正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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「虐殺あった」資料への反論
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どれも、いわゆる「南京大虐殺」の証拠といえるものではない。

◆「規律の乱れ」を南京大虐殺とは言わない。
◆「略奪」を南京大虐殺とは言わない。
◆「強姦」を南京大虐殺とは言わない。

「酷いことが起きている」という主張は犯罪と直結しない。
犯罪行為とは違法行為であり不法行為である。
「酷いこと」とは個人の価値判断に依存する判断だ。

「規律が乱れていた」、「強姦があった」、「略奪があった」と言うだけで、
それぞれ、それで殺害されたのか、
もし殺害されたというのなら何人が殺害されたのか、
さらには証言ばかりではなく、それを裏付けるものを示さなければ、
いわゆる「南京大虐殺」があったという証拠にはならない。

世界中の戦場で
◆「規律の乱れ」が全くなかった国の軍隊は存在しない。
◆「略奪」が全くなかった国の軍隊は存在しない。
◆「強姦」が全くなかった国の軍隊は存在しない。

過去に世界中の歴史で不法行為ゼロの軍隊など存在しない。
現在の軍隊で不法行為をゼロにすることは不可能である。
未来でも軍隊の不法行為をゼロにすることはできない。
過去も現在も未来も、軍隊の不法行為をゼロにすることなど不可能である。

日本軍を非難する理由が、
「実行不可能な事ができなかったから」というのでは説得力がない。

世界中の戦場で行なわれたありふれた出来事でしかない。
南京での出来事を特別視する理由はどこにもない。
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『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』 冨士信夫著

東京裁判 弁護側立証

松井石根

当時、自分が我軍将兵の軍紀風紀の粛正、
その他右目的達成のため執った諸般の処置については、
先に証人中山寧人が詳細に証言しているので、再説はしない。
自分の南京占領に対する周到な配慮に拘らず、
占領当時のこうそうたる状態における、
興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行った者があったらしく、
これは自分のはなはだ遺憾とするところである。

ちなみに南京陥落当時、自分は南京を去ること
略々140マイルの蘇州で病臥中で、
自分の命令に拘らずこれら暴行が行われたことは知らず、
また何等の報告に接せず、
17日南京入城後初めて憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて、
即刻厳格な調査と処罰をなさしめた。

ただし、戦時における支那兵および一部不逞の民衆が、
戦乱に乗じて常習的ノ暴行掠奪を行うことは周知の事実であって、
南京陥落当時の暴行掠奪も支那軍民の冒したものも、また少なくなかった。
これを全部日本軍将兵の責任に帰そうとするのは、事実を誣いるものである。

(略)

要するに、自分は南京陥落後昭和13年2月まで上海に在住したが、
その間、12月下旬南京で若干の不祥事件があったとの噂を
聞いただけであって、
何等このような事実について公的報告を受けたことなく、
当法廷で検察側の主張するような大規模な虐殺事件に関しては、
1945年終戦後東京での米軍放送によって、
初めて聞き知ったものであることをここに確言する。

自分は右放送を聞いた後、
我軍の南京占領後の行動について調査を試みたけれども、
当時の責任者は既に死亡し、または外国で抑留処罰され、
諸書類はことごとく焼けてしまったため、
10年前の過去に遡って当時の真相を仔細に
吟味証明することは出来なかった。

しかし、自分は南京攻略戦闘に際して、支那軍民が爆撃、銃砲火等によって
多数死傷したことはあっただろうけれども、
検察側が主張するような、
計画的または集団的虐殺を行った事実は断じてないと信じる。
日本軍幹部がこれを命じ、またはこれを黙認した、というようなことは、
はなはだしく事実を誣いるものである。

(略)

自分は上海帰還後、南京での暴行事件の噂を聞き、
特に12月下旬部下参謀を南京に派遣し、重ねて南京滞在将兵に戒告を発し、
事件の厳重な調査と違反者の処罰励行を命じた。
しかし、自分の離任まで格別重要な報告には接しなかった。

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蒋介石による南京軍事法廷における谷寿夫中将の申弁書
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/tani-sinbensho.html

・・・前略・・・

被告は此等の暴行ありしを、見たことも聴きたることもなく、
また目認目許せしこともなく、況や命令を下せしことも、
報告を受けたることもなし。

また住民よりの訴へも、陳情を受けたることもなし。

この事実は被告の率ゆる部隊が、専ら迅速なる作戦行動に忙はしく、
暴行等を為すの余裕なかりしに依るの外、
被告の部下指導の方針に依るものなり。

即ち元来被告は中日親善の信念に基づき、
内地出発当時の部下に与へたる訓示にも

・・・・・・・・・・

「兄弟国たる中国住民には骨肉の愛情を以てし、
戦闘の必要以外、極力之を愛撫し俘虜には親切を旨とし、
略奪、暴行等の過誤を厳に戒めたる」

に依る外、
各戦闘の前後には機会を求めて隷下部隊に厳重に非違行為を戒め、
常に軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものには厳罰を加へたるに原因す。

故に被告は被告の部隊に関する限り
此等提示せられたる戦犯行為なきを確信す。

尚起訴書には被告を日本侵略運動中の一急進軍人なりと記述せられあるも、
被告の経歴其他に依り該当せざること明瞭なり。

・・・後略・・・

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岡村寧次大将について。

『岡村寧次大将回想録』は当時の記録そのものではありません。
陣中感想録を「抜粋摘記」したもので、
のちに編集を加えているということになります。

それがどんな状況下で編集されたものであるか、
ということが内容に大きく反映してきます。

その状況を示すものとして「終戦後戦地に於て」で説明しています。

岡村寧次大将は終戦後、支那派遣軍総司令官として、
中国軍に対する降伏手続き、日本軍の武装解除・武器引渡しと、
不当に武器引渡しを要求する共産党軍に対する抵抗指揮、
共産党軍の横暴や不当軍事裁判についての国民党政府に対する抗議、
日本兵の復員手続き、そして自身の戦犯裁判の為、
昭和24年1月29日の出航まで、中国国民党軍に拘束されていました。

その間、蒋介石に厚遇され、蒋介石との個人的なコネにより
戦犯として処刑されることを免れています。
この事は、同年1月22日に蒋介石が大総統職を追われ、
替って臨時大総統となった李宗仁が無罪判決後再逮捕を命じたところを
間一髪で逃れている事実、帰国後岡村氏が「白団」を組織して
蒋介石を支援し続けた事実に裏付けられていると言えるでしょう。

帰国直前、帰国後の事情については、
『支那派遣軍総司令官岡村寧次大将』舩木繁著(河出書房新社)
に次のように書かれています。

―――――引用はじめ―――――――
・・・・中国政府は岡村の入監について遷延待機の策をとった。
連絡班を特設して還送工作等の任務を課し、
東京の軍事裁判の進捗を待ちながら世論の動向や、
国際関係の配慮からやむを得ず入監せしめた。

その後病気が悪化したため、秘密保釈が許されて今日に至り、
本日ついに無罪の判決となった。
岡村は中国政府、殊に蒋総統、国防部上層諸将軍の終始一貫の好意は、
真に感謝に堪えず、戦犯に服役している二百数十名の旧部下の
内地服役の実現に努めると共に、
病癒えたならば壮年時代からの宿志でもあり、
日中の提携に身を投じようと心にかたく誓っている。

二八日夕、軍事法廷から、明朝六時半までに戦犯監獄に帰り、
他の者と共にアメリカ船に乗って帰国すべしとの命令を受けた。
翌二九日午前八時半、日本人戦犯二百五十九名と共に乗船し、
三〇日午前一〇時出帆した。

岡村は知らなかったが、
李宗仁代理総統は中共との和平に岡村の身柄を引渡すことを条件として、
再逮捕を命じたのである。

既述のように、中共軍は戦犯第一号として岡村を指名していた。
しかし、上海の湯恩伯はその命令を握りつぶし、
東京の中国代表商震も占領軍当局と協議して拒否した。

この間、この再逮捕の情報を察知した東京の代表団付武官王武少将は
アメリカ軍と連絡し、岡村収容のため船舶派遣を手配した。
このアメリカ船の横浜出帆を確認して、
国民政府は最終公判を開いたのである。・・・・

・・・・帰国後、岡村大将は、蒋介石総統の要請を容れ、
政治・経済的な問題を抜きにして、
ただ終戦時の恩義に報いるという名目で、
昭和二五年(一九五〇)二月、
富田直亮少将を長とする十九名の陸軍参謀を台湾に送った。

「白団」と称せられるこの軍事顧問団は、
以後十五年間続き、団員の数ほ延八十三名に達した。

この間、内地に残った岡村将軍は、幸いにも健康が回復したため、
「白団」の面倒を見ながら旧軍首脳の一人として
元軍人の在郷軍人会の設立に協力し、
郷友連盟に発展させて第二代の会長となった。・・・・
―――――引用おわり―――――――

つまり岡村氏は終戦後戦地に於ける期間、
蒋介石の意向を無視できない状態にあったと推測できます。

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◆真崎甚三郎大将の日記
―――――
1938年1月28日 金 晴

9時より約1時間散歩。
11時江藤君来訪、北支及上海方面の視察談を聞く。
同君は自ら日露戦争の苦き実験あり、
今回も主なる責任者の談を交 へて研究せり。
従て同君の意見は相当に権威あるものと云はざるべからず。
之によれば一言にして云はば軍紀風紀頽廃し之を建て直さざれば
真面目の戦闘に耐えずという云ふに帰着せり。
強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。
―――――引用おわり―――――――

真崎甚三郎大将は、中国側が南京大虐殺があったとする期間
(1937年12月13日から6週間)、南京にはいませんでした。
江藤氏は比較的、安全になってから視察に行ったのでしょうから、
江藤氏も直接、見たわけではなく、人からの伝聞によるもので、
具体的に誰から、どんな調査報告を受けたのか、
内容や件数など全くわかりません。

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◆陸軍省人事局長 阿南惟幾人少将の報告
―――――
中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、
戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり。
―――――引用おわり―――――――

実際に見たのか、人から聞いたのか、確かめたのか、何人くらいの話なのか、
まったく、わかりません。

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◆第16師団長 中島今朝吾中将日記 12月13日
―――――
一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ
千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ
唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ
之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ
中々実行ハ敏速ニハ出来ズ
斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ
約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇
其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル

一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案
トシテハ百二百二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
―――――引用おわり―――――――

この中島今朝吾日記の記述を裏付ける命令書や物証は発見されていません。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クル」
↓↓↓
「捕虜にしない方針だから全部、武装解除して釈放する」

「後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ」
↓↓↓
「あとになって知るところによって」
↓↓↓
「あとになって人から聞いた話によると」

「処理」
↓↓↓
「武装解除」

「壕」
↓↓↓
「水が入った堀」
↓↓↓
敗残兵を一時的に集めておく場所として、逃げられないように、
南京城周辺の壕(水が入った堀)で囲まれる場所を検討したけど
見当たらなかったと思われます。
http://bit.ly/TlzSff


『大辞林 第三版』 三省堂 http://exci.to/TiCoUQ
ほり[堀・濠・壕]
【1】地面を掘って水を通したもの。堀割。
【2】地面を深く掘って敵の侵入を防ぐ防御施設としたもの。
必要に応じて水をたたえたりする。
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『デジタル大辞泉』 小学館 http://bit.ly/Rhd55T
ほり【堀/×濠/×壕】
【1】土地を掘って水を通した所。掘り割り。
【2】敵の侵入を防ぐために、城の周囲を掘って水をたたえた所。
====================
『デイリーコンサイス中日辞典』 三省堂 http://exci.to/UsLeQT
壕(hao) (1)都市や城を囲む堀(ほり)。

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◆第16師団 歩兵第30旅団長・佐々木到一少将の日記
―――――
「俘虜続々投降し来たり数千に達す。
激昂せる兵は上官の制止を聞かばこそ、片はしより殺戮する」
―――――引用おわり―――――――

暴れ出した敵兵を射殺したということです。

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◆日本陸軍 第10軍嘱託カメラマン河野公輝の話
―――――
「銃剣で刺すなんて生易しいものではなく、棍棒でぶっ殺す。
男も女も区別はなかった。バクッと叩くと血がぶあーっと噴き出してね。
蘇州の女というのがまた綺麗でね。
兵隊は手当たり次第に強姦して、やったあとは殺していたな」
「川沿いに女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。
杭州湾から崑山まで道端に延々とそういう死体が転がっていた」
―――――引用おわり―――――――

河野公輝氏は南京には行ってません。
抗州湾上陸作戦からの証言のようですが、具体的にいつどこで見たのか、
一緒に見た人はいるのか、それをいつどこで誰に語ったことなのか、
わかりません。敵兵がやったことにも思える内容です。

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◆第10軍 国崎支隊 歩兵第14連隊の宮下光盛一等兵の従軍日記
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「我が柳川兵団は【1】民家を発見したら全部焼却する事。
【2】老若男女を問わずシナ人を見たら殺せ、という命令を受けた」
―――――引用おわり―――――――

国崎支隊は揚子江の対岸の浦口を目指したのであって、
彼は南京には入っていませんし、
浦口からは西の全淑(南京の逆方向)に向かっています。
さらに、これは抗州湾上陸作戦の時の命令です。
しかも『柳川兵団は』というのなら指揮系統の順を追って
師団の全部隊に出されたはずです。でも、どこにもそんな命令はありません。

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◆第104師団機関銃部隊の田所耕三・一等兵

田所耕三という人は『アサヒ芸能』の雑誌で、2ヶ月以上南京にいて
生々しい残虐な殺人と強姦を10日以上延々と続けたと証言しましたが、
ウソが暴かれ、彼自身も取材に応じて虚構を認めました。

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歩兵第66連隊第1大隊戦闘詳報
―――――
「旅団命令により捕虜は全部殺すべし、、、」
―――――――

いわゆる雨花台事件です。
指揮系統の114師団の命令も旅団命令も連隊命令もなく、
他の大隊にもありません。この第1大隊戦闘詳報にだけポツンとあります。
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/31.html

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◆陸軍飛行第8大隊・井出純二軍曹の手記
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いよいよ処刑が始まった、捕虜はおとなしく座り込んでいる。
それを次々に斬って死体を水面(注:揚子江)に蹴り落としている、
三十分近く見物したあとで胸が悪くなった。
―――――引用おわり―――――――

この手記は
『20、30歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた』
とも書いていますので、そのとおり便衣兵の処刑だと思われます。
しかし、どの部隊なのか肝心なことは書かれていません。

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◆陸軍参謀総長・閑院宮大将の訓示
―――――
軍紀風紀において忌まわしき事態の発生近時ようやく繁を見、
これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり。
―――――引用おわり―――――――

具体的に何のことなのか、まったくわかりません。

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◆三笠宮崇仁親王殿下
―――――
1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ南京の総司令部に赴任しました。
そして一年間在勤しましたが、
その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。
ここではごくわずかしか例をあげられませんが、
それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考えください、、、
―――――引用おわり―――――――

お優しいので、少しの出来事にも、
御心がお痛みになられたのでございましょう。

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◆中支那派遣軍憲兵隊作成の軍事警察勤務教程
―――――
南京陥落直後の頃においては、
中支における軍人軍属の犯罪非行はすこぶる多く、
特に対上官犯など悪質軍紀犯をはじめ、
辱職、掠奪、強姦などの忌まわしき犯罪頻発せる。
―――――引用おわり―――――――

具体的な内容や件数などがわかりません。
これが、いわゆる「南京大虐殺」の証拠とは到底いえません。

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◆中村陸軍省軍務局長の岡村司令官に対する談話
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戦場から残虐行為の写真を家郷に送付する者少なからず、没収すでに数百枚
―――――引用おわり―――――――

だれでも写真が撮れた時代ではありません。
どのような内容の、どんな写真なのかわかりません。
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◆第六師団第二大隊機関銃中隊・児玉房広上等兵
―――――
山上に重機関銃を据え付けると、
ふもとのくぼみに連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。
そこに突然「撃て」の命令。
丸で地獄を見ている様でした。血柱が上がるのもはっきりと分かった。
―――――引用おわり―――――――

「突然、撃ての命令」なので、最初から殺害する目的ではなく、
下記の幕府山の出来事のように、何かの"きっかけ"で突発的に捕虜が暴れだ
して反抗してきたために仕方なく射撃に至ったが、その暴動の発端の出来事
の場面は児玉上等兵からは見えなかったということでしょう。

(◆遠藤高明少尉の話は下記の幕府山の話です。)

↓↓↓

◆「山田支隊山砲兵 第19連隊 第3大隊 黒須忠信上等兵の陣中日記」の内容は、
いわゆる幕府山における山田支隊の捕虜処断のことですが、
公式の戦史である戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』
には、その時の状況が下記のように書かれています。
―――――
(略) 第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、
これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、
非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。
ところが、その夜、半数が逃亡した。
警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、
十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、
捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、
危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。
これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、
日本軍も将校以下7名が戦死した。 (略)
―――――引用おわり―――――――

また、中国軍には少年兵もいました。

『ニューヨーク・タイムズ』 1937年(昭和12年)12月7日 南京発 特電
テイルマン・ダーディン記者
―――――
湯山と南京の間、公路沿いに、
だいたい1マイルおきに堡塁 (ほうるい) が設けられている。
首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。
敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。
(略)
湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。
少年たちは年齢10歳から12歳、軍服姿の正規兵で、
伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。
ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。

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「民間人殺害命令」 http://bit.ly/TgrvTn について。

平松鷹史「郷土部隊奮戦史1」(大分合同新聞社) P405~406

>第六師団が抗洲湾に上陸、崑山に直進中

とりあえず、「南京」じゃありませんね。

>第六師団司令部に「女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。
>家は全部焼け」という無茶苦茶な命令が届いた。

そのあとの記述を見ると、第六師団の副官である平岡力中佐は、
その命令の出所は確認していない、と書かれています。
『柳川兵団は』というのなら指揮系統の順を追って師団の全部隊に
命令が出されたはずですが、どこにも出された形跡はありません。

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>朝香進一「初年兵日記」 P140~ 1938年8月29日

夜、初年兵たちが帰還兵を囲んで体験談を聞いたなかに、
住民を虐殺する話が出たというのですが、「彼等は酔がまわるほどに手ぶり、
身ぶりで、その状況を実演して見せるのである。」と書かれており、
先輩たちが酔っ払い、後輩たちをビビらせようと
面白がって話をしている風景が浮かんできますね。

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梶村止「観測小隊長の日記 大陸を戦う」 P38
(野戦重砲兵第14聯隊所属) 11月29日 晴(待機)

>敗残兵らしきものより撃たれ

という記述がありますね。「敗残兵も危険」だと記憶に留めておきましょう。

>不審の土民は射殺すべしとの内命すらありゐたり。

不審な土民は射殺したほうがいいという内命すらあったということは、
やはり民間服を着て民間人を装った「便衣兵」に
不意打ちで攻撃を受ける場合があったということです。
国際法違反の便衣兵戦術を採用していた中国軍が悪いのであり、
「不審」とはいえ、もし間違って射殺された民間人がいたのなら
残念なことではありますが、なにしろ戦争中の出来事でもありますし、
これをもって、いわゆる「南京大虐殺」を主張されても通ならいと存じます。

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>猪瀬直樹監修「目撃者が語る日中戦争」P60~P62
>太平洋戦争研究会「南京虐殺で対立する証言者たち」

これも南京での話ではありませんね。
南京の話が少ないから、ほかの場所のことも集めてるんでしょうか。

>農夫、工夫はもとより、女子どもにいたるまで、全員殺戮すべし。

農夫、工夫に見えても便衣兵かもしれないし、
中国軍には女兵士や少年兵もいましたから、
油断せず、敵を全滅させる気概で望めということでしょう。
民間人と間違えてしまうから便衣兵戦術は国際法違反なのです。
「便衣兵」って本当に非道な作戦ですね。

―――――――――――――――――

>石井清太郎「いのちの戦記」P41~P42

これも南京の話ではありませんね。

>この兵は抗州湾に上陸して、
>上海戦線の腹背を衝いた柳川兵団の兵士であった。
>私はその兵士から兵団長の命令なるものを聞いて暫らく信じられなかった。
>それは、生ある者は皆殺せ、家は悉く焼け、と言うのである。

師団、部隊名が明記されていませんし、
すべての民家を焼いて日本軍に何か得になるのでしょうか?
敗走する中国軍は、日本軍に使用させないように
民家を焼いて逃げていましたが、追う日本軍は、その必要はありません。

この本の筆者自身は、
「私は今聞いたような命令は受けていない。
そればかりか、旅団長は、住民に対しては非情は避けたい、
と言われた事を側に居て直に聞いている。」
と、その兵士が話した事と真逆なことを【側に居て直に聞いている】のです。

―――――――――――――――――

>今井武夫「支那事変の回想」 P178~P179

今井武夫・聯隊長が兵団司令部から直通電話を受け、

「米此軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから、
各部隊は手許にいる米此軍投降者を一律に射殺すべし」

という命令を受けたが、今井聯隊長は、

「本命令は事重大で、普通では考えられない。従て口答命令では
実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達せられ度い。」

と答えて電話を切ったあと、すぐに捕虜全員を一斉に釈放した。

今井聯隊長の考えは、

「兵団は恐らくこの非常識な筆記命令を、交付しないであろうが、
たとえ万一斯かる命令が交付されても、其の時部隊には一兵も捕虜を管理して
いない状態にしておけば、多数捕虜の生命を擁護することが出来ると、
思案した結果であるが、果して筆記命令は遂に入手しなかった。」

「戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、
大本営から下達されるわけがなく、松永参謀の談によれば
たまたま大本営から戦闘指導に派遣された辻参謀が
口答で伝達して歩いたものらしく・・・」

この辻参謀という人物は「非常に怪しい」としか言いようがありません。

それにしても、やはり日本軍の常識は
普通の感覚であったことがうかがわれます。

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「松井石根大将「陣中日記」改竄の怪」 http://bit.ly/U72Vlm について。

「改竄」や「書き加え」と指摘されていることは、
あまり重要なものではありません。

もちろん「改竄」や「書き加え」はいけませんが、
なぜ重要ではない事をしたのか不思議です。

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「城内二、三ケ所に尚兵火」

「城内数ケ所に尚兵燹」
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◆私の感想:これ重要なポイント?
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「(日本大使館建物)内容共完全に保存・・・感服に値すべきか。」

「内容共全く完全に保存・・・感服の値あり」
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◆私の感想:あんまり変わらないのでは?
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「尚聞く所、城内残留内外人は一時多少恐怖の色ありしが、
我軍(による)治安漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、
一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)、
強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれど洵に遺憾なり。」

「尚聞く所城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしか
我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり
一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)
強姦等もありし如く多少は已むなき実情なり」
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◆私の感想:たいして変わりませんよね?
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「十二月二十一日」

「十二月二十日、二十一日」

「十二月二十二日」「二十二日」

日記原本に日付なし。
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◆私の感想:だから何が何なのか指摘されていませんね。
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「狼藉の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ、今後の整理を要するも」
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◆私の感想:中国兵が民間人を殺害した遺体かもしれないし、
戦死した便衣兵の遺体かもしれないし、
中国軍には、逃げてくる味方の兵士を射殺するための「督戦隊」があった
ので、味方の中国軍に射殺された便衣兵の遺体かもしれません。
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十二月二十三日
「此日南京占領後の我方の態度方針を説明する為め外国記者団と会見す。
最初南京占領と其国際的影響を知るため紐育タイムズのアベンド、
倫敦タイムズのフレーザーを招致し、然る後上海の各国通信員と会見す。
質問は主として、首都陥落後の日本の方針
及パネー号に対する前後処置なり。」

日記原本になし。
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◆私の感想:本当に書き加えられているのなら、その部分はダメですね。
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「同盟通信上海支局英文部長の堀口瑞典氏は、
その名の通り外交官の父君の赴任先スエーデンで生まれ、
英、仏、独、スペイン語を自在に駆使して報道部の発表や
高官の記者会見に活躍した人である。
この会見で通訳に当たった堀口氏の記憶では、
外人記者たちから南京事件の質問が続出し、
松井大将は「現在調査中」と苦しい答弁をしていた、という。」
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◆私の感想:ゆ○氏こそ、この部分の出典を、あきらかにしていませんね。
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「支那人民の我軍に対する恐怖心、加へて寒気と家なきことが、
帰来の遅るる主因となりをるものと思惟せらる。」

「支那人民の我軍に対する恐怖心去らす寒気と家なき為め
帰来の遅るる事固とより其主因となるも
我軍に対する反抗と云ふよりも恐怖不安の念の去らるる事其重要なる
原因なるへしと察せらる 即各地守備隊に付其心持を聞くに到底
予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論本事件に
付根本の理解と覚悟なきに因るもの多く一面軍紀風紀の弛緩か
完全に恢復せす各幹部亦兎角に情実に流れ
又は姑息に陥り軍自らをして地方宣撫に当らしむることの
寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至なり」

「慎むべき旨申入れたり」

「可慎も現状を保持する丈は異存なき旨申入れたり」
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◆私の感想:削除された部分も、
要は、うまくやっていくのは難しいという気持ちを書いているだけです。
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「南京占領後の軍紀風紀に対する不始末」

「南京占領後の軍の諸不始末」
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◆私の感想:正確に書き写したほうがいいですが、
あんまり変わりませんね。
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「兎に角支那人を慈しめ、懐かしめ、之を可愛がり、憐むこと、
只其慈悲心の心だけにて足るを以って」

「兎に角支那人を懐かしめ之を可愛かり憐む丈にて足るを以て」
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◆私の感想:正確に書き写したほうがいいですが、
あんまり変わりませんね。

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『教科書が教えない歴史』(回答6)より抜粋
http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_d_3.html

証言は、それが『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』
という2点がとても大事です。

日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか虐殺したという
証言をした人もいました。
しかし、これまで本名で証言をした人は例外なく
すべて嘘であったことが確認されています。
例えば、元軍人であれば同じ部隊の人がまだ生きていたりしたので、
周囲の人の証言や記録を調査すれば、
彼は南京にいなかったとか作り話であるということなどが判明します。

そのため、最近では日本人に関しては
匿名の証言が作られるようになりました。
また、中国人の証言の多くは中国政府(中国共産党)が
南京大虐殺の宣伝に力を入れ始めた以後に
作られた(記録された)ものです。
しかも、証言はその証人が本物か、証人は実際に当時の南京にいたのか、
内容は真実かなどの検討が可能であって初めて意味を持つのです。

みなさんも本や被害者だという人の証言をうのみにするのはやめて、
自分が裁判官になったような気持ちで
自分の目で証拠(当時の記録)を確実に検討してみてください。
そうするといわゆる南京大虐殺は、
実体のないものだということがわかります。

証言については、
その証言がいつ記録されたのかをまず確認しなければなりません。
例えば、もしあなたが、匿名やその場にいたかどうかも証明できない人の、
しかも事件から何十年後にされた証言だけで、
犯罪者とみなされたら納得できるでしょうか。

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『デジタル大辞泉』 「しょ‐けい【処刑】」
[名](スル) 刑に処すること。特に、死刑に処すること。
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『大辞林 第三版』 「しょけい【処刑】」
[名](スル) 刑に処すること。特に,死刑を執行すること。
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※下記の史料の「処刑」は必ずしも死刑の意味ではない。
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昭和15年(1940年)陸軍省「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」によると
「支那事変勃発より昭和14年末に至る間に軍法会議に於いて処刑せられし者は
掠奪、同強姦致死傷420、強姦、同致死傷312、賭博494に達しあり」
とある。つまり1937年7月から1939年(昭和14)末までの間に
日本軍全体で掠奪、同強姦致死傷で処刑された人数は420人。
強姦、同致死傷で処刑された数は312人。計732人(420+312)。

これにより1937年7月から1939年(昭和14)末までに動員された日本軍の
兵力がわかれば、その内の何%が犯罪を犯したのかが判明する。

1937年7月から1939年(昭和14)末までの日本軍の作戦と動員兵力
……年月……作戦名(動員兵力)
1937年7月…盧溝橋事件、平津地方掃蕩作戦(20000人)
1937年8月…察哈爾作戦(20000人)、第2次上海事変(162000人)
1937年9月…河北作戦(150000人)
1937年10月…太原攻略作戦(60000人)
1937年12月…南京攻略戦(100000人)
1938年3月…台児庄の戦い(10000人)
1938年4月…徐州作戦(216000人)
1938年8月…武漢攻略戦(250000人)
1938年10月…広東攻略戦(70000人)
1939年3月…南昌攻略戦
1939年5月…襄東作戦(70000人)
1939年9月…?湘作戦(60000人)
1939年5月…ノモンハン事件(20000人)
1939年11月…南寧攻略戦(30000人)、翁英作戦(50000人)

『太平洋戦争主要戦闘辞典』(PHP文庫)
延べ総兵力 約130万人

延べ総兵力 約130万人のうち、
有罪判決を受けた将兵は732人なので、犯罪発生率は0.06%となる。

※この732件の犯罪が全て南京で発生したわけではない。

現代の在日米軍でさえ強姦や強盗や殺人等の犯罪を犯しているが、
それを「虐殺」と主張する人はいない。

在日米軍の犯罪発生率
平成10年…0.09%
平成18年…0.14%

A:県内刑法犯検挙人員(在沖米軍人によるもの除く)
B:沖縄県人口総数
C:人口比犯罪率
D:在沖米軍検挙人員
E:在沖米軍人総数(軍属,家族含む)
F:在沖米軍人総数比犯罪率

……………A…………B…………C………D………E………F
平成10年…2282……1298139……0.18%……46……50336……0.09%
平成11年…2413……1308010……0.18%……59……48626……0.12%
平成12年…2538……1318220……0.19%……67……49502……0.14%
平成13年…3272……1326518……0.25%……72……49279……0.15%
平成14年…3734……1335871……0.28%……100……49346……0.20%
平成15年…3922……1344148……0.29%……133……50826……0.26%
平成16年…3904……1353010……0.29%……72……45354……0.16%
平成17年…4281……1361594……0.31%……65……42570……0.15%
平成18年…4125……1368137……0.30%……63……43550……0.14%

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ウソの報告を信じた政府や軍の高官たち
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-606.html
いわゆる南京大虐殺の、いわゆる幕府山における山田支隊の捕虜処断について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-255.html
いわゆる南京大虐殺・URL図書室
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html
2008/09/25 09:09|年表リンク用資料
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