正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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東京裁判 弁護側冒頭陳述

(略)本法廷憲章中の第一の犯罪たる共同謀議――コンスピラシー――
という罪は法廷憲章中にその名称があげられてあるのみで
定義が下されておりませぬ。

共同謀議を処罰するチャーターの規定が
適法であるか不適法であるかは別として、
何か定義を下さなければ検察官において
犯罪であるとして主張せられる事実を定めることができませぬ。

同時に被告側がいかなる証拠を提出せねばならぬかを知ることができませぬ。

検察側は合衆国の下級連邦裁判所の判例を引用して
共同謀議を定義せんと試みられました。
しかして、かかる裁判所の判例には
議論の余地がないと主張せらるるごとくであります。

この裁判所は国際裁判所であります。
また裁判官御自身すでにこの裁判所がその地位にかんがみ、
たとい合衆国の憲法であっても当然これを適用するがごときことは
考えておらぬとの意見を述べておられます。

したがって、この裁判所が米国憲法の規定の所産であるのに
過ぎない連邦下級裁判所の判例を、
そのまま採用せらるるがごときことは
ますますもってありうべからざることといわねばなりませぬ。

元来、被告等は年齢も相違すれば、境遇も相違いたしまするし、
ある者は陸海軍軍人であり、他の者は官吏であり、ある者は外交官、
他の者は著述家でありまして、
その全部が特殊の目的をもって会合する機会を持ったことはありませぬ。

彼らはこれらの事に関して団体として
意思を交換する機会を持ったこともありませぬ。

実際、被告中のある者の間には、
いろいろの意見の相違が存在しておったのであります。

もし彼らのある者が満州事変、支那事変
ないし大東亜戦争にある程度の関係があるといたしましたならば、
右などの事件は、日本国家の全力をあげて
活動しなければならぬ事変または戦争でありまして、
その当時これらの者が国内の有力者であったがためであります。

被告らが検察側の指名せざる種々なる人々、これと陰謀団を作って、
かかる手段によって全世界、東亜、太平洋とか、印度洋とか、
支那、満州を制覇するために共同謀議したという事実はありませぬ。

これらの事変はおのおのその発生の具体的原因を
異にした別種の事件であります。

また一の事件の関係者は他の事件の関係者と異なっています。
前任者が後任者にその計画を申し送ったり、
後任者がこれを受け継いだという事実もないのであります。

ことに明白なことは、一方では満州事変、他方では支那事変と大東亜戦争、
この間の区別であります。

満州事変は一九三三年(昭和八年)の塘沽協定で落着いたしております。

その後に蒋介石政府の当事者は満州国との間に
関税、郵便、電信、鉄道の協定をいたしております。

また一九三五年、三六年中には蒋介石は日本との間の敦睦令を発しました。

当時、日本の岡田内閣の広田外相は支那と交渉されまして、
満州及び北支の現状の承認を含む三原則を立て、
中国側よりこれを基礎としてさらに
その実行の細目を協定する事の同意を得ておったのであります。

それゆえ、塘沽協定より四年後に発生した支那事変が、
ある特定の人物が満州事変と同一の目的をもって
故意に計画的に引き起こした事件であると
推定することは不自然であります。誤ちであります。

日本は他の列国と一九〇一年の団匪議定書
(引用者注・いわゆる義和団事件後の条約)によって兵を駐屯せしめ、
また演習を実行する権利をもっておりました。

またこの地方には日本は重要なる正常権益を有し、
相当多数の在留者をもっておったのであります。

もしこの事件が当時日本側で希望したように
局地的に解決されておりましたならば、事態はかくも拡大せず、
したがって侵略戦争がありや否やの問題には進まなかったのであります。

それゆえに本件においては中国はこの突発事件拡大について
責任を有すること、また日本は終始不拡大方針を守持し、
問題を局地的に解決することに努力したことを証明いたします。

近衛内閣は同年七月十三日
『陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針をこれ堅持し、
全面的戦争に陥る如き行動は極力これを回避する。
これがため第二十九軍代表の提出せし
十一日午後八時調印の解決条件を是認して之が実行を監視す』
と発表しております。

しかるにその後支那側の挑戦は止みませぬ。
郎坊における襲撃、広安門事件の発生、
通州の惨劇等が引きつづき発生しました。

中国側は組織的な態勢を具えて、
七月十二日には蒋介石氏は広範なる動員を下令したことがわかりました。

一方中国軍の北支集中はいよいよ強化せられました。
豊台にあるわが軍は支那軍の重囲に陥り、
非常なる攻撃を受けたのであります。

そこで支那駐屯軍は七月の二十七日に
やむをえず自衛上武力を行使することに決しました。(略)。

それでも日本はやはり不拡大方針をとってまいりましたが、
蒋介石氏は逐次に戦備を具えまして、
八月十三日には全国的の総動員を下令しました。

同時に大本営を設定いたしまして
自ら陸、海、空軍総司令という職に就きました。

全国を第一戦区(冀察方面)、
第二戦区(察晋方面)、
第三戦区(上海方面)、
第四戦区(南方方面)

に別ちてこれに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備しました。

外交関係は依然継続しておりましたが、
この時期には日支の間に大規模な戦闘状態が発生したのであります。

以上の急迫状態に応じて、
わがほうでは北支における合法的権益を擁護するために、
遅れて八月三十一日にいたって内地より北支に三個師団の兵力を
派遣すると共に、また駐屯軍を北支方面軍と改称いたしました。

その司令官に対しては平津地方の安定を確保する。
相手方の戦闘意思を挫折せしめる。
戦局の終局を速やかにすべきことを命じました。

かくのごとくこの時にいたってもわがほうにおいては
北支の明朗化と該地方における抗日政策の放棄を
要求しておっただけであります。

日本政府はこの事件を、初め北支事変と称して
事態を北支に局限し得るものと考えておりましたが、
これが八月中には中支に飛び火いたしました。

その原因については、別に説明いたします。

支那側は、一九三二年、
英米その他の代表の斡旋によって成立いたしました上海停戦協定を無視して、
非武装地帯に陣地を構築し、五万余の軍隊を上海に集中いたしました。

この地にあった日本の海軍陸戦隊はわずかに四千名にも足りませぬ。
かくて日本の在留者の生命と財産は危険に陥ったのであります。

このときわが海軍特別陸戦隊の中隊長大山中尉が
無残にも射殺されたのであります。

日本は八月十三日に在留民の生命財産を保護するために
上海に派兵することに決定いたしました。

(略)一九三九年七月二十六日に、突如一九一一年以来、
両国通商の根本であった日米通商航海条約廃棄を通告したのであります。
これより両国間の誤解はだんだん増大していったのであります。
爾来、アメリカはわが国に対し種々なる圧迫威嚇を加えて来たのであります。

第一のわが国に対する経済圧迫の標本をあげて見ますと、

(1)アメリカは一九三九年十二月には
モーラル・エンバゴー(引用者注・禁輸)を拡大しまして、
飛行機、その装備品、飛行機組み立て機械
並びにガソリン精製の機械を禁止品目に追加して釆ました。

(2)アメリカ政府は一九四〇年七月中にはわが国に対し
屑鉄の輸出禁止を行ないました。
屑鉄は当時わが国のとっておった製鉄法から見て
極度に必要なるものであります。
その禁止はわが国の基本産業に重大打撃を与えました。

(3)同年八月にはアメリカは航空用ガソリンの輸出を制限しました。
日本は全体として年に五百万トンの石油の供給を受けなければなりませぬ。
これは国民生活上及び国防上の必要の最小限であります。
しかるにわが国産の石油は非常に大きく見積もって
年三十万トンを出ぬのであります。
この間の不足は海外よりの輸入により補うのほかはありませぬ。
そこでわが国は東亜における唯一の石油の供給国でありました蘭印に対し
小林商工大臣を派遣し、のちまた芳沢大使を派遣し、
蘭印との交渉を続けようといたしましたけれども、
ついに商談は不調に陥ってこれらの努力は水泡に帰したのであります。
これは蘭印が米英と通じての態度であると了解せられております。

(4)これと同様の妨害は仏領印度支那
及びタイの当局よりも実施せられました。
すなわちわが国の正常なる必需品、
米の輸入及びゴムの輸入は妨害されたのであります」。

一九四〇年十一月三十日のわが国と汪(精衛)政権との
日華基本条約締結に対して、明らかに報復の意味をもって
アメリカは重慶(注・蒋介石政権)に対して五千万ドルの追加借款を供与し、
さらに別に法幣安定資金として急速に五千万ドルを提供することが
考慮せられつつあると発表し、
イギリス政府も十二月十日には一千万ポンドの供給を発表しました。

イギリスの重慶に対する武器供給はいわずもがな、
一九四〇年、雨季明けにはイギリスはビルマ・ルートを再開して
直接、武器、軍需品をわが国の当時敵としております蒋介石政権に
供給したのであります。

仏領印度支那も重慶への供給路として使用せられました。

加うるに一九四一年に武器貸与法が
中国に適用せられることとなったのであります」。

一九四〇年十二月には、
アメリカ太平洋艦隊の主力をハワイに集中いたしました。
すなわち対日示威が行なわれたのであります。

イギリスは同年十一月十三日、
シンガポールに東亜軍司令部を新設いたしました。
マライ、ビルマ、香港をその総司令官の指揮下におき、
豪州及びニュージーランドとも緊密に連絡をいたし、
束亜英領の総合的軍備の大拡張の実施に着手したのであります。

この間、米英蘭支の代表は引きつづいて
急速に各所において連絡をいたしております。

ことに一九四一年四月マニラにおけるイギリス東亜軍総司令官、
アメリカの比島駐在高等弁務官、米国アジア艦隊司令長官、
オランダ外相との会談はわがほうの注意を引いたのであります。
同年六月中旬にはシンガポールにおいて
英・蒋軍事会議が行なわれたのであります。

これらの急迫した諸表現に対処して、日本政府は緊急の災害を避くるために、
各種の手段を採用しました。

すなわち一九四一年春以来、在米日本大使は悲しむべき緊張が終了して、
日米の関係を円滑にするため最善の努力をせよ、
と要請せられたのであります(引用者注・日米交渉のこと)。

(中略)日本の総理大臣はアメリカ大統領に太平洋のどこかで
直接会見をして事を一挙に解決せんとしたのであります。
この目的のためにアメリカへ大使を増派したこともありました。

また七月中旬にはアメリカとの交渉を遂げるためというので、
内閣を変更したのであります(引用者注・第三次近衛内閣のこと)。
これは独立主権国として外交の必要上なし得べき最後の措置であります。

一九四一年七月二十七日には、
アメリカ政府はわが国の在米全資産の凍結を行ないました。
これはわが国の仏印への平和派兵を誤解しての指定であります。

イギリス及び蘭印も直ちにこれに倣いました。
わが国とイギリス及びオランダとの間には、
通商航海条約は当時現存いたしておりました。

したがってイギリス及びオランダの日本資産凍結令は
この条約に違反してなされた違法なものであります。

(中略)米、英、蘭の資産凍結によってわが貿易の半ば以上は失われ、
過去八十年間の営々たる労苦は一空に帰してしまいました。
(中略)
日本国民の不可侵の生存権はここに奪われたのであります。

ちょうどその時アメリカは(中略)八月一日に
石油輸出禁止を発令いたしました。
日本の海軍は現在貯蔵の油を消費した後は移動性を喪失いたします。
支那事変は事実上解決不能となります。
わが国防は去勢せられたこととなります。

ここに自衛権の問題は冷ややかな現実問題としての
全国民の眼前に姿を現わして来たのであります」。

一言にして言えば、自衛権成立の基礎的事実は
この時期に十分に完備したのであります。

しかしながら日本はこの時においても、
直ちにこの自衛権を行使しませんでした。

それとは反対に、忍ぶべからざるを忍んで、
なんとか戦争の原因となりうるものを取り除こうと努力したのであります。

日本の平和への願望、日本の真摯なる努力はついに実を結びませぬ。
一九四一年十一月二十六日の
アメリカの通告(引用者注・いわゆるハルノート)は、
以上の自衛権構成事実のただの一つをもこれを除くことの
不可能であること明白疑いなきものといたしました。

ここにおいて日本の政府は部内の各機関の意見及び観察を徴し、
最大の注意を払い、
ついに自衛権の行使をなすのほかなきに立ちいたったのであります」。

われわれがここに求めんとする真理は、一方の当事者が全然正しく、
他方が絶対不正であるということではありませぬ。
(中略)
われわれは困難ではありますが、
しかし、公正に、近代戦争を生起しました一層深き原因を
探求せねばなりませぬ。

平和への道は現代の世界に潜在する害悪を根絶するにあります。
近代戦悲劇の原因は人種的偏見によるのであろうか、
資源の不平等分配により来るのであろうか、
関係政府の単なる誤解に出ずるのか、
裕福なる人民、または不幸なる民族の強欲、または貪婪にあるのであろうか、
これこそ人道のために究明せられねばなりませぬ。

起訴状によって示されたる期間中の戦争ないし事変の真実にして
奥深き原因を発見することにより、
被告の有罪無罪が公正に決定せらるるのであります。

これと同時に現在、または将来の世代のために恒久平和への方向と
努力の方途を指示するでありましょう。
終わりであります。

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「日本政策研究センター」より引用
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=59
2008/10/15 09:00|年表リンク用資料
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