●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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◆1935年(昭和10年)6月10日、「梅津・何応欽協定」。
1935年(昭和10年)に入ると河北省において 国民党や中央直系軍などによる反日満活動が活発になり、 1935年1月~5月までに反日満事件が大小五十数件にものぼった。 そこで日本側と支那側が交渉し、6月10日、「梅津・何応欽協定」が結ばれ、 支那の国民政府が支那全国に排日禁止令を出し、 国民党や中央直系軍が河北省から撤退することが合意された。 ◆1935年(昭和10年)6月27日、「土肥原・秦徳純協定」。 察哈爾(チャハル)省に駐屯していた中央軍第29軍(軍長:宋哲元)は、 1934年(昭和9年)後半から翌1935年にかけて、 塘沽停戦協定で設定されていた緩衝地帯(非戦地区)や満州の熱河省内に 侵入するなど、相次いで対日満武力挑発事件を起こしていたので、 日本側と支那側が交渉し、6月27日、「土肥原・秦徳純協定」が結ばれ、 チャハル省内の排日機関が撤去され、 中央軍第29軍がチャハル省から撤退し、河北省の北平方面に移駐した。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 塘沽停戦協定の成立で日本・満州・支那の関係は 改善に向かうかに見られたが、内情は必ずしもそうではなく、 支那側は親日を装いつつ反日、反満策動を行う状況だった。 北支那が停戦協定以来、比較的静穏で関東軍や天津軍(支那駐屯軍)の 注意をひくことの少ないのに乗じて、 昭和10年に至って露骨な反日満行動に出た。 日華関係が好転の兆しを見せた昭和10年1月から5月までに 北支で発生した反日満事件は大小50数件にも上った。 その代表的事例が親日社長暗殺事件である。 天津の支那新聞「国権報」と「振報」は 従来から日本と満州に友好的な立場にあったが、 5月2日から3日にかけて両新聞社長が共にピストルで暗殺された。 天津日本租界事件 支那駐屯軍の調査の結果、暗殺には国民党などが関与していること、 犯人が国民政府によって上海のフランス租界にかくまわれたことがわかった。 日本は何応欽・軍事委員会北平分会委員長と会見し、対満陰謀の実行、 対日テロなどは塘沽停戦協定違反だと警告し、 蒋介石の二重政策の放棄などを要求した。 その結果、梅津・何応欽協定が結ばれる。 ――――――――――――――――― 1935年(昭和10年)6月10日、梅津・何応欽協定 親日社長暗殺事件を受け、日本は何応欽・軍事委員会北平分会委員長に 対満陰謀の実行、対日テロなどは塘沽停戦協定違反だと警告し、 蒋介石の二重政策の放棄などを要求した。 その後、天津軍(支那派遣軍)に対する支那軍の挑発も発生したが、 陸軍中央は現地軍に対して兵力使用を強く戒め続けた。 そうしているうちに、国民政府は6月10日に ●国民党部の河北省撤退 ●国民党中央軍の河北省撤退 ●全国に排日禁止を発令 を回答してきた。 また、同日、法令を公布し、排日行為を禁止し、 違反者は厳罰に処する旨を命令した。 7月9日、「日本側の要望事項はすべて承認し、自主的に実行する」 という何応欽の名による梅津・支那駐屯軍司令官宛の通知書が、 支那側より天津軍に提出された。 これがいわゆる「梅津・何応欽(うめづ・かおうきん)協定」で、 これによって「親日社長暗殺事件」は落着し、 支那側排日機関と中央軍は河北省から撤退することになった。 この協定によって、 塘沽停戦協定で設けられた非戦地区が河北全省に広げられた。 土肥原・秦徳純協定同様、 これらはすべて日本から始めたものではない摩擦だった。 日本がおとなしくしているとき、必ず何かを仕掛けてくる。 それに対して日本が腰を据えて対応すると、協定ができる。 こんな感じの出来事が繰り返された。 ――――――――――――――――― 中央軍第29軍の軍長である宋哲元は、チャハル省に駐屯していたが、 塘沽停戦協定の後、次第に反満抗日的態度に出て、 相次いで日本側との間に問題を起こした。 第一次張北事件、熱西事件、第二次張北事件、本柵子事件などである。 宋軍の度重なる挑発行為を重視した関東軍は、 宋哲元軍の黄河以南撤退を希望したが、 陸軍中央は関東軍の強硬姿勢に同意せず、慎重だった。 結局、日本と支那の双方が歩み寄り、チャハル省内の排日機関の撤去、 宋哲元軍のチャハル省からの撤退などで合意した。 (1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定) この協定に基づき、宋哲元軍はチャハル省から北平(北京)方面に移駐した。 支那側の塘沽停戦協定違反から梅津・何応欽協定が、 また同じく支那側の対日武力挑発から土肥原・秦徳純協定ができたのであり、 両協定の原因を作ったのが支那側であることは明らかである。 やがて華北に親日政権(冀東・冀察政権)が成立することになるが、 それはこの両協定の結果に過ぎない。 ![]() ![]() 北支分離(華北分離)工作を日本がおこなった経緯 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-119.html 冀東・冀察政権成立 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-469.html チャハル作戦 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-579.html |
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