正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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綏遠(すいえん)事件 → 察哈爾(チャハル)作戦

1937年(昭和12年)8月9日~10月17日、チャハル作戦(察哈爾作戦)。

日本軍が察哈爾省・綏遠省(内モンゴル自治区)にて行なった作戦である。

1911年の辛亥革命で支那人(漢民族)たちが清王朝(満州族)を打倒して
清国政府をその故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、中華民国を建てたので
支那と満州は別になったはずだったが、中華民国は清朝の支配地域を
全て継承したいがため、漢民族とチベット民族、ウィグル民族、
蒙古(モンゴル)民族、満州民族は、つまり「中華民族」であるという
新たな民族概念を創出し、漢民族だけでなく「中華民族」の土地は
すべて中華民国(支那)の土地だと主張するにいたり、チベット、ウイグル、
蒙古(モンゴル)、満州が独立することを認めなかった。

しかし、その後もモンゴル(蒙古)族は国民党からの独立を目指していた。

1932年、満州国が建国されると、華北でも自治の機運が高まった。

※ちなみにゴビ砂漠の南側が「内蒙古=蒙疆」、北側が「外蒙古」。

モンゴル族の独立派リーダーは内蒙古(内モンゴル)の
察哈爾(チャハル)部の王族の一人であった「徳王」で、
内蒙古・外蒙古・ソ連領ブリヤート(北蒙)を統一し、
大モンゴルを再興する「汎蒙古主義」を掲げて国民政府と交渉し、
1934年4月、蒙古地方自治政務委員会(百霊廟蒙政会)を組織した。

国民政府は翌1935年の「冀東政権に対抗して冀察政権」と同様、
その百霊廟蒙政会に対抗して、1936年1月、
綏遠省境内蒙古各盟旗地方自治政務委員会(綏境蒙政会)を創設した。

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で
河北省の東(冀東)は緩衝地帯(非戦地区→通称「戦区」、非武装地帯)
となっていたが、河北省の上の察哈爾(チャハル)省の東側には
緩衝地帯は設定されておらず、満州と直接、接しており、
チャハル省に駐屯の中央軍第29軍(軍長:宋哲元)などが、
たびたび満州に侵入していた。

日本軍はチャハル省の東側にも緩衝地帯を設定したかったのだが、
1935年(昭和10年)6月27日の「土肥原・秦徳純協定」によって、
チャハル省から中央軍第29軍が河北省の北平方面に移駐したことにより、
チャハル省が緩衝地帯のようになり、
満州と支那の国境すべてに緩衝地帯が実現されたことは、
モンゴル独立派の徳王から見ても関東軍と利害が一致しており、
徳王は関東軍との連携を模索した。

緩衝地帯

1936年(昭和11年)11月、綏遠にてモンゴル独立軍と支那軍とで
衝突が起こったがモンゴル軍は苦戦していた。(綏遠(すいえん)事件)。
このとき関東軍はモンゴル独立軍を支援したが直接は戦っていなかった。

1936年11月25日、日本はドイツと日独防共協定を締結し、
その第二条に「第三国に対する反共の防衛措置」があった。
翌12月12日の西安事件で国共合作後の容共中央軍は、
防共戦を唱えて関東軍と連携していた反共・徳王と対立しており、
日独防共協定・第二条「第三国に対する反共の防衛措置」の側面もあるなか、

1937年7月7日の盧溝橋事件後、
再度、察哈爾省に中央軍第29軍が侵入していたので、
それは察哈爾省から中央軍第29軍を撤退させることを
謳った『土肥原・秦徳純協定』に違反しているうえ、
日本が察哈爾省内で徳王を支援する正当な行為は
『土肥原・秦徳純協定』のなかで認められており、合法であった。

1937年8月5日、関東軍は察哈爾(チャハル)への中央軍の侵入は看過できない
ので速やかに部隊を派遣すべきであると参謀本部に意見を具申し、
8月8日、参謀本部は察哈爾(チャハル)作戦を容認。
東條英機中将を指揮官とする察哈爾派遣兵団が形成され、
日本軍が直接、戦うこととなり、またたく間に占領した。

これがチャハル作戦である。

徳王モンゴルは「蒙古連盟自治政府」で自治を果たした。

「土肥原・秦徳純協定」に基づくモンゴル自治独立支援であった。

ちなみに、チャハル作戦の話をすると、
「陽高事件」なる話を始める人がいる。
日本軍が中国民間人を虐殺をしたという話なのだが、
秦郁彦氏が唱えているものが殆どで詳細は何もわかっていない。
誰が命令し、どの部隊が実行したのか、すべて不明である。

華北分離

協定

〓〓〓参考〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
http://www.geocities.jp/bbhusou/sensi/rokoukyou_003.html#3.2
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/43_72gikai/01.html
http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/43/01.PDF
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いわゆる「華北分離」とは。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-687.html
1936年(昭和11年)11月14日、綏遠(すいえん)事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-458.html
「支那」呼称について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-21.html
冀東・冀察政権成立
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-469.html
1935年6月10日、梅津・何応欽協定、1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-577.html
北支分離(華北分離)工作を日本がおこなった経緯
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-119.html
2008/10/22 09:00|年表リンク用資料
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