正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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いわゆる「南京大虐殺」の場所と期間。

いわゆる「南京大虐殺」が発生したとされる区域は、
南京城区とその近郊の六区を合わせた行政区としての
南京特別市全域であり、それは南京攻略戦の戦区であり、
南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。

つまり安全区なども含まれているのであり、
その場所に逃亡しても戦場であるから当然、戦闘中という認識になる。

いわゆる「南京大虐殺」が発生したとされる期間は、
日本の大本営が南京攻略戦を下令し、
中支那方面軍が南京戦区に突入した1937年12月4日前後から、
大本営が中支那軍の戦闘序列を解いた1938年2月14日が南京攻略戦の終了
なので、その期間が、いわゆる「南京大虐殺」が発生したとされる
期間だといっても差し支えないかもしれないが、

東京裁判での中国の公式見解は南京陥落日から6週間なので、
1937年(昭和12年)年12月13日から翌1938年(昭和13年)年1月24日ごろまで
ということになる。

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普通は防衛軍司令官が無防守都市宣言を行なうものであるが、
中国側は無防守都市宣言をしなかった。

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12月8日、上海における日本大使館報道官声明

南京城内に設置された安全地帯の境界が判然とせず、
これを管理する国際委員会に支那軍の安全地帯への
侵入を阻止する実力がないことを指摘し、

「昨今の南京発の外国通信は、いわゆる南京中立地帯の委員なるものの
活動状況、ならびに避難民流入の状況を伝えているが、
日本当局としては実に異常の困難に鑑み、遺憾ながら、
いわゆる安全地帯の設置につき何等の保障を与えることは
能わざりしことは周知のごとくである。

事実、南京の地勢、及び防御状況よりみて、南京はそれ全体として
いわば一大要塞を構成するものというべく、
かかる地域の中にいわゆる安全地帯なるものの存在することは、
むしろ観念上の矛盾といわざるを得ず、
もとより帝国軍隊としては屡次声明の通り外国人の生命財産については勿論、
一般支那人民に対しても、
故意に戦争の惨禍を蒙らしめる意思は毫もない次第である。

南京のいわゆる安全地帯なるものについては、
如上の理由に基づき、何等の保障を与うること能わず。
之に避難する者は総て自己の危険においてなすものと諒解せられたく、
万一戦闘の影響が右地帯に波及するとも、
責任を問わるべき地位に無きことを、
この際、特に鮮明ならしめておきたい次第である」

と声明した。

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「南京は情報封鎖されていた」という人がいますが、
下記は、1938年1月15日の時点で、
南京の国際委員会は上海と無線電報が通じていたことを示すものです。

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「第四十二号 日本大使館への手紙」

1938年1月15日

拝啓

今朝、上海から無線電報を受け取りました。

電報によれば、南京のために多量の補充用食料(約六百トン)
を上海で用意したとのことであります。

我々が当地南京で貴軍当局の許可を得次第、この食料は輸送されるでしょう。
石田少佐との話合いのなかで、日本軍には南京の住民のために
我々に売却できる豆類、落花生、抽、青野莱、
その代用品も一切ないと彼は言っていました。

この多数の住民が冬何週間も米だけで過ごすとしたら、
疾病の危険性はさらに大きくなるでしょう。

そこで、上海に無線電報を送り、
これらの補充食料を確保するための資金と手配を依頼しました。

どうかこれらの食料品の船積み、荷下ろし、市内への運搬について、
できるだけすみやかに貴国の軍当局が
許可されるよう依頼していただけませんか。

この問題についての御援助に感謝します。

敬具

ジョン・H・D・ラーベ委員長

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『偕行 南京戦史』について。

南京戦史は南京攻略戦に従軍した将兵が
中心になって編集したと一般的に認知されているが、その実体は違う。
実は、その編集委員の中に戦場を知らない者が入っていた。

その実態は『ゼンボウ』平成3年9月号で同編集委員、鵜飼敏定氏が
「南京事件を旧陸軍の罪業の一つと位置づけて旧軍の罪業を暴き、
虐殺の数字を検証して日本軍は南京で何万あるいは何千人を虐殺したかを
明らかにする事を「南京戦史」を書く目的とする委員と、
戦史を書く事によって戦争の本質と戦場の実相を明らかにして
南京事件とは何かを問おうとする委員とに分かれたため、
総括者が両者の極端を捨てて、
ほど良いところをとる所謂折中方針によって編集を指導した。
参戦した委員と戦争を知らない委員との史観は相反した。」と述べている。
つまり、戦後のイデオロギーが混入した状況で
編集された『偕行 南京戦史』は、正式な戦史でない事が明らかで、
参考資料の一つ以上のものではない。

2007年3月の「南京問題小委員会」に講師として参加された
青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、
『偕行 南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。

【1】第9師団歩兵連隊による
安全区掃討作戦において摘出した便衣兵6670名の処断。

【2】第16師団歩兵第33連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた
捕虜3096人の処断。

【3】第16師団歩兵第30旅団が
南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。

【4】第114師団歩兵第66連隊第1大隊が
雨花門外で捕らえた捕虜1657人の処断。

【5】山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。

以上、上記の事例について佐藤氏は、
いずれも戦時国際法違反でないと断定し、
南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を
「虐殺」とする研究に対して苦言を呈した。

佐藤氏が問題ないと断定した上記【1】~【5】の事例は、
中国側も当時、戦時国際法違反があったと国際連盟に提訴していない。

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歴史学者が実証的に確定させた歴史的事実に対して、
国際法学者が国際法の見地から法的判断を下すのが正しい姿といえますが、
いわゆる「南京大虐殺」に関しては、歴史学者達が勝手な国際法解釈をし、
それを多くの読者が鵜呑みにしてしまっている状況です。

◆佐藤和男……法学部教授、国際法学者
◆秦郁彦………法学部教授、歴史学者
◆笠原十九司…文学部教授、歴史学者
◆洞富雄………文学部教授、歴史学者

国際法解釈の難しさ
http://bit.ly/1M0vn2Z
http://oira0001.sitemix.jp/frame34.html
日中歴史共同研究・座長:北岡伸一教授(政治・歴史学者)の曲解
http://bit.ly/1kXrNjw
http://oira0001.sitemix.jp/frame35.html

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『偕行』編集部(加登川)

そしてこの同じ史料を使用して推測した別の集計が
われわれ編集部の手許にある。板倉由明氏の集計されたものである。
同氏は、捕虜になってから殺害された者の数を
全師団正面で一万六千と算定し、
その内半数の八千を不法に殺害されたものと推定する。
そして一般人の戦争による死亡を城内、城外で
約一万五千(スミス調査である)として、
その内不法に殺害された数を三分の一の五千と算定した
(これらの算定を畝本君は過大ではなかろうかとするところに
両者の違いが出てくるわけである)。

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↓↓↓ いい加減なスミス調査を根拠にしていたりする。

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スミス調査・南京地区における戦争被害

句容県

住民総数 227300人

死因・暴行の総数 8530人(男6700・女1830)

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『南京事件の日々――ミニー・ヴォートリンの日記』

12月6日

UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、
きのう句容へ行ってみたが、
人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。

中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。
まったくの「焦土作戦」だ。
農民たちは城内に連れてこられるか、
そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。

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このように句容は1937年12月6日には、
中国軍の「焦土(清野)作戦」によって無人と化していた。

ところが、スミス調査では、
句容で日本軍が8530人を虐殺したことになっている。

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『南京事件と戦時国際法』 国際法学者 佐藤和夫

五、結論的所見

これまでに概観した戦時国際法の関連法規に照らして、
南京攻略戦での日本陸軍の行動の一部始終(詳述は割愛)を点検すると、
きわめて厳しい軍事情勢の下にありながら、
戦闘部隊が交戦法規の遵守に非常に慎重な考慮を払い、
激戦中にも能う限りの努力をそのために払った事実が明らかにされ、
筆者などむしろ深い感動を覚えざるを得ないのである。

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『正論』平成13年3月号 P313『南京事件と戦時国際法』 国際法学者 佐藤和男
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.html
戦争犯罪は、それを実行した個人が責任を問われるというのが原則であり、
軍隊構成員という国家機関の行為でも、
責任は国家に帰属せずに個人責任が問われるのが常である。

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「第114師団歩兵第127旅団歩兵第66連隊第1大隊 戦闘詳報」について

「南京事件-戦時国際法上合法説の詳解」より
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/31.html

「第114師団歩兵第127旅団歩兵第66連隊第1大隊 戦闘詳報」
1937年(昭和12年)12月10日~12月13日

この戦闘詳報の原本は現存していない。
ttp://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

歩兵第六十六聯隊第一大隊「戦闘詳報」 昭和12.12.10~12.13
(『南京戦史資料集1』P560)
「歩兵第六十六聯隊戦闘詳報」原本 所蔵:藤沢藤一郎・第3中隊所属
※昭和61年8月台風10号で汚損・破棄
(「城塁・兵士たちの南京戦史」連載19回P209-210より)
※防衛研究所戦史資料室にコピーあり
(タイトル「歩兵第六十六聯隊第一大隊 南京附近戦闘詳報」)

さらに、これがいつから第一大隊のものとされたのかは不明。

「捕虜は全部殺スベシ」と明確に記録する戦闘詳報が発見された。
それを初めて発掘したのは児島襄氏(日中戦争)である
1998年の東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p97

この戦闘詳報の部隊名は不明であり、記述の中にある旅団名もわからない。
したがって、命令自体が、旅団の独断命令であるのか、それとも、
上級の師団、軍、方面軍からの下令であったのかも、判然としない。
1984年児島襄『日中戦争 3』p194

さらに、この捕虜に関しては、南京突入前後のある部隊の戦闘詳報に
次のような事実が記載されているという。
午後二時零分、連隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク(以下略)
1985年の吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』p106

「部隊名不明」「旅団名不明」「ある部隊」「記載されているという」

しかし1986年の秦郁彦『南京事件』p156-160では、
「第一大隊の戦闘詳報によると・・・」
と第一大隊のものだと確定してるように書いてる。

さらに1989年の『南京戦史』では、
「第一大隊の戦闘詳報」だという前提で書かれている(p211-215)

しかし「隣接部隊等の戦況の進捗状況とチグハグ」
「軍事的慣例と異なる記述」
「全文を通じてその表現は極めて異様」 (p317)
と、疑問点があるように書かれている。

つまり秦郁彦の『南京事件』以降
「第一大隊の戦闘詳報」とされているが経緯は不明。

614 名前:日出づる処の名無し[sage]
投稿日:2010/06/30(水) 14:33:34 ID:ABvgOlHQ
【3】原本を持っていた藤沢藤一郎は単なる所有者であって作成者ではない。
まして戦闘詳報の作成は
副官または書記といった軍曹や伍長以上の下士官が行う。
藤沢藤一郎は副官でも書記でもない。
ttp://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/sougou/sosikizu/D114.htm
藤沢藤一郎上等兵第1小隊
「小隊」や「中隊」の戦闘詳報ならともかく中隊どころか小隊の副官でも
書記でさえない上等兵がどうして「大隊」の戦闘詳報を所有していたんだw

東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』P108
戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、
【副官または書記】が作製し、【大隊長】の決済を経て
連隊に報告するもので、責任者は【大隊長】ということになります。

調べてみると、当時、第66連隊第1大隊本部には、
小野文助、木村徳延軍曹、稲沢伍長、菅沼伍長
という下士官の書記が確認できる(『野州兵団奮戦記』より)。

【副官または書記】
大根田副官、小野文助、木村徳延軍曹、稲沢伍長、菅沼伍長
【大隊長】
渋谷大隊長代理

第1大隊長一刈勇策少佐、(代理)・渋谷仁太大尉、副官・大根田陵少尉

第1中隊 岡部元三郎大尉、(代理)増井清七少尉

第2中隊 岡田恒房中尉

第3中隊 西沢弁吉中尉

第4中隊 手塚清(代理)、平沢新次郎少尉

なんで第66連隊に提出済みの
大隊の戦闘詳報をただの上等兵が所有していたんだw
しかも内容は>568w

南京戦史
『戦況の進捗状況とチグハグ』
『了解し難い部分』
『その表現は極めて異様である』

板倉由明氏
「この戦闘詳報が信頼性の低い、
後日改ざんされた疑いのある文書なのである。」

東中野修道氏
「つまり、処刑命令なるものは阿羅氏も消去法で推定するように、
第一大隊戦闘詳報執筆者の創作であった。
これが唯一考えられる可能性のように思われる。」

しかも、すでに戦史資料室にコピーが存在し、表紙には
「歩兵第六十六連隊第一大隊南京附近戦闘詳報と明記されている」
にもかかわらず裁判所は「○○号証」として証拠採用していない。

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産経新聞 2003年(平成15年)7月24日

日本軍の扱いは公正 / 南京事件で中国軍幹部

東京裁判の判決から9年後の昭和32(1957)年6月、
遠藤三朗元中将ほか18名が、中国政府から国賓として指名招待された。

「日中友好軍人の会」一行は北京で当時の周恩来首相や彭徳壊国防相、
栗裕参謀長と会見したのち、7月下旬に南京に入る。

そして、人民解放軍の歩兵高級学校の張日校長(中将)や
姚副校長(中将)と会談した。

そのとき、一行の谷田勇元中将が(南京攻略戦時の第十軍参謀)が、
雑談のように、南京占領後数件起きたレイプに触れ、
「南京ではいろいろありまして、ご迷惑をおかけしました」と述べて、
「事件を起こした者は軍法会議にかけました」と伝えたところ、
張中将は事件に対する日本軍の扱いは「公正」だったと応じ、
和やかに会談は推移したという。

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『日本人の知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』 深田匠著 高木書房 P72

昭和41年9月に岸信介元首相の名代として5名の日本人台湾使節団が訪台し、
蒋介石と面談している。

そして面談の際、その5名の中の1人である田中正明氏が
松井大将の秘書であったことを思い出した蒋介石は、
田中氏の手を堅く握り締めて涙を流しながら
「南京に虐殺などなかった。松井閣下にはまことに申し訳ないことをした」
と告白している。

この蒋介石の涙の謝罪は、日本人訪台団、通訳、蒋介石の側近らが
全員耳にした歴然なる事実であり、南京事件なるものは
一切存在しなかったことを当事者が認めた貴重な証言である。

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『騙される日本人』 藤井厳喜著 PHP刊

「興亜観音を守る会」の会長であり、
「南京事件」の研究家として知られている田中正明氏は、
1960年、岸内閣の時に締結された日米安全保障条約を積極的に支援し、
岸首相のいわば私的ブレーンのような役割を担った方である。

その田中氏が岸首相から
「これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位になる。
これから台湾に行って蒋介石とも会い、台湾の軍事基地も見学して、
将来のアジアの平和について考えてほしい。
蒋介石氏には私から紹介状を書いておく」
と言われ、台湾を訪問したが、
紹介状のおかげで、準国賓級の待遇で迎えられた。

そして最後の蒋介石総統との会見の席上、
何應欣将軍を初め多くの政府要人が同席している中で、
蒋介石総統が悔恨の涙を流したという。
一週間後、台北の旧総督府で
蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれた時だ。

最後に田中氏が、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後、
「私は昭和16年(1936)2月に松井石根閣下と二人で、
(蒋介石)閣下にお目にかかったことがございます」
と告げると蒋介石総統は「松井石根」という名を耳にした瞬間、
顔色がさっと変わり、目を真っ赤にし、涙ぐんで
「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」。
手が震え、涙で目を潤ませてこう言うのです。
「南京に大虐殺などありはしない。
ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中で
ちゃんとそのことを記録してあるはずです。
私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。
松井閣下は冤罪で処刑されたのです」
と言いながら、涙しつつ田中氏の手を二度三度握り締めたという。

南京は中華民国の首都であり、蒋介石は同国の総統であった。
一国の最高責任者が明言するのであるから、
その言に耳を傾けるべきであろう。

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2006年(平成18年)6月22日、
元衆議院議員・河村たかし氏が
小泉純一郎元首相宛に提出した質問状に対する小泉純一郎元首相の回答。
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衆議院議員河村たかし君提出
いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問に対する答弁書
内閣総理大臣 小泉純一郎

1937年の旧日本軍による南京入城後、
非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。
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「非戦闘員」というものに対しての国際法学者 足立純夫氏の見解。

『現代戦争法規論』 足立純夫著 P19の「9.戦闘員及び非戦闘員の識別」

交戦国の国民は戦闘員(武装部隊の構成員)と非戦闘員(一般住民)との
2つの概括的な部類に分かれ、各部類はそれぞれ武力紛争時において
特定の権利義務を有し、また、いかなる個人も同時に2つの部類に
属することなく、これらの部類の中間的なものもない。

―――――――

「非戦闘員」とは「一般市民」の事です。

小泉元首相は「あった派」がよく引用する「幕府山の中国兵殺害」なるものを
「いわゆる南京大虐殺」の範疇に含めませんでした。

しかも外務省見解では「多くの」という言葉が入っていたのですが、
小泉元首相はこれも削除して答弁しました。 Good job♪ (゚ー^*)d

あと、実行者の主語は書かれていません。

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2016年8月9日時点の現在の
『外務省ホームページ アジア 歴史問題Q&A』
問6.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。
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1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、
非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
2.しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、
政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/

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『南京大虐殺』 犠牲者数をめぐる議論

◆30万人
高興祖(南京大学教授)
孫宅巍 (江蘇省社会科学院研究員)
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館

(日本人学者該当者なし)

◆10万人
洞富雄 (早稲田大学教授)
藤原彰(一橋大学教授)
吉田裕(一橋大学教授)
笠原十九司(都留文科大学教授)
井上久士(駿河台大学教授)
and so on

◆4万人
秦郁彦(現代史家・元日本大学教授)

◆1万人
板倉由明(南京事件研究家)
原剛(防衛研究所調査員)
中村粲(獨協大学教授)
and so on

◆0人
畝本正己(元防衛大学校教授、南京攻防参戦者)
鈴木明(雑誌記者)
田中正明(元拓殖大学講師、松井石根陸軍大将の秘書)
冨士信夫(東京裁判研究家)
小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
大原康男(国学院大学教授)
竹本忠雄(筑波大学名誉教授)
渡部昇一(上智大学名誉教)
東中野修道(亜細亜大学教授)
藤岡信勝(拓殖大学教授)
冨沢繁信(研究家)
阿羅健一(近現代史研究家)
小林よしのり(漫画家)
高山正之(帝京大学教授)など・・・

※0人とは、『南京虐殺』は、「虚構」「捏造」「でっち上げ」
「日本軍による無辜の市民虐殺は実質0人」と主張する虐殺否定派。

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日本軍が南京を占領する前、すでに多数の死体が存在していた。

日英バイリンガル
再審「南京大虐殺」
世界に訴える日本の冤罪
The Alleged 'Nanking Massacre'
Japan's rebuttal to China's forged claims
http://bit.ly/Wkke3K
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html#chapter2-1-3

一部抜粋

中国軍第八七師二六一旅長の譚道平は
その著『南京衛戌戦』(一九八七年、中国文史出版社)に、
十二月十二日夕刻以後の情景をこう記している。

「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた
宋希簾麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、
邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、
路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。

このため、夜になるとパニック状態になり、
邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして
武力で阻止しょうとした第三六師二一二団部隊との間で
銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」

中国軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、
後退する兵士がおれば背後から射殺する
任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。
邑江門の中国兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。

実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。
十一月二十九日の様子を、
ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。

「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。
南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、
誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。
負傷兵たちは二日間も放置された後、
その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。
死骸が空気を汚染し、悪臭を放った。」

十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、
焼け出された市民が難民となって城内に流入、
商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。
支那軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。

上海一九三七年十二月八日発「東京日日新開」は次のように報じている。

南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて七日朝来
市内警備を一層厳重にして少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺し、
すでにその数、百名に及んでいると支那紙は報じている。

『南京戦史』P273

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邑江門(ゆうこう門)=下関門は外側から土嚢が積み上げられ閉鎖されていた。

―――――――――――――――――

『南京戦史』 P160 歩兵33連隊通信班長 平山秋雄

14日朝、獅子山砲台付近(城外)の宿営地出発、ゆう江門に到着。
ゆう江門は外側に土嚢を積み上げ閉鎖され入城できない。
約2時間の作業で漸く通過できるようになった。
城門の右側には数本のロープが吊り下がっている。

―――――――――――――――――

『証言による南京戦史(9)』 歩兵33連隊 羽田武夫

14日は連隊命令により、城内西北一帯の掃蕩を命ぜられ、
ゆう江門および西北隅の獅子山砲台を掃蕩しました。
城内侵入はゆう江門の脇の門から入ったと思いますが。
ゆう江門は土嚢でギッシリと固められており、
城内の道路両側には点々と死体があったと記憶しています。
城壁にはたしか15、6本の色々の布切れの吊が垂れ下がっておりました。

南京市街図
『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明著 文芸春秋 P223の図を元に作成。
中央の紫色が安全区。左上の少し薄いピンクは下関区。
赤い四角が邑江門(ゆうこう門)=下関門。
http://bit.ly/TlzSff


邑江門(ゆうこう門)=下関門
http://bit.ly/TiqsCz


http://bit.ly/Ul30V4

―――――――――――――――――

『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』 P583 青木書店
南京事件調査研究会・編訳 A・T・スティールからの聞き書き
(1987年9月4日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子)

<写真10>
城壁からロープがさがっているでしょう、
これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。
彼らが脱出に成功したのかどうかは分かりません。
彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。
日本軍がゆっくりと、しかし確実に侵攻してきているこの無情な状況で、
逃げ道が限られていたのです。雪崩のように人々が門に押し寄せてくる。
そうなるとおのずから圧死以外にないのです。

―――――――――――――――――

『南京の真実』 P297 講談社 (ラーベ日記 2月22日)

羅福祥は空軍将校だ。
本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。
汪氏は韓の力ぞえで上海行きの旅券を手に入れることができたので、
私の使用人だといってビー号に乗せるつもりだ。
南京陥落以来、わが家に隠れていたが、これでやっと安泰だ。
日本機を何機も撃ち落としたが、
南京が占領されたときは具合を悪くしていた。
もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。
支流を泳いでいくとき、友人をひとり失い、
やっとのことで城壁をよじのぼって安全区に入ることができたのだ。

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隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html

『世界画報』日支大事変号 第6輯(集)第14巻 第2号 南京落城の部分
『世界画報』日支大事変号 第6輯(集)第14巻 第2号 南京落城の部分

『世界画報』日支大事変号 第6輯(集)第14巻 第2号 掲載の地図
『世界画報』日支大事変号 第6輯(集)第14巻 第2号 掲載の地図

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1938年7月に成立した2つの親中反日団体

▼中国を援助する教会委員会

全米に12万5千のプロテスタント教会及び関係組織を傘下に持ち、
ルーズベルト政権に、中国援助を行わせるのに大きな力を発揮した。

会長
H・シルビー(元アメリカ商工会議所会頭)

副会長
J・R・モット(YMCA世界同盟会長)
マーガレット・フォルシス(YMCA北米同盟)
ジョージ・フィッチ(中国YMCA主事)

▼日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会

『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』、『戦争犯罪』などの
反日パンフレットを大量に作成し、
マスコミ、政治家、政府筋に働き掛けるなど、
アメリカの世論を反日に向けるのに大きな役割を果たした。

名誉会長
ヘンリー・スティムソン(元国務長官)
理事長
ロジャー・グリーン(元在漢口アメリカ総領事)
事務総長
ハリー・プライス(元燕京大学教授)
発起人
マーガレット・フォルシス
ヘレン・ケラー
マックス・スチュアート
ジョージ・フィッチ他

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『アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった』松村俊夫著より

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【まとめ】いわゆる「南京大虐殺」について
http://bit.ly/1PidJgM
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-504.html
戦数
http://bit.ly/1P11qFK
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-697.html
いわゆる南京大虐殺・URL図書室
http://bit.ly/1k6AVBY
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html

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いわゆる「南京大虐殺」 追加資料
http://bit.ly/1NIxI89

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2008/10/19 09:00|年表リンク用資料
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