正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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以下、『無趣味が趣味』より
http://dai-fuku-moti.blogspot.jp/2012/06/blog-post.html

『白い人が仕掛けた黒い罠 ~ アジアを解放した日本兵は偉かった』
高山正之著 より要約。

■パレンバン オランダを蹴散らした空の神兵

◆見よ落下傘

飛行機を持つ国は落下傘を研究し、実戦投入した。
ヒトラーのクレタ島攻略では、制圧は成功するが、
約2万人の空挺部隊は落下中に狙われ、精鋭半数を失った。
ソ連はドイツとのクルクス会戦のあと、
ドニエプル川で5千人を投入し、6割を失う。
米国はノルマンディー上陸後、
ライン川に2万4千人の空挺部隊を投入するが、半数近くを失い、惨敗。
(マーケットガーデン作戦)

◆落下傘は藤倉工業製

昭和17年2月14日、マレー半島南部クルアン、カハンの二つの飛行場から
34機の輸送機に329人がパレンバンに向けて進発。
地上で使用する重火器は重爆撃機27機が現地に投下することになっていた。

オランダ軍は石油基地を守るため、
川に重油を流して火を放ち、日本軍の行く手を阻んでいた。

◆ハリケーンVS隼

目標は石油基地とは川を挟んだ、英蘭軍千人の守る飛行場。

ここに降下したのは240人。

日本兵5人で
「遺棄死体150、降伏150」
うち、日本兵2人は戦死。

石油基地には99人が降下し、制圧。

石油タンク群は2基が破壊されたが、残りと精製施設も無傷。
爆破装置は降伏したオランダ人技術者によって解除。

◆鎖でつながれた現地兵

現地人は空の神兵たちを笑顔と歓声で迎えたという。

この作戦の前に、セレベス島メナドの飛行場を制圧したとき、
「オランダ側はトーチカによって抵抗したが、
落としてみると中には足を鎖でつながれた現地民兵士の姿があった。
蒋介石軍と同じだ。」

敗戦で日本軍が去る時、沿道に村の人々が総出で見送ったという。

◆女中を裸にして

インドネシアのパレンバンに日本がつくった、「アンペラ鉄橋」がかかる。
アンペラの意味は
「虐げられた人々への償い」
日本軍が戦争中、インドネシア国民を虐待し、
資源を収奪したことを詫びてこの鉄橋をつくった、という。

◆スカルノの背信

独立記念塔の地下ホールでは、
インドネシアの歴史がジオラマ展示されている。

ここには
「オランダの強制栽培も残忍なオランダ人農園主も出てこない。」

日本軍については、
「オランダ軍が降伏すると、
日本軍はインドネシアの資源や労働力を搾取した」

日本が降伏すると、オランダとの戦いはなく、
降伏した日本軍を虐殺するなど、日本軍への襲撃となる。

「まるで悪い日本軍を倒してインドネシアは独立したのだと
主張しているように見える」

「オランダが要求した独立承認料60億ドルの話は一語も言及されていない」

「・・・しょうもない白人の非道をはっきり指摘することもできる。
それができるのは世界にあって日本人だけなのだ。」

■インパール 神のごとく振る舞った英国人が青ざめた

◆大きな白人をやっつけた

タイは日本軍が戦時下に作った鉄橋をスクラップにしなかった。
泰緬(たいめん)鉄道と日本の機関車も保存している。
日本製軍艦「メコン」も川のほとりに永久展示している。

ー神のごとく振る舞った英国人ー

タン教授は
「神のごとく振る舞ってきた英国人が青ざめ、逃げまどうのは痛快だった。」
という。

英印軍を追った55師団丸亀歩兵連隊の一兵士が思い出をつづっている。
「田んぼの中を一列縦隊で進んでいると農家から女性が走ってきて
我々に1個ずつ砂糖菓子をくれた。おいしかった。
もう1個かすめようとした兵士が彼女に手を叩かれ頭を掻いていた。」

◆インド人は英国の手先

インド人は英国の手先としてビルマ人を痛めつけてきた。
「ビルマは日本のインパール作戦には背を向けた。
自由インド国民軍も櫛の歯がこぼれるように戦列を離脱していった。
この作戦を通してボースの声に同調して
英印軍から帰順したインド兵は皆無だった。」

インド軍は米国から送られた優勢な装備で日本軍を苦しめ、
日本軍は全滅が相次いだ。

1944年6月1日、M3、M4戦車にはばまれ、
師団長は独断で撤退命令をだすが、潰走する日本軍を追うのは、
M4を中核とする戦車師団を含む英印軍。

◆日本の傷病兵にガソリン

山に逃げ込んだ日本兵が見ていると、
移送を待つ重傷者30人にグルカ兵がガソリンをかけ、火を付けた。
英軍戦車隊が日本軍の野戦病院を砲撃するのを日本兵が目撃。

さらに、這って逃げた傷病兵を道路に並べ、選別してトラックに乗せ、
残った傷病兵はガソリンをかけられて燃やされ、その悲鳴が聞こえた。

■上海・南京・武漢 日本を潰せー支那の背後にちらつく露・独・米の影

◆切り取り御免

昭和7年1月、第一次上海事変。

蔡廷かい(さいていかい)率いる支那第19路軍3万人が
上海の日本租界地を襲った。

日本側の陸戦隊1000人で、支那派遣軍を送り3月に終わる。

支那側は1万を超える戦死者、日本側は700余人。
「それでも従来の支那人との戦から見れば、予想外の損害だった。」
苦戦の原因はドイツや米国にあるという。

◆ショートの短見

昭和8年、関東軍は熱河(ねっか)作戦で、河原旅団6千人をもって、
古北口を攻めるが、蒋介石はここに7万人で守り、戦いは3昼夜に及ぶ。
ここでも手強さを感じる。

◆米国製の支那軍隊

昭和12年8月13日、第二次上海事変。
蒋介石は上海の日本租界に攻め込んできた。

8月14日、支那軍の軽爆機(米国ノースロップ製)が
6発の250キロ爆弾を落とし、
5発が外れ、1発が支那人の乗るフェリーを大破した。

さらに支那軍機が飛来したが、対空火器を恐れて高空から爆弾を投下し、
キャセイホテル前に落ちた爆弾で数百人が死傷した。
対空砲火で被弾した1機は離脱して戻る途中、爆弾を落とし、
フランス租界の歓楽地「大世界」前に落ち、数百人が即死した。

蒋介石の軍は、潰走し南京へ向かうが、
行きずりに民家に押し入り略奪したうえで火を放った。
日本軍が南京に迫ると、蒋介石は重慶に逃げ去った。
兵はトーチカの床に鎖で足を縛り付け、
逃げ道には督戦隊を置き、逃げようとする仲間を撃った。

◆黄河、長江の堤を切る

蒋介石の軍は、日本軍が来ると井戸にコレラを撒き、
日本軍を足止めするため黄河の堤防を決壊して逃げた。
これによって河南省の半分を水没させ、32万人の命を奪った。
蒋介石は成功した作戦と、自伝に書いているという。

長江の堤防も切った。
日本軍はまず、
「家を失った住民にコメを配給した。
コレラ菌に罹患した500人の治療をし、
井戸水の防疫を行い、さらに堤防の復旧」
もやった。
蒋介石は日本軍が素通りしないことを予想していた。

◆米国は日本を憎んだ

1885年、ベルリン条約。
第三世界の国々は早いもの順、
海岸線を取ればその内陸もその国のものになる、というもの。

1893年、米国はハワイ王朝を乗っ取った。
そこに日本が巡洋艦「浪速」(艦長は東郷平八郎)を送って抗議。
おかげでハワイ併合は何年か延期となった。

その日本は翌年、支那と戦争して勝ち、賠償金で大型戦艦2隻を購入。
海軍次官セオドア・ルーズベルトは、
その戦艦が日本に着く前にハワイ併合、
ニカラグア(パナマ)運河を造らねばならない、と書いている。

日露戦争にも勝ったとき、ルーズベルトは大統領になっていたが、
日本に一銭の賠償金が入らぬよう、手を尽くした。

支那は負けた相手の日本に官費留学生を送って学ばせ、
日露戦争の勝利に、日本人と支那人が爆竹を鳴らし提灯を灯して喜び合った。

米国は支那と日本を離反させるために、支那に急接近。

◆支那支援と日本批判

米国は文化面からの支那支援・日本批判をやり、
パール・バックに素朴で愛される支那人を描かせた。

軍事面でも直接支援を実施した。
1935年、シェンノートが送りこまれ、支那空軍の立ち上げを行う。
100人の支那人パイロットを養成するが、出来の悪さに諦める。
1938年、し江に飛行場をつくらせ、
240人の米国人操縦士と100機のP40を送りこんだが、
日本軍の進出により、脱出した。

■旅順 アメリカはなぜ「日露講和」に乗り出したのか

◆世界注視の「一流の戦争」

日本軍はわずか半年で旅順の堅塁を攻略した。

満州の地でも日本軍はロシア軍を圧倒した。
明治38年3月、奉天の戦いも勝利した。

5月27日、日本海海戦。
各国から観戦武官が参加したが、
実際に乗ったのはイギリス人とアルゼンチン人の2人だけ。
露側が戦艦8隻、巡洋艦8隻。
(Wiki:戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻他、全38隻)
日本は戦艦4隻、主力装甲巡洋艦2隻。
(Wiki:戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦15隻他、全108隻)
「未知数の日本の艦船など、恐くて乗れなかったのだろう。」

◆「モツハイ」の奮戦

ベトナムは支那に臣下の礼を取っていたが、
清仏戦争に負けると、ベトナムをフランスに割譲した。
フランス植民地下では民の移動は禁止され、
人頭税を取り、阿片公社が阿片を配給する。

ベトナムの独立運動家潘佩珠(ファンボイチャウ)は日本に来て、
臣下の礼を取るからフランスをやっつけてくれ、ときた。
犬養毅は
「国家の自由、独立というのは国民が自らの手で戦い取っていくものだ」
と教えた。
それを聞いた潘は、ベトナムの青年300人を日本に送り、
学ばせ、また、犬養も支援した。

彼らは帰国後、フランス側からはテロと呼ばれる抵抗を続け、
日本の降伏後は民兵組織モツハイをつくりフランスと戦った。

襲撃を恐れるフランスは捕虜とした日本兵に銃を持たせて歩哨に立たせたが、
モツハイは日本兵を襲わなかった。
日本兵も目をつぶって歩哨に立っていた。
「そのうち、モツハイは日本兵の足許を匍匐して侵入し
仏居留民らを襲撃した。
その間、日本兵は所在なげに夜空の星を見上げていた」

モツハイはのちにベトミンに吸収された。

◆日本の支那化を防げ

ロシア人は日露戦争の数年前には支那との国境の街に住む支那人数千人を
「斧や鍬で手足を切り落とされ」アムール川に捨てられた。
沿海州で2万人が殺されたと報じている。

ロシア人を日本人がやっつけたことで、上海市民は歓呼した、
と英タイムズが報じた。

◆親日を喧伝される米国人

「東洋艦隊、バルチック艦隊、ウラジボストーク艦隊の
三つを失ったロシアは、制海権を握った日本にもう対抗出来ない」

陸路は日英同盟により、第三国がロシアに軍事上の便宜を図れば
英国がその国に宣戦することになる。
「ロシア国内では血の日曜日事件に象徴される暴動が頻発していた。
・・・誰が見てもロシアに明日はなかった。」

◆「淫乱な女王」の汚名

1893年1月、ハワイ王朝の女王リリオカアニが選挙権を
米国系市民が占める高額納税者だけでなく、
貧しい島民にも与えようとする憲法を発表した。
これを
「淫乱な女王が独裁政治を復活させた」
として、戦艦「ボストン」を送り、アメリカ海兵隊が上陸し、
王宮を包囲、女王を退位させ、米国系大統領によるハワイ共和国が樹立。

メキシコ領のテキサスに米国人が入植し、
やがてメキシコから力ずくで独立してテキサス共和国とし、
頃合いを見て米国に併合した、半世紀前の手法に酷似する。

ところが、日本から巡洋艦「浪速」、とコルベット級「金剛」が
戦艦「ボストン」を挟むように投錨し、
「武力で、ハワイ王政を倒す暴挙が進行している。
我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」
と宣言した。
保護の対象に「米国市民と婦女子」も入っていた。

これが
「独立宣言以来の屈辱」
と米国で騒ぎになり、また、米国は世界に大恥を晒した。

このことで米国人に恨みを買ったが、
その一人が、この直後に海軍次官に就任した、セオドア・ルーズベルト。

◆ときの氏神だって?

ルーズベルトが大統領になると、
コロンビアの一州パナマで親米派が独立運動を起こし、
ルーズベルトは支援して独立させ、
その謝礼に運河にちょうどよい部分をパナマからもらう。
運河地帯がアメリカ領となると、
そこを境に国土を真っ二つになるというのに。

◆嫌日家ルーズベルト

日露戦争で日本の新聞は
「樺太、カムチャッカ、沿海州のすべてと賠償金30億円」を予想していた。

ロシア国内では血の日曜日事件などの暴動が頻発。
日英同盟により、第三国は軍事的な便宜は図れない。
制海権は失った。

ルーズベルトは日本が巨額の賠償金を手に入れる前に、仲裁に入ったのだ。

■ビルマ・真珠湾 白い人が仕掛けた黒い罠

◆残らず処刑台に送れ

「植民地とは人頭税、酒税、塩税を課し、識字率を抑え、
宗主国への抵抗は徹底鎮圧という形がある。
単純に言えば一つの国をまるごと奴隷農場にすることを植民地と言った。」

フランスは仏印(フランス領インドシナ)では
さらに結婚、葬式、引っ越しにまで課税し、
阿片を専売にしてすべての村に割り当てた。

「日本は朝鮮に人頭税も塩税も課さず、
所得税も本土の7分の1におさえた。」

◆「日本」になれなかった

英国はビルマに大量のインド人を入れて金融業を、
また華僑には経済、徴税を担当させ、
山岳民族をキリスト教に改宗させて軍、
警察を担当させることで、ビルマ人は最下層の小作人となっていた。

抵抗が起こったが鎮圧された。

日露戦争に勝利した日本を知って立ち上がったともいわれるが、
どの国も惨敗した。

1941年11月、ビルマの植民地政府首相となっていたウ・ソーは、
ロンドンを訪ね、首相のチャーチルに
「多くのビルマ兵を英国のために戦場に送り出す。
だから戦後、独立を与えて欲しい」

◆「彼らに必要なのは鞭だ」

白人優越主義者のチャーチルは、もちろん要求を突っぱねる。
その後、チャーチルは英植民地相エイメリーに
「彼らに必要なのは独立ではなく鞭だ」

11月下旬、ウ・ソーは米大統領ルーズベルトに会いに行った。
ルーズベルトはその少し前に大西洋憲章を発表し、
「いかなる国民も自分の政府を選ぶ権利を持ち、
奪われた主権は回復されるべきだ」
と述べた。

しかし、ルーズベルトは合う気もなかった。
「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。
ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」
と側近に語った。

失意のウ・ソーは太平洋経由で帰国するため
西海岸からハワイの真珠湾へ降り立った。

◆白人が裸足で逃げ出した

12月7日午前7時49分、いわゆる真珠湾攻撃。
ウ・ソーは
「自分たちがかしずき、ご主人様(タキン)と崇めてきた白人たちが
青ざめて逃げまどうのを確かに見た。」

1941年12月31日、戦争状態となったため、
ニューヨークからロンドン、ポルトガルと帰国途中、
リスボンでこっそり日本公使館を訪ね、日本政府に申し出る。
日本軍がビルマに来たら、日本人と共に英国勢力の駆逐に当たる、
日本の必要とする資源は悉く提供する、と。

しかし、日本の公使が翌日打ったこの暗号電報は傍受、解読されており、
ウ・ソーは1月2日に中東ハイファへ向かい、
12日に空港に着くと反逆罪の罪で逮捕される。

アメリカはポルトガルの公使の電報まで傍受、解読し、
英国に伝えていたのだった。

◆「残らず処刑台に送れ」

「それは3週間前、つまり日米開戦を伝える極秘暗号電報だって
苦労なしに解読していたということになる。」

ビルマは日本の支援を得たアウンサンにより
10万のビルマ人兵士で構成された国軍が、
英国の築いた統治機構にとって代わっていた。

しかし、アウンサンは日本軍の旗色が悪くなる43年、
シーグラム英国少佐と接触し、日本を裏切り、英国に貸しを作ることとする。
1944年、インパール作戦への強力を断り、
1945年3月、日本軍に反旗を翻した。

◆暗殺者と犠牲者に仕立てる

1947年7月19日、アウンサンは暗殺される。
英植民地政府はウ・ソーを逮捕。
英国は二人の反逆者を同時に始末した。
「ただ一人を暗殺犯に、もう一人を犠牲者にするという出来すぎの
シチュエーションを本気で信じるビルマ人は一人もいない。」

アウンサンの忘れ形見スーチーは英国のオックスフォード大に入学し、
大学を出ると待っていたようにハンサムな英国人男性が紹介され、
二人は結婚。
スーチーは英国を第二の祖国と思い、
父の暗殺犯は英国の歴史通り、ウ・ソーだと信じている。

彼女の軟禁されている自宅の近くには父アウンサンの銅像があり、
馬上のアウンサンの姿は、昭和天皇の馬上のお写真を模したものだという。

■ラバウル 米豪の「白きゴーマニズム」

◆白豪主義

第一次大戦後のパリ会議で国際連盟の設立が話し合われ、
日本は規約に人種平等案を提案した。

これに徹底して反対したのがオーストラリア。
当時、彼らは白人以外は人に非ずという白豪主義を掲げ、
原住民アボリジニの淘汰をやっていた。
「現代では人間狩りはやめたが、アボリジニの女を強姦し子供が出来ると、
白人の血が入っているからと産んだ母親から取り上げて
白人社会で育てる形ができている。」

シドニー五輪の聖火最終ランナーも混血で、
父親は単に強姦した白人であり、彼女は実母が誰かも知らないという。

◆アスピリーらの犯罪

日本が降伏するとオーストラリア軍が戦争犯罪調査を行ったが、
担当したイーサー少将は「起訴すべき犯罪はない」。

しかし、あとに入ったモーリス少将の指示で
アスピリー、アラランド大尉が再調査し、
ラバウルの軍事法廷では203件が起訴された。
スパイを処刑した伊藤中将が死刑判決を受けるが、
さすがに国際世論から非難され、後に無罪となる。

アスピリーらはニューギニア方面作戦に協力していたチャンドラ・ボースの
インド国民軍に参加したインド人数千人に聴取し、
104件の告訴申し立てを受ける。
告発した彼らの立場は微妙で、国家反逆罪に問われていた。
しかも法廷で罪状が明らかにされた時、証言したインド人はすでに帰国。
裁判の体裁も何もなかった。

死刑囚を拘置する収容所で事件が起こる。
「建設作業中の大坪主計中尉がオーストラリア人の若い兵士の
運転するブルドーザーのキャタピラに噛まれてゆっくりひき殺されていった」

■バターン 「バターン死の行進」はクサイぞ!

◆マッカーサー、どこがエライ

フィリピンは米西(アメリカ・スペイン)戦争でアメリカの植民地となる。

1894年ハワイ王朝最後の女王リリオカラニは最後の外交文書、
日本に対する不平等条約解消承認文書にサインし、退位。
代わって米国人サンフォード・ドールがハワイ共和国の初代大統領となり、
彼の一族は王領のラナイ島を接収し、パイナップル農場を経営。
商品名は
「Dole]。

1885年、ベルリン条約で、白人国家が第三世界を植民地化する場合、
早い者勝ちとし、海岸線の国をとれば、その奥地も優先権がもてた。

◆脅威日本への布陣

ハワイ王国樹立の祝砲を求められた浪速の艦長東郷平八郎は
「その要を認めず」
と拒絶。
「他国の艦船も東郷に倣(なら)い、
ホノルル港はハワイ王朝の喪に服すように静寂に包まれた」

翌年、日清戦争に勝利した日本。
当時、海軍省次官だったセオドア・ルーズベルトは
友人への手紙で、日本の脅威を書きつづっている。

米西戦争の口実はスペインの植民地支配に虐げられるキューバ人への同情。
「実際を言うとキューバ人はほとんど勝ちを制するところだった」
が、米国は自国民保護の口実で戦艦メインを派遣するが、
ハバナ港で停泊中に謎の大爆発。
1898年2月15日、下船していた白人以外の有色人種240人が死ぬ。
これをスペインの卑劣な闇討ちと断じて4月19日、スペインに宣戦布告。

◆ルーズベルトの本心

1898年5月1日、開戦から12日後にスペインの植民地フィリピンの
マニラ港に米艦隊が現れ、湾内のスペイン艦隊を壊滅させた。
準備をして出港し、太平洋をマニラまで航海するには、
当時、2ヶ月かかった。
現在でも2週間では無理。

勝手に勝利宣言した米国は、キューバに親米の傀儡政府、
スペインからフィリピンとグアムを2千万ドルで買い取る交渉をする。
「そんな戦争があるか。」

◆殺害、拷問、お構いなし

米西戦争のあとに続くフィリピン平定戦争。
フィリピン攻略の折りにスペインに抵抗する
フィリピン人独立運動勢力に接近、
指導者エミリオ・アギナルド将軍に勝利の暁には独立させるとし、
背後からスペイン軍を襲わせた。

スペインを倒した米国はフィリピンを植民地とし、
アギナルドら独立軍1万8千人の凄惨な殺戮、掃討を始めた。
この指揮を執ったのがアーサー・マッカーサー。
ダグラス・マッカーサーの父。

米軍に追われ、アギナルド軍が山に逃げ込むとアーサーは
「彼らはもはや非正規軍だ」
と宣言。

つまり、ゲリラなら捕虜にしても殺害、拷問はお構いなし、
協力者、家族も逮捕拷問出来ると、理由づけた。

拷問は「水治療」。
大の字に寝かせ、5ガロン(約20リットル)の水を飲ませ、
「それでも口を割らない時は尋問官が膨らんだ土人の腹に飛び乗る。
彼は口から6フィートの水を噴き上げて絶命する」(米上院公聴会での証言)

アーサーは米兵が殺されたら、その地域の住民すべてに報復した。
サマール島では、サマール、レイテの2つの島民数万人を皆殺しにした。
「米上院に報告された数字では米軍は
1902年までの4年間で20万人を殺している」

◆司令官の資質に欠ける

1941年12月8日、フィリピンの指揮官となっていた
ダクラス・マッカーサーは真珠湾攻撃の報を受ける。
側近は先制攻撃を具申するも反応が無く、
爆撃機を安全地帯に避難させるとの意見にも答えず、
「彼は9時間、ただうろつくだけだった」
クラークフィールドの戦闘機や爆撃機は空中で待機することとなったが、
燃料が尽きて飛行場に降りたところで200機の日本機がやってきて、
地上にて壊滅した。

◆十余万人の兵を残して脱出

1942年3月11日、
コレヒドールを攻めあぐねる日本軍は攻撃を中断していたが、
その最中、マッカーサーは腹心の部下と妻子を伴ってオーストラリアに脱出。

4月9日、日本軍がバターン半島を制圧すると、米比の将兵7万人が降伏。

5月5日、日本軍がコレヒドールに上陸すると
待ちかねたように白旗が揚がる。


◆「死の行進」への疑問

マッカーサーは卑怯者と呼ばれ、
「ダグアウト ダグ」(ベンチに籠もったまま出てこないダグラス)
とあだ名されていた。

「彼は・・・バターン降伏後の出来事を日本軍の虐殺行為に仕立て、
誇大に騒ぎ立て・・・、
自身への非難を矮小化しようとし、それは成功した。」

この”死の行進”のルートを歩いた、ジャーナリストの笹幸恵氏は、
「全行程はたった約120キロ。うち半分は貨車輸送で、
米兵はそれを4,5日掛かりで歩かせられたことにしている。
笹氏は貨車輸送の区間も含めて
その道を4日間でちゃんと歩き通して見せた。」

■韓国 奴隷のいた国、いない国

◆奴隷制度をもつ朝鮮

朝鮮には奴隷がいた。
李氏朝鮮では、一番上に両班(やんばん)、
その下に普通の人である中人(ちゅうにん)、
その下に常人(じょうにん)、
その下に奴隷である奴婢(ぬひ)。
常人にも人権派無かった。
常人と奴婢で40%を占めた。

◆「ヨーコ物語」の顛末

朝鮮半島で終戦を迎えた、
現在はアメリカで暮らすヨーコ・カワシマ・ワトキンスさんは、
「日本への引き揚げの際に多くの同胞が朝鮮人に襲われ、
強姦され、虐殺される場面に行き会わせた。」

その事実を淡々とつづった作品が、
アメリカのほぼ全州の中学校で副読本として採用されていたが、
2006年に在米韓国人が歴史の歪曲と騒ぎ、ヨーコさんが
「記者会見に引きずり出され、怒号の中で吊し上げられ謝罪を求められた」

■東ティモール 「戦後自虐史観」の方程式
=白人の奸計+ウソつき教授+朝日新聞

◆初の女性スチュワーデス

昭和13年、国策の日本航空輸送は、大日本航空と改名して国際線に進出。
順調に伸びる国際線だが、東南アジアでは、仏印などが拒否。
さらにビルマも英国が拒否、蘭印(インドネシア)も拒否。
飛行機は白人の強さの象徴。
「それを植民地人と同じ肌の色をした日本人が飛ばしてくる、
それも白人が創ったフォッカーやDC3ではなく
日本製の三菱MC20や中島ATで
飛んでこられたら白人の権威はかなり色褪せる。」

そんななか、中立国ポルトガル領東ティモールに乗り入れる事となった。

◆中立国を襲った豪軍

1941年11月25日に定期飛行の初便がディリ沖に着水。
2週間後に第二便が到着する予定だったが、その前日、真珠湾攻撃が始まり、
ディリには豪州軍機が飛来し、無線誘導船を爆撃。

中立国に豪州軍が攻撃を仕掛けるのは国際法違反で、
民間の船を爆撃破壊するのはもってのほか。
12月17日にはポルトガル政府の承認もないままディリを砲撃、
豪州地上部隊2000人が上陸、ディリを占領し、
大日航社員28人を捕虜とする。

◆「割に合わぬ話なり」

1942年2月20日、
東ティモール在留邦人救出の許可を取った日本軍は、攻撃に入る。

蘭領東インド(インドネシア)はバンドン要塞で5万の蘭英連合軍が守る。
ここを800人の日本軍が攻めると
彼らは1週間で白旗を掲げ、蘭領東インド政府も降伏。
「日本軍はこの結果、ここで7万、シンガポールで13万、後にフィリピン、
ビルまでさらに十数万の連合軍捕虜を抱えることになる。」
「食えないで戦争を始めた日本は自国民に加えてこの怯懦(きょうだ)な
30万もの捕虜を食わせねばならなかった。」

海軍軍令部にあった高松宮様は
「割に合わぬ話なり」
とこの矛盾を指摘された。

◆黒い子供(ハーフカス)たち

ポルトガル本国の人口は小さい。
そこで東ティモールの植民地経営のため、「黒い子供たち」を作った。

現地女を強姦し、混血児を作り、彼らを島に唯一ある学校へ通わせ、
支配者の言語を学び、大人になると銃を与えられ治安に当たる。

この支配者階級に不満を募らせた抵抗運動が広がりディリの治安が悪化。
社員らを救出した日本軍は撤退を始めるが、
ポルトガル総督とハーフカスは日本軍の駐留継続を懇請。
豪大陸のすぐ北に位置する
東ティモールの戦略的位置付けが高まったことから
1942年9月、第48師団麾下(きか)の安部支隊が駐屯。
「域内の治安をみる代わりに日本側は島民の感情に配慮し、
ポルトガル政府に過酷な人頭税と塩税を廃止させた。」
結果、治安は納まり、島民との信頼感も生まれた。

◆夜間、軍靴の音がして

43年4月、島民から豪州軍斥候隊上陸の知らせがあった。
日本軍なら必ず村人に声をかけていくため、
不審に思った村人が潜入した白人を見つけたのだった。
見つけた5人は国際ルールで即処刑だが、
助命を条件に情報の攪乱を図ることとした。

豪州軍は潜入行動に必要な食糧医薬品などを落下傘で投下していった。
「日本軍はこれに味をしめて不足している食料品やラッキーストライク、
スコッチなどをしばしば要求した。」

44年、新たな諜報グループが送りこまれるが、
待ち受けて捕虜とし、豪州へは
「約10万の日本軍が豪州軍の反攻を待ち受けている」
「陣地は堅牢」
と伝えた。
実際の日本側兵力は600人。

◆明かされたくない「実話」

ポルトガルは財政上の理由から東ティモールの領有を放棄。
「島民には教育も与えず、奴隷として搾取し、
道路などインフラも一切整備しなかった。」

「結局、米国の斡旋でインドネシアが
ごく自然な形でここを統治することになった。」

◆「哀れな東ティモール」を捏造

インドネシア政府は、学校、病院、道路などを整備し、
「島民の9割は喜んだ」
残りの1割はかつての支配者階級「ハーフカス」

国連の海底資源調査結果で
東ティモールの大陸棚に天然ガスと油田層が発見された。
旧宗主国ポルトガルが動き、
「東ティモールの島民はインドネシアの残忍な圧政に泣いている」
と当時のEC会議で発言。
オーストラリアがこれに乗った。
東ティモールの混血児の一人が、平和の戦士としてノーベル平和賞を受賞。
インドネシアの圧政は真実に仕立てられた。

◆ウソつき教授と朝日新聞

早大教授が日本軍により、4万人の死者が出た、と朝日新聞に書く。
朝日もコラムで日本軍の悪行とする。
北海道新聞で犠牲者は虐殺や強制労働、食糧供出で4万人と書く。

■白人はいつも肚(はら)黒い

◆米軍と支那人の残忍さ

支那兵は捕らえた日本軍斥候を
「日本兵の耳を削ぎ、鼻を削ぎ、さらに顔の皮を剥ぎ、
男根を切り落としたうえで、鈍刀で首を切り落とした」

しかし、日本は残忍さを競わなかった。
「(敵)軍人といえど降る者は殺すべからず。
然(しか)れどもその詐術(降参したふり)にかかるなれ。
かつ敵国(支那)は古きより極めて残忍の性を有す。
誤って生檎(せいきん)(生け捕り)に遭わば
必ず残虐にして死に勝る苦痛を受け
ついには野蛮惨毒(さんどく)の所為をもって殺害せれるるは必然なり。
決して生檎する所と成るべからず。
むしろ潔く一死を遂げもって日本男児の名誉を全うすべし。」
(日清戦争第一軍司令官山県有朋の訓辞)

後に東條英機の戦陣訓の一節、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
となった。

欧米人が 仕掛ける罠




アメリカ人も知らない太平洋戦争の事実



欧米の植民地支配
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