正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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【1944年(昭和19年)3月~7月初旬、インパール作戦】

インパール作戦も援蒋ルート遮断を目的とした作戦でした。

日本軍はギリギリの物資しかありませんでしたが、
最初から迅速を旨とする作戦であり、
日本軍は疾風怒涛の快進撃で1944年4月6日にコヒマを占領しました。
コヒマの目と鼻の先、わずか2日の距離に
英国軍最大の補給基地ディマプールがあり、
ディマプールを占領すれば日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、
戦いに必要な、あらゆる物資を確保することができ、
もし、そのまま、すぐにディマプールを占領していれば
補給の問題は解決し、
インパール作戦は日本軍の大勝利に終わっていたはずでした。

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英国のインド駐留軍第2師団参謀アーサー・スウィンソン著
『四人のサムライ』からインパールの戦いについて
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当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった。
―――――――
当時のディマプールは全地域にわたって狼狽と混沌の中にあった。
何千という苦力が路地に群がっていた。
血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。
日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、
輸送車が無尽蔵にあったのだから牟田口は確かに勝っていた。
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ここで予期しない出来事が起きました。
一刻の猶予もならないと煽る牟田口中将に対し、
コヒマ攻略隊の現地指揮官・佐藤幸徳中将が反発して進撃を停止、
命令に反して無断撤退してしまったのです。
日本軍は敵の補給基地ディマプールの奪取による圧倒的有利な戦いの
チャンスを逃し、以後、いっきに敗戦への道を
転がり落ちることになりました。
戦後、なぜか命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が
「将兵1万の命を救った」と高く評価されていますが、
実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、
あと2日の距離を急進してディマプールを占領していたなら、
まったく違う結果になっていたのです。

◆第33軍団司令官(ディマプール担当)ストップフォード中将

このとき、もし日本軍がコヒマからディマプールに
果敢に急進していたら、作戦全体において英国に勝利はなかった。

◆マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官)

英印軍に非常に幸運だったのは、
日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。
すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、
そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍は
これを防ぐ方法は無かった。

◆アーサー・スウィンソン大尉『コヒマ』

牟田口の方が、実際には正しかったのである。
何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。
佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、
英軍は懸崖に立たされていたであろう。

◆スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当)

英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま一押しすれば
攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、
守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、
マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ。

◆アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当)

もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、
インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、
英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。

◆スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』

日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残し、
師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。
佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。

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【1944年(昭和19年)3月~7月初旬、インパール作戦】

援蒋ルートの遮断を目的として、
インド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦。

英国軍(15万人)は十分な兵站があったが、
日本軍(9万人)は、もともとギリギリの物資しかなく、
インパール作戦は最初から【迅速】を旨とする作戦であった。

出撃した日本兵9万人のうち3万人が戦死、4万人が戦病死した。

牟田口中将はインパールへの出撃に際し、

―――――――――――――――――
ここに諸氏に告ぐ。
河、山、錯綜せる密林など、いくたの障害あるとはいえ、
駿足にして無敵なる進攻のみが本作戦勝利のカギと知るべし。
―――――――――――――――――

と述べた。

昭和19年(1944年)3月8日、
牟田口中将によってインパール作戦は発動され、
一気にインドに駐留する英国軍を叩く作戦を決定。

牟田口中将率いる第15軍は出撃と同時に破竹の快進撃を行ない、
3月21日には宮崎繁三郎指揮の左突進隊が
ウクルル・サンジャックの英国第49旅団を潰走させ、
それに続く本隊がコヒマに肉迫。

コヒマは、ディマプールからインパールに通じる補給路の要衝である。

日本軍の猛攻に3月25日、英国のアジア総司令官マウントバッテン卿は、
ロンドンの英国統合本部に次のように打電した。
―――――――――――――――――
もはやインパール街道と、
ディマプール~コヒマ間の輸送路の持久は望み薄となった。
第4軍団および、スチルウェル軍との連絡も絶たれる可能性が高い。
唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すだけである。
よって、すみやかに第7師団をインパールに空輸せられたい。
―――――――――――――――――

その第7師団の空輸が始まった4月6日、
日本軍は疾風怒涛の快進撃でコヒマを占領。

コヒマの目と鼻の先、わずか2日の距離に
英国軍最大の補給基地ディマプールがある。

ディマプールを占領すれば日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、
戦いに必要な、あらゆる物資を確保することができる。

もし日本軍が、そのまま、すぐにディマプールを占領していれば
補給の問題は解決し、
インパール作戦は日本軍の大勝利に終わっていたはずであった。

英国のインド駐留軍第2師団参謀アーサー・スウィンソン著
『四人のサムライ』からインパールの戦いについて
―――――――――――――――――
当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった。
―――――――
当時のディマプールは全地域にわたって狼狽と混沌の中にあった。
何千という苦力が路地に群がっていた。
血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。
日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、
輸送車が無尽蔵にあったのだから牟田口は確かに勝っていた。
―――――――――――――――――

ここで予期しない出来事が起こった。

一刻の猶予もならないと煽る牟田口中将に対し、
コヒマ攻略隊の現地指揮官・佐藤幸徳中将が反発して進撃を停止、
命令に反して無断撤退してしまった。

日本軍は敵の補給基地ディマプールの奪取による圧倒的有利な戦いの
チャンスを逃し、以後、いっきに敗戦への道を転がり落ちることとなった。

戦後、なぜか命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が
「将兵1万の命を救った」と高く評価されているのだが、
実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、
あと2日の距離を急進してディマプールを占領していたなら、
まったく違う結果になっていた。

◆第33軍団司令官(ディマプール担当)ストップフォード中将

このとき、もし日本軍がコヒマからディマプールに
果敢に急進していたら、作戦全体において英国に勝利はなかった。

◆マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官)

英印軍に非常に幸運だったのは、
日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。
すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、
そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍は
これを防ぐ方法は無かった。

◆アーサー・スウィンソン大尉『コヒマ』

牟田口の方が、実際には正しかったのである。
何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。
佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、
英軍は懸崖に立たされていたであろう。

◆スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当)

英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま一押しすれば
攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、
守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、
マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ。

◆アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当)

もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、
インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、
英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。

◆スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』

日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残し、
師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。
佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。

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地図
http://blog-imgs-58.fc2.com/s/e/i/seitousikan/ipstz.jpg

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『ねずさんの ひとりごと』 「インパール作戦・・・続き」 を要約
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1170.html

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インパール 優しい日本兵 http://bit.ly/2lsMCVD
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-755.html

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インパール作戦
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-643.html

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2008/08/24 09:00|年表リンク用資料
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