●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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すばらしい日本
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ホームページよりもブログのほうが
簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
【1944年(昭和19年)3月~7月初旬、インパール作戦】
インパール作戦も援蒋ルート遮断を目的とした作戦でした。 日本軍はギリギリの物資しかありませんでしたが、 最初から迅速を旨とする作戦であり、 日本軍は疾風怒涛の快進撃で1944年4月6日にコヒマを占領しました。 コヒマの目と鼻の先、わずか2日の距離に 英国軍最大の補給基地ディマプールがあり、 ディマプールを占領すれば日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、 戦いに必要な、あらゆる物資を確保することができ、 もし、そのまま、すぐにディマプールを占領していれば 補給の問題は解決し、 インパール作戦は日本軍の大勝利に終わっていたはずでした。 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 英国のインド駐留軍第2師団参謀アーサー・スウィンソン著 『四人のサムライ』からインパールの戦いについて ――――――――――――――――― 当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった。 ――――――― 当時のディマプールは全地域にわたって狼狽と混沌の中にあった。 何千という苦力が路地に群がっていた。 血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。 日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、 輸送車が無尽蔵にあったのだから牟田口は確かに勝っていた。 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ ここで予期しない出来事が起きました。 一刻の猶予もならないと煽る牟田口中将に対し、 コヒマ攻略隊の現地指揮官・佐藤幸徳中将が反発して進撃を停止、 命令に反して無断撤退してしまったのです。 日本軍は敵の補給基地ディマプールの奪取による圧倒的有利な戦いの チャンスを逃し、以後、いっきに敗戦への道を 転がり落ちることになりました。 戦後、なぜか命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が 「将兵1万の命を救った」と高く評価されていますが、 実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、 あと2日の距離を急進してディマプールを占領していたなら、 まったく違う結果になっていたのです。 ◆第33軍団司令官(ディマプール担当)ストップフォード中将 このとき、もし日本軍がコヒマからディマプールに 果敢に急進していたら、作戦全体において英国に勝利はなかった。 ◆マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官) 英印軍に非常に幸運だったのは、 日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。 すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、 そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍は これを防ぐ方法は無かった。 ◆アーサー・スウィンソン大尉『コヒマ』 牟田口の方が、実際には正しかったのである。 何といっても正しかったのは間違いないのである。 これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。 佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、 英軍は懸崖に立たされていたであろう。 ◆スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当) 英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。 首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま一押しすれば 攻略は易々たるものであったのだ。 一方に、インパールの驚きは想像以上であって、 守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで 退却して後図を策するの是非を、 マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ。 ◆アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当) もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、 インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。 なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、 英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。 ◆スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』 日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残し、 師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。 幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。 佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 【1944年(昭和19年)3月~7月初旬、インパール作戦】 援蒋ルートの遮断を目的として、 インド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦。 英国軍(15万人)は十分な兵站があったが、 日本軍(9万人)は、もともとギリギリの物資しかなく、 インパール作戦は最初から【迅速】を旨とする作戦であった。 出撃した日本兵9万人のうち3万人が戦死、4万人が戦病死した。 牟田口中将はインパールへの出撃に際し、 ――――――――――――――――― ここに諸氏に告ぐ。 河、山、錯綜せる密林など、いくたの障害あるとはいえ、 駿足にして無敵なる進攻のみが本作戦勝利のカギと知るべし。 ――――――――――――――――― と述べた。 昭和19年(1944年)3月8日、 牟田口中将によってインパール作戦は発動され、 一気にインドに駐留する英国軍を叩く作戦を決定。 牟田口中将率いる第15軍は出撃と同時に破竹の快進撃を行ない、 3月21日には宮崎繁三郎指揮の左突進隊が ウクルル・サンジャックの英国第49旅団を潰走させ、 それに続く本隊がコヒマに肉迫。 コヒマは、ディマプールからインパールに通じる補給路の要衝である。 日本軍の猛攻に3月25日、英国のアジア総司令官マウントバッテン卿は、 ロンドンの英国統合本部に次のように打電した。 ――――――――――――――――― もはやインパール街道と、 ディマプール~コヒマ間の輸送路の持久は望み薄となった。 第4軍団および、スチルウェル軍との連絡も絶たれる可能性が高い。 唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すだけである。 よって、すみやかに第7師団をインパールに空輸せられたい。 ――――――――――――――――― その第7師団の空輸が始まった4月6日、 日本軍は疾風怒涛の快進撃でコヒマを占領。 コヒマの目と鼻の先、わずか2日の距離に 英国軍最大の補給基地ディマプールがある。 ディマプールを占領すれば日本軍は、糧食、武器、弾薬、ガソリンなど、 戦いに必要な、あらゆる物資を確保することができる。 もし日本軍が、そのまま、すぐにディマプールを占領していれば 補給の問題は解決し、 インパール作戦は日本軍の大勝利に終わっていたはずであった。 英国のインド駐留軍第2師団参謀アーサー・スウィンソン著 『四人のサムライ』からインパールの戦いについて ――――――――――――――――― 当時の状況としては、勝負はまったく髪の毛一本の競り合いだった。 ――――――― 当時のディマプールは全地域にわたって狼狽と混沌の中にあった。 何千という苦力が路地に群がっていた。 血走った眼の通信隊の列がぶつかりながら動いていた。 日本軍がディマプールを手中にすれば、そこには食糧、弾薬、ガソリン、 輸送車が無尽蔵にあったのだから牟田口は確かに勝っていた。 ――――――――――――――――― ここで予期しない出来事が起こった。 一刻の猶予もならないと煽る牟田口中将に対し、 コヒマ攻略隊の現地指揮官・佐藤幸徳中将が反発して進撃を停止、 命令に反して無断撤退してしまった。 日本軍は敵の補給基地ディマプールの奪取による圧倒的有利な戦いの チャンスを逃し、以後、いっきに敗戦への道を転がり落ちることとなった。 戦後、なぜか命令に逆らって無断撤退した佐藤幸徳中将が 「将兵1万の命を救った」と高く評価されているのだが、 実際に戦った英国軍側から見ると、このとき佐藤中将が、 あと2日の距離を急進してディマプールを占領していたなら、 まったく違う結果になっていた。 ◆第33軍団司令官(ディマプール担当)ストップフォード中将 このとき、もし日本軍がコヒマからディマプールに 果敢に急進していたら、作戦全体において英国に勝利はなかった。 ◆マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官) 英印軍に非常に幸運だったのは、 日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。 すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、 そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍は これを防ぐ方法は無かった。 ◆アーサー・スウィンソン大尉『コヒマ』 牟田口の方が、実際には正しかったのである。 何といっても正しかったのは間違いないのである。 これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。 佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、 英軍は懸崖に立たされていたであろう。 ◆スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当) 英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。 首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま一押しすれば 攻略は易々たるものであったのだ。 一方に、インパールの驚きは想像以上であって、 守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで 退却して後図を策するの是非を、 マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ。 ◆アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当) もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、 インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。 なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、 英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。 ◆スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』 日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残し、 師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。 幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。 佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 地図 http://blog-imgs-58.fc2.com/s/e/i/seitousikan/ipstz.jpg ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 『ねずさんの ひとりごと』 「インパール作戦・・・続き」 を要約 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1170.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 インパール 優しい日本兵 http://bit.ly/2lsMCVD http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-755.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 インパール作戦 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-643.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 |
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