正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1938年(昭和13年)4月13日、いわゆる三灶島(さんそうとう)事件

2009年8月11日(火) 午後10時00分~10時59分にNHK番組の
「日本海軍 400時間の証言 第三回 戦犯裁判 第二の戦争」のなかで
「大井篤元大佐」とされる人物の話を録音したテープが放送された。

以下のような内容である。(ちなみに大井篤元大佐は亡くなられている。)
―――――――
「昭和13年、三竃島事件というのがあって。
私はその後で行ったんですけど臭くて死臭が。
あの三竃島に海軍の飛行場を作ったんです。
飛行場を作るのに住民がいるもんだから
全部殺しちゃったんですよ何百人か殺した。
要するに支那事変(日中戦争)の頃から人間なんてどんどん。
作戦が第一なんだ、勝てばいいんだ、
そう言う空気でしたよ、あのころの空気は。
こっちは負けてるんだから。
いや勝ってる時にもやってるんだ 勝ってる時やってるんだからね。」
―――――――――――――――――

大井篤氏は事件のあとで三竃島に行ったと言いながら、
さも自分が直接やったか、あるいは直接、見たかのように語っているので
正確な表現とはいえないのだが、あらためて時系列でみてみると、

1938年(昭和13年)2月、日本海軍が中国本土爆撃用の飛行場適地を探して
三竃島に一時的に上陸したあと撤退。

1938年(昭和13年)4月、日本軍は三竃島を占領。

1938年(昭和13年)5月10日、三竃島飛行場竣工。

1938年(昭和13年)6月14日、三竃島から第14航空隊が出撃して桂林を爆撃。

翌1939年(昭和14年)12月1日、大井篤氏が第2遣支艦隊艦隊作戦参謀となる。

―――――――

1938年(昭和13年)4月に、いわゆる「三竃島事件」が起きたとされているが、
大井篤氏が三竃島に行って第2遣支艦隊艦隊作戦参謀となったのは、
その1年8ヵ月あとの1939年(昭和14年)12月1日である。

1年8ヵ月も経っていたのに、
まだ死臭が漂っていたというのは本当なのだろうか?
遺体を放置していたのか?

なぜ殺害しなければならなかったのか、詳しい経緯は語られていない。

攻撃してきたとしたら一般市民ではなく、
便衣兵であった可能性も否定できないであろう。

三竃島特報 (一部拡大)

三竃島特報

上記の『三竃島特報』なるものでは、
確かに「北部部落民を掃蕩」と書かれており、
番組では、その部分を強調していたのだが、
あらためて全体をわかりやすく書き出してみると、

―――――――――――――――――
事変前は約12,000の住民在りたるも帝国海軍に占領されるに及び、
その大部分は大陸に逃亡し、
また四月中旬、北部部落民を掃蕩したるにより、
現在、南部々落民、約1800名を残すのみとなれり。
これらに対しては大陸との交通を禁止した。

治安維持会を組織した会長の湯聘臣は、
事変当初より帝国海軍を信頼して郷民の軽挙を戒めていた處(ところ)、
昨年、一時、占領隊が撤退したため、
漢奸(裏切り者)として逮捕されるとして他島に逃げて居たが、
再占領後に救い出した者である。

島民より人夫として毎日男女合計約350名を使用(賃金 大人25銭小人15銭)

現在の残留者もまたして漢奸と認めら居る状況なり。

(日本)国軍隊の撤退を極度に憂慮し居れり
過般航空機を見るに及び稍(やや)安堵の状を呈しつつあり。
―――――――――――――――――

三竃島の住民の大部分は中国大陸に逃げたと書いてある。
その大部分というのが実際に何人なのかは書かれていない。

そのあと「北部部落民を掃蕩した」とあるが、
「掃蕩」の意味は「殺害」とは限らないし、
何人を「掃蕩」したのかも書かれていない。

結局、南部々落民1800名が残り、治安維持会の会長になった湯聘臣は、
その2ヵ月前の1938年2月に日本軍が一時的に三竃島に上陸した際、
日本軍がひどい事をしないと信じて抵抗しないよう住民を説得した人物で、
そのとき日本軍が撤退したあと「漢奸」(裏切り者)とされて逮捕される
ことを危惧して他の島に逃げていたという記述がある。

日本は島民の男女350名を雇って賃金を払っていたが、
その者たちを含め、島に残留していた住民は
中国から「漢奸」(裏切り者)として見られる傾向があったので、
また日本軍が撤退してしまうのではないかと極度に憂慮し、
日本軍の航空機が飛んでいるのを見るたびに安堵していたと
書かれているので、
戦後、中国側が「裏切り者」として
残留民の逮捕、処刑が行なわれた可能性さえ浮上してくるのである。

番組の中で元?地元民が
「秘密を守るために強制移住させられた」と証言しているが、
それは、どこから何処に移住させられたのか映像では確認できなかった。

NHKのナレーションでも、

「反省会で大井元大佐が語った事件(三竃島事件?)が
どのようなものだったのか、全容は確認できませんでした。」

と説明していた。

結局、詳細は分からないのである。

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参考:『銀色の侍魂』
http://omoixtukiritekitou.blog79.fc2.com/blog-entry-224.html
2008/10/17 09:00|年表リンク用資料
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