人のヴァイキングそのものでした。

十字軍側の兵士の死亡は100万人を超えましたが、
イスラム教徒やユダヤ教徒や沿道の住民たちは
その何倍も殺されたといわれています。

このように十字軍とは、宗教(キリスト教)に
名を借りた侵略と略奪の軍隊でした。
この白人の十字軍魂は、
現在でもアメリカのアフガンやイラク攻撃などに表れているのです。

●様々に利用されたキリスト教

キリスト教は十字軍など、あらゆる侵略や弾圧に利用されました。

キリスト教の神を信じない異教徒は何万人殺しても、
神がその罪を許してくれるのです。
(一神教の選民意識はこのようにとても危険です。)

まさかイエス・キリストは、
このようなつもりで教えを広めたとは思いませんが、
結果としては世界で一番侵略や略奪や殺りくに利用されてしまったのです。

中世のヨーロッパでは、ローマ・カトリックの異端審問(魔女裁判)が
盛んに行われました。

カトリック以外の異端者をお互いに密告させ、
神の名による(いい加減な)裁判と拷問で自白させ、
生きながらの火刑(火あぶり)に処したのです。

1484年に、教皇イノケンティウス八世が魔女裁判を公認してから、
200年で無実の罪で殺された犠牲者は最大900万人と言われています。

神の名において、端審問や魔女狩りで多くの人がて悲惨に殺されました。

人間を幸せにするはずのキリスト教が、
白人のお陰で逆に人間を不幸にするための道具になってしまったのです。
そしてそれは現代でも続いているのです。
(ブッシュ前大統領も敬けんなクリスチャンです)

そして白人は1492年(コロンブス)から1945年(終戦)までの間に、
その不幸の輪を世界中に広めることになって行くのです。

●大航海時代の世界侵略

十字軍が一段落した後15世紀になると、
複数の帆や羅針盤を備え外洋を航海出来る大型船が発明されました。

ヴァイキングでヨーロッパ内、十字軍で中東のイスラム圏を侵略、
略だつした白人は、いよいよ世界中に出かけて行き、
平和に暮らしていた先住民たちの国々を
次々と自分たちのものにして行きます。

そのやり方はまるで獲物を捕まえて、皮を剥いで食べるという、
白人の残忍な特性がいかんなく発揮されています。

そしてその魔の手は、ついに戦国時代の日本にも迫ります。

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「日本の歴史再発見(9)白人の世界侵略」より引用
http://servelle.main.jp/elife/02/post_32.html

前回は白人の侵略的・残虐的性格について述べました。

もちろんヨーロッパの白人社会は悪いことだけではなくて、
産業革命により世界の近代化に大貢献しています。

近代化が良いことかどうか?という議論はさておきまして、
今私たちが便利で快適な生活が送れるのは、
間違いなく白人のお陰と言えるでしょう。

私は個人的にヨーロッパの友人もいますので、
彼らの個人的な善良さをよく知っています。
底抜けの明るさとユーモアもあります。

しかし1492年から1945年までの間に、自分達と肌の色の異なる人々を
何億人と殺害しその人たちの国々を奪っていったというのも事実です。

それは数百年に及ぶ白人の、有色人種に対する大強盗と大虐殺の歴史です。

●白人至上主義...人種差別的思想

世界の三大人種の一つであるコーカソイド(白人)が
モンゴロイド(黄色人種)やネグロイド(黒人)に対して、

「肌の色が黒や黄色い者たちは、それだけで神への冒涜である。」

「我々は先天的に優れているので、彼ら有色人種を奴隷にしたり、
収奪しても神はお許しになるし、同じ人間としても認めなくてもよい。」

という傲慢な思想が白人至上主義です。

中国の「中華思想」、韓国の「小中華思想」、白人の「白人至上主義」など、
日本の「和」の思想と相いれない困った思想が、世界にはあふれています。

●大航海時代からそれは始まった

今から約500年前に、外洋を航海出来る船が発明されました。

その船は、外洋の高波に対しても船体の安定を保つ構造を持ち、
3~4本の大きなマストと羅針盤を備え、乗員、物資、貨物を運ぶための
豊富なすスぺースを持ち、世界中を走りまわるようになりました。

これにより、世界は急速に狭くなりました。
最初の頃、各国の船はインドを目指しました。

インドには貴重な胡椒などのスパイスが豊富で、
肉料理の味を引き立てますので、
それをヨーロッパに持って帰れば大儲け出来ます。

インドの胡椒は当時中近東のイスラム世界、アラブ人達が独占しており、
陸路で高級品としてヨーロッパに入って来ていたのです。

それを船で大量に運べば利益は白人が1人占めできます。

各国はインド航路を発見するために、スペインはコロンブス(1492年)を、
ポルトガルはバスコ・ダ・ガマ(1498年)をインドに向けて出発させました。

御存知のようにコロンブスは逆転の発想で、西回りでインドを目指し、
アメリカ(西インド諸島)を発見、バスコ・ダ・ガマはアフリカ南端の
喜望峰を回り、インドへの航路を発見します。

ヨーロッパの白人が、
いよいよ世界中の有色人種に襲いかかる歴史の始まりです。

●キリスト教が果たした役割

前回もキリスト教が侵略や弾圧に果たした役割を述べました。

白人の有色人種への植民地化にも、やはりキリスト教が利用されました。
まず宣教師が先住民の所へ行き、神さまの尊い教えを広めます。

先住民の王様よりも偉い神さまの存在を信じる人が増えると、
王様の権威は地に落ちます。

そして「神様派」と「王様派」との内乱が起こる(わざと起こす)と、
軍隊がやってきて「神様派」を助け、
「神様のご意思」により王様派を壊滅させてしまいます。

「十字架と銃による支配」これが多くの先住民に対する
白人の主な占領作戦でした。
神の名においては、異教徒に対して何をしても許されたのです。

元々肉食系の白人が、キリスト教という異教徒を許さない宗教を道具として、
今度は世界中をヴァイキングのように荒して回ったのです。

●西を目指したスペインの中南米侵略

コロンブスに続き西インド諸島にやってきたスペイン人は、
そこで略奪の限りをつくし、1496年頃から1540年までの数十年で、
カリブ海を中心とする中米の先住民はほぼ絶滅させられました。

1621年スペイン人コルテスは、メキシコのアステカ帝国(皇帝モクテスマ)
を滅ぼしました。数百万人を殺したとされています。

1531年、スペインのフランシスコ・ピサロは、
約180人の兵隊と37頭の馬を引き連れペルーへの侵入し、
2万人のインカ帝国軍を破り大半を焼き殺しました。

そしてインカ帝国の第13代皇帝アタワルパを絞首刑にしてしまいます。

コロンブスが始めて到着した1492年から1570年頃までに、
中南米の先住民を数千万人殺して、
金銀財宝を奪ってヨーロッパに持ち帰ったのです。

●東を目指したポルトガルの東洋侵略

バスコ・ダ・ガマが発見した喜望峰回りでインドに到達する航路を
さらに東にたどり、ポルトガルは次々にアジア諸国を征服して行きました。

目的はもちろん貴重な香辛料(胡椒、肉桂など)で、
大儲けするためでした。

1511年にはマレー半島南部のマラッカ王国(当時全盛期)を征服し
東洋貿易の拠点にし、その後大発展!

1557年には南シナ海を北上し、マカオを獲得。

その少し前の1543年には、台風で難破したポルトガル船が種子島に漂着し、
鉄砲を伝えたのです。

そして1549年ポルトガル人の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、
キリスト教の布教を開始しました。

バスコ・ダ・ガマからたった数十年で、
ポルトガルの東洋侵略の野心が日本まで及んできたのです。

日本はその頃戦国時代の真っただ中!
最終的にはポルトガルの日本支配計画は失敗しますが、
この辺りのことは改めて述べさせていただきます。

●白人の世界侵略史

16世紀...スペインとポルトガルによる中南米と東洋への侵略。

17世紀...オランダがポルトガルの後を追って東南アジアを支配。

18世紀...フランスが北米とアフリカに進出、奴隷制度が盛んに。

19世紀...イギリスが全世界を植民地化、搾取し産業革命の原資とする。

※世界に誇る大英博物館の展示物は、
世界中の植民地から収奪した宝物が数多くあり、
その中には到底国外持ち出しが許されないような
(日本で言えば3種の神器など)物も多くあると言われています。

この結果白人以外の国で植民地になるのを免れた有色人種の国は、
日本、タイ、トルコ、エチオピアのたった4ヶ国だけです。

他の国(種族)は良くても植民地として搾取され続け、
最悪侵略されて皆殺しに遭っています。それは1945年の終戦まで続きます。

白人の有色人種に対する侵略がいかに残酷であったか!
歴史が明確に証明しています。
冒頭にも書いたように、白人の歴史の全てが悪だとは申しませんが、
彼らの我々に対する「差別」は現在でもまだ存在しているのです。

そしてその白人の植民地化の野心に対して、
ただ一国立ち向かったのが日本なのです。

まずは戦国時代の日本に伸びてきた、
スペインとポルトガルの摩の手に対して当時の日本人が
いかにして国を守ったのか?次回見て行きましょう。

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「日本の歴史再発見(10)白人の侵略を守った鎖国」より引用
http://servelle.main.jp/elife/02/post_36.html

1492年のコロンブスから始まった大航海時代の幕開けは、
同時に白人の有色人種に対する侵略の歴史の始まりであったことは、
前回述べました。

今回はその魔の手が日本にも迫り、
その時日本人がどのようにして植民地化を防いだのか?
を明らかにしたいと思います。

●教皇(法王)による「トルデシリャス条約」

このトルデシリャス条約というのは、1494年教皇によって決められたもので、
ポルトガルとスペインが植民地の取り合いで喧嘩をしないように、
地球を二分割した条約です。

大西洋の真ん中に縦線(西経45度の子午線)を引いて、
東をポルトガル、西をスペインの取り分とすると、
なんとキリスト教(カトリック)の最高指導者である教皇が決めたのです。

そしてこの子午線の地球の裏側、
東経135度が日本の明石市を通る子午線なのです。
つまり明石市から東はスペイン領、西はポルトガル領と、
勝手に決められたのです。

●スペインとポルトガルが日本でぶつかる

1543年ポルトガル人の船が台風に遭い種子島に漂着、
彼らが初めて鉄砲を日本に伝えました。

その後、1549年イエズス会の宣教師であり、
スペイン人のフランシスコ・ザビエルは、
鹿児島に上陸し、早速キリスト教の布教を開始しました。

コロンブスやバスコ・ダ・ガマから数えてたった数十年で、
両国は地球の裏側の日本にまで侵略の手を伸ばしてきたのです。

●好奇心旺盛で器用な日本人

日本人はよく、海外のものを真似るのが上手い。
しかもただ真似るだけではなく
オリジナルよりも高性能に改良するのが得意だと言われます。

鉄砲が伝来した時にも、その特性が活かされました。

種子島に漂着したポルトガル人から大金を支払って購入した鉄砲を、
早速、鍛冶屋に命じて複製させました。
当時の刀鍛冶などは日本刀を作るための高い技術を持っていたのです。

なんと4ヶ月後には複製を完成させてしまいます。

その1年後には全国に3,000挺の鉄砲を作成、
さらに50年後(関ヶ原の戦いの頃)には20万挺の鉄砲が
全国の戦国大名に行き渡りました。これは当時世界一です。

●侵略の第1段階...キリスト教の布教

他の有色人種の国々を侵略したのと同じ手口、
まず宣教師が行きキリスト教信者を増やす。
織田信長や豊臣秀吉よりも偉いデウスの神を信じさせれば、
彼らの権威は地に落ちます。

その後鉄砲を持った軍隊が上陸し、
キリスト教信者と呼応して現政権を倒すという計画です。

最初信長はその陰謀に気が付きませんでした。
珍し物好きの彼は宣教師を優遇し、
彼らから地球儀や西洋の甲冑を貰って愛用していました。

また彼らの祖国と貿易すれば、莫大な利益が得られるのです。

当時一番鉄砲を活用した信長は、
鉄砲に必要な火薬の元になる硝石(日本国内ではほとんど取れない)
を南蛮貿易で得るために、宣教師を優遇しました。

大名の中にもキリスト教に改宗する「キリシタン大名」が現れてきました。
キリシタンを保護し自らも改宗したのは、信仰心もあったとは思いますが、
彼らの祖国との貿易で利益や硝石などを得るための計算もあったと思います。

一説によるとキリシタン大名たちは、
硝石と引き換えに日本人女性を白人たちに売り払い、
その数は数万人にも及ぶと言われています。

●白人の陰謀に気が付いた豊臣秀吉

信長が本能寺の変(1582年)で倒れた後政権を取った秀吉は、
最初はキリスト教の布教を許可していました。
もちろん貿易での利益や火薬(硝石)を得るためです。

しかし、1596年に次の事件が起こります。
スペイン船が土佐(高知)に漂着した時に、
その水兵の一人が取り調べの時に発言した記録が残っています。

そのとんでもない内容は...

「我が国イスパニア(=スペイン)は、
この世界地図で分かるように広大な領土を持っている。」

どうしてそんなに領土を拡大したのかと質問されると...

「我が国ではまず宣教師を派遣してその国にキリスト教徒を増やし、
信者の数が相応の数になった時に軍隊をさし向け、
信者の内応を得てたやすく国土を征服するのです。」

と手品の仕掛けをばらしてしまい、
この証言が奉行所から秀吉に報告されたです。
(日本の歴史14鎖国:岩生成一著)

実はその前から、秀吉は宣教師に対する警戒感を持っており、
実際に1587年にはキリスト教禁教令を発布しましたが、
貿易の方は歓迎するという姿勢だったので徹底されませんでした。

しかしこの事件以後、徹底してキリシタンを排除して行きました。

●江戸幕府(1603年~)で鎖国が完成

豊臣政権を倒した徳川家康は、やはり貿易の利益を得たいがために
キリスト教を容認していましたが、
やはり危険を感じて1612~13年に禁教令を発布しました。

それでも隠れキリシタンとして、信者の数がどんどん増えていったので、
宣教師やキリスト教とに対する幕府の弾圧は強硬になりました。

とうとう幕府は1633年に鎖国令を発布しましたが、
弾圧に反発したキリスト教徒が1637年「島原の乱」を起こしました。

12万の幕府軍が、天草四朗率いる3万人の反乱軍ほぼ全滅させて、
ようやく収まりましたが、幕府は急いで鎖国体制を完成させました。
(1641年)

その後幕府は長崎の出島において、唯一オランダとのみ交易をします。
そして幕末にペリーの黒船が来るまで平和を謳歌するのです。

ちなみにオランダはポルトガルやスペインと対立していたので、
幕府に好まれたと言われています。
オランダは幕府の方針に忠実に貿易だけの付き合いをしました。

もしオランダがスペインやポルトガルと仲が良かったら、
さらに厄介なことになっていたかもしれません。

●鎖国が国を守った

現代の感覚から言えば、キリシタンへの惨い弾圧は残酷に思われますが、
当時の政権が自分たちを守るための措置だったとも言えるのです。

またポルトガルやスペインにとって不幸だったのは、
彼らが侵略した他の有色人種の人たちと異なり、
当時の日本は戦国時代から江戸時代という武士の世の中だったことです。

今でもバチカンに残っている多くの宣教師からの報告、
「日本人は頭が良く礼儀正しく、
また勇敢で軍備も優れているので占領するのは困難だ」
という意味の手紙が残っています。

当時の日本に秀吉や家康のように、
天才的な政権担当者が居たことも幸いでした。

蒙古襲来の時も鎌倉幕府という武士の政権でしたが、
もしあの時に平安時代の貴族の世の中なら、
簡単に元に侵略されていたでしょう。

軍事政権の良し悪しは別として、
もしポルトガルとスペインが侵略の手を日本に伸ばしてきた時に、
武士の世ではなければ、他の先住民のように皆殺しか奴隷か、
良くても植民地にされて搾取され続けたかもしれません。

こうして蒙古襲来に続いて、
白人の侵略にも日本は耐えて跳ね返したのでした。

しかし230年後、蒸気機関で動く鉄の船(黒船)が発明されたことによって、
日本は再び侵略の危機に陥ります。
その危機感が明治維新の原動力になったのです

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「日本の歴史再発見(11)幕末、徐々に迫る侵略」より引用
http://servelle.main.jp/elife/02/062_1/11.html

一難去ってまた一難!

戦国時代から江戸時代初期にかけて、
白人の侵略を完璧に防いだ唯一の国日本!

さすがの白人も
「日本だけは他の有色人種の国とは全く異なるので手を出すな!」
と、植民地化を諦めました。

(宣教師たちの本国への報告にもその事が書かれています)

そのお陰で江戸時代は幕末までの二百数十年、
世界の歴史上まれな平和が維持されたのでした。

しかしその間に世界の情勢は大きく変化し、
江戸時代の平和は蒸気機関で動く鉄製の船(黒船)の出現により、
無残にも打ち破られるのです。

●まず北からロシア人が南下の恐れ

私たち日本人は、江戸時代にただ鎖国をして門戸を
閉ざしていたばかりではありません。

唯一長崎の出島において貿易をおこなっているオランダからも、
海外の情報は刻々と入ります。

江戸時代(1603年~1868年)も後期に差しかかると、
海外の動きが少しづつ変化してきました。

まず最初に日本を狙ったのはロシアです。

1787年に林子平が「海国兵談」にて、当時ロシア人が千島から南下し、
蝦夷地に出没するようになったため、
それに備えて海からの敵に急いで備えるように提言しました。
しかし幕府は「世を惑わす書」として版木を没収してしまいました。

しかし幕府は念のためロシア人の南下に対して、
北海道に「松前奉行」をおいて北方の警備に当たるとともに
北方探検(調査)を開始しました。

1792年にはロシアの使節ラスクマンが根室に、
続いてレザノフが長崎に来て通商を求めますが、幕府はこれを無視します。

1808年さらに危機感を抱いた幕府は、
伊能忠敬の弟子である間宮林蔵に北方の調査を命じました。

伊能忠敬の日本地図(伊能図)の北海道の部分は、
ほとんど間宮林蔵が作成したのです。

彼は蝦夷地(北海道)から樺太、さらに間宮海峡を渡って大陸に達し、
黒竜江(アムール川)付近まで到達、
ロシア人の動向を詳しく探り、幕府に報告しました。

※ちなみのこのロシアの南下政策は、
幕末から明治には日露戦争の原因となり、
大東亜戦争後、現在の北方領土問題にも影響を与え続けています。

●大英帝国も日本を狙う

同じく1808年にはフェートン号事件が勃発!
イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入、
日本人が人質に取られ食糧と飲料水の補給を求めてきたのです。

この当時はスペイン、ポルトガル、オランダよりも
イギリスが世界中を席巻し、日の沈まぬ国、大英帝国を築きつつありました。

平和ボケしてしまった当時の長崎奉行所では、
世界一勢いのある国イギリスの要求を飲むしかなかったのです。
(長崎奉行はこの不始末のため切腹!)

ちなみにイギリスはこの後1840年中国(清)にアヘン戦争を仕掛け、
香港など沿岸の要所を奪取し、日本を虎視眈々と狙っていたのです。

これに懲りて幕府は海外の船舶に対する警戒を強化し、
ついに「異国船打払令」を出して、
異国船は全て撃退する方針になったのです。

●アメリカの日本来航はぺりーが最初ではない

アメリカは実は、
ペリーの来航以前から日本の周辺をウロウロしていたのです。

石油が発見されるまで、鯨の油が代わりを務めました。
石油の単位を表すバーレルというのは、鯨油を入れる樽のことです。

当時のアメリカは世界一の捕鯨大国!
太平洋を自分の庭のように捕鯨活動をしていました。

高知沖などはクジラが良く捕れます。
その海域では日本人の漂流者を時々助けていました。
(有名なジョン万次郎もその一人です)

よってアメリカとしては太平洋の対岸である日本が、
捕鯨船の食糧や飲料水、薪などを補給する基地を
提供してくれると大助かりです。

またアジア進出に出遅れたアメリカは、
日本と通商を開くことによりアジアの入り口を抑えることが出来ます。

(アメリカのアジア戦略にとって日本が重要な位置にあるということは、
現在でもまったく同じことで、今、国内に多くのアメリカ軍基地があるのも
アジアへの抑えに適しているからです。)

1837年アメリカの民間商船モリソン号が、
日本への手土産として7人の漂流した日本人を連れて、
平和的に?通商を求めに来ました。
表向きは捕鯨船の補給基地の提供を求めたのです。

しかしこの時幕府は、
「異国船打払令」に基づき大砲を撃って追い払ったのです。

でも日本に領土的野心を持つアメリカは、これくらいでは諦めません。

●ついに黒船来航

1853年アメリカのペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に現れました。

歴史小説やドラマなどでは突然現れて、
大騒ぎになったように描かれています。

「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も寝られず」
という川柳が有名です。江戸の庶民は大騒ぎしたのでしょう。

しかし、決して突然現れたわけではなく、
幕府も1年ほど前から情報を手に入れていたようです。

鉄でできた軍艦(黒船)は、大航海時代の帆船などとはけた違い!
蒸気機関(エンジン)で素早く航行し、
大砲や武器弾薬を大量に積み、兵隊も大勢乗せることが出来ます。

島国日本は海が天然の要塞の役目を果たしてきましたが、
黒船の出現によって逆に国の周りのどこからでも、
一個師団の攻撃を受ける危険な国となったのであります。

歴史上三度目(元寇、大航海時代の侵略、今回...幕末)の
亡国の危機が迫りました。

いよいよ世界の奇跡、倒幕から明治維新の革命に向けて、
数百人の志士たちが動き出します。

彼らは自分の名や命よりも日本の国の独立維持を求め、
死に物狂いで幕府を倒すのです。

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「日本の歴史再発見(12)明治維新の奇跡」より引用
http://servelle.main.jp/elife/02/12.html

明治維新というと、普通私たちは古い武士の政権である江戸幕府を倒して、
明治の近代国家に生まれ変わった、国内の政権交代だと認識しています。

しかし、そのような国内だけの視点では、
世界史の流れの中での明治維新の果たした大きな役割は見えて来ません。

その本質は我が国の中での出来事だけではなくて、実は...

1、日本が白人国家の支配から逃れるため、国内の古い体制を壊した革命。

2、有色人種で初めて近代文明国家を目指すことを示した、
世界史上の大事件。

だったのです。

●不平等条約締結

浦賀に現れたペリーは江戸幕府を大混乱に陥れて、
いったんは帰国しましたが、
約束通り次の年(1854年)軍艦7隻を率いて浦賀に入港しました。

ペリーは早速幕府と交渉に入ると同時に、
江戸湾を測量して正しい地図を作成し始めました。
これは江戸湾から大砲で、江戸城などを砲撃するための準備です。

幕府側も対抗策として今のレインボーブリッジの近くに
砲台場(お台場)を築き、ペリーを牽制しました。

そこでペリーは砲台場からは死角になり、
しかも江戸城が狙える場所をなんとか見つけたかったのです。

ペリーは、以前シーボルトによって
ヨーロッパに持ち出された伊能忠敬の日本地図(伊能図)を手に入れていて、
江戸湾を少し測量をして伊能図が正確だったことを確かめると、
その後は測量を中止してしまいました。

伊能図を使えば正確に江戸城を狙えるからです。

幕府は粘り強く交渉しましたが、
ついにペリーの砲艦外交
(大砲と軍艦で威嚇しながら交渉を有利に進めること)に屈し、
日米和親条約とその4年後には日米修好通商条約を結ばされました。

これらは社会科で習った通り、
相手国の治外法権や日本の関税自主権放棄を認めるという
屈辱的な不平等条約だったのです。

この不平等条約を締結したお陰で、
我が国の数十年間の国家的損失は莫大だったといいます。
外交は国として大切な仕事なのですね!

歴史を大きく見ると、この時の日本とアメリカとの外交開始時の因縁が、
80年後の日米開戦に、一本の糸で結びついているのです。

●列強もアメリカに同調

アメリカと日本の不平等条約締結を眺めていたヨーロッパの列強
(オランダ、イギリス、フランス、ロシア)からも、
同様の条約を締結させられました。

今まで鉄壁の防御を誇ってきた日本でしたが、
アメリカの黒船を突破口にして、
白人国家が日本に対して一斉に襲いかかってきたのです。

このままでは日本は、白人たちにずたずたに分断統治されかねません。
江戸幕府はじめ日本国中がこの国難に対して、未曾有の危機感を持ちました。

幕府は国難の打開策として朝廷の権威を借りるため、
孝明天皇の妹である皇女和宮を13代将軍徳川家茂の正室に降嫁、
国内の結束を固めようとしたのです。
(これを公武合体といいます)

ちなみに家茂の義理の母は12代将軍家定の正室、天璋院篤姫ですので、
和宮と篤姫は嫁と姑の関係になります。
(みなさまよくご存じだと思います)

ペリー来航から明治維新までの15年間は国内は大混乱!

攘夷(夷人:外国人をしりぞける)か
開港(開国する)か、
勤皇(天皇に忠義を尽くす)か
佐幕(幕府を補佐:味方する)か、

など様々な立場の勢力が争うのです。

国の内部がこのように分裂して争うことは、
列強の侵略のチャンス!フランスは幕府を支持し、
イギリスは反幕府勢力を応援したりして、国内の動乱を扇動したのです。

●薩摩と長州

反幕府勢力の筆頭は薩摩と長州です。

この二つの藩はいずれも外様(将軍家と疎遠)藩でした。
なぜかというと、薩摩の島津藩は関ヶ原の戦いで石田光成の西軍に付き、
戦い終了後そのまま鹿児島まで走って逃げ帰ったのです。
戦後徳川家康から、九州一の大大名から九州の一番端の
鹿児島県の大名にされてしまいました。

毛利家も石田光成から西軍の総大将に担ぎ出され、
戦後は中国地方の大大名から
本州の一番端の山口県の一大名にされてしまいました。

徳川家康に逆らって、その後江戸時代を通じて
冷や飯を喰らわされていた両藩が二百数十年後に
徳川幕府を倒すことになるのは、何やら歴史の皮肉を感じます。

両藩とも最初は攘夷派として、
薩摩はイギリスと単独で戦い(1863年薩英戦争)、
長州もイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四ヶ国と戦って
コテンパンにやられます。

しかしこのことで列強の強さを認識した両藩は、
単なる攘夷では日本は滅ぶとの危機感を強く持つことになって、
倒幕への道を歩み出すこととなるのです。

特に薩英戦争でイギリスは薩摩の軍事力が意外に強く、
また薩摩隼人の勇敢さなどを知り、
その後イギリスと薩摩は接近することになります。

●坂本龍馬の海援隊と薩長同盟

海援隊とは坂本龍馬が結成した貿易会社です。
(日本最初の株式会社とも言われています。
ここの経理を担当していたのが後年三菱財閥を起こす岩崎弥太郎です)

主にイギリスのグラバー商会(長崎のグラバー邸で有名です)と
銃器の取引を開始し、薩摩藩などに銃器などを卸す仕事をしていました。

以前、龍馬は勝海舟の弟子になり、以下のように教えられました。

「日本を救うためには日本国内で争っていてはだめだ!
一日も早く幕府を倒して新しい政府を立てて、
国が一致団結して国難に当たるべきだ!」

(幕臣の勝海舟が、日本のために幕府を倒せ!とは、凄まじい見解です!)

そこで龍馬は当時犬猿の仲であった薩摩と長州を仲直りさせ、
力を合わせて幕府を倒す、というシナリオを描きました。

この困難な同盟は、新式銃や大砲などの武器が欲しかった長州に対して、
海援隊が薩摩を通じて武器を長州に提供するという形にして、
ようやく両藩の同盟を成立(1866年)させました。

この同盟によって倒幕運動が一気に盛り上がり、
翌年の大政奉還(幕府から朝廷に返上する)につながるのです。

この功績により、坂本龍馬が明治維新の立役者の一人となったのでした。

龍馬はこの後明治を迎えることなく暗殺されますが、
日本の革命のために大きな役割を果たしたのです。
(一説によるとイギリスなどの手先となって動いていたとの説もあります。)

●最後の将軍徳川慶喜の役割

徳川慶喜は、徳川幕府最後の将軍です。
彼は徳川御三家の一つである水戸家の出身です。

水戸家と言えば水戸学が有名。

これは第二代水戸藩主の徳川光圀(有名な水戸黄門さまです)が、
歴史書『大日本史』のなかで、日本の正当な支配者は
天皇だということを示したのが始まりといわれています。

当時の庶民は徳川将軍家が日本の支配者だと思い込んでいましたが、
実は将軍というのは天皇から授かった征夷大将軍という官位で、
天皇の臣に過ぎないというのが、日本の歴史を編纂することで示したのです。

つまり水戸学というのは、天皇が唯一正当な日本の支配者で、
それに逆らうことは逆賊になるので逆らってはならない、
という考え方の学問です。

この水戸学の考え方は、幕末に吉田松陰や西郷隆盛など
多くの幕末の志士に、大きな影響与え、
明治維新の大きな原動力となりました。

そのような水戸藩出身の将軍慶喜ですので、
天皇から薩長軍に「倒幕の勅命」が下されて「錦の御旗」を
先頭に攻めてきたものですから、朝敵になるのを恐れて逃げてしまいます。
(大坂から江戸へ逃げ帰り、その後謹慎)

●奇跡の無血革命

その後江戸に攻め込もうとした西郷隆盛と、幕府方の勝海舟により、
江戸城の明け渡しが実現します。

これは実は世界の常識でいえば、絶対にあり得ないことなのです。

このような政権交代時には必ず旧勢力と新勢力との内乱が起こり、
国を二分した大混乱に付け込んで列強の国々がどちらかに味方し、
植民地化のきっかけにします。

勝海舟と西郷隆盛はその事が良く分かっていて、
お互いに日本の国全体のことを考えて江戸城を無血開城に合意したのです。

そして天皇家があったお陰でスムースに政権移譲が行われ、
欧米列強の付け入る隙が全くなかったのです。
薩長を応援したイギリスなどは、さぞかしガッカリしたことでしょう。

世界の常識なら徳川慶喜は死刑、
一族も全員死刑でお家は取りつぶしが当然ですが、
これも世界の常識と異なり、徳川慶喜は明治新政府の内大臣、
従一位勲一等公爵、貴族院議員になります。

こうして世界史上に類を見ない奇跡の無血革命、明治維新が実現しました。

これにより、日本は危ういところで列強の植民地化の牙から逃れ、
その後白人国家に劣らない近代国家を目指して
国作りを始めることが出来たのでした。

しかし、列強の日本への侵略は明治以降も続いたのでした。

その一番の侵略者は実はロシア帝国だったのです。

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「日本の歴史再発見(16)迫るロシア帝国の脅威」より引用
http://servelle.main.jp/elife/02/16.html

今回は明治維新の少し前から、明治維新後の発展、
日清戦争への経過などをお伝えします。

明治維新というと、古い体制である江戸幕府を倒して、
近代国家をスタートさせた出来事と捉えられていますが、
これまでも何回か述べて来ました通り、
世界史の観点でみると別の見方が出来ます。

当時の世界は、
軍事力で他の国を侵略して領土化することは、当たり前のこと!

日本は長い太平の江戸時代から、
一気に世界の弱肉強食の中に放り出されたのです。

●清の半植民地化が日本に大衝撃!

15世紀から始まったヨーロッパの白人社会の侵略は、
19世紀にはほぼ全世界に及びました。

特に植民地政策の最後の勝者であるイギリス(大英帝国)は、
インドを征服した後、次のターゲット、
眠れる獅子「清」に狙いを定めたのです。

イギリスは清にアヘン戦争(1840~1842)を仕掛け勝利し、香港を奪います。
(1997年にようやく返還)麻薬のお陰で国が滅びかけました。

麻薬が国に氾濫すると国力が弱まり没落します。
中国が麻薬に対して死刑などの重罪を課すのは、
アヘン戦争のトラウマなのです。

敗戦した清は南京条約という不平等条約を結ばされ、
半ばイギリスの植民地のような扱いを受けるようになりました。

清の敗北と半植民地化は、
日本の一部の人たちに大きな衝撃を与えました!
でも幕府は無視して鎖国を続けます。

その後間もなく日本に黒船(1853年)がやって来て、
明治維新への引き金が引かれました。
1868年に徳川幕府が倒れ明治が始まります。

明治政府は岩倉使節団を送り世界の制度や技術を学び、
いち早く近代化を推し進めたのです。

日本の近代化を見て、アメリカ、イギリス、オランダなどは、
日本を侵略するよりも貿易相手として付き合った方がよさそうだ、
と思いました。

しかしもう一つの大帝国であるロシア帝国が、
朝鮮半島や日本に対して虎視眈々と狙いを付けていました。

●明治政府の一番の脅威はロシア帝国

ロシア帝国は地図で見てお分かりのように、
シベリアを中心とした北極圏に近い国ですので、
冬になると港が凍り、船が使えなくなります。

そこでこの国は「不凍港」の獲得を目指して、
歴史的に何回も南下政策を推進してきました。
日本は幕末から、樺太や千島列島などに何度も圧力を受けています。

ロシア帝国の中でも、一番南にあるウラジオストクでさえ、
不凍港ではありませんので、やはり冬は使えません。

ちなみにウラジオストクはロシア語で
「東を領有・支配する」という意味です。

東というとまさしく日本!

ロシアはまず日本への足掛かりとして、
1891年(明治24年)シベリア鉄道建設開始、
モスクワからいつでも軍隊や兵器を運搬できるようにしました。

明治政府は迫りくるロシアの脅威に備え、急ピッチで国の近代化を進めます。

●隣が木造なら火事の危険が及ぶ

日本はロシアからの火事が及ばないように、
国を木造から耐火構造(近代国家)に変えつつあります。

でもお隣りである朝鮮半島は、
未だに木造住宅、それも壊れかけのあばら家状態です。

ロシア帝国の火の手は朝鮮半島に迫っていますので、
いくら自分の家だけ強化しても、隣の朝鮮半島が火事にになったら危険です。

海に突き出た朝鮮半島は、日本を攻撃するロシアの格好の基地になり、
島国である日本は、自国の防衛が困難に!

日本は朝鮮が独立して近代国家になり、
ロシアの脅威から国を耐火構造に変えて、
日本と共にロシアを退けてほしかったのです。

●朝鮮の近代化を邪魔した清

当時の朝鮮は清の柵封体制に組み込まれていて、清の属国でした。
年号も清のものを使っています。

つまり朝鮮半島はこの時代まで歴代の中国王朝の属国として、
一度も独立したことの無い国だったのです。

日本と異なり、中国大陸と陸続きですので、
ずるずると属国であることを引きずっていました。

朝鮮国内は、日本の発展を直接見た開国派と、
古い体制を守ろうとする攘夷派が入り乱れてまとまっていませんでした。

開国派に対して、私財まで投じて近代化への援助をしたのが福沢諭吉です。
それくらい日本は朝鮮の近代化を願っていました。

しかし清としては、全ての属国を列強に奪われ、自国も半植民地化され、
唯一残った属国である朝鮮に独立されると、
手足をもがれまさしく亡国の危機です。

ついに朝鮮の開国派は1884年軍事クーデター
「甲申(こうしん)政変」を起こし独立を図ろうとしますが、
清がこれに軍事介入をしてつぶします。
その時に日本大使館も焼かれ、30名の犠牲者が出ました。

この政変をきっかけに、
日本は自国の安全と朝鮮半島の独立のために、
一度は清と戦わなければならない。
このまま朝鮮が清の属国として影響を受け続ければ、
すぐにロシアの侵略を受け、日本は最大のピンチとなる。

最大の脅威であるロシア帝国の魔の手を逃れるために、
まずは清と一戦を交える必要がある。
日本はそう覚悟を決めたのでした。

1894年の日清戦争は、ロシア帝国の脅威に対して朝鮮を近代化したい日本と、
あくまで属国として支配を続けたい清とのぶつかり合いでした。

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欧米の植民地支配
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