正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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天津日本租界事件

1935年5月2日深夜から3日未明にかけて、
天津日本租界で親日満の新聞社社長2人が立て続けに暗殺された事件。

1件目は、国権報社長・胡恩溥が夫人とともに
日本租界寿街北洋飯店16号室に投宿していたところ、
2日午後11時5分、「1063」ナンバーの自動車で乗りつけた2人組みが
押し入り、ピストルを発射、4発の銃弾を受けた胡恩溥社長が間もなく死亡。

2件目は、振報社長・白逾桓が、日本租界須磨街の自宅寝室で就寝中の
3日午前4時頃、同じく2人組みが押し入り、
ピストルを発射、3発が白逾桓社長に命中し、即死した。

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昭和10年(1935年)6月9日 大阪毎日新聞

まず第一の原因はこうだ。
五月三日、天津日本租界に居住する親日満系の日刊新聞国権報社長胡恩溥氏と
振報社長白逾桓氏の両氏が反日満テロ団のために一夜に暗殺されたこと、
つぎは昭和八年五月、日支間に結ばれた停戦協定に基いて設置した
非武装地帯内にある保安隊の編制替への際、
北支の治安維持の責任者である河北省政府主席于学忠氏が
自己の勢力扶植のため、わが軍の厳重なる抗議を無視して
その部下を非武装地帯に入れんとしたこと、
さらにそれについで起った問題は日満軍に満洲国熱河省を追われた孫永勤
という男を頭とする匪賊団が非武装地帯内に遁入蟠居し、
時折国境線長城を越えて熱河省に出没し掠奪を専らにするので、
わが国は停戦協定に基いて支那側の討伐を交渉したところ、
支那側官憲は討伐するどころか却ってこれを庇護し
満洲国の治安を乱さんとさえする気配を見せるに至った、
そこでわが軍はやむなく五月二十三日関内に出動して一挙にして殱滅し、
孫永勤を倒し電光石火満洲国内に引揚げ胸のすくようなきまりをつけたが、
于学忠氏の不遜なる態度と親日満系人物に対するテロ団の執拗なる迫害は、
いよいよ深刻となるばかりで、ここに北支に戦慄と動揺とを巻き起し、
停戦協定成立以来、比較的平穏であった北支那の空気を
一変させてしまったのである。

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1935年6月10日、梅津・何応欽協定、1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定
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2008/10/23 09:00|年表リンク用資料
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