正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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南京にいた欧米人が家族に送った手紙


『Eyewitness to Massacre』(南京虐殺の目撃証人)
副題「南京に於ける日本軍の残虐行為の目撃証人のアメリカ人宣教師」
M.Eシャープ社・ニューヨーク 1984年
(この書の原資料はエール大学神学部図書館所蔵の文書である)
―――――――――――――――――
上記をもとに松村俊夫氏が下記の書を執筆

『アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった』松村俊夫著より
(ページ番号は元の書『Eyewitness to Massacre』のページ番号です)
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf
http://megalodon.jp/2012-0524-2218-19/hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf

南京全図


南京安全区


■1937年12月14日、国際委員会から日本軍に渡された手紙
(”Documents of the Nanking Safety Zone” 第1号文書)

昨日午後、多数の支那兵が市の北部に追いつめられたとき、
予期せぬ事態が起きた。
何人かの兵が我々の事務所に来て、人道の名のもとに嘆願してきたので、
彼等を助命したのである。
我々の委員会の代表が貴司令部を見つけるべく試みたが、
漢中路にいた大尉のところから先へ行くことは出来なかった。
そこで我々はこれらの兵士をすべ て武装解除し、
安全区内の建物に収容した。
我々は彼等が望む平和な市民生活に戻ることが出来るように
貴軍の慈悲深い許可をお願いする。

◆南京国際委員会委員長 ラーベ 1938年1月24日 妻ミルズへの手紙

安全区に関しては、私たちは上海の神父ジャキノゾーンの安全区の成功から、
その 方法についての啓示を受けた。
彼の名前がそこにはっきりとついているので、
私はそこを彼の区と呼んでいた。
私たちの最初の仕事は、この地域についてのアイデアを支那側と外国人の
友人たちに明確に伝えることだった。
そして支那側の支持があることを明らかにするように交渉すること
そして最後は日本側との話し合いだった(245頁)

◆国際委員会 事務総長 スマイス
シカゴ大学で社会学の博士号を取得し、
1934年にキリスト教協会から指名 されて南京大学社会学教授になった。

国際委員会 事務総長 スマイス 1937年12月20日付 家族への手紙

12日は安全区に砲弾は落ちなかったので、
この日の私の着弾地図はきれいだった。
それが一晩中砲声がしているなかを平和裡に寝ることができた一つの理由だ。
我々は日本軍砲兵が安全区に砲弾を撃ち込まないことを絶対的に信じていた。
(245頁)

◆国際委員会 事務総長 スマイス 1937年12月20日付 家族への手紙

(1937年12月13日 月曜 朝)寧海路に戻る途中の我々の安全区を示す旗の
位置が間違っていることを人々に告げて直させた。
金陵女子文理学院の近くで、道路に脱ぎ捨てられた軍服があったので、
警官らに言ってそれを安全区の外に捨てさせた。
帰宅したのは8時15分にもなっていた!
仲間は朝食を済ませていたが、私はそれから食事した。
彼等は外がとても平和だったことを喜んだのである。(255頁)

◆国際委員会 事務総長 スマイス 1937年12月20日付 家族への手紙

(1937年12月13日 月曜 朝)家(宿舎)へ戻る途中、
(午後)1時に日本兵が漢中路に到達しているのを見付けた。
我々は車でそこへ行き約6名の小さな分遣隊に会った。
それが最初だったが最後ではなかったのだ。
上海路と漢中路の交差する角で、彼等はバスを調べたが、
人々を傷つけることはなかった。(255頁)
―――――
確かに、約百人の先遣隊が道路の南側に腰を下ろしており、
その反対側では沢山の支那人の群集が彼等を眺めていた。
私達は将校に対して安全区を説明し、彼の南京の地図にそれを書き入れた
(彼の地図には安全区は示されていなかった)。
彼は日本兵を攻撃する者がいない限り病院は大丈夫だと言った。
武装解除された兵については、彼は何も言うことが出来なかった。(256頁)

■『レイプ・オブ・南京』 アイリス・チャン ペンギンブックP76~77より

当然のことだが、退却命令は支那軍を大混乱に陥れた。
将校の中には、市中をめくら滅法走り回り、
行きかう者誰にでも出て行くよう言う者がいた。
言われた兵士は逃げた。
誰にも、自分の部隊にも言わない将校もいた。
代わりに、彼等は自分だけ助けたのである。
彼等の兵士は日本軍と戦い続けた。

他の軍服姿の部隊が逃げるのを見て集団脱走と考え、
それを止めようと逃走する同輩を何百人も機関銃で倒した。
急いで混乱しながら町を抜け出す騒ぎの中で、少なくとも1台の戦車が
邪魔になる中国兵を数知れず下敷きにし、
手榴弾で爆破されてやっと止まったのだった。

こんな悲劇の中に、喜劇的瞬間もあった。
兵士たちは、市民に紛れ込んで捕まるのを逃れようと必死の余り、
商店に押し入って平服を盗み、外で軍服を脱いだ。

間もなく町中は半裸の兵隊たちだけでなく半裸の警官でも充満した。
彼等は兵士と間違えられないよう、制服を手放したのである。
下着だけを身に付けてシルク・ハットをかぶってうろうろする男もいた。
多分裕福な政府高官の家から盗んだのだろう。
退却の初期段階、まだ秩序らしきものが残っていた間、
支那軍全員が軍服を切り裂き、平服に着替え、
しかもなお隊列組んで行進することを同時に行っていた。

だが退却が総崩れになると、平服の奪い合いは深刻化した。
兵士たちが歩行者に飛び掛かって着物を奪う光景も見られた。

日本軍に遭遇することなく安全に町から出る方法が一つだけあり、
それは揚子江の北港を通じてで、
そこにはジャンクの一群が早いとこ辿り着ける人々を待っていた。
港へ着くには兵士たちは先ず中山路の大動脈を上り、
水門と呼ばれる町の北西の門(邑江門)をくぐって、
初めて下関郊外の北港に入ることが出来るのだ。

夜が更けるにつれて、兵士たちは自分等がわたることに焦点を絞り、
戦車や装備は放棄した。
船は少なくなると、様相は凶暴性を帯びた。

ついには数万人が2、3隻の船を争って、自分が乗ろうと戦い、
あるいは空砲を放って他人を除けようとした。
船員たちは怖がってジャンクやサンパンの船縁にすがりつく兵士の指に
斧を振り下ろして押し寄せる暴徒を追い払おうとした。

その夜、川を渡ろうとして数知れぬ人々が亡くなった。
門を潜ることも出来ない人々も多かった。
その夜、中山路で火事が発生し、炎は弾薬の山を舐め尽くし、
家々と車両を飲み込んだ。

交通に巻き込まれた馬が狼狽して逆立ちとなり、暴徒の混乱を増幅した。
恐れおののく兵士たちは前方へと波を打ち、
その勢いで数百人を炎へ押しやり、さらに数百人をトンネルへ追い込んだが、
その多くはそこで他人に踏みつぶされたのだった。

門が閉じられ、大火災がすぐそこに迫り、
暴徒から抜け出せた兵士たちは壁を登って越えよう、と殺到した。
数百人が洋服を裂いて紐にし、ベルトやゲートルとなって縄梯子を作った。
1人、また1人、彼等は胸壁をよじ登り、
ライフルや機関銃を欄干から落とした。転がり落ちて死んだ者が多かった。



◆国際委員会 事務総長 スマイス 1937年12月20日付 家族への手紙

(1937年12月14日 水曜日 朝)
我々は新街口の福田のもとへ走った。彼は日本大使館員である。
彼は我々を中央飯店の将校に会わせた。
我々は割れたガラスと砂の上を通って寝室へ行ったところ、
将校は半分服を着ただけで、
あごひげを生やした表情のない顔つきで我々と会った。
彼は上官の将校はまだ来ていないと答えただけだった。
彼等は南京を陥すのに大きな犠牲を払ったし、
支那軍が民衆を撃ったのだと言った。
そうだったのか!
これらの日本人は自分自身の宣伝を信じている。(258頁)
―――――
我々が戻ってくる時、我々の家のすぐ近くで、
漢口路を50人が縛られて連行されてゆくのを見た。
我々は兵達と論争した。最後にフォースターが彼等のところに留まった。
私はラーベと会いに引き返し、首都飯店に出かけた。
そこへ着いたとき、将校は忙しくて会えなかったので新街口に行ったが、
将校は興味を示さなかった。
中山路に引き返したとき、
この人々はS.C.S.銀行から横切って漢口路の角に着いていた。
我々が更に議論しているとき、1人の将校が車でやってきて止まった。
彼は再び私たちを新街口についたばかりの他の将校のところへ連れて行った。
しかし彼は、司令官が来る明日まで待てと言った。
我々はこれらのすべての人々に、日本語で書いた我々の手紙を見せて、
安全区、武装解除された兵隊、そして赤十字について説明した。
日本軍が見たすべての人々は武装解除された兵達だった!(258頁)

◆フォースター
1917年プリンストン大学卒、1919年渡支し、
聖公会伝道師として教鞭をとった。
南京陥落の約1ヶ月前に南京のセントポール聖公教会に転勤となった。

フォースター 妻への12月13日の手紙

南京は陥落した。
私たちは皆無事で、怪我人や窮乏している人々の世話で忙しい。
私達は国際委員会を組織した。心配しないように。(118頁)

―――――

15日の手紙のなかでの14日の巡回の記述

昨日は忙しかった。我々3人の外国人と中国人通訳は、
国際安全区と赤十字委員会について知らせようとして、
日本軍の最高級将校を探していた。
彼はセントポール教会の近くのホテルにいたので、
私達はその近くの様子を車で見て廻った。
教会は無傷 だったが、何枚かの窓は破れ、塔の下の扉も同様だった。
1発の砲弾が正面の門に落ちて、建物に損害があった。
私は中に入らなかったが、幸いにも焼失は免れていた。(118頁)

安全区は理想的ではなかったが、間違いなく無数の生命を救った。
最も激しい砲爆撃を受けたのは市の南部だった。
しかし昨日私達が路上で巡回中に見た死体は25以下だった。
安全区の人口は土、日、月曜(12月11、12、13日)に激増し、
少なくとも10万人はいるだろう。(119頁)

◆スマイス 1937年12月20日付 家族への手紙

(1937年12月13日 月曜日 朝)
我々は上海路を南下していったが日本軍は見なかった。
神学院の近くで、約20人の市民の死体があった。
【あとから聞いたところでは、】
彼等は走ったために日本軍に殺されたということである。
それはこの日の怖ろしい物語だった。(256頁)

◆マギー
1901年エール大学卒業、1911年にアメリカ聖公会神学士となり、
1912年に 伝道団宣教師として南京に赴任。

マギー 1937年12月12日 妻に書かれた手紙

そして、昨日(1937年12月11日土曜日)、私は鼓楼病院の救急車で
キャピトル劇場の応急手当室へ何人かの負傷兵を連れて行きました。
私の到着直前に、大きな砲弾が道に落ちて11人が死亡しました。
福昌飯店の前のキャピトル劇場の向かい側で忽ち2台の自動車が燃えました。
私と負傷兵は日本の爆撃機から逃れたのですが、
すぐ近くの対空砲火が激しく射撃していました。
私は、できるだけ早くその場を離れて病院に戻りました。
間もなく、何人かの人がやってきて、
沢山の難民が安全区の内側で負傷していると告げました。
私達は、今度は救急車とフォードで裏通りを通っていきました。
大学内の中学校を過ぎて漢中路へ着く前に、
沢山の死体が横たわっているのを見たのです。
1軒の家が砲弾に直撃され、20人近い人々が死亡しました。
7、8名が道に投げ出されていました。
顔面に大きな穴があいた33歳の息子の死体であり、
傍らで可哀想な老夫婦が悲嘆にくれていました。
彼等はただ悲しむだけでした。
沢山の人々が物珍しそうに周りに立っていたので、
直ちに立ち去り身を隠すように言ってやりました。
支那の群集はこのようなことに誠に無知です。
いつ他の砲弾が飛んでくるか危険なのです。(168頁)

―――――

1937年12月14日のことを書いた12月15日付の妻への手紙

次の日の朝、私は負傷兵を満載して外交部へ救急車を走らせた。
私達が担架の兵と 共に歩くことのできる負傷兵を助けながら
一歩踏み出そうとしたとき、
何人かの野獣 の如き一隊の日本兵がやってきた。
私は最も苦痛の激しい可哀想な男を助けていたが、
1人の兵が私から兵を引き剥がし、その傷ついた腕をひどく捻り、
両腕を縛って他の負傷兵と繋ぎ合わせた。
そのとき、運よく通りかかった日本の軍医に、
これらの人々の血で染まった衣服を示した。
彼はドイツ語を話したので私は片言のドイツ語で
ここは負傷兵の病院だと言ったところ、彼は兵士を放免させた。
私は英語を話す上品な陸軍大佐と会って、
傷兵を看護する許可を得るために司令部に行きたい旨を告げたところ、
彼は私と若いロシア人とを私達の救急車(紅卍字会から借りた)で
司令部に送ってくれた。
私達はmoral endeavor西の中央飯店に行き、
とがった頭と濃いあご鬚の小柄な男と会った。
国防部には沢山の傷兵がいるので、
彼等を外交部へ移す許可を得たいと申し入れた。

彼は市内の最高指揮官がいる次の部屋に入っていき、
私は数日待たなくてはならないと返事を指摘された。
私は何日も彼等は手当を受けておらず、水を運ぶ者すらいないと言ったが、
待てとのことだった。
私達は失望して去った。私は安全区委員会の本部へ戻り、
そこの沢山の傷兵を2回外交部の負傷兵病院に運んだ。
そのたびに私は兵隊とトラブルに会った。
私が会った車に乗った上級将校の何人かは、
私が負傷兵を運び出しているのではないかと危惧したのだった。

しかし私は、彼等を遠くへ連れ出そうとしているのではなく、
病院へ運んでいるところだと伝えた。
彼等はもう1回運ぶことを許してくれた。
2回目の運搬のあと、戻ってくるときに入口の門のところで、
我を忘れたようにカンカンに怒っている将校に会った。
私はこれまでそのような人間に あったことはなかった。
彼の話し方は犬が吠えているようで、
彼の形相はもし私が燃えやすいものなら、
忽ち燃え上がってしまいそうだった。
彼はコーラに、このアメリカ人(私のこと)を
2度とこのあたりに来させるなと言った。
アメリカ人は非常に 悪い、と。
コーラは、「私達はもう2回移動する許可を貰っています」と言い、
彼は「自分は市の指揮官だ」と言い返した。
大変な困難があって、私達は救急車を取り戻すことができた。(170-171頁)

―――――

マギー 1938年1月11日 妻への手紙

私は外交部の負傷兵のための国際赤十字の医者と看護婦から、
私が3台のトラック で負傷兵をそこへ運んだ12月14日以来、
外国人は誰一人入ることを許されていないものの、
男性も女性も保護されていると聞いた。(189頁)

◆スマイス 1937年12月15日 家族への手紙

(1937年12月15日、水曜日、朝)
武装解除した兵について、人道と戦争法規を認識させるとの2点で
理論武装をして、司令官が来たときに会えるように出かけた。
しかし手紙が出来上がる前に、
安全区について知るために福田が本部にやってきた。
我々は彼にすべての文書のコピーを渡し、
人口、食糧供給などについての彼の質問に答えた。(258~259頁)
―――――
ところで、元南京日本大使館秘書で60歳になる紅卍字会からの
通訳スウエンは、この日に丁度着いた特務機関の長と正午に会えることを
設定したので直ちに飛んで行った。
福田が彼と共に通訳した。
特務機関の長は、市内の支那兵を調査しなくてはならないと言った。
安全区の入口を整備し、人々は出来るだけ早く家に戻ること、
武装解除されている支那兵に対する日本軍の人道的な態度を信用すること、
警察は警棒だけを持って安全区を巡回し、
我々は安全区に持っている1万トンの米を難民に供給する。
電話、電信、水道修繕のため彼はラーベと共に検査する。
明日の100~200人の労働者を揃えるよう助言してほしいし金は払う。
米のあり場所を検査して警備する。(259頁)

◆ミルズ
1912年にコロンビア神学院から神学士を授与され、
同年から1931年まで中国のYMCAで働く。
1933年から49年まで南京の長老教会外国伝道団の一員。

ミルズ 1938年1月24日 妻に書いた手紙

勿論私達はもっと以前に安全区の役割は終わるだろうと予測していた。
しかし安全区は占領されるより前よりあとの方が
有用だったことが証明された。

戦の最中には、特に市の南部や東南部と郊外に住む人々の
避難所となって彼等を保護した。そこでは最も激しい戦いがあった。

しかし主要な安全区の有用性(を示すために)は、
私はあなたに12月初めの頃に人々の群が安全区に入って来たときや、
今の上海路と寧海路の様子を見せることが出来たらな、と思う。

この2ヶ所は今や南京の繁華街になっている。
以前は太平路や中山路やold Fund Dung Giaiだったが
それらの通りは広範囲に焼かれており、
その代わりに以前はさほどでもなかった上海路の
ヒルクレストからアメリカ大使館まで、
そして以前はやはりあまり使われていなかった新住宅地の寧海路が
今やメインストリートになっている。

上海路はあまりにも混雑しているので、
自動車で通ろうとしても無理になっている。

このすべての変化はほんの何週間のことだった。
その理由は簡単で、ここの人々には安全区内にいて一種の秩序が出来上がり、
以前あったような一般的な略奪や盗難が無くなって、
人々は以前より大胆に道路に出るようになったのだ。
彼等は道端に沢山の急造した店を設け、安全区内のすべての店は
小さいとはいうものの商売は活発に行われている。
安全区の外での商売は全く無い。(246頁)

◆スマイス 1937年12月22日 家族への手紙

今朝、憲兵の特務機関がラーベに面会を求め、
全人口の登録をすると言ってきた。
彼は安全区の委員会も含まれると考えている、
そこで我々は、日本軍が市の管理責任を感じ始めたための
措置だろうと希望を持った。
しかしこれは、「平和な市民」の登録のためだけの命令だったし、
その後は登録証をもっている限りは
南京に住むことが出来るというわけだった。(267頁)

◆南京大学での12月26日の住民登録の様子について、
スマイスは次のように手紙に書いている。

今日の午後は事務所であまりやることがなかった。
苦力が登録しなくてはならないので、
トラック輸送が中断されたのは間違いない。
しかし人々は一旦登録という化物を済ましてしまえば、
とても安心するだろう。
これまでの報告では、兵士として拘束された大きな数字は
中学校からの約20名だ。(276頁)

◆12月27日のスマイスの手紙

昨夜夕食のとき、ベイツは登録が終わるまで大学に留まっていると言った。
昨日は男性の登録で、初めは自発的に申告すれ仕組みだったが、
この男を保証出来るかと群集に尋ねるやり方で続けられた。
1人を除いて全員パスしたので、その1人をベイツとソーンが保証した。
今日は女性の登録がもっとスムーズに行われたし、
明日は個人の家が対象になる。(278頁)

◆スマイス 1937年の大晦日に書かれた妻への手紙

最も深刻な事態の様相として、
我々が適当で速やかな解決策を見いだせない一つは、
この20万人の社会に経済基盤が無いことである。
もし彼等が日本陸軍から米を買うことになれば、
彼等の金は干上がって戻ってこない。
唯一の還元路は、まだそんなに多くはないが、
日本軍に雇われた苦力達が僅かに得る金と、
水道、電力会社に雇われた少しの人々の金だけだ。
他には農民達が大地から僅かに得る収入しかない。
或いは人々が市中の安全区以外の地域から見つけるか盗んでくる物なのだ。
(282頁)
道路ぎわの小さな露店商達がうまく商売しているのは注目すべきことだ。
小さなリスクで大きく儲け、彼等は毎日商売に励んでいる。商品は多彩だ。
我々は今、それらのあるものは安全区外の焼却が進んでいるところから
盗まれてきたのではないかと疑っている。(283頁)

◆スマイス 1938年1月1日 妻への手紙

塔での探検をして、難民達が温かい陽射しの中で楽しんでいるし、
少年達が大学のキャンパスで独楽で遊んでいるなどの様子がわかった。
ベイツと私は、今週射殺された男達の死体の山があるのではないかと、
金陵女子大の裏を歩いた。
我々は古林寺の傍らを過ぎ南方の谷間を通り、全ての沼を調べた。
しかし焼殺事件のあと数日前にベイツが見たという
金陵女子大裏の焦げた1人の死体以外には何も無かった。
私達は半ば耕されていた野菜畑も見つけたが、農家は荒れ果てていた。
ほんの僅かの家が販売のために荷を積んでいた。
安全区の外の家は空家だった。西康路の西側もそうだった。
そこで我々は清涼山を通って南へゆき、漢西門の新しい門に着いた。
(286頁)
―――――
我々の調査旅行の結果、死体の山は少なかったから、
とてもよい結果であった。難民が安全区外の家に戻る機会に関する限り、
展望は非常に暗い(漢西門の外の半分の 家は焼かれている)。
私達は城壁の上に立って廃墟を見下ろした。
それは日本軍が市内に入る前に支那軍によって焼かれたのである。(286頁)

■ヴォートリン
1912年イリノイ大学卒業、キリスト教伝道の宣教師となって中国へ派遣され、
南京の金陵女子文理学院の教師となる。
その後、同学院の実務上の責任者・学長になった。

ヴォートリンから金陵女子文理学院理事会に提出されたレポート
1月14日~3月31日

9時から10時の間に、彼等は側門から12人の女性と少女とを連れ出し、
私達のところにいた将校はMr.Chenを連行していった。

彼等が去ってから、このトリックは女を連れですためだったことがわかった。
私はMr.Chen は銃殺されるか刺殺されるに違いないと思って、
再び会えないだろうと観念した。
この最後の場面を私は決して、決して忘れることはない。
メアリー(トワイネン)、Mr.Chenと私は門の近くに立ち、
使用人達は私達の後にひざまずいているとき、
Mr.Chenが将校と何人かの兵によって引き立てられていった。
落ち葉のなかを遠くの側門を過ぎてゆく人影、
誰ともわからぬその人々の低い叫び声。

Mr.Chen は上海路と広東路との交差点で釈放され、
6人の少女達は翌朝5時に無傷のままで戻ってきた。
両方共に、祈りのお蔭だと私達は信じている。(336頁)

もっと貧しい人々は寝具や小銭さえも盗まれ、
安全区にあってもとても安全だった裕福な家の
物やラジオや家具も盗まれつつある。
私達は、12月17日頃から1月17日迄(この日に私は最後の火事を見た)
の(ような)大規模な焼却は見ない。
現在の最も大きな悩み事は、「老百姓」
即ち普通の人々による略奪が続いていることである。
法の無い秩序も無いこの市のなかで、貧しいそして無法者は、
どの家に入って欲しい物を持ってきても全く自由だと思っている。

旧安全区の外では、多くの家が戸や窓や床までもすべてが盗まれている。
最近の数日中に。
私は良質の戸と窓が売られている のを見ており、
それは破壊が進んでいることを意味している。

当然のこととして私の中国人の友達はこの件に心を痛めているが、
どうすることも出来ない。(346頁)

この市の無法状態の間、キャンパスはとても平和だった。
「人々」は略奪や盗みにやってくる時間が無かったのだ。

私達の衛兵が1月14日にいなくなり、再び来ることはなかった。
長い間私達は、何事が起きるのでないかと心配していた。
しかし私達ではどうしようもない事態は起きなかった。
兵士達がいたずら心でやってきたことが3回あったが、
説得されて戻っていった。
私のカレンダーに、高級士官から兵士までの17グループの訪問者の印がある。
彼等の多くは、キャンパスとキャンプの見学のためだった。
私達は常に、最初に難民達で占領されている1つか2つの建物を見せ、
そして全く普通の状態にあって検査のために
開放してある図書館管理棟へ案内する。
彼等はそれらを見て常に喜び、
私達は彼等に清潔な建物を見せることが嬉しかった。(347頁)

―――――

私達の登録は12月28日に始まったが、
初め私達は私達のキャンパス内の女性達のためばかりを思っていた。
しかしそれは違っていた。登録は9日間の長きに及び、
男性と女性達が安全区の全域からやってきたし、田舎からさえも来た。
何万という人々が4列に並び、最初に良い市民としての講義を聞き、
それから最終手続きのために、 Mr.Chen Chung-fangの家の一つに
入ることの出来る用紙を貰って、名前を住所がブランクになっている
スタンプと番号のある登録証が与えられた。

最初の何日かは男性に限られていた。
彼等は早いときは午前2時から漢口路と寧海路に列を作っていた。
そして終日彼等はキャンパスを通って進んでいった。
雪の日に このような行進する人々による、
ぬかるみのひどさを想像できると思う。

この登録は 最初は軍の将校によって行われた。
2人の衛兵がいつもそれぞれのグループを焚き火に照らし、
私達は将校のために石炭の火を提供した。
初めのうちは、私は私達のキャンパスで男性の登録が行われることに
抗議した方がよいと考えた。
キャンパスの正面が広く開かれることを意味し、
女性達のためには入ってくる男性が迷うことを
排除しなくてはならないと思ったのである。

しかしながら、第1日の終わりには、この方式はベストのように思えた。
男達が列外に出されて兵士だと告発されたとき、
女性達が幸いそこにいて彼等のために弁護し、
多くの潔白な男達が救われたからである。

潔白な男達の中には、もし男達が兵士だったことを告白すれば、
許されて有給労働が与えられると言われた者がいるが、
私達はその頃に私達が知った漢中門外にあるという埋葬されていない死体の
なかに彼等が交じっているのではないかと疑ってはいる。
(注:後述するスマイスの手紙を参照)
最終的には、金陵女子文理学院での何万人という登録者のなかから、
僅か28人が連行された。
私は女性達がこの登録作業の進行を如何に心配して見守り、
彼女達の夫や息子達のために如何に勇敢に弁護したかということを
決して忘れることはないだろう。

女性達の登録は月曜日、1月3日に始まったが、
水曜日まではまだ女性だけということではなく、金曜日に終わった。
彼等が兵士の手荒な扱いをどれだけ恐れたことか。
そして登録証を得るのにどれだけ頭をさげたことだろうか。
何人かの女性達は、売春婦ではないかと疑われた。
そのときは市内に日本兵のための許可済売春宿を
発足させようとしているときだった。

しかし女性達は自分が何者であるかを証明出来れば放免された。
女性登録の最後の2日間は、民間の係員によって行われ、
それは温和な規律のある方法だった。

すべての記入は支那人によって行われ、
すべての手続きは私達のキャンパスの中庭で続けられた。
私は、私達の雇員や女中の手続きを別途に進める許 可を貰って、
登録は速やかに終わった。そして皆が恐れていた苦難は過ぎたのだった。
(337~338頁)
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