正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1937年(昭和12年)7月25日、廊坊事件

『ねずきちの ひとりごと』 「廊坊事件」 より引用
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1298.html

廊坊事件とは、1937年(昭和12年)7月25日、
北京近郊にある廊坊駅で発生した日本と蒋介石率いる国民党軍との
衝突事件です。

この日、北京の南東約50kmにある廊坊駅で、
日本軍の軍用通信回線に故障が発生しました。

そこで日本軍は、通信隊の一部に歩兵1中隊
(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)を付けて、
あらかじめ国民党側に通知のうえで、
修理のために、約100名の兵を派遺します。

そして修理のための部隊が午後4時半頃、廊坊駅に到着しました。
ここには、国民党の第38師第132旅、第226団の約6000人が駐屯していました。

日本の修理隊の中隊長五ノ井淀之助中尉は、国民党226団と折衝し、
許可を得た上で、廊坊域内にある日本の通信用電線の修理を行います。

ところが、その修理の真っ只中の午後11時10分、
国民党軍は突如として日本の修理隊に銃撃をしてきました。
しかも銃撃は、小銃による狙撃だけでなく、
なんと軽機関銃による乱射さえも加わったものです。

いきなりの国民東軍からの発砲です。
それでも応戦すれば、戦闘になる。
日本の修理隊の五ノ井隊長は、応戦をせずに、
とりあえず弾が当たらないように身を隠せ、と命令します。

するとこんどは、なんということでしょう。
廊坊駅北方300mにある国民党の兵営から、
その銃弾を避けて隠れている日本側に向かって、
迫撃砲による砲火が加えられてきたのです。

こうなるとほっておいたら全員、犬死となってしまいます。
五ノ井隊長は、やむを得ず応戦を開始するとともに、
午前0時頃、本部に応援を依頼した。

驚いたのは、通報を受けた日本軍(支那駐屯軍)の本部です。
慌てて第20師団に救援を命じます。
第20師団は即時、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させました。

さらに26日午前2時30分には、第20師団本体が、逐次廊坊に向かった。
けれど、深夜のことです。鉄道が動いているわけでもない。
しかも50kmの行軍です。
廊坊駅までは遠い。

夜11時10分に銃撃を受けてから、わずか100名の日本軍通信施設修理隊は、
なんと明け方まで、6000人もの支那人の大軍相手に奮戦します。
どんな戦いだったのか想像してみてください。
昼間、行軍して、やっと廊坊駅にたどり着き、
汗水流して通信施設の修繕をしていたのです。

荷物の移動や作業での重たい荷物の上げ下ろしは、全部手作業です。
そうして体もくたくたとなり、いまで言ったら、
残業して夜中の11時すぎになった頃に、銃撃やら砲撃が始まったのです。
しかも、一晩中、敵は迫撃砲やら、機関銃をところかまわずブッ放してくる。

26日、夜明けとともに、日本軍の司令部は、
廊坊にむけて航空隊を差し向けます。

航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、
通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している。

眼下には、まるでゾンビの大軍のように、支那兵が円状に群がっている。
「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」、
爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものさえあった。
「ざけんじゃねえ、コノヤロー!」と操縦士が思ったかどうかはわからない。

けれど、航空隊は、日頃の修練の業で、
支那軍の迫撃砲陣地をピンポイントで爆破すると、
あたりにいる支那兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせた。

もっとも当時の日本の飛行機というのは、所持している弾薬の陵が少ないので、
100発も撃ったら、それで終わりです。
それでも果敢に地上すれすれまで降下して、なんとかして味方たちを
助けようとしたその飛行兵の姿は、実に立派だったと思う。

26日の午前8時、やっと岡の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えます。
重装備の6000の支那兵は、日本軍がわずか100名なのをいいことに、
好き放題、弾を撃ち込んでいた。

ところが岡の向こうに、日本軍の本体の姿が見えたとたん、
支那兵たちは算を乱して逃げ出します。
これが26日。
支那兵たちが逃げた先にあるのが、通州です。

そして7月29日に起こったのが、通州事件です

ちなみに、この廊坊事件についての、支那側の見解は次のようなものです。
~~~~~~~~~~
7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、
「電話修理」と称して同駅を占拠した。
廊坊を守備していた第38師第13旅の旅長である劉振三は撤退を要求したが、
日本軍はそれを拒否。
26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。
明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、
更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。
午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した。
~~~~~~~~~~

まったく、よく言うよ、です。
事前にちゃんと断りをいれていたのに「駅を占拠した」。
ちゃんと了解をとって通信施設修理を行ったのに「撤退を要求した」。

実際には午前11時10分に支那国民東軍側から発砲しているのに、
「午前0時に日本軍が支那に発砲した」。
これは迫撃砲まで撃ち込んできたので、やむなく防戦を開始した時間です。
そして最後は、「撤退した」とはおそれいる。

6000対100の戦いですら壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら、
蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのです。
撤退など、よく言えたものです。
勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。

そしてその「撤退した」という支那国民党兵が、
その3日後に通州で何をしたのか。

事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、
支那や共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。

客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、
どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。

それを、いかにも正当にみせかけてみせる。
状況のわからない者は、みんなそれに騙される。

いかにも正論らしい論を吐くと、
なるほどと思わされる人が多いのは事実です。

震災対策本郡をつくって、真剣に対策に取り組んでいると言われれば、
なるほどそうかと思わされる。

けれど実際には、瓦礫が片付けられたのは、
テレビの入る一部の大きな町だけあり、少し田舎の方に行くと、
7月も半ばをすぎたいまでも、3月11日の震災当時のままの状況となっている。

ボクは、あまり「評価」という言葉が好きではありませんが、
大切なことは「何を言っているか」ではなくて、「何をやっているか」です。

歴史も政治も、私たちは、これまでの見方を、
もう一度謙虚に見直してみる必要があるのではないかと思います。
2008/10/29 09:00|年表リンク用資料
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