●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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イギリスは1950年代、ケニアの強制収容所で10万人のケニア人を殺害。
JANJAN NEWS 2005/11/26 http://janjan.voicejapan.org/world/0511/0511265621/1.php 英軍と闘ったゲリラ・元マウマウ団兵士 「あの当時の正義が、 今になったからといって正義そのものが否定されるわけではない」 1963年のケニア独立前に、中央ケニアの森林アジトから出て 英植民地軍と戦った元ゲリラの兵士が、戦争について語る。 【ケニアIPS=ダレン・テイラー、11月7日】 ケニア中部ニエリの丘は、一面がエメラルド・グリーンのコーヒー畑である。 朝の太陽が緑の林に黄金の光を注ぐと、 老人は孫にコーヒー栽培の極意を教える。 「頼むよ」、老人は厳しく命じた。 そして、枯れた木を指差して 「今日は、遊ばない。お前はこれを抜かなければならない」と言った。 干からびた老人は、孫がしかめ面をすると振り返って、 「収穫は、駄目だな。私のコーヒーはうまく行かない」とため息をついた。 デイビッド・ギシェル(74歳)は、1963年の独立前に、 中央ケニアの森林アジトから出て英植民地軍と戦った元ゲリラである。 彼は、不作の予感と同様、英国との戦い、 そして国を植民地主義から解放した人々に対する その後のケニア政府の扱いにまつわる思い出に苦しめられている。 しかし、レジスタンス兵士、独立戦争生存者の功績を見直す動きが始まった。 ギシェル老人が言うところの「白人侵入者」に対する組織的抗戦は、 1952年に開始された。 彼同様、ケニア最大の部族キクユ族出身の数百人の若者が、 植民地主義者を国から追放しようと誓い、マウマウ団を結成したのである。 ギシェル老人は思い出すかの様に、「我々は林に隠れた。 そして、英国および国防義勇軍(ケニア人の英国協力者)への 攻撃を開始する計画だった」と語った。 彼は、「我々にはナイフと斧しかなかった。 古いライフルを持っている者もいた。多くが白人に撃たれた。 私の体にはその時の弾が今も残っている。 恐ろしかったが、独立のために戦わなければならなかった」と語る。 ハーバード大学の歴史学者で、ケニアの自由闘争に関する著書 「英国のグーラーク(Britain’s Gulag)」でも知られる キャロリン・エルキンズ氏は、 英国軍は1950年代に10万人強のケニア人を殺害したと推測している。 その多くは、マウマウ団への支援阻止を目的に キクユ族を収容するため建てられた強制収容所で死亡した。 アン・ワホメ(69歳)は、反乱軍に食物を提供したとの容疑で 国防義勇軍に逮捕され、強制収容所に入れられた。 元反乱軍の兵士であった彼女の夫は、 ケニアの首都ナイロビで数年前に死亡した。 彼女は、「ムワンギ・ガチョカ:元マウマウ兵士。 ケニアの自由のために戦う、と新聞に掲載したが、誰も来てくれなかった。 誰も関心を払わなかった」と語っている。 また、「キバキが大統領に選出され、政府援助への期待が高まったが、 我々は、英国が去った時と同様、何も手にしてない」と語っている。 (ムワイ・キバキと同氏の National Rainbow Coalitionは、2002年末に政権就任) ケニアの初代大統領ジョモ・ケニヤッタは、 10年に亘る反乱の間拘束されていたため、マウマウ団と直接係っていない。 彼はまた、独立への道を開いた1960年の ロンドン・ランカスターハウス協議にも参加していない。 1963年の大統領就任以降、ケニヤッタは側近政治を開始。 元ゲリラを農夫として出身地に追い返したのである。 ケニヤッタおよび後継者のモイ大統領は共に、 マウマウ団を非合法とする植民地時代の決定を覆すことを拒否してきた。 ワホメは、「彼らは我々のこと、私の夫が何のために戦ったかも 完全に忘れてしまった。彼らは、盗み取るだけで、 我々には何も与えなかった」と苦々しく語る。 ロンドン、ナイロビにある有能な弁護士チームが、 マウマウ団の功績に対する賠償を獲得するため活動を開始した。 彼らは、植民地主義的残虐行為から生き延びた人々に支払う多額の賠償金 (具体的金額は明らかにされていない)を求めて 英国政府を相手取り訴訟を起こす計画である。 弁護士チームの一人マーティン・デイ氏は、IPSの質問に応じ 「情報も十分であり、訴訟の準備はできている。 残るは、ケニアチームによる訴訟費用捻出である。 近い将来、ロンドンで裁判を起こすことが可能と信じている」と語った。 デイ氏は、ケニア北部サンブル地方の放牧民を弁護し、 英国に勝訴したことで知られる。 2003年、示談が成立。ケニアで演習を行っていた英国兵が 放置した武器の爆発により怪我をした牧夫および死亡した牧夫の遺族に対し 約700万ドルが支払われた。 ケニア人権委員会(Kenya Human Rights Commission:KHRC)も 英国政府に照準を合わせている。 KHRCのワンジク・ミアノ委員長は、 「元マウマウ団兵士500人強を代表し英国で賠償訴訟を起こす準備を 進めている。恐らく年末になるだろう」と語っている。 マウマウ訴訟弁護団は、「英国軍がケニアで行った残虐行為は、 戦争に関するあらゆる国際協定に違反する非人道的犯罪である」 との論を展開する予定である。 マウマウ退役兵協会(Mau Mau Veterans Association)の マカリア・ワンイェキ氏は、「我々は、時間をかけて証拠集めを行ってきた。 英国の残虐行為を記録した文書を調べ、多くの調査も行った。 ロンドンで、我々の要求の正当性が明らかになるだろう。 我々は、公正な償いを要求しているだけだ」と述べている。 エルキンズ氏によると、マウマウ団を、 夜中に眠っている白人を殺害し婦女子を強姦する「野蛮人」とする 誹謗キャンペーンを開始したのは英国政府という。 しかし、記録によれば、ゲリラが殺害した白人は少数で、 入植者32名、植民地軍兵士50人という。 しかし、ギシェル老人は、「マウマウ団が、英国に協力したキユクの仲間に 残虐行為を行ったのは事実」と語っている。 彼は、「それについては、話したくない。戦争だったのだ」と呟いた。 しかし、裁判は容易ではない。 KHRCは、訴訟提出に必要な8万ドルの獲得に躍起となっている。 (デイ氏は、総費用を200万ドルと見積もっている。) 同氏は、「KHRCのロンドンにおける訴訟が成功しなければ、 ハーグの国際司法裁判所(ICC)に訴える」としている(ICC関連記事)。 提案されたケニア新憲法(案)には、ケニア独立の犠牲となった人々を称え、 10月20日のケニアッタ・デーをマシュジャ・デー(英雄記念日) とすることが盛り込まれている。 キバキ大統領はまた、ケニア歴史博物館の建設を約束している。 しかし、連邦議員Gachara Muchiri氏は、これは誤った施策と主張する。 同氏は、「元マウマウ兵の殆どは、貧しい人々である。 自由の戦士(freedom fighters)を支援するのに金が必要な時に、 何故数百万シリング(ケニアの通貨単位)を博物館建設に費やすのか」 と語っている。 |
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