●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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対馬事件
1861年(文久元年)、ロシアの軍艦が対馬を不法占拠した事件 1860年に、イギリス・フランスとのトラブルにつけ込んで 清国からウスリー川以東の沿海州を割譲させたロシアは ウラジオストックに念願の不凍港の軍港を建設し始めた。 ロシアの次の侵略目標は満州と朝鮮であり、 日本への脅威は現実のものとなった。 陸伝いに領土を拡張し続けるロシアの姿を見たとき、 日本人がただちに気づいたのは、朝鮮半島の重要さだった。 もしロシアが南下し、朝鮮を植民地とすれば、日本にとって危険極まりない。 ロシアは、日本本土と朝鮮の間にある対馬や壱岐を占領し、 島伝いに日本へやってくるであろう。 かつて元寇のとき、蒙古はこのコースで日本へ攻めてきた。 案の定、ロシアは対馬にやってきた。 1861(文久1)年2月3日、ロシア軍艦のポサドニック号が 船体修理を理由に対馬に入港。 芋崎に上陸し、兵舎、工場、練兵場などを建設し始めた。 幕府はこの対応に苦慮したが、 艦長と交渉するとともにイギリスに折衝を依頼。 7月23日にイギリスは2隻の軍艦を派遣しロシアの退去を迫ったため、 8月15日にポサドニック号は退去した。 日本はなんとかロシアの侵略の第一歩を未然に防ぐことに成功した。 【事件の経緯】 ●2月3日 露国軍艦「ポサドニック号」が対馬の浅茅湾内に来航する。 ●3月4日 乗組員が芋崎に上陸し、兵舎、工場、練兵場などを建設し 周辺地を不法占拠する。 ●4月12日 乗組員が芋崎警備の対馬藩と衝突し島民の農兵・松村安五郎が射殺される。 ●5月12日 外国奉行・小栗忠順が対馬へ赴き、 「ポサドニック号」艦長・ビリレフと会見し退去を要求するも断られる。 ●5月27日 ビリレフが対馬藩主・宗義和と会見し基地建設用地の租借を要求する。 ●7月9日 英国特命全権公使・オールコックと海軍中将・ホープが 老中・安藤信正を訪ね、 英国艦隊の圧力で露国軍艦を退去させる作戦を協議する。 ●7月23日 英国軍艦2隻が対馬へ出動し、露国軍艦に対し退去を求め示威行動を行う。 ●8月15日 対英関係悪化を恐れた露国外相・ゴルチャコフの命令で、 「ポサドニック号」が対馬を退去。 |
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