正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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おもな不法抗日事件

●1935年5月、天津日本租界事件。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-578.html

◆1935年(昭和10年)8月4日、欒(らん)州事件。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-626.html

●1935年11月9日、中山水兵射殺事件。
日本海軍・上海特別陸戦隊の中山秀雄一等水兵が上海共同租界の兵舎付近で
射殺された事件。秘密結社「藍衣社」の一分派の犯行とみられたが、
中国側は容疑者を無罪にしようとした。

◆1935年(昭和10年)11月11日、日比野洋行襲撃事件。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-628.html

●1936年1月21日、汕頭邦人巡査射殺事件。
汕頭の日本領事館の日本人警官が射殺される。

●1936年7月10日、上海邦人商人射殺事件(萱生事件)。
三菱商事社員の萱生鑛作が子供を連れて上海市内を散歩中に射殺される。

●1936年(昭和11年)8月24日、成都事件。日本人記者2名が惨殺される。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-624.html

●1936年(昭和11年)9月3日、北海事件。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-625.html
広西省北海の日本人商店を暴徒が襲い店主を殺害。

●1936年9月19日、漢口邦人巡査射殺事件。
漢口で日本領事館の吉岡庭二郎巡査(長崎県出身)が射殺される。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-629.html

●1936年9月23日、上海日本人水兵狙撃事件。
またも上海共同租界で第三艦隊旗艦出雲乗組員の水兵4名が上陸散歩中、
4~5名の支那人により狙撃され死傷。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-629.html

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以下、『 シナ大陸の真相―1931-1938 』カール カワカミ著 P121~128 より
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-179.html

またその一方で、幼稚園から大学に至るまであらゆる教育機関が、
日本に対する敵意を幼児や若者の心に注入するために利用された。
これは国民党が蒋介石の指導の下に1927年南京に政府を樹立した時、
とりわけ顕著になった。
1928年5月、南京の国民教育会議は次の決議を採択した。

1、国家の屈辱に関する豊富な資料を、
中学校及び小学校の教科書に載せること。

2、われらの国家的屈辱に関する事実を宣伝し、
どの国が中国の最大の敵であるかを国民に印象付けるために、
あらゆる機会を用いて学校を利用すること。

3、国家の屈辱の描いている地図と絵を用いること。
そしてあらゆる機会を利用して生徒の注意をそれらに向けさせること。

4、中国の最大の敵を打倒できる方法を、教師と生徒は共に学ぶこと。

この計画の中にある中国の「最大の敵」とは日本を意味していた。
この計画が採択される以前においてさえも、
幼稚園の本には次のような言葉が載っていた。

日本は敵だ!日本は中国から澎湖諸島と台湾を奪い、
遼東半島を奪った。日本は侵略国だ。
国民政府は、日本の侵略を阻止しこれらの領土を
取り返すことを目的とする政府だ。

これと同じ話はあらゆる教育機関で、
別の言葉で繰り返し述べられている。
実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称を
つけたことはこれまで一度もなかった。
台湾(フォルモサ)は1894年の日清戦争後に日本へ割譲された。
遼東半島は1904~5年の日露戦争後に、
日本が中国からではなくロシアから獲得したものである。
(中略)
例えば1936年8月、
2人の日本の新聞特派員
(大阪毎日と東京日日の外国関係ニュース担当)
が投石され、刺され、物を奪われた上に殺害された。
その犯人は四川省成都の暴徒と化した少年少女である。

(中略)

○北支

1、1935年5月、日本贔屓の傾向のある2人の
中国人新聞編集者が天津で殺害された。

2、1935年8月、満州国国境から天津に向け走行中の
満州国・中国国際列車が匪賊に襲撃された。
調査により判明したところでは、
彼らは天津の反日組織に扇動されていた。
約20名の乗客が殺害された。

3、1935年12月17日、
天津の日本軍守備隊総司令官多田陸軍中将の
邸宅に爆弾が投げ込まれ、中国人召使が負傷。

4、1936年1月2日、天津付近のタークーで
2軒の日本人商店が中国正規兵により略奪された。

5、1936年6月19日、
山東省防東で日本人が中国人に射殺された。

6、1936年6月26日、北京付近で中国正規兵が、
豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士を襲撃し重傷を負わせた。
それに対する謝罪を要求して中国軍兵営に赴いた日本陸軍大尉が
中国兵に刀と銃剣で斬りつけられた。

7、1936年7月22日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、
天津の日本総領事館に勤務する2名の警官を
領事館前で銃撃。1人死亡、1人重傷。

8、1936年8月23日、河北公共治安部隊の数名の兵士が、
天津の日本語学校を襲撃し略奪。日本人教師に暴行を加え拉致。

9、1936年10月、反日組織に扇動されたストライキが発生。
山東省青島の日本人経営の紡績工場が2週間閉鎖。

10、1937年5月23日、満州国大連沖で操業中の日本漁船2隻が、
中国の税関パトロール船に発砲された。
中国人税関警備兵がこの日本漁船に乗船し捜索したが、
犯罪に関するものは何も発見されなかった。

11、1937年6月1日、
中国人暴徒が天津付近の日本人経営の農場敷設を襲撃。
1つの倉庫と3つの住居に放火し、多数の日本人従業員が負傷。

○中支

1、1935年11月9日、
日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。
(本件に関しては第8章で詳細に述べる)

2、1935年12月20日、漢口で大規模な反日デモ。

3、1935年12月21日、
約1千名の中国人学生が「日本帝国主義を倒せ!」
「全ての日本人を上海から追い出せ!」
と叫びつつ反日ビラを配布し、上海国際租界の中心部を行進。

4、1935年12月26日、
上海国際租界にある日本海軍の本部公館に爆弾が投げ込まれた。

5、1936年1月7日、3千人の学生が南京の孫文墓地に集まり、
反日デモを行った。
同時に、南京の日本総領事館前でもデモが行われた。

6、1936年7月10日、
東京三井物産上海支店の日本人社員が国際疎開で射殺された。

7、1936年7月18日、
中国人暴漢が日本人を殴打し、重傷を負わせた。
日本人の女や子供に投石する事件や
上海の中国人が日本人に対して行う暴力行為は、
日を追うにつれ増加。
短期間にそのような事件が20件以上も報告されている。

8、1936年8月7日、
南京の日本総領事館の松村秘書官が上海に到着した際、
彼の外交上の地位を承知の上で、
中国人税関職員は彼の携行していたかカバンの中を調べた。

9、1936年8月24日、
四川省成都で大阪毎日及び東京日日の特派員と
もう1人の日本人新聞特派員が
1万人の中国人暴徒(その大部分は少年少女)に襲われ、
最も残忍なやり方で殺され、他の2人の日本人が重傷を負った。
中国当局は暴動を抑えるための手段を何ら講じなかった。
南京の中央政府も同様に無関心だった。
四川省当局は必死で証拠隠滅を図り、
日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害。
日本の度重なる抗議の後8月26日、
国民政府は行政部門の特別会議を招集し、
日本国籍をもつ者に適切な保護を与えるよう
各地方長官に命令を出した。

10、1936年9月19日、
漢口の日本領事館の警官が中国人に射殺された。

11、1936年9月23日、
日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。
他の2人の水兵は重傷を負った。

12、1936年9月26日、
湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に中国人暴徒が放火。

13、1936年9月29日、
長沙の日本総領事館に爆弾が投げ込まれた。

14、1936年10月、
上海の中国警察による日本人の女や子供の逮捕・拘留が
気紛れの不法状態で行われる事件が増加。

15、1936年11月11日、
日本の汽船会社の日本人船乗りが上海で射殺された。

16、1937年2月13日、
漢口で日本人実業家の妻が中国人に襲われた。

○南支

1、1936年1月6日、汕頭で2千人の中国人中学生が、
対日戦を要求するデモ行進を行った。

2、1936年1月21日、
汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が、
出勤途中中国人に射殺された。

3、1936年1月、
中国警察と税関警備兵が広東の36ヶ所の中国人事務所を襲い、
日本商品を没収。

4、1936年7月3日、広東の中国人商店は反日組織により、
日本商品ボイコット相互組合に加入することを余儀なくされた。

5、1936年9月3日、広東省パクホイで日本人薬局経営者が、
19路軍の中国人兵士に惨殺された。
暴徒が薬局を急襲した時、家族は夕食中であった。
経営者(中野)は街路に引きずり出され、
殴るけるの暴行の上殺害された。
その間、彼の中国人妻は筆舌に尽くしがたい虐待を受けた。
店は完全に略奪された。
広東の日本領事館職員が事件の調査のため汽船でパクホイに赴いたが、
19路軍が力ずくで上陸を妨げたため広東に戻らざるを得なかった。
そこで20日間足止めを食い、ようやくパクホイに入ることができた。

6、1936年9月6日、汕頭で反日デモが発生。
日本人経営の商店で働く中国人が退職を余儀なくされた。

7、1937年3月、
広西省当局は反日感情を煽り立てる目的のためだけに、
全ての日本人を広西省から追放した。

8、1937年5月22日、
汕頭の日本領事館に勤務する警官が中国警察に滅多打ちにされた。

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第40号(昭12・7・21) 派兵に関する政府声明
北支派兵に至る経緯 陸軍省新聞班
軍機保護の必要性  陸軍省新聞班・海軍省海軍軍事普及部
最近に於ける第29軍の不法事件 外務省情報部
地方長官会議に於ける近衛内閣総理大臣訓示
最近公布の法令 内閣官房総務課

最近に於ける第29軍の不法事件 外務省情報部

北支は我が盟邦満洲国の隣接の地で、
同地方の平和は日満支3国の提携即ち東亜安定に重大な関係がある。
従つて我国は常に北支地方に関心を持ち、
今日迄あらゆる犠牲と努力を吝(をし)まず、
所謂北支の明朗化の実現に尽して来たのであつたが、
我が帝国の努力は実を結ばないのみか、北支は藍衣社或はC・C団の如き
ファッショ的排日運動者や共産党の魔手に操られる抗日人民戦線派の
暗中飛躍の舞台となり、排日、抗日の中心地の観を呈するに至つた事は
実に遺憾の極みと謂はねばならぬ。

特に北平、天津附近に在る第29軍の将士が盛んに
排日事件を惹起しつゝあるが、元来第29軍は、
現在冀察政務委員長宋哲元の麾下に属する軍隊であつて、
曾て馮玉祥の下に属した旧西北軍の一部である。
由来此の第29軍は抗日意識甚だ強く、
昭和8年我が熱河作戦の時も長城線に拠つて、
我軍に頑強に抵抗を試みた軍隊である。

又昭和10年末に冀察政務委員会成立の後に於ても、北支密輸問題、
北支駐屯軍増強問題発生以来、特に抗日傾向が著しくなり、
翌年5月末の冀察文武官会議に於ては張自忠等の実力派は、
数日に亙つて、強硬論を主張したと伝へられてゐる。

其の頃から益々第29軍の邦人に対する不法行為は一層其の度を加へ、
態度も甚だ露骨となつた。
茲に第29軍の北支方面に於て我に加へた不法事件の中、
昨年及今年に入つての分の主なるものを列挙すれば
左の如き多数に達するのである。

1、朝暢門事件(昭和11年1月5日)
北平朝陽内に於て第29軍の兵士は我が鈴木大尉以下7名の乗車せる自動車
に対して無法にも実弾を以て発砲したが、幸に命中ぜず事なきを得た。

2、北支駐屯軍輸送列車爆破事件(昭和11年5月29日) 
天津東站に於て我が駐屯軍が輸送中の貨車の下に爆弾様のものが炸烈して
我兵には幸にして死傷がなかつたが、我が軍馬3頭は負傷した。
右の事件に対する我方の厳重な抗議に対し第29軍長宋哲元は、
其の責任を認め、陳謝其の他の我が条件を容れ解決した。

3、豊台事件(1)(昭和11年6月26日)
豊台に在る我が兵営を第29軍の支那兵2名乗馬にて横断せんとしたので、
邦人雇員は我兵と協力してこれを阻止したる所、
支那兵は乗馬6頭を遺棄して逃走せしも、
支那兵約20名は乗馬奪還のため来襲し、
右の雇員を殴打して暴行を加へたるのみならず、
今月事件調査のため赴ける我が北支駐屯軍本部の河野大尉一行に対しても
銃剣を突付けて威嚇的態度に出で、
又大尉以下を監禁するの不法を敢てしたので、我軍は、直ちに厳重抗議し、
支那側の陳謝、第29軍の犯人及責任上官の処罰、部隊の撤退、賠償、
将来の保障をなさしむる事の條件を支那側が容れたので一応解決した。

4、豊台事件(2)(昭和11年9月18日)
右豊台事件後近々約2箇月を出でずして、
我が豊台駐屯部隊が夜間演習のため豊台の街を通行中、
第29軍の一部隊と行違ひたる際、我が一小隊長の乗馬と
支那部隊の一兵士が行き当りたるに端を発し悶著を起したので、
我軍に於て、支那部隊の連長の同行を求めたる所、
同部隊は俄然戦闘隊形となつたので、我軍も止むなく対峙する事となつたが、
交渉の結果支那部隊が撤退することとなつた。

5、豊台に於ける朝鮮人殴打事件(昭和11年8月21日)
豊台に於て朝鮮人森川太郎は第29軍兵のため、
何の理由もなく突然殴打暴行を受け重傷を受けたが、
同地に於ては昨年6月頃より居住の邦人に対し
支那人の加害的行為が頻々として起つた。

6、平綏線に於ける邦人不法調査事件
昨年来平綏線南口駅及西直門駅に於て
第29軍兵士の清査処員と称する者が帝国臣民に対し
身体及所持品の検査を強行した事件が頻々と起つたが、
其の主なるものは左の如くである。

(昭和12年2月21日)
平綏線南口駅に於て清査処員と称する第29軍兵士は
我が張家口の中野領事代理の身体及所持品の不法検査をした。

(昭和12年3月2日)
平綏線南口駅に於て張家口の原巡査部長は
同じく第29軍の兵士のために不法検査を受けた。

(昭和12年3月13日)
平綏線南口駅に於て北京新聞の香川記者も同様の不法検査を受けた。

(昭和12年3月下旬)
平綏線南口駅に於て張家口大本特務機関長
及在北平牟田口部隊長に対しても同様不法検査を行つた。

(昭和12年5月1日)
平綏線南口駅に於て張家口の邦人商人岩橋豊楠は第29軍兵士のため
所持品の不法検査を受けたる上散々に殴打されるの不法事件があつた。


これらの被害事件は、非常に在留邦人を刺戟し
事態甚だ楽観を許さぬものがあつて、我国としては、
北平市長秦徳純に対して右の如きは、
日支間条約に違反する不法行為である旨を指摘して
右の厳重なる急速停止に就て警告した処、
四月六日秦徳純は事件に就て遺憾の意を表し、解決方法を提議したので、
我国は寛大な態度を持して一応解決した。

以上掲げたものは、昨年及今年に入つての第29軍の在留邦人に加へた
主なる不法事件であるが、此の他に雑小な排日事件は無数と云つてよい。
然し我は隠忍に隠忍を重ね自重に自重をなし、
一途(いちづ)に其の平和的解決のために、
彼の反省を期待して今日に及んだのであつたが、
今回の彼の第29軍が北平郊外蘆溝橋に於て
我が駐屯軍に加へた不法射撃に就ては、彼は問題解決の誠意無く、
又悪意の武力抗日である事が判明したので、
我が政府は此処に廟議一決して重大決意をなすに至つたのである。

尚、支那全般に渡つての不法極まる排日の事実は昨年特に猛烈を極め、
我等の記憶に新しきかの成都事件(大阪毎日記者等惨殺事件)、
北海事件(日本商人中野某の虐殺事件)或は漢口事件(我が巡査惨殺事件)
等の血生臭き事件が次から次へと起り、我国民を刺戟したが
今日迄政府は其の都度厳重なる抗議警告を発して、
支那側当局の善処を要望して来たのであつた。

一方其の根本的解決のため、昨年10月日支交渉を開始して、
本年に持ち越したが、本年に入つてからは、
彼の抗日的態度は山東に於ける税警団の鮮人に対する暴行事件、
汕頭の我が青山巡査に対する暴行事件を除いては、
各地を通じて表面的には平静を保つて居る様に見えたのであつた。

然し、それは全く表面だけの事で、其の実中央政府は、
最近に於ける支那国民の国家意識の勃興を利用して、
まづ排日抗日をスローガンとして全国民に呼びかけ、
対日強硬方針を標榜して全国統一化を計画し、
他方コミンテルンの魔手に踊る上海各界救国聯合会
其の他の各地救国会を中心とする所謂抗日人民戦線は全支に亙つて
根強い思想的の排日抗日の気運を醸成しつゝあつた。
要するに今回の北支事件は、
今日迄支那全土に流れる排日思想の時流に原因するものである。
http://binder.gozaru.jp/040-29gun.htm
http://megalodon.jp/2013-0701-0843-12/binder.gozaru.jp/040-29gun.htm

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1/7 シナ大陸の真相
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-178.html
2/7 シナ大陸の真相
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-179.html
3/7 シナ大陸の真相
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-180.html
4/7 シナ大陸の真相
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-181.html
5/7 シナ大陸の真相
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6/7 シナ大陸の真相
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7/7 シナ大陸の真相
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1/6 暗黒大陸
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-185.html
2/6 暗黒大陸
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3/6 暗黒大陸
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4/6 暗黒大陸
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5/6 暗黒大陸
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-189.html
6/6 暗黒大陸
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1/7_アメリカの鏡・日本
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-168.html
2/7_アメリカの鏡・日本 日本の降伏を許さず原爆投下へ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-152.html
3/7_アメリカの鏡・日本
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-169.html
4/7_アメリカの鏡・日本
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-170.html
5/7_アメリカの鏡・日本
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-171.html
6/7_アメリカの鏡・日本
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-172.html
7/7_アメリカの鏡・日本
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-173.html

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終戦~日本人 引き揚げの悲劇
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-154.html
2008/09/04 09:00|年表リンク用資料
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