正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『元寇』 「1274年・文永の役」、「1281年・弘安の役」

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期、
当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)
及びその服属政権となった高麗王国によって
二度に亘り行われた対日本侵攻の呼称である。
「蒙古襲来」ともいう。

一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、
二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

主に九州北部が戦場となった。

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1268年、蒙古の国書と高麗の副書を携えた高麗の使者が大宰府に到着。

■国交を求める国書「蒙古國牒状」の内容の問題個所。

「天のいつくしみをうける大蒙古国の皇帝が、書を日本国王に奉る。」

「昔から小国の君主で国境を接しているものは・・」

「我が祖宗は、天の明命を受けて天下を領有している。その威を恐れ、
徳を慕ってくる遠い異国のものたちは数えられないほどである。」

「朕が即位した初め、高麗では無辜の民が久しく戦争に疲れていたので、
兵を引き揚げ、国土を還し、老人子供を帰らせた。
高麗の君臣は感激して来朝した。」

「兵を用いるを、いったい誰が好もうか。」

■1270年、一応、次のような返書案が作成されたが、無礼な書に返事などする
必要はないという声が多かったため、実際に返書が送られるに至らなかった。
(一部抜粋)

「(貴国は)凶器を用いたいという。
聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。
(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と称して、
かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。」

「天照皇太神の天統にはじまり今日に至るまで、
日本皇帝の聖明は国の果てまで及んで属さぬものなく、
代々の王の徳の護りは行き渡ってどこも乱れるところがない。
ゆえに天皇の国土を昔から神国と言うのである。
知をもって競えるものでなく、力を持って争うことも出来ない、
唯一のものであるから、よく考えよ。」

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1274年(文永11年)、元寇『文永の役』

蒙古・漢軍、高麗軍、女真人の軍勢を含む総計2万7千人が乗る大小900余艘の
船団が日本の九州北部に来襲するも撃退。

1274年(文永11年)10月3日、
蒙古・漢軍2万人の主力軍と高麗軍7千人、女真人の軍勢を含む総計2万7千人が
乗る大小900余艘の船団が、朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の馬山)を出航。

10月5日午後4時頃、元軍は対馬の小茂田浜に上陸。
対馬守護代・宗資国は80余騎で応戦するが戦死し、
元軍は対馬全土を制圧して多くの島人を虐殺。

同日、対馬守護代・宗資国は元軍の襲来を伝達するため、
佐須浦から小太郎・兵衛次郎を博多へ出航させる。

『日蓮註画讃』
「二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。
徹手結附船。不被虜者。無一人不害。」
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壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、
手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。

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『一谷入道御書 建治元年五月八日』
「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、
手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」

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高麗側の記録 『高麗史節要』
「俘童男女二百人献王及公主」
―――――
帰還した高麗軍の将軍が、2百人の男女の子供を高麗王とその妻に献上

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『日本書紀天智帝二年紀』
「百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛」
―――――
百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、
手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。
百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしい。

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『高祖遺文録』
「皆、人の当時の壱岐対馬の様にならせ給わん事思いやり候へば、
涙も留まらず」

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韓国の新聞 『朝鮮日報 2002年4月24日』
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/04/24/20020424000001.html
2002年4月16日に中朝国境付近の中国側で、
北朝鮮の保安員(警察)が脱北者100人余りの集団を連行する姿を、
あるアメリカ人が目撃した。
脱北者たちのほとんどは30~40才代の男性で、
20代の女性や年寄りの女性や子供も何人かおり、
【彼らは手に針金を突き通され】
さらに鼻にリングを刺して、それも針金に通された姿だった。
保安員等はトラックの荷台に彼等を乗せ、
その時、針金をトラックに結わえ付けていたという。

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10月14日、元軍は壱岐に上陸。

10月16日~17日、元軍は肥前沿岸の松浦郡
及び平戸島・鷹島・能古島の松浦党の基地に襲来。

10月20日、元軍は博多湾の早良郡(さわらぐん)に襲来。

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【神風と元軍撤退理由】

元軍は合戦を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて
一夜を明かそうとしたその夜に暴風雨を受けて壊滅したという言説が
教科書等に記載されているが、元側と日本側の史料ともに
博多湾で元軍が暴風雨を受けたという記載はなく事実ではない。

通常、上陸作戦を決行した場合、まず橋頭堡を確保しなければならず、
戦況を優位に進めながら陸地を放棄して、
再び上陸作戦を決行するなどは戦術的に有り得ないとされる。

また、元側の史料『高麗史』の記載によると
日本軍との戦闘で苦戦を強いられた元軍は撤退を決め、
日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっている。

この撤退途上に元軍が遭遇した暴風雨について気象学的には、
過去の統計から、この時期に台風の渡来記録が無いため
台風以外の気象現象という見解もとられている。

また、元軍が苦戦し撤退した様子は『高麗史』の記載の他、
日本側の史料でも同様の記載が確認できる。

日本側の史料『五檀法日記』では、
19日と20日の2日に亘って武士と元軍との間で戦闘があり、
結果、元軍兵は退散したとしており、
『帝王編年記』においても、20日に武士と元軍とで合戦があり、
日本軍は元軍軍船一艘を取り志賀島に押し留め、
その他の元軍をすべて追い返したとしている。

また、他の史料と日にちに差異はあるが『関東評定伝』でも
「文永十一年十月五日、蒙古異賊が対馬に攻め寄せ来着。
少弐資能代官・藤馬允(宗資国)を討つ。
同24日、 大宰府に攻め寄せ来たり官軍(日本軍)と合戦し、
異賊(元軍)は敗北した」と明確に日本軍の勝利と元軍の敗北が確認できる。

以上のように神風は元軍の敗退要因とは関係なく、
撤退中に暴風雨に遭ったのであり、勝敗要因とは直接関係のない事象である。

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『文永の役』後、
総司令官・忻都が、元の世祖フビライに報告した記録『元韃攻日本敗北歌』

「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、
立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。」

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『文永の役』後、再度やって来た元の国使を、執権・時宗は斬り捨てさせた。
それは『文永の役』の時、特に壱岐・対馬島民が受けた残虐行為、
相手の戦争の仕方が、兵と兵の戦いのみならず、民百姓も含めた皆殺しの
虐殺方式であり、女も子供も拉致連行し、米も財貨も略奪し尽くし、
捕獲した馬まで食べてしまうという戦い方に憤ってのこととある。

元寇からおよそ百年後の建徳元年(応安ニ年)に来日した
明国の趙秩という者は、かつての国使趙良弼の子孫と疑われ、
危うく斬られそうになったという記録もある。(『桜雲記』)

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1281年(弘安4年)、元寇『弘安の役』

『文永の役(1274年)』から7年後のこの年、
またもや元・高麗軍を主力とした東路軍4万人・軍船900艘と、
旧南宋軍を主力とした江南軍10万人・軍船3500艘、
合計14万人・軍船4400艘の軍が日本の九州北部に来襲するも、またも撃退。

◆東路軍

1281年(弘安4年)5月3日、
蒙古・漢軍3万人と高麗軍1万人が乗る東路軍900艘が
朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航。

5月21日、東路軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸。
上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死。

5月26日、東路軍は壱岐に上陸。
なお、東路軍は壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し、
兵士113人、水夫36人が行方不明となる。

東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来。

対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、
博多湾岸から北九州へ上陸しようとしたが、
日本側は博多湾岸に約20kmに及ぶ石築地(元寇防塁)を築いており、
最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上あり、
日本側が守備する内陸方面からは騎乗しながら駆け上がれるように土を盛り、
元軍側の浜辺方面には乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)などの
上陸妨害物を設置していたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念。

6月6日、東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し占領。
志賀島周辺を軍船の停泊地とした。

この日の夜半、日本軍は東路軍の軍船に夜襲を行う。

6月8日午前10時頃、日本軍は軍勢を二手に分け、
「海」と「海の中道(陸路)」両面から志賀島の東路軍に総攻撃を敢行。

海の中道(陸路)から攻め入った日本軍に対して
東路軍は軍船から降りて応戦し、日本軍300人ほどに損害を与えたが、
日本軍の攻勢に抗しきれず潰走。

東路軍司令官の洪茶丘は馬を捨てて敗走し、
日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれたが、
間一髪の差で逃れた。

海上から東路軍を攻撃した日本軍は敵船に乗り込み、敵将を生け捕る。

6月9日、日本軍は、防御に徹して陣を固める東路軍に対して奮戦し、
この日も日本軍が勝利して東路軍は敗戦を重ねた。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、
江南軍の到着を待った。

◆江南軍

1281年(弘安4年)6月18日、江南軍10万人・軍船3500艘が
慶元(寧波)・定海等から出航。

6月下旬、慶元(寧波)・定海等から出航した江南軍主力は
7昼夜かけて平戸島近海に到着。
平戸島に上陸した張禧率いる4千人の軍勢は塁を築き陣地を構築して
日本軍の襲来に備えると共に、
艦船を風浪に備えて50歩の間隔で平戸島周辺に停泊。

6月29日、一方、日本軍は壱岐島の東路軍に対して
松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始。

7月2日、日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。
瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された。

壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と、
江南軍が平戸島に到着した報に接したことにより壱岐島を放棄し、
江南軍に合流するため平戸島に向けて移動。
江南軍と合流し、平戸島に上陸。

7月中旬~7月27日、合流を完了させ平戸島周辺に
しばらく停泊していた元軍は、平戸島に4千人を残し、主力を鷹島へ移動。

7月27日、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、
日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となる。
戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間行われ、
夜明けとともに日本軍は引き揚げる。

元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、
突如、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止した。
鷹島に留まった元軍は、鷹島に駐兵して土城を築くなどして
塁を築いて日本軍の鷹島上陸に備えた。

一方、日本側は六波羅探題から派遣された6万騎の大軍が
北九州の戦場めざして進軍中であったが、
この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、
元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった。

7月30日夜半、台風が襲来し、海上は五日間荒れ、
元軍の軍船は多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。
東路軍が日本目指して出航してから約3ヶ月、
博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2ヶ月後のことであった。

閏7月1日(旧暦で7月が2回)、諸将は頑丈な船から
兵を無理やり降ろして乗り込み、鷹島の西の浦より兵10万を見捨てて逃亡。

平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬70頭を降ろして棄て、
軍勢4千人を軍船に収容して帰還。

閏7月5日、日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始。
元軍の軍船を伊万里湾から一掃。

閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。
海上でも残存する元の軍船と日本軍との間で戦闘があり、
日本軍は元の軍船を焼き払った。

閏7月9日、日本軍による鷹島総攻撃により10万の元軍は壊滅。
日本軍は2万の元の兵士を捕虜とする。

鷹島掃蕩戦をもって戦闘は終了。

『弘安の役』は日本軍の勝利で幕を閉じた。

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参考

Wikipedia 『元寇』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
『きままに歴史資料集』 「元寇と高麗」
http://bit.ly/16D4UDv
2008/09/15 09:09|年表リンク用資料
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