正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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「中学社会 歴史的分野」 日本文教出版 平成23年2月9日発行
(平成17年3月30日 検定済)

◆P160より
━─━─━引用開始━─━―━―━―━―━

韓国併合

日露戦争後、日本は、朝鮮(韓国)の外交権をうばい、
韓国統監府をおき、さらに内政権もにぎって、軍隊を解散させました。
解散させられた兵士は、農民とともに日本に抵抗(義兵運動)し、
初代韓国統監だった伊藤博文が、
民族運動家の安重根に射殺される事件も起こりました。
このような動きに対して、日本は、1910年、
軍隊の力を背景にして朝鮮を植民地にしました。
これを韓国併合といいます。
併合により、朝鮮総督府がおかれて軍人が総督となり、
日本の軍隊や警察を全土に配置して抵抗運動をおさえました。
そして、あらゆる政治活動を禁止し、新聞の発行も制限し、
学校では、日本語や日本の歴史を強制的に教えました。
このように朝鮮民族の歴史や文化を否定し、
日本に同化させる政策を進めましたが、
台湾と同様、朝鮮の人々には選挙権は認めませんでした。
いっぽう、日本の支配に対する朝鮮の人々の抵抗は続けられました。

━─━─━引用終了━―━―━―━―━─━

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◆P192~
━─━─━引用開始━─━―━―━―━―━

満州事変と国際的な孤立化

中国の統一を進める国民政府の影響は、
日本の利権が集中する満州にもおよんできました。
日本の軍部や国家主義者などのなかには、満州を「日本の生命線」と考え、
満州を中国から切りはなして領有しようとする者が現れました。
1931(昭和6)年9月、満州に配置された日本軍は、奉天(今の瀋陽)附近で
鉄道線路を爆破し、これを中国側の行動として出兵し、
やがて満州全土を占領しました(満州事変)。

日本では、新聞やラジオが戦争熱を高め、
人々が景気の回復を期待するいっぽうで、
占領に反対して兵の引きあげを求める人々もいました。

こうしたなか、日本軍は、1932年3月に、清の最後の皇帝を元首にして
「満州国」をつくりました。

「満州国」は、事実上、日本人が支配権をにぎり、多くの
◆P193~
日本の企業を満州に進出させたほか、中国の人々から安く買い上げた土地に、
日本の農民などを開拓民として集団移住させました。

このころ、国際連盟は、中国の訴えを受けて満州事変の調査を行ない、
「満州国」の不承認と占領地からの日本軍の引きあげを勧告しました。
この勧告が総会で42対1で可決されると、
日本政府は、1933年3月に国際連盟を脱退しました。
翌年にはワシントン会議で結んだ軍縮条約の廃棄を通告して、
国際的な孤立を深めていきました。

━─━─━引用終了━―━―━―━―━─━

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◆P192の参考欄より
━─━─━引用開始━─━―━―━―━―━

満州を日本の領土にしないほうがよい

第二次世界大戦後に首相になった石橋湛山は、1931年の経済評論誌で、
「原料の上から、国防の上から、満蒙(満州と内モンゴル地域)が
日本の領土であるほうがよい、ということも考えられる。
しかし満蒙は無償ではわが国の欲するようにはならない。
中国全国民を敵にまわし、ひいては世界列国を敵にまわし、
なお、わが国はこの取り引きに利益があろうか。
それは、断じて逆であると考える。」と主張しています。

━─━─━引用終了━―━―━―━―━─━

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◆P194~
━─━─━引用開始━─━―━―━―━―━

中国との全面戦争

中国では、国民政府の蒋介石が、共産党をおさえて
中国の統一を進めようとしました。
共産党は、国民政府と争いながら根拠地を華北の延安に移し、
毛沢東が指導者になって日本への抵抗を国民によびかけました。
いっぽう、日本は、華北を中国から分離させようとはかり、
北京駐留の日本軍を増強するなど、中国との対立を強めていきました。

1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋で
日本軍と中国軍が衝突する事件が起こりました。
現地では停戦協定が結ばれたにもかかわらず、
日本政府の方針が定まらなかったこともあって、戦火は上海にも広がり、
宣戦布告のないままに全面的な日中戦争が始まりました。

国民政府も、共産党との争いをやめて抗日民族統一戦線を組織し、
日本軍と戦うことに
◆P195~
決めました。

日本軍は、各地ではげしい抵抗にあいながらも戦線を広げ、
12月に占領した首都南京では、捕虜のほか、
婦女子をふくむ多数の住民を殺害しました(南京事件)。

こうしたなかで、国民政府は、首都を漢口、次いで奥地の重慶に移し、
イギリス、フランス、アメリカ、ソ連などの支援を得て抗戦を続けました。

強まる戦時体制

日本では、戦争が長期化するなかで、戦争に批判的な人々の言論や思想の
とりしまりを強め、1938年に国家総動員法を定めて、資源と国民のすべてを
戦争に動員できるようにしました。
また、米や衣料品などの生活に必要なものは、配給制や切符制にしました。
そして、町や村のすみずみにまで隣組を組織し、
相互援助と戦争協力への体制を整えました。

1940年には、ほとんどの政党や政治団体が解散して
大政翼賛会という組織にまとめられ、
労働組合なども国家に奉仕する団体になりました。

教育では、1941年に小学校が国民学校に改められて、
教科書も軍国主義の内容が多くなりました。
中学校などでは軍事教練が重視されました。

また、朝鮮では、神社をつくって参拝させたり、
日本式の姓名を名のる「創氏改名」を強制したりして、
日本に同化させる皇民化政策をおし進めました。

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『my日本』の佐藤卓さんの反論 http://bit.ly/122zJF6

日韓併合については外交権剥奪などはその通りだが批判されることではない。

そもそも朝鮮は支那の属国からロシア南下対抗のため
日本の手で独立させたにも関わらず、
朝鮮国王はロシア公使館に逃げ、ロシアの属国に。

周りのアジアが皆白人の植民地になる中で、
この朝鮮の愚行は日本の独立を脅かす以外の何でもない。

併合は朝鮮国王も望んだ条約により実現したもので、
両国は戦争すらしていない。

日本に併合され日本になったのだから日本語等を教えるのは当たり前である。

そもそも朝鮮は独自の文字を作ってから50年で自分で消した。
それを400年後復活させたのは福沢。

選挙権は終戦前に付与している。
支配に抵抗していたなら徴兵もされず、
志願兵のみの募集にもかかわらず台湾より高い60倍以上の倍率は矛盾する。

満州事変と国際的な孤立化については、
そもそも日本はポーツマス条約や満州善後条約などで
正当に所持する権益があり、
これが現地支那人によりたびたび破壊被害を受けていた。

朝鮮併合でも述べたように、
こういった権益の所持は鎖国時代にはしていなかったことで、
周りが白人植民地になる中、
特に露南下抵抗独立自存のための自衛策なのであって、
半植民地状態にも関わらず内戦に明け暮れる支那が
その防壁になるのは無理。

柳条湖事件が日本軍の自作自演だとする説には不可解な点が多く、
信憑性が低い。

今の世にも「竹島なんかあげたらよい」とか抜かす輩もいるので
「占領に反対して兵の引きあげを~」なんて奴いてもおかしくない。
民意は暴支膺懲。
満州は本来支那ではなく満州王朝が支那を併合したのが清。
優待条件を一方的に破棄した中華民国勢力がその満州での建国を
とやかく言う資格はなく、軍閥割拠の地で前述の正当所持権益を
承認するまともな政権を承認するのは当然のこと。
蒋介石など漢民族支配なら良く、
日本人の大和民族支配では駄目な理由も分からないし、
日本人を参与、官僚に登用するのは日満議定書に基づく合法行為。

国連決議に法的地位はないが、
満州国は後に白人植民地から独立できた国などが多数承認している。
リットン決議は日本の権益を支那に返すとかではなく
日本から白人のものにするもの。
日本の占領は駄目で白人の占領ならば良いのはおかしい。

石橋氏が「満州を日本の領土にしないほうがよい」と思うのは勝手だが、
とにかく日本は満州を領土にしたことは無い。

中国との全面戦争については、
華北の人々は満州国のような自治独立を望んでいたのであり、
日本からすれば反日政権と知日政権なら後者を支持するのは当然である。

北京駐留軍の増強は共産軍の山西省侵略に対する居留民保護目的。

冀東通州には陸軍次官の主張で駐屯させてないので華北独立運動とは無関係。

戦火が上海に広がったのではなく、
盧溝橋事件は単なる地方軍閥との軍事衝突事件。

蒋介石中央軍本体が上海を
アメリカ製の戦闘機で無差別爆撃したことにより上海戦となる。

蒋介石が共産との戦いをやめたのは西安事件などによるもの。

複数の外国軍が駐留する中、
しかも最恵国待遇の日本のみを敵視するのは差別。

南京で婦女子をふくむ多数の住民を殺害した証拠はない。

蒋介石のテロ行為で始まった紛争であり、船津和平交渉も無視され、
国際社会はそのテロ支援をすることで戦争が長引いた。

政府が戦意高揚やその逆を阻止するのは勝利に全力な証拠。

仮に英米などと戦争になれば、全力でやっても勝てるか否かなのだから
国家総力戦体制にするのは悪いことではない。

戦争が終わってからGHQがやった言論統制のような悪行とは違う。

国民生活が困窮したのは英米等の対日制裁によるものであり、
「国家に奉仕させる」の聞こえが悪いのは、
「侵略戦争だ」の上に立っているからである。

日本は被害者側であり、国民感情は抵抗を唱え、戦争を支持する。
自衛やテロ抗戦に全力なのは軍国主義ではない。

日本人にとって神社は無いほうがおかしいので特に日本国内には普通に作る。
八百万の神々に感謝することは批判されることではない。

創氏改名は日本風の名前を強制していない。姓が無かったから作っただけだ。

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東京書籍

―――――引用はじめ―――――――

首都圏をおそった関東大震災

1923年9月1日、関東地方南部で大きな地震が起き、
東京、横浜などで、こわれた家約21万戸、焼けた家約21万戸、
死者・行方不明者約11万人もの被害が出ました。
また、震災の混乱の中で、朝鮮人が暴動を起こすという
うわさが流され、多数の朝鮮人や中国人が殺される事件が起きました。

―――――――――――――――――

●満州事変から中国との戦争が始まる
・満州事変で満州を占領すると、
中国から切りはなして満州国として独立させ、政治の実権を日本がにぎった。
・国際連盟は、満州の独立を認めず、日本は、国際連盟を脱退した。

●日中戦争となって、戦地が中国全土に広がる。
・1937年、日本軍と中国軍がペキン(北京)郊外で戦いを始め、
それが、中国各地に広がって、全面的な日中戦争となった。
・首都ナンキン(南京)を占領したとき、武器を捨てた兵士や、
女性や子どもをふくむ多くの中国人が殺害された。
・日本は、首都のナンキン(南京)を占領すれば、
早く戦争が終わると考えていた。
しかし、中国の人々は、日本の侵略に対して抵抗を強め、
戦争は、日本の予想をこえて長く続いた。

―――――――――――――――――

戦争と朝鮮の人々

戦争が長引き、日本に働き手が少なくなってくると、
多数の朝鮮人や中国人が強制的に連れてこられて、
工場や鉱山などでひどい条件下で、厳しい労働をさせられました。
また、朝鮮人は、姓名を日本式に変えさせられたり、
神社に参拝させられたりしました。
さらに、男性は日本軍の兵士として徴兵され、
若い女性も工場などで働かされ、戦争に協力させられました。

―――――引用おわり―――――――

関東大震災直後の、いわゆる「朝鮮人虐殺」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-547.html
満州地域における日本人や日本関係施設の被害
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html
『大東亜戦争の大きな流れ』超短縮版
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-665.html
隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-633.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
強制連行_資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-146.html
いわゆる南京大虐殺URL図書室
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html
中国人の「強制連行」、「強制労働」について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-653.html
日韓併合時代の新聞記事
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-650.html
日韓併合の前後
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-317.html

■創氏改名について。

結婚すると苗字が変わるものを「氏名」、
結婚しても苗字が変わらないものを「姓名」と呼び、

日本は「氏名」、朝鮮は「姓名」であったと
説明するのが分かりやすいと思います。

朝鮮では同じ世帯のなかに、いろんな苗字の家族がいたということです。

1910年に朝鮮は日本になったので、日本の法律の手続きに合うように、
結婚したら同じ苗字になってもらうことになりました。

その時点でも、同じ世帯は全員、同じ苗字になってもらいました。

◆設定創氏

その世帯全員が、どういう苗字にするのかを届け出てもらいました。
必ずしも日本風の苗字でなくてはならないということはなく、
「金」でも「朴」でも「李」でも「張」でもよかったし、
日本風の「佐藤」でも「鈴木」でも「田中」でもよかったのです。

◆法定創氏

苗字を届け出なかった世帯は、
その世帯全員が自動的に世帯主の苗字になりました。

―――――――――――――――――

以後、結婚すれば、どちらかの苗字になりました。

また、姓がない人たちも大勢いたので、
その場合は苗字(氏)を創ってもらいました。

強制的に日本風の苗字に変えさせたのではなく、
同じ家族は同じ苗字にしてもらいました。

―――――――――――――――――

「改名」制度とは、日本人式の氏をつけた場合、
従来の下の名が新しい氏と釣り合わない場合に、
改名もできるようにした制度で、改名手数料が必要でした。
(例、作家 李光洙の場合、→香山光洙→香山光郎)

これが「創氏改名」といわれるものです。

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左翼が言う「右翼教科書」の育鵬社の教科書にも反日が感じられます。

日韓併合に関して「武力を背景に」と書かれていますが、
そもそも武力を背景にしていない国などありませんし、
まるで条約が合法的ではなく、日本が悪い印象になるので、
「武力を背景に」の部分は省くべきだと思います。

あと、いわゆる「南京大虐殺」に関して、

「日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出た」と書かれていますが、

戦争で双方の軍人に死傷者が出るのは当然のことですし、
残念ながら民間人が巻き添えになってしまうこともあります。
また、まるで日本軍の死傷者はどうでもいいような印象になるので、
あえて「日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出た」
と記述する必要はないと思います。

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カナダの11年生の社会の教科書

◆「P123 日本の全体主義」
1930年代までには日本は全体主義となっていたが、
日本はヨーロッパのファシストときわめて違う点がある。
日本は全体主義の色合いが強かった。
多くの日本人には強い愛国主義的感情と民族的優位性の観念があった。
唯一天皇を指導者とした政府であり、国会議会は、
その首相が天皇に返答するのみのほとんど力を持たない制度であった。
権力は軍隊と財閥(特に三菱)にあった。
国を動かす権利を得るため大恐慌の政治的・経済的な困窮を利用した。
欧州のファシズムに影響され、日本は憲兵という、
反国家分子と思われるならだれでも逮捕、体罰、または殺害する
ゲシュタポのような警察勢力を利用した。
軍部は1930年代に日本をコントロール、
他国を征服して資源を得、帝国の色合いを深めた。

◆「P126 日本の満州侵略」
その領土と影響を拡張する計画の一部として日本は1931年、
中国の満州を侵略した。中国政府は国際連盟に対日対策を講じるように請願。
連盟は日本の行為を非難し交渉しようとした。
日本は国際連盟を脱退したにすぎず侵攻を継続した。
1937年、日本は中国を侵略し、2国は戦争に突入した。

◆「P136 太平洋戦争」
1941年までに日本は、ゴム、石油、スズなどの天然資源確保のために
欧米植民地である東南アジアへの拡張作戦を開始。
中立の立場である米国をも巻き込むことを知りつつ。
日本の対米戦略は早急・即決の作戦によるところが大きく、
1941年12月7日のハワイ島米軍真珠湾爆撃は驚異だった。
米軍2400人が死亡、多くの艦隊が被害を受けた。
その後、日本は米領フィリピンを攻撃、同年12月8日、アメリカは連合側へ。
日本に宣戦布告した。
ドイツイタリアも米国に戦争を宣言し、大戦へ突入した。

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★「P123 日本の全体主義」への反論

大日本帝国憲法

まず、第1条と第4条で、
あきらかに日本国の国家元首は天皇であると規定されています。

第3条で、
天皇は神聖不可侵であると規定されています。
つまり天皇に政治責任をとらせてはならないということであり、
政治責任は内閣にあるということです。
天皇は勝手に政治を行なってはならないということです。
(判断していただくと責任が生じてしまう。)

第6条で、
天皇は議会が可決上奏した法律を裁可しなければならず、
裁可しなくてもいい場合があるとは書かれていません。

第37条で、
すべての法律は議会の可決が必要であると明記しています。

一方、第8条で、
議会は天皇の勅令を無効とする権限を有しています。

第55条で、
天皇の御名御璽には国務大臣の副署がなければならないと規定されています。

このように、天皇の判断は臣民代表の議会や国務大臣の判断が伴わない限り、
無効となる仕組みが徹底されています。

したがって最終的な政治責任は内閣(すなわち臣民)にあり、
天皇に直接責任はありません。
最終的な判断は事実上、内閣に与えられていたのです。


★「P126 日本の満州侵略」★「P136 太平洋戦争」への反論

【1931年~1933年・満州事変】
1931年9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。
このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。

それ以前も満州内では張学良による排日政策が行なわれていましたし、
日本人や日本の関係施設などが、さまざまなテロ攻撃を受けていました。
(下記URL記事は見解が統一されていない部分があります)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html

しかも、その武装盗賊テロ集団に武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。

5ヵ月後の1932年2月上旬にはテロ集団を満州から追放する事に成功し、
満州の治安は回復。
その後も満州-支那の国境付近で張学良軍や中国国民党軍が
テロ攻撃してくるので、それらを排除する作戦などを行ない、
1933年2月初旬、熱河作戦。
1933年5月3日~25日、関内作戦。

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変は終結しました。

満洲事変は1933年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定で終結していたので、
4年後の1937年になって満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

【1937年~大東亜戦争】

1931満洲事変―――1933塘沽停戦協定で終結

1937支那事変(中国大陸)―――――――――――1945終結
―――1939第二次欧州大戦(欧州)―――――――1945終結
――――――1941日米直接戦争(太平洋)――――1945終結

↓↓↓

1937支那事変+1941日米戦争=大東亜戦争

―――――――――――――――――

欧米人・欧米軍と同様、日本人・日本軍も条約で合法的に中国に居ました。

1936年(昭和11年)12月12日の西安事件により、
アメリカが支援する蒋介石(国民党)と
ソ連が支援する毛沢東(共産党)が第二次国共合作をし、
合法居留の日本人・合法駐留の日本軍に対して
盧溝橋事件(1937.7.7)や第二次上海事変(1937.8.13~)などで
攻撃をしてきたのが支那事変の始まりであり大東亜戦争の始まりでした。

■1937年7月7日、盧溝橋事件。
条約による合法駐留の日本軍に対して
中国軍(第29軍)が武力攻撃してきました。
7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』が成立。

■1937年8月13日、第二次上海事変。
中国軍(蒋介石軍)が「1932年の上海休戦協定」に違反して
協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲し、
条約による合法居留の日本人町に対して武力テロ攻撃をしてきました。
上海共同租界内の警備は役割分担で米英伊軍とともに
日本海軍陸戦隊も警備に当たっていました(仏租界は仏軍)。
http://wk.tk/gCPWK0
中国の租界
http://wk.tk/jIixuv
日本海軍陸戦隊は日本人居留区域を含む地域の警備に
当たっていたのですから応戦して当然です。
日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので、増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石が武漢に逃げたので、日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。

中国には条約で欧米人・欧米10ヵ国軍もいたのに、
中国は、同じく条約でいた日本人・日本軍だけを攻撃してきました。
日本側は中国側に何度も和平を打診していたのですが、
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
アメリカが中国(蒋介石)に資金・武器を支援し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平提案を拒否し続けました。
アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで日本軍が合法的に仏印に進駐して援蒋ルートを遮断
するとアメリカは、合法側・被害者側の日本に対しては
石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国大陸から日本だけ出て行けと、不当な事を言っていました。
日本は石油などの資源がないと国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。
このように大東亜戦争は日本へのテロ攻撃で始まり、
日本への原爆テロ攻撃で終わりました。
支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

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【まとめ】いわゆる「南京大虐殺」について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-504.html
いわゆる南京大虐殺URL図書室
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html
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