正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1862年9月14日、生麦事件。

1862年9月14日、薩摩藩政の最高指導者・島津久光の大名行列(約400人)が
江戸から京都へ向かう途中、神奈川の生麦村に差しかかった折り、
乗馬を楽しんでいた横浜居留地に住むイギリス人4人と行き会った。

行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、
正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、
身振り手振りで下馬して道を譲るように促がしたが、
4人は行列の中に入り込んで逆行してどんどん進んで鉄砲隊を突っ切り、
ついに島津久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたため、
数人の藩士が抜刀して斬りかかり、1人が死亡して2人が重傷を負った。

無傷の女性1人は横浜の居留地へ駆け戻り、
深手を負った2人は血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある
当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺に駆け込んで助けを求めた。

イギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊が現場へ
向かい、死亡したリチャードソンの遺体を収容して横浜に戻った。

横浜居留民の多くが武器をとっての報復を叫んだが、
イギリス代理公使ジョン・ニール中佐は、それらの声を押さえ込み、
幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた。

1863年の年明け早々、幕府に圧力を加えるため、
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの
四カ国艦隊が順次横浜に入港した。

生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル卿の訓令が
ニール代理公使の元へ届き、
これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して
謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。

さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、
艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、
犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。

幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、
6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。

しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕を
きっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。

薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、
イギリス艦隊側にも損傷が大きく、
4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。

10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。
薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、
講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は
「逃亡中」とされたまま行われなかった。

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来日していたアメリカ人女性宣教師マーガレット・バラは
アメリカの友人への手紙のなかでこう述べている。

「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くこと
になっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように
言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも
幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。
そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか
行列の真ん中に飛び込んでしまったのです。」

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事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人の
ユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて
行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、
薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、
特に問題も起こらなかったという。
ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、
大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、
礼を失すればどういうことになるかを理解しており、
「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である。」
とイギリス人4名を非難する意見を述べている。

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アメリカ公使ロバート・プルインの本国への報告書の中で
プルインは以下のように指摘している。

「高位の人物が部下を従えて通過するとき、他の人々は馬から下り、
敬意を表するのがこの国の慣例であることを考えると、
リチャードソンがこの日本の慣例に従わなかったことは、
薩摩の家老によって侮辱と受け取られたかも知れないし、
いっそうありうることは、日本の法律で認められている残虐行為を
正当化する理由として、そのことが利用されたことである。」

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当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルースは、
本国の外務大臣ジョン・ラッセル卿への半公信(半ば公の通信)の中で
こう書いている。

「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。
大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。
もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、
何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、
引き返すか、道路のわきに避けるしなかったのであろうか。

私はこの気の毒な男を知っていた。
というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して
何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、
重い罰金刑を課した上海領事の措置を
支持しなければならなかったことがあるからである。

彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。
わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、
騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、
プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である。」

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事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師は、
リチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、
戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、
一方で兄への手紙にこう書いている。

「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば
故国のならわしに従って血闘に価するほどの態度で、
各省の次官に相当する日本の高官を罵ったりします。

また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、
上流階級の人々にも決して敬意を払いません。
このような態度の大部分はすべての外国人に共通したものなのですが、
とりわけ現地の人々の間に非友好的な嫌悪の種をまいたのは我々英国人です。

-中略-

誇り高い日本人にとって、
最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような
尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。
先の痛ましい生麦事件によって、
あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、
ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、
先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも
平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです。」

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日英修好通商条約による治外法権の規定により、
日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかった。

つまりイギリス側から言うならば、
イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、
たとえ日本の国内法で無礼討ちが認められていようとも、
当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。

一方、薩摩藩側から見るならば、
「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、
朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」
ということになるのである。

条約により、
居留地を中心として10里四方の外国人の遊歩は自由とされていたことから、
幕府の規制要請がない限りにおいては、
リチャードソン一行の行動がいかに無礼なものであろうとも、
通行の安全を保障すべき幕府の責任を
イギリス側は強硬に追及することができたのである。

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【幕末、攘夷運動が高まるなか起こった外国人殺害事件】

・1856年、ロシア間の士官・水夫、横浜で斬殺される。
・1856年、 横浜のフランス領次官下僕、殺害される。

・1860年、イギリス公使館通弁伝吉、刺殺される。
・1860年、オランダ船、船長ら2名斬殺される。
・1860年、フランス公使館の旗番、刺殺される。

・1861年、アメリカ公使館秘書、暗殺される。

・1862年、生麦事件

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【参考】Wikipedia「生麦事件」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
2010/03/01 06:00|年表リンク用資料
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