正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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【平成26年(2014年)3月9日 15:27 更新】

大東亜戦争は日本が武力攻撃されて始まった戦争です!

中国における日本租界は、
1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約(下関条約)や、
1896年7月21日の日清通商航海条約により設置されていました。

1901年9月7日の北京議定書(条約)により欧米列強の軍隊とともに
自国民の保護の為に日本軍も中国に駐留していました。

日本は欧米と同じように条約によって中国に租界を設置し、
日本は欧米と同じように条約によって中国に軍隊が駐留していました。

一般的には大東亜戦争の始まりは1937年(昭和12年)7月7日の
「盧溝橋事件」とされていますが、
まあ、その盧溝橋事件も中国側から攻撃してきたのですが、
それまでも中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥との軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えて差し支えないものです。

大東亜戦争の始まりは1937年(昭和12年)8月13日~の第二次上海事変です。

1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が
1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。

日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが、
反日・親蒋介石で固まっていた列国は全く取り上げようとはしませんでした。

翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して
日本軍との間で戦闘状態となり、第二次上海事変が始まりました。
(上海には英米仏などの租界もあったのに日本人居留区のみを攻撃してきた)
(中国には条約により欧米人もいたし条約により欧米10ヵ国の軍隊もいた)

英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、
日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。
それまでは日本軍も欧米軍と一緒に上海の警備を地区ごとに
役割分担していたのですが、
http://blog-imgs-59.fc2.com/s/e/i/seitousikan/skskkgktttk_s.jpg
以後は日本軍を除く英米仏軍などが上海の租界における
治安維持を担当するという理不尽な提案を行ないました。
本来ならば1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入して
武力攻撃してきた蒋介石軍に対して、
日英米仏軍が一致して対処するのが本筋でした。

この第二次上海事変が支那事変(日中戦争)の始まりであり、
大東亜戦争の始まりでした。

日本本土で援軍(上海派遣軍)が編成され、上海へ向かいました。

蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げました。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げました。

日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。

日本は何度も何度も和平交渉を申し込んでいました。

アメリカなどは中国の蒋介石(国民党)重慶政府に武器を提供し続け、
資金も提供し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平交渉の提案を何度も拒否して
戦争をやめようとしなかったので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐。
1940年8月30日の『松岡-アンリ協定』により北部仏印進駐。
1941年7月23日の『日・仏印共同防衛協定』により南部仏印進駐。

するとアメリカが日本への石油禁輸をしました。
石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
ABCD包囲網【米(America)英(Britain)中(China)オランダ(蘭Dutch)】
の一国であるオランダが支配する蘭印の石油を
日本は武力で確保する決断をしました。

その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したので自衛戦争でした。

アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、日本は攻撃されているから反撃したのです。

1938年(昭和13年)10月26日、
武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となりました。

汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けましたが11月10日、帰らぬ人となりました。

翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。
戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げました。

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◆【1937年8月13日~ 大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)】
蒋介石軍が上海国際共同租界の日本人居留区のみを包囲、攻撃してきて
始まった第二次上海事変が支那事変(日中戦争)の始まりであり、
その蒋介石軍に武器や資金の支援を続けていたのが
アメリカを筆頭とする欧米でした。
それが日米戦争(太平洋戦争)へとつながりました。
それらを総称したものが「大東亜戦争」だといえます。
攻撃されたから応戦、反撃したまでで、
攻撃されなかったならば「アジア開放のため」という理由だけで
日本から米英に戦争を仕掛けるはずはありませんでした。

◆【1939年9月1日~ 第二次(欧州)大戦】
ドイツがポーランドに侵攻して始まりました。

◆【1941年12月8日~ 太平洋戦争=日米戦争(日米の直接戦争)】
日本が米国・ハワイの真珠湾を攻撃し、米国との直接戦争が始まりました。

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1937支那事変(中国大陸)―――――――――――1945終結
―――1939第二次欧州大戦(欧州)―――――――1945終結
――――――1941日米直接戦争(太平洋)――――1945終結

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1937支那事変+1941日米戦争=大東亜戦争

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日本はルールを守り、何も悪い事はしていなかった。
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中国側(蒋介石)がルールを破って違法なテロ攻撃をしてきた。
↓↓↓
その違法なテロ側を欧米がテロ支援していたことが合法であるはずはない。
↓↓↓
英米の資金・武器支援があるから
蒋介石は日本からの和平の打診を拒否し続けた。
↓↓↓
日本は援蒋ルートの合法的な遮断に努力していた。
↓↓↓
それに対して米英欄が経済制裁・石油禁輸してきた。
↓↓↓
それを受けて日本は蘭印の石油を武力で確保する決断に至った。
↓↓↓
その前に先手を打って
ハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために真珠湾攻撃。
↓↓↓
日本は負け、紛争当事者の一方である戦勝国が東京裁判で裁判官となり、
すべての責任を日本にのみ求め、
事実とは違う政治的な決着の歴史を押し付けられている。

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【自虐史観への反論の一例】

大東亜戦争は実質、1937年8月13日~の第二次上海事変が始まりです。

蒋介石軍は1932年・上海停戦協定線を越えて
上海共同租界に侵入してきたことも違反ですし、

蒋介石軍が日本人居留区を包囲した際、
日本領事が米英仏などで組織する協定共同委員会を招集し、
中国軍の撤退を要求する共同抗議、および何らかの制裁措置を講ずるよう
提案を行ないましたが欧米列国は無視しました。
無視どころか列国はテロ蒋介石側に資金や武器の支援をしたのです。

上海共同租界の日本民間人居留区は日本軍の軍事基地でもなければ
正式な日本租界でもない、日本人が比較的、多く住んでいた日本人町です。

なぜ日本軍が駐留していたのかというと中国の治安が悪すぎたからです。
(現在も中国は治安が悪いですがw)
日本人を守るために駐留しているのですから守って当然です。
守らなかったら批判されるべきですし、そんな軍隊なら処分すべきです。

日本海軍陸戦隊は「最新の兵器を持つ蒋介石軍」に対して奮戦しました。
八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退。
日本人居留民はどんどん引き揚げましたが、
通州事件が再現されるかもしれないとの恐れから、
残っている一人一人の邦人に警備がつけられ、
汽船やブロードウエイマンションに避難しました。
それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の炊き出しに従事し、
残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作りました。

その時の状況を想像してみてください。

大東亜戦争で日本が反省すべきだという主張は、
自衛戦争ではなく侵略戦争であるという前提ですよね?

「自衛戦争を起こした反省をしろ!」
「日本を守った反省をしろ!」
って、おかしいでしょ?

武力攻撃されてるのに「勝率が低いから自衛しない」はありえません。
自衛しなくても何もなく平和ならアジアは白人の植民地になっていません。

アジア諸国が遠い欧州からやってきた白人の植民地になってるのに
「勝率が低いから戦わない」で国が守れるなんてお花畑もいい所です。

「うまくやれば戦争もせずに独立できていた」
「どじ踏んだから失敗した」という妄想、
どんなに頑張っても負ける時はありますが批判される筋合いはありません。
批判されるのは戦いもせず服従することです。
戦争には理由があるのです。

戦争は目的ではなく手段です。

戦争をするしない、してしまったという「戦争という手段」のみを叩き、
その前にある課題・問題・理由を考えない、
解決する代案を提示しない人は平和を語る資格がありません。

問題があるから、その解決手段の一つに戦争があるのです。
問題なくして解決手段は起こりません。

「戦争」自体は国内法でも国際法上でも犯罪ではありません。
法律に反して初めて犯罪なのに、
禁止する法律がないどころか「戦時国際法」があります。

戦争がダメなら
「戦争するならこういう方法で」が存在するわけがありません。
パリ条約でさえ自衛戦争を否定していないのですから
戦争は批判の対象にはなりません。

敵が攻め入ってきたから守るために命を掛けて戦って、
勝てばお咎めなしで、負ければ法律で裁かれるというのは意味不明です。
批判や裁きを受けるのは攻め入ってきた外側であって内側ではありません。

戦争が起こる理由が、戦いが始まって勝敗が決まってから
「負けた方に決まる」というのでは防ぐ方法はありません。

批判してる人は結果論で、
戦争したら「相手の言う通り撤退すれば戦争防げたのに」と言い、
相手の言う通り撤退すれば「あのとき弱腰で撤退せず戦ってれば
相手はこんな増長せず抵抗できない状態にはならなかったのに」と言って、
結果「日本は馬鹿だなぁ」と言いたいだけの無責任な人です。

上海共同租界の日本軍駐留等の権利は
英米と同じ法律で行なっている完全合法行為です。

これに対して無差別爆撃をした蒋介石の行動は何の法的根拠もありません。
無論これへの自衛が違法なわけがなく、
よってこの蒋介石のテロを支援したり、
自衛した日本を制裁するのは違法であり不当となります。

英米支ともども順法でなかったから、あの戦争は起こったのです。

支那事変は蒋介石の侵略攻撃なので抗戦しなければ負けます。
合法権利も不当に奪われます。

対して英米がテロ支那を支援する自衛的理由はありません。
日本を制裁することも何の自衛でもありません。
援蒋と不当制裁がなければ英米と戦っていませんし、
援蒋だけでも不当ですが日本は我慢して合法遮断に徹しました。

援蒋及び不当制裁されているので延ばせば延ばす程、
日本は不利な状況になり、戦わなければ資源が底を突き、
史実の初期戦勝も無理になるのです。

不当経済制裁されていたから、その国が持つ資源(植民地)を奪取、
つまり開戦したのです。
奪わなければ時間、日にちと共に
資源武器弾薬燃料が底をついて戦えなくなります。

8月に全面禁輸されて4ヶ月も我慢して平和的解決に尽力して、
もう限界でした。

批判するなら対案を示すべきです。

戦争遂行のために敵地から物資を頂戴することは禁止されておらず、
敵・白人列強の持ち物である東アジアを奪取したのですが、
日本はそこを植民地にはせず、大東亜宣言で独立を承認しました。

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『大東亜戦争の大きな流れ』超短縮版
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-665.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
中国の租界
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日露戦争後の「アメリカの反日政策」と「日本の歩み」年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-510.html
rekisisiranaiさんの「大東亜戦争に至るまでの解説」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-654.html

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1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変。

日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)』
によって得られた正当なものでした。

満州内で日本人や日本の関係施設などが、
さまざまなテロ攻撃を受けていました。
http://blog-imgs-60-origin.fc2.com/s/e/i/seitousikan/msnhhg.jpg
http://www.history.gr.jp/~showa/214.html
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html

しかも、その武装盗賊テロ集団に武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。

しかし日本政府は何ら有効な対策を打とうとせず、
「嫌なら帰って来ればいい」という態度だったのです。

そこで準備万端で一気にやり返すため、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
日本軍(関東軍)が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)して、
警察行動である満州事変が勃発しました。

5ヵ月後の1932年2月上旬にはテロ集団を満州から追放する事に成功し、
満州の治安は回復しました。

他の列強国が閉鎖的なブロック経済を構築していくなか、
日本は生きていくための日本独自の経済圏をめざしていたこともあり、
そもそも1911年の辛亥革命で支那満州は別になったはずでしたので、
1932年3月1日、日本がバックアップして清の宣統帝溥儀が満州国建国を
宣言し、支那に侵略されていた満州を満州族が取り戻しました。

その後も満州-支那の国境付近で張学良軍や中国国民党軍が
テロ攻撃してくるので、それらを排除する作戦などを行ない、
1933年2月初旬、熱河作戦。
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1933年5月3日~25日、関内作戦。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-467.html

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変は終結しました。

■テロ攻撃■アメリカが支援
・「満州の張学良率いる武装盗賊テロ軍閥」
・「中国国民党が推進していた苛烈な抗日テロ運動」

■ロシア南下の脅威■ロシア・コミンテルンが支援
・「共産パルチザン等のテロ集団」
これらのテロ攻撃から日本の満州権益を守り、日本人居留民の安全を確保
するために、上記テロ集団を満州から追放するのが主目的でした。

■列強の経済ブロックに対処■
また、他の列強国が閉鎖的なブロック経済を構築していくなか、
日本は生きていくための日本独自の経済圏もめざしていました。

■支那の侵略からの満州族の独立運動を支援■
●1911年10月10日、辛亥革命
支那人(漢民族)たちが清王朝(満州族)を打倒して清国政府を、
その故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、中華民国を建てた。
これで支那は満州から分離独立して支那と満州は別になったはずだった。
「満洲」は民族の名満州と支那は別
●1912年1月1日、中華民国成立(支那独立)宣言。
孫文(漢民族)を初代臨時大総統とする中華民国が南京に成立。
1911年の辛亥革命で漢民族(支那人)たちが清王朝(満州族)を打倒し、
清国政府をその故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、翌1912年1月1日、中華民国を
建てたので支那と満州は別になったはずだったが、中華民国は清朝の支配地域
を全て継承したいがため、漢民族とチベット民族、ウィグル民族、
蒙古(モンゴル)民族、満州民族は、つまり「中華民族」であるという
新たな民族概念を創出し、漢民族だけでなく「中華民族」の土地は
すべて中華民国(支那)の土地だと主張するにいたり、チベット、ウイグル、
蒙古(モンゴル)、満州が独立するのを認めなかった。
日本は満州に権益があったこともあり、親日の満州族やモンゴル族を支援し、
治安を良くして発展することに尽力した。
★「支那」呼称について★満洲★清★辛亥革命~第一次国共合作
清朝(満州族)は北洋軍閥を率いる袁世凱に反乱軍(辛亥革命)の鎮圧を
命じたのだが、袁世凱は反乱軍(革命派)側と極秘に連絡を交わし、
事態収拾のため「中華民国」を建てて革命派の孫文を臨時大総統にする事を
清朝に進言する代わりに、すぐに自分を大統領にする事を孫文に求め、
自分が大統領に就任したら、清朝の皇帝・宣統帝を退位させ、
共和制に移行する事も孫文と約束していたので、
約束どおり孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。
1912年2月12日、袁世凱は最後の皇帝・宣統帝を退位させ清朝は滅亡、
しかし袁世凱は孫文と対立し、革命派を弾圧して独裁体制を取るようになり、
革命は名ばかりとなった。

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【満州の歴史】
●1616年、女真族が「後金」王朝を建てる。
●1636年、「後金」が朝鮮を征服。国号を清(清国、清朝)と称し、
民族名を「女真族」から「満洲族」に改める。
●1644年、清国(満洲族)は万里の長城を越えて「明」を倒して領土を拡大。

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大東亜戦争にいたる大きな流れ【2015.4.7版】
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-684.html
『大東亜戦争の大きな流れ』超短縮版
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-665.html
隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-633.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
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支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html

「正統史観VS自虐史観」の議論例 (mixi)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-621.html
my日本での議論【佐藤卓さん&hayekさん VS notoichiさん】
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-644.html
my日本での尾辻蒼志vs鮎川龍人
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明治以降の日本は世界最高水準の自由な民主主義国家であった!
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大東亜戦争までの内閣
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先帝陛下(昭和天皇)に戦争責任はない。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-263.html

東京裁判(極東国際軍事裁判)
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満州善後条約
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-672.html
満州事変 関連議論
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-675.html
清室優待条件(協定)
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満州地域における日本人や日本関係施設の被害
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html
関東軍1万人で張学良軍30万人らを満州から追放した。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-112.html
『満州事変』についての反応
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-113.html
東京裁判 弁護側資料 満州関連
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-422.html
「リットン報告書」について~『 アメリカの鏡・日本 』より抜粋
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-115.html
『リットン報告書』は日本の正当性を裏付ける内容だった!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-116.html
満州事変前~満州事変~支那事変まで
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-465.html
義和団の乱
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-98.html
1900年(明治33年)、ロシアが『義和団の乱』に乗じて満洲を占領。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-408.html
満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-291.html
満洲事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-334.html
『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-387.html
門戸解放宣言(通牒)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-200.html
もう一つのアメリカ合衆国 『満州』
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-22.html
不戦条約と自衛権
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-287.html
日米開戦前 日本の和平努力
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-285.html
ハル・ノートに対する日本の回答入電「これは戦争を意味する」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-311.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
日露戦争後の「アメリカの反日政策」と「日本の歩み」年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-510.html

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2012/08/31 09:00|年表リンク用資料
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