正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1942年4月10日、いわゆる「バターン死の行進」

いわゆる「バターン死の行進」。捕虜は水筒も保有している。
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いわゆる「バターン死の行進」。捕虜は水筒も保有している。

日本軍は、いわゆる「バターン死の行進」で
亡くなった米軍捕虜を丁寧に埋葬した。
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日本軍は、いわゆる「バターン死の行進」で亡くなった米軍捕虜を丁寧に埋葬した。


歩いたのは米軍捕虜だけではなかった。

捕虜は水筒だけを持って歩いたが、
日本軍兵士は60kg以上の荷物を持って一緒に歩いた。

日本兵と米軍捕虜が一緒に何十kmも歩いて
日本兵が死なずに捕虜だけ死んだ理由は、
捕虜がもともとマラリアなどに罹っていたことが最大の要因であった。

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防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 比島攻略作戦』 朝雲新聞社 P432

降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、
食料の不足とマラリアの流行とのため極度に衰弱していたが、
コレヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点、
および米比軍の砲爆撃によって傷つけないためにも、
これらの捕虜や住民を原位置に留めておくことはできなかった。

しかも米比軍の降伏が以外に早かったため、これら捕虜に対する食料、
収容施設、輸送などに関し準備を行なう余裕もなかった。

当時、軍自体が食料および輸送力の不足に苦慮している状態であった。
したがってこれら捕虜もいきおい比較的食糧などを補給しやすい地域に、
徒歩で移動させなければならない事情にあった。

(中略)

「死の行進」に関し和知参謀長は、要旨次のように述べている。

元来バタアン半島はマラリヤのはびこる地帯である。
それだけに敵味方ともマラリヤにかかり、
その他にデング熱や赤痢に倒れる者もあって全く疲れていた。

バタアンの比島軍の捕虜は五万であったが、
その他一般市民で軍とともにバタアンへ逃げ込んだのが
約二~三万は数えられ、合計八万に近い捕虜があった。

一月から四月まで、かれこれ三ヵ月半も、
バタアンの山中にひそんでいたため
ほとんどがマラリアその他の患者になっていた。

その彼らを後方にさげねばならなかった。
なぜなら軍にはまだコレヒドール攻略が残っていたからである。

捕虜は第一線から徒歩でサンフェルナンドへ送られた。
護送する日本兵も一緒に歩いた。
水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた。

全行程約六十数キロあまり、
それを四~五日がかりで歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。
疲れきっていたからである。

南国とはいえ夜になると肌寒くなるので、日本兵が焚火をし、
炊き出しをして彼らに食事を与え、それから自分らも食べた。

通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある。
できればトラックで輸送すべきであったろう。

しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。
次期作戦、
すなわちコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態だったのである。

(中略)

むろん道中でバタバタと彼らは倒れた。
それはしかしマラリア患者が大部分だった。
さらにもう一つ付け加えれば、彼らはトラックで移動することを常とし、
徒歩行軍に馴れていなかったことである。

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アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html

日本軍もフィリピンで、
米軍などの捕虜約7万人を収容所まで歩かせず、
米軍と同じようにその場で全員殺しておけば、
「バターン死の行進」などと非難されずに済んだのだろうか?

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山形市芸術文化協会賞受賞
『「お前が証人だ」 バターン死の行進の報復』 後藤利雄 著
http://www.jmcy.co.jp/~goto/Majime/toshio/shonin/shinin01.htm

終戦を迎えたフィリピンでアメリカ軍に投降した日本兵を
待っていたのはあまりにも露骨で非人道的な報復行為だった。

意味もなく鉄道駅から離れた場所に集結を命じられた日本兵は
水筒を採り上げられ、炎天下のフィリピンを長々と行進させられ、
バタバタと死んでいく。

そしてやっとの思いで到着した収容所では更に過酷な強制労働が待っていた。
機械力を持つ米軍はその使用を許さず、重い岩石や土砂を人間に運ばせる。

乏しい食料と不釣り合いな重労働に思わず抗議した看護婦に
収容所の米将校は「これこそが強制労働と言うものだ」と平然として答える。

内地に復員した著者は、後にアウシュビッツ収容所の話を読んで
「自分たちよりよほど人間らしく扱われた」彼らに羨望の念を禁じ得ない。

そして収容所で死んだ日本人が正確に2万の墓標の下に埋められた後。
あれほど酷かった捕虜虐待は嘘のように終わってしまった。

つまり、非人道的な虐待は米軍にとって
「ノルマ」を達成させる為の手段でしかなかったのだ。

「2万」とは連合軍が主張する
「バターン半島死の行進」による死者のちょうど2倍の数字である。
2008/10/16 09:00|年表リンク用資料
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