正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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「日系人強制収容」と「米陸軍日系二世の442連隊」

国際派日本人養成講座 平成10年9月19日
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog054.html

■1.マニワ夫妻のこと■

もう16年も前の事である。
筆者が、カリフォルニア大学バークレー校に留学した時、
ホスト・ファミリーとして何かと面倒をみてくれたのは、
マニワさんという日系人の夫妻だった。

夫のヒトシおじさんは2世で、戦前に日本に帰って大学を出た。
郷里は広島との事だった。
夫人のエイミーおばさんは、3世である。

二人はお互いに日本語で会話する。
ヒトシおじさんの英語は、日本語訛りが強く、
私よりひどい発音だった。
エイミーおばさんは、1ドル20セントを1円20銭などと言っていた。

マニワ夫妻には3人の子供がいた。
3人ともバークレーを卒業し、すでに自立していた。

長女は英文学の修士課程を修了して、
ロサンゼルスで高校の教師をしていた。

次に生まれた長男は建築家、次男は弁護士となっていた。

聞いた話では、アメリカでの民族別の所得水準では、
日系人はユダヤ人についで、第2位とのこと。

ユダヤ人は大富豪がいて平均値を引き上げているのだが、
日本人は皆社会で立派な職業についていて、
貧乏な人がほとんどいない由である。
マニワ家の子供たちをみていると、さもありなん、と思われた。

またある白人に聞いた話だが、
アメリカ社会では日系人は犯罪を犯さないと信じられており、
社会的に尊敬されている、との事であった。

マニワ夫妻は戦時中、日系人の収容所で知り合って、結婚したという。
二人は、当時の収容所の事をほとんど話さなかった。

しかし、それは祖国を離れた日本人が
異国で味わったもっとも過酷な境遇のひとつであった。

■2.開戦直後の日系人逮捕■

真珠湾攻撃の翌日、
12月8日にルーズベルト大統領による対日宣戦布告がなされると、
FBIは数日間のうちに1290名の日系社会の有力者、リーダーを逮捕した。
日本人会、学校関係者、組合の世話役、漁船の持ち主などである。

FBIは開戦を予想して、検挙リストをすでに用意していたのだ。
銀行の預金は封鎖され、移動の自由も制限された。

翌1942年2月19日、大統領令第9066号が発令され、
すべての日系人は収容所へと送られることになった。

ダニエル・スティールのベストセラー小説「無言の名誉」から、
その時の様子を紹介しよう。

■3.10日間で財産をすべて売り払え■

スタンフォード大学の政治学部長だったタケオは、
10日間のうちに、財産をすべて売り払い、
一家揃ってサンブルーノにあるタンフォラン競馬場跡の
「集合センター」に出頭せよ、との命令を受けた。

荷物は衣料などの生活用品を各自で持ち運べる分だけに限られた。
金銭、宝石類、カメラ、ラジオなどはいっさい持ってきてはいけない、
ピアノなどの重量物は、政府が用意した倉庫に預ける事ができるが、
損害があっても保証はされないという。

タケオは70917という番号札を渡された。
以後、日系市民は名前を無視され、番号で扱われるようになる。

タケオの屋敷は千ドルで売れた。
ほかの日系人たちの家が100ドルかそれ以下に叩かれているのを見れば、
これはましな値段と言えた。
日系市民の不幸を食い物にする血も涙もない人間は大勢いた。
チャンスとばかりに二束三文の値をつけてくる
ハイエナのような仲介者もうようよいた。(略)

一家は持ち運べない家財道具の特売を家のガレージを使って催した。
思い出のウエディングドレスが
たった3ドルで引き取られていくのを見たとき、
(妻の)レイコは悲しくて涙をこらえ切れなかった。

このようにして、12万人の日系人が収容所に入れられた。
その3分の2は、アメリカの市民権を持っていた。
ドイツ系やイタリア系には、このような措置はとられず、
日系人だけが隔離されたのである。

■4.収容所の生活■

収容所の生活はどうであったか。実体験者の証言を聞こう。

1942年、私たち家族、父と母、子ども5人はアリゾナ州の
ポストン収容所に入れられましたが、
まだ建物は未完成で、屋根と壁があるだけでした。

一つの建物には3家族から5家族が入りますが、
ベッドやテーブルはもちろんのこと、隣との仕切りもありませんでした。
とりあえず袋にワラを詰めてベッドを作りました。(略)

キャンプに入った当初、母が病気になって、熱が下がらず苦しみました。
まだ病院もなく、何度もキャンプ内の店に氷をとりにいきました。(略)

最初の冬は、暖房や冬の服などなんにもなかったので
兵隊用の古い毛布や衣類をもらって寒さをしのぎました。

収容所はどこも山間の僻地に作られていましたから、
冬は零下30度にもなる寒さで、いつも強い風が吹いていました。

逆に夏は焼けつくような暑さになりました。
夏は暑いうえに強風が吹いて埃がものすごいのです。
開ければ埃、閉めれば猛暑という状態でした。
[ジャック・フジモト、1,p87]

最初はトイレにも扉がないなど、ひどいものでした。
もう風が強くて、いつも埃がまいあがっていました。
蛇が多いところで、トイレに行くのが本当にこわかったです。
[ミヨコ・エシタ、1,p104]

■5.祖国アメリカとは■

日系人を苦しめたのは、物質的生活環境ばかりではない。
特に2世はアメリカで生まれ、市民権を持ったアメリカ人として育ち、
アメリカに忠誠を誓ってきた。

そのアメリカ政府に、日系人という理由だけで裏切られたのである。
タケオの長男ケンはアメリカ政府に怒りをぶつける。

どうなっているんだよ、この国は!
お父さんは日本国籍だけど、ぼくはここで生まれて、
アメリカの市民権を持っているんだ。
来年には徴兵されるんだぜ。
家族みんなが国に虐待されている最中に、
ぼくは国のために命を捧げているかもしれないんだ。

しかし、ケンはこの予想通り、多くの日系人青年と同様、
祖国アメリカへの忠誠を証明すべく、
家族を収容所に残したまま志願兵として出征していく。

日系兵士からなる部隊は、ヨーロッパ戦線で勇猛な戦いぶりを見せ、
また多くのユダヤ人をナチスの収容所から救い出す。
このテーマについては、また別の機会に譲ろう。

ケンはヨーロッパ戦線で戦死する。
タケオはまだ50歳代なのに、失意のうちに衰弱死する。

日系人が収容所から解放されたのは、1944年12月だった。
2年半の収容所生活の間に夫も息子もなくした妻レイコには、
さらに悲しい知らせが待っていた。
連邦政府の倉庫に預けていた家財道具はほとんど略奪されていた。

レイコは預けておいた写真や記念品のことを思って泣いた。
ケンやタケオの大切な思い出がなくなってしまったのだ。
彼女の結婚式の写真も、
ケンが生まれてから成長するまでの写真もみな一緒だった。
レイコは、息子の写真がハワイで撮影された軍服姿の
一枚だけになってしまったのを知って、泣かずにはいられなかった。

■6.平等への長い道のり■

日系人に対する差別政策が解消するまでには、
さらに長い年月が必要だった。

日系人を「敵国人扱い」した法律が廃止されたのは、
1949年、終戦の4年後である。

52年には移民帰化法が成立し、日系1世に市民権を持つ道が開かれた。

56年にはカリフォルニア州の外国人土地法が廃止され、
日系人がようやく正式に土地を所有できるようになった。

日系人はその後も粘り強く、
戦時中の強制収容に関する謝罪と補償を求める運動を続け、
ついに1988年、レーガン大統領によって
「市民の自由」法の署名にこぎつけた。
これにより収容者への謝罪が行われ、2万ドルの補償金が支払われた。

■7.無言の誇りを支えたもの■

収容所を出たマニワ夫妻も無一物の状態から、再出発したのである。
そして戦後も残る人種差別と戦いながら、力を合わせて、
子ども達を大学に入れ、立派なアメリカ国民に育て上げた。

「あけぼのの 大地しっかと 踏みしめて 遠くわれは呼ぶ 祖国よ立てと」

昭和22年に昭和天皇の強い御意思で戦後最初の歌会始が再開された。
これはその入選歌で、ロサンゼルス市の高橋勝平さんの作である。
選者の斉藤茂吉は「この歌は茂吉がいのちにかけて選んだものである」
と語った。

戦後の日本は奇跡的な復興と高度成長を遂げ、
日本企業がアメリカに進出してきた。
バークレーの湾岸にも、小松製作所が大きなビルを建てた。

サンフランシスコから、ベイブリッジを渡ってバークレーに入ると、
ビルの上に「KOMATSU」と書いた巨大な看板が一際目立つ。

このビルができたときほど、
嬉しかった事はないとエイミーおばさんは言っていた。
異邦の地で、日系人の「無言の誇り」を支えたのは、
このような祖国日本への思いであったのだろう。

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米陸軍・日系二世の442連隊

第二次世界大戦時、ヨーロッパ戦線で最高の殊勲を挙げた米陸軍部隊は
どの部隊かと言えば、それは日系二世部隊であると言っても
過言ではないだろう。

彼らはアメリカ合衆国に忠誠を誓い、日独伊の枢軸国と戦った
日本人からすれば、敵国の兵士達であった訳だが、彼らの祖国アメリカからは
敵性外国人として扱われ、財産を没収された上に土地を追われ、
日系人強制収容所に隔離されるという屈辱の中、
自分達がアメリカ人であることを、白人ども以上に証明しようと
親から受け継いだ大和魂を発動させて、勇猛果敢に戦った。

アメリカ合衆国への日本人の移民は、ハワイ準州(統治領)
カリフォルニア州への移住が圧倒的に多かったようだが
1885年のハワイ移民を皮切りに、19世紀以降、日本政府も積極的に
移民政策を推進した結果、アメリカに於ける日系人の人口が
急激に増加したのは、20世紀初頭であったという。

日系人は主に農業に従事、劣悪な環境や白人からの差別をも克服して
開拓に奮闘し、細やかな管理を必要とされる果実栽培などの分野を中心に
見事に頭角を現わすようになると、
特に西海岸地帯では激しい排日感情に晒されたという。

1941年12月7日(現地日付)日本海軍に依って、ハワイ真珠湾の
海軍基地が奇襲攻撃されると、日系人は「敵性外国人」として
厳しい監視の対象となった。

翌年の1942年2月19日、偏狭な人種差別論者で、特に日本を蔑視
していたフランクリン・ルーズベルト大統領はエグゼクティブ・オーダー
№9066に署名し、裁判や公聴会の承認を得る必要無く、
特定地域から日系人を排除出来るという絶大な権限を陸軍に与えた。
このことに依り、日系人達は財産を没収された上で、強制立ち退きを
強いられ、12万人が全米10ヶ所に設置された日系人強制収容所に
収容されたのだ。

注目すべきは、ハワイ日系人とアメリカ西海岸居住の日系人とでは
地域社会での地位や取り巻く環境が著しく異なったことであろう。

ハワイ準州では人口の40%を日系人が占め、築き上げたそのプレゼンス
の大きさから日系人をハワイから排除しては、ハワイ社会自体が成り立たず
ましてやハワイ防衛そのものが不可能であることをハワイ地区司令官
ディロス・C・シモンズ中将でさえもが認識していたという事情から
ハワイ当局は、日系人会幹部や僧侶などのリーダー的存在であった
数百人程度を強制収容したに止まり、ハワイ日系人本土移送案は
潰えたのであった。

アメリカでは戦雲急を告げていた真珠湾攻撃の前年、1940年11月に
全米で徴兵制度が再導入されていた。
当時、日系人はハワイ全人口の37.3%を占めており、
白人の24.5%を超えて、人口比率トップであった為、
徴兵されたハワイ統治領防衛兵3000人の約半数が日系人であったという。
当時、米国軍部が抱えていた不安は日本軍のハワイ侵攻であり
西海岸への侵攻であった。

日本海軍の機動部隊はミッドウェー海戦での敗北までは
ニミッツ提督率いる米海軍太平洋艦隊を遥かに上回る戦力を
保持していたことから、日本軍のハワイ上陸作戦は現実的に起こり
得るものと想定されていたのだ。

ハワイ準州の各島では日系人兵士が沿岸警備に当たっていた訳で、
仮に日本軍が上陸作戦に際して、米軍の軍装をした特殊部隊を潜入
させた場合などには敵味方の識別さえ困難となり、甚だしく混乱を
来たすであろうことが予想され、米軍は防衛上の危惧を抱いていたのだ。

そこで、ハワイ地区司令官シモンズ中将はワシントンの陸軍省に
日系二世兵士だけを一極集中させることを提案し、受諾されたのだった。

1942年5月、現役の日系二世兵士約1400名はオアフ島に在る
スコフィールド陸軍基地に集められ、武装解除された上で
日系人兵士の「ハワイ緊急大隊」が組織された。
その後、軍の機密扱いで極秘裏に、米本土オークランド港に移送され
ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイに駐屯して、
基礎訓練を受けることになった。

この段階で、彼ら1400名の日系二世兵士達はどの師団、どの連隊にも
属さない日系人のみの独立大隊として編成されたことを知ったのである。
米陸軍「第100歩兵大隊」の誕生である。
これは米陸軍史上、同一民族だけで編成された唯一の部隊であった。
但し、大隊長以下三名の幹部将校は白人であった。

この「第100」をどう理解すべきか。
米陸軍では通常、歩兵3個大隊で歩兵連隊を編成するものなのである。
であるからして、第4大隊、第5大隊さえも存在しないにも拘わらず
「第100歩兵大隊」とは、どういう意図の下に命名されたものなのか。

実は、この「第100」は蔑称であり、上部組織の「連隊」を持たない
「私生児大隊」であり、「誰も欲しがらない」「お前達などは要らない」
という悪意が込められていたと言われる。
隊名自体が差別の象徴であった訳で、これが深刻な差別と偏見に
晒されていた日系人達を取り巻く現実であったのだ。

米軍上層部は編成当初、日系人部隊を戦力としては左程期待して
いなかった節がある。
そもそも、白人に比べて貧弱な体躯であり、平均身長は5ft3in
約160㎝に過ぎなかったのだ。

ところが、キャンプ・マッコイでの訓練が開始されると
戦闘訓練に於いても、座学に於いても抜群の成績を表わし
彼らの訓練振りを視察した将校には「今までに訓練したどんな
100人よりも、彼らのような100人を部隊に持ちたい」とまで
高い評価を受けるに至り、精鋭部隊の呼び声が高まったという。
1943年2月にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーに移駐した。
ここが、日系二世部隊のメッカとなったのである。

第100大隊の兵士達は基地外での喧嘩でも実力を発揮したという。
「ジャップ!」と侮蔑の言葉を吐いたテキサス第2師団との大乱闘で
白人のフニャチンども38人を入院させるに至ったが、
日系二世側はMPに暴行された一人が入院しただけだった。
日系二世の多くに、柔道や空手などの心得があったという。

第100大隊の日系二世兵士達の士気は高まり、参戦への機運が
高まっていたにも拘わらず、日本を毛嫌いしていた人種差別論者の
ルーズベルト大統領は日系二世部隊を編成はしたものの、
彼らを前線に投入することは躊躇っていたと言われる。

連合国軍最高司令官アイゼンハワー陸軍大将もまた、
日系二世部隊の前線配備には消極的であったと伝えられている。

それに対して、そもそも日系人の隔離政策には懐疑的であったという
陸軍参謀総長のジョージ・C・マーシャル大将や海軍のニミッツ提督は
日系二世部隊の参戦を容認していたことから、ルーズベルト大統領も
第100歩兵大隊の派遣を決断せざるを得なかったのだ。

1943年8月20日、1年3ヶ月もの長い期間の訓練を経て
遂に第100歩兵大隊は勇躍、待望の出征を果たした。
これで、自分達日系二世は敵性外国人ではなく、
星条旗に身命を捧げて、忠誠を尽くすアメリカ市民であることを
ヨーロッパ系アメリカ人以上に勇猛果敢に戦うアメリカ人で
あることを実証出来るチャンスを得たと喜び勇んだのであった。

9月2日、北アフリカアルジェリアのオランに上陸。
所属連隊のない独立大隊であるので、どこかの連隊に編入されない
限りは前線には出られないのだが、
「ジャップが何で、こんな所に居るのだ!?」という奇異な視線と
激しい差別を浴びて、受け入れ先の連隊が見付からず、司令部は
北アフリカの鉄道守備を打診して来たという。
後方勤務では戦功を得て、忠誠の証を示し難いのだ。

司令部の意向に対して、大隊長のファラント・L・ターナー大佐が
飽くまでも前線への配備を繰り返し強く求めた結果、第34師団の
ライダー少将が受け入れることになり、第100歩兵大隊は第5軍
第34師団第133連隊の傘下に編入され、イタリア戦線に投入される
ことになったのだ。

1943年9月22日、イタリアのサレルノに上陸。
彼らはモンテ・ミレト攻略戦に参加、この初戦から激戦に見舞われ
上陸から一週間で戦死者3名、負傷者36名の損害を出すに到った。

第100歩兵大隊が遭遇した敵は、ドイツ空軍のエリート部隊として
名高い降下猟兵(空挺兵=パラシュート降下兵)であり、その中でも
精鋭中の精鋭で知られた第1降下猟兵師団という強敵であったのだ。
装備にしても、降下猟兵部隊はドイツ軍の最も優秀な武器を供給され
FG42自動小銃などが配備されていた。

降下中にパラシュートの紐が引っ掛からないように、標準型の庇や
膨らみを切り詰めた形状の特殊なヘルメットを装備していたので
降下猟兵部隊であることは一目瞭然であったのだ。

第5軍は米英混成であったが、友軍がドイツ降下猟兵部隊の猛攻に
戦線を維持出来ずに放棄、撤退する中で、第100歩兵大隊だけは
頑強に前線を維持し続け、遂には勝利に導いたのであった。
彼らは「前線で、決して振り返らない兵士」と讃えられ
その勇敢で献身的な戦い振りは新聞で大きく報道されたのだった。

サレルノからアリーフェに到る100kmの進軍で、第100歩兵大隊は
常に第133連隊の斥候役で先鋒を務め、約100名の死傷者を出した。
この戦いでは連隊全体での死傷者も多かったことから、日系兵士を理解
擁護し続けた大隊長のターナー大佐は、責任を問われて解任されてしまう。

この後、第100歩兵大隊はドイツ軍の防衛線を突破すべく、
ナポリ・フォッジア作戦に投入され、11月3日にナポリ南方の
ボルツレ川敵前渡河を敢行した。
この一連の戦いで、第100歩兵大隊は約140名の戦死者を出し
入院戦傷者は400名を越えるという大損害を出したのだ。
大隊6個中隊の内、2個中隊を失うほどの犠牲を払ったのだ。

この激戦の最中、後に日系二世部隊の代名詞となる「バンザイ攻撃」が
初めて行われたと言われる。
銃剣を着剣して、全力で敵に肉薄する突撃を中隊規模で行った戦法であり
日本軍の自殺を目的としたような玉砕戦法とは違ったのだ。

切っ掛けは、ドイツの狙撃兵と対峙したある日系兵士のライフル銃が
故障したのか不発で、彼は咄嗟の決断で勇敢にも傍にあったスコップを
振り上げて突進したところ、そのドイツ兵は銃を捨てて逃げ出した
ことに依るとも言われている。

日系二世部隊の有名な合言葉
「Go for broke!」は、「撃ちてし止まん」などと堅く和訳しては
彼らが語っていたニュアンスからは遠ざかるような気がする。

「当たって砕けろ!」の意味で間違いはないのであろうが
実は、日系ハワイアンは相当な博打好きであったようで
元来、有り金総べてを注ぎ込むということを意味する
ギャンブル用語であったということから
悲壮感漂うというよりも、むしろハワイアンの楽天的な
陽気ささえ込められている言葉のような気がする。

1944年1月17日、ローマ進攻の前哨戦として、ドイツ軍の防衛線を
突破すべく、第100歩兵大隊も連合軍の第一次総攻撃に参加したが
ドイツ軍は機甲師団、降下猟兵師団、重砲隊など圧倒的な戦力で
頑強に抵抗し、連合軍は敗退したが、第100大隊は両翼のイギリス軍
自由フランス軍が総崩れとなり、前線で孤立するという極限状況の中
でも戦い抜き、連合軍唯一の橋頭堡を維持し続けたのである。

この有名なモンテ・カッシーノの激戦で、第100歩兵大隊は
負傷率97%、死亡率50%という大損害を被ったのであった。
通常、軍隊の常識として、負傷率60%は全滅扱いで戦闘続行不可能と
判定され、部隊の再編成が為されるものなのである。

1944年3月26日、転戦を命じられた第100歩兵大隊は
連合軍が攻めあぐねて膠着状態となっていたアンツィオの戦いに参加し
ローマ進攻の先兵役を務めて、ローマの手前10km地点まで進軍したが
彼らにローマ進攻一番乗りの手柄は挙げさせたくなかったようで
そこで待機命令が下った。

ローマ解放の栄誉を、どの部隊に与えるかという
司令部の政治的判断が働いたとされている。
それでも第100歩兵大隊は、イタリア戦線で最初に
アメリカ合衆国大統領から表彰されるという栄誉を得たのだ。

時間は遡るが、1943年2月、ルーズベルト大統領は、
将校は白人とすることを条件として、日系人志願兵からなる
連隊規模の部隊編成が発表された。

こうして、ハワイから約2600名、米本土の日系人強制収容所から
約800名の日系二世志願兵達が第442連隊に入隊した。
当初はハワイ出身者と本土出身者間での対立があったそうだが
これは双方を取り巻くアメリカ社会の相違が意識の温度差を
生んだものであったろうことは想像に難くない。

本土出身者にしてみれば、自分達を強制収容所に送り込んだ
その国に忠誠を誓って戦う訳で、親兄弟は依然として檻の中で
屈辱的な生活を強いられていたのであるから、無理もない。

この第442連隊の軍制上の編成も、第100歩兵大隊同様に
通常の部隊編成とは明らかに異なっていた。

部隊名は連隊であるが、歩兵連隊を中核にして、砲兵大隊
工兵中隊を加えた独立連隊であり、独立戦闘可能な部隊で
あることから、第442連隊は独立戦闘可能な師団編成に近く
第442連隊コンバット・チーム、第442連隊戦闘団と
呼ばれるに相応しい。
また、第100歩兵大隊が徴兵に依る編成であったのに対して
第442連隊は志願兵に依る編成であったことが特徴的である。

この第442連隊はイタリア戦線に出撃し、1944年6月には
第100歩兵大隊が編入され、第一大隊扱いで統合された。
ここで、日系二世部隊が合流を果たしたのである。
但し、その戦功に敬意を払い、第100歩兵大隊の名称は
そのまま継続して使われることになる。

イタリア北部での戦闘を経て、1944年9月にはフランスに転戦
アルザス地方の山岳地帯で戦闘を繰り広げた。
この9月、連合軍の伸び切った前線に戦車軍団を先頭に突破する
というドイツ軍の大反攻作戦に遭い、この不意打ちのバルジの戦いで
兵站線が寸断され、各地の部隊は孤立して、連合軍は大混乱に陥った。
この戦況の中で急遽、第442連隊はフランスの山間都市ブリエラの
解放を命じられて、フランスに向かったのだった。

テレビドラマ「バンド・オブ・ブラザース」で名高い
第101空挺師団506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊が
退却して来る友軍に逆行して、不充分な装備のまま、
ベルギーバストーニュの森に向かったのと同じ事情である。

ブリエラで第442連隊を迎え撃ったのは、周囲の高地と市街に陣地
を構築した降下猟兵部隊と武装親衛隊のドイツ軍精鋭部隊であった。
山岳森林地帯であったことから戦車を投入出来ず、
歩兵のみの攻撃に依るしかなかったので、損害は甚大であった。

特にこの年のヨーロッパは、数十年に一度という大寒波に見舞われ
食料、弾薬などの物資も不足し、援軍もない悪条件の中で
彼らは孤立無援の戦いを強いられたのであった。

10月19日、強力な火砲に晒され、死傷者続出の中でも怯むことなく
第100歩兵大隊を先頭に、高地に陣を敷くドイツ軍への突撃を敢行し
これを撃破、翌10月20日には壮絶な市街戦の末に、
ブリエラの町の解放を見事に果たしたのであった。

ブリエラ市民達は第442連隊の戦功を讃え、感謝の念を込めて
街から森へと向かう通りの名前を「442連隊通り」と改名し
その記念碑には
「国への忠誠とは、人種の如何に関わらないことを
改めて教えてくれた米陸軍第442連隊の兵に捧げる」と
刻まれているという。

10月24日、ブリエラ解放直後に第34師団141連隊第1大隊
通称テキサス大隊がドイツ軍に包囲される事態が起こり、彼らを
救出することは最早困難であると判断された為に「失われた大隊」
とまで呼ばれるようになった状況下
翌10月25日にルーズベルト大統領直々、テキサス大隊救出命令が
第442連隊に下され、休養不充分なままにボージュの森に出撃し
ドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げたのであった。

強力な火砲を浴びながら、ボージュの森を6日間も駆け抜けて
第442連隊第3大隊I中隊がテキサス大隊を救出した時には
中隊185名中、僅か8名しか残っていなかったという激戦を
戦い抜いたのだ。文字通り、中隊全滅の犠牲を払ったのだった。
この戦闘は後に、米陸軍史上の十大戦闘の一つに挙げられることに
なったほどの大激戦であったということである。

テキサス大隊の211名を救出する為に
第442連隊の日系二世兵は約800名もの死傷者を出したのだ。
それにも拘わらず、テキサス大隊のバーンズ少佐は
「ジャップ部隊なのか?」との言葉を吐いた為、日系二世の少尉は
激怒して「俺達はアメリカ陸軍442部隊だ!言い直せ!」と
掴み掛かり、バーンズ少佐は少尉に対して謝罪し、
敬礼したというエピソードが残っている。

軍隊では、下位の階級にある兵士からの敬礼に、
上官は返礼するが上官から先に敬礼することは有り得ない。
これは最大級の敬意の払い方であったと言えるのだ。

ブリエラの山岳戦からテキサス大隊救出戦に到る1ヶ月の戦闘で
第442連隊は戦死者216名、負傷者856名という多大な犠牲を払い
戦力は半減したのであった。

テキサス大隊救出後、ダールキスト少将が部隊を閲兵した際に
少将は「部隊全員を整列させろといったはずだ!」と文句を垂れた
そうで、連隊長代理のミラー中佐は「目の前に居並ぶ兵が全員です」
と答えたというエピソードが残されている。
第36師団編入時には約2800名であったものが、1400名に半減
していたのであるから、この損害率は常識を超えていた訳である。

部隊の再編成を行った第442連隊はイタリアに移動し
そこで終戦を迎えた。
連隊の一部、野戦砲兵大隊はドイツ国内に進攻し、ミュンヘン郊外
ダッハウの強制収容所を解放したが、日系二世部隊の戦功であった
事実は1992年まで公表されることはなかったという。

第100歩兵大隊を含めた第442連隊の
個人叙勲総数は1万8000個で、米陸軍部隊史上第1位である。

「大統領部隊感状」は7枚で、米陸軍部隊史上最多受賞部隊である。
7枚目の「大統領部隊感状」は米陸軍史上初めて、
トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に取り付けたのであった。

累積死傷率320%も、米陸軍部隊史上、第1位である。
約1400名の第100歩兵大隊は900名以上の死傷者を出し
第442連隊に編入され、その後連隊は約680名が戦死、
不明67名、負傷9486名の凄まじい犠牲を払ったのである。

トルーマン大統領は全米に向けた演説の中で
「戦中、我々は日系人に対して不当な差別を与えてしまった。
これはアメリカ史上に於ける最大の汚点であり、
反省しなければならない過去である。
それに気付かせてくれたのは第442連隊の勇敢な日系兵士達であり、
彼らには特別の感謝の気持ちを伝えたいと思う」と語った。

にも拘わらず、戦後のアメリカ社会でも日系人達への差別や偏見に
変わりはなく、家も財産も奪われたままに職も無く、
復員兵達の悪戦苦闘は続いたのだった。
彼らがアメリカ市民として、「模範的なマイノリティー」として
正当な評価を受けるには、公民権運動が高揚した1960年代の到来を
待たなければならなかったのだ。

ロナルド・レーガン大統領は
「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と戦い
その両方に勝利したのだ」と彼らの殊勲を讃えた。

アメリカ陸軍では、彼ら日系二世部隊第442連隊戦闘団の歴史を
学ぶ授業は必修課程となっているという。

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『ロサンゼルス発、よみがえれ我が祖国・日本!』 より転載
http://nipponeseclub.blog70.fc2.com/?no=117

『日系人強制収容所と我慢の達人たちの「我慢の芸術」』

先日、友人とスミソニアン博物館で展示されている
「Art of gaman(我慢の芸術)」の話題と
いかに日本人が凄かったで盛り上がった。

この千点以上にも及ぶ作品群には日系人の苦しみの歴史が詰まっている。

多くの日本の皆さんはアメリカで日本人が戦時中、
強制収容所に入れられていたことを知らない。

アメリカ在住の約12万人の日本人及び日系人は3年半の間、
10ヵ所の強制収容所に送り込まれたのだ。
そのほとんどの収容所は草木が生えない荒涼とした砂漠の中にあった。

彼らには48時間しか退去するための準備時間が与えられず、
結果的に家、家財道具を安値で買い叩かれ、それまで築いた地位、ビジネス、
財産、信用全てを失って、収容所生活が始まったのだった。
「ジャップ!」と罵られ、バラック小屋に押し込まれ、
日本人としてのプライドをズタズタにされた。

この鉄条網に囲まれた収容所のトイレはカーテンもドアも無く、
便器が5つほど並んでいるだけという、
若い女性は到底耐えられない所だった。

しかし、日本人は決して未来を諦めなかった。
展示されている「我慢の芸術」は生活に最低限必要な日用品を
手作りするところから始まった。

スミソニアン博物館に展示されている作品は、
芸術家でも何でもない一般の日系人が、過酷な収容所生活に耐え抜いた中で、
コツコツと作られたモノを個人個人から集めたものだ。

当初、強制収容所は戦争が始まってから突貫工事で作られたもので、
1万人以上の人が人間的に住める状態ではなかった。
トイレも食堂も長い列で、絶対数が不足していた。

そこで日系人リーダーたちがアメリカ側の管理者と交渉して、
自分たちで住み良い環境を作り出した。
床の隙間からは強風のため、砂埃が入っていたので、
皆で助け合いながら大工仕事もやった。
そしてトイレも改築し、日本庭園、農園、学校、診療所などを作った。

管理者たちも同じ予算で、
いかに日本人がずば抜けた管理能力を発揮したか驚いていたという。
シナ人には絶対背伸びしても出来ない事だ。

日系人が苦しんだのは監視の中、まるでモノのような扱いを受けた事だった。
収容所内では「番号札」が全員に付けられ、
管理するアメリカ人からは番号で呼ばれた。
多くは表札を彫り上げ、バラックに打ち付けた。
日本人は自分の名前に誇りをもっており、
これはささやかな抵抗だったのだろう。

日本人はどんな苦難に立たされていても、
後世に残るモノを作り出す才能に長けていた。
家具からアクセサリーまでバリエーションを広げていった。
そろばん、スズリ、箸、杖など日用品から工芸品まで作った。
それも道具が無く、その道具作りから始まったのだ。

素朴で創意工夫に満ちたこういう作品は、人種や世代、国籍を越えて、
見る人の心にメッセージを送り込む事だろう。

展示品を観て、多くのアメリカ人は驚き、感動を覚えた。
限られた道具、材料から作られた数々。
極度の絶望の中でも、日本人たちはモノを生み出す力を失わなかった。
日本人は諦めなかった。

これらは逆境を撥ね除けようとする日系人の、
気高い精神の表現へと開花して行った。
「我慢」の末に展開したその結晶が、アートとして表現された。

多くの日本人は3年半後、強制収容所を出ても、
決してこの場所や白人に対して悪く言わなかった。
収容所の中での我慢も凄いが、
その後、二世、三世に作品を見せないで我慢していた。

子供たちがアメリカに溶け込むように、アメリカに反感を持たないように、
アメリカから反感を持たれないようにといった配慮が、
日本人にあったのではないかと思う。そこがシナ人と違うところだ。

当時の日本人は、日本で我慢、日本から移民してからも
我慢、強制収容所でまた我慢の連続。
日系一世たちは、我慢の達人の域に達していた。
今の日本人がこういう状況で、耐えて、こういった作品を作れるだろうか?

先人たちの凄さを改めて知った。敬意を込めて「日本人って凄いな!」

この動画は日系強制収容所内の生活と、
スミソニアン博物館「我慢の芸術」展示作品紹介。
短い動画ですので、ご鑑賞いただければ幸いです。
日本人の気高い精神の表現です。

Exhibit Showcases Art Created by Japanese Americans During WWII


The Art of Gaman: Arts and Crafts from the Japanese American


私のイトコの2人は収容所内で生まれた。
私の祖父、叔父2人もここでの生活を余儀なくされた。
祖父は戦前は大きな農場を持っていたが、
真珠湾攻撃から始まった日米戦開始後、全てを失った。
そのショックが響いたのか、戦後間もなく亡くなった。

当時、父と母親、アメリカ生まれの父の2人の姉、弟、妹は
日本で暮らしていたので、親子兄弟離れ離れであった。
戦時中、父は日本帝国陸軍に入隊し、フィリッピンに送られ、
父親、兄弟が生活するアメリカと戦うこととなったのだ。
父が生まれたアメリカに帰米二世として入国が許されたのは1959年、
戦争が終わって14年経ってからだった。
2008/10/20 09:00|年表リンク用資料
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