正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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rekisisiranaiさんの「大東亜戦争に至るまでの解説」

rekisisiranaiさんが語った
「義和団の乱(1889年)~大東亜戦争に至るまで」

2003年、Yahoo!掲示板の「日本の戦争責任」というトピックに、
当時56歳のrekisisiranaiさんが52回にわたって投稿した記事を
Yahoo!ブログ版の『正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現』
のブログ主のcoffeeさんが保存していらっしゃいました。

現在すでに「日本の戦争責任」というトピックは消滅しています。

rekisisiranaiさんの歴史観が完全に100%正しいとまでは言いませんが、
とても、わかりやすい説明をされていて、
ある程度、歴史の流れが理解できる手助けとなりますので、
ここでも転載・保存させていただきます。

関連する本からも一部抜粋しながら、
coffeeさんの解説も合わせて転載させていただきましたので、
少し、ややこしくなっていますが御了承ください。

引用元のcoffeeさんの記事
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37940831.html

Yahoo!掲示板 「日本の戦争責任」 投稿者 : rekisisiranai

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◆義和団の乱 (=北清事変=中国では庚子事変という)

1899年外国人を襲撃する義和団の乱が山東省で起こりました。
乱はたちまち全土に広がり外国人にとって
さながら地獄図のような光景が眼前でくり広げられていたのです。

この時、清国政府は何もせず、逆に彼らを応援していました。
それどころか、義和団の勢いがよいと見るや、
義和団に味方し参戦したのです。

このままでは皆殺しになる。援軍を頼もうにも本国からでは間に合わない。
そこで日本に援軍の依頼が来ました。
ところが日本は「侵略の野心あり」と疑われてはと警戒し、
すぐには動きませんでした。

再三の要請を受けてから出動し乱を鎮圧したのです。
この乱の平定後、北清議定書によって、
列強各国に自国民の保護の為に中国への駐兵権が与えられました。

日本軍が中国に駐留していたのは、そういう理由からです。
別に日本軍だけがいたわけではありません、
イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア
・ロシア・オーストリアなど欧米列強は皆いました。

この後、辛亥革命で清国が滅びますと、
世は群雄割拠の時代となり、統一政府が無くなりました。

そうすると、軍閥があちこちで勝手な事をし、
住民からは勝手に税を取り立て、
若者を勝手に兵にとり、
あちこちで略奪、殺戮を繰り返すようになったのです。
ちょうどアフガンのタリバンのように。

そのような状況では、どこにも治安の維持は頼めません。
外国人は自国の居留民は自国の軍隊で護るしかなくなったのです。

中国では、昔から都市に軍隊が入ってくると、
略奪、放火、強姦、殺戮が行われていましたので、
各国の駐留軍はそれを防ぎ、あわせて中国人をも保護していたわけです。

当時の中国はタリバンと北部同盟が
争っているアフガンのようなものでした。

中国では租界の中だけが平和で、文化的な世界だったのです。
しかしこれは各軍閥にとって腹立たしいものでした。
なにしろそこに逃げ込んだ中国人からは税を徴収できないし、
なによりそこは彼らの力の及ばない所だったからです。

彼らは、何とかして、外国人の支配する租界を破壊し、
彼らの好む地獄へと引きずりおろそうと画策しました。
その為、彼らは外国人への悪宣伝を流し
中国人が外国人を憎むように仕向けたのです。

その結果、租界などで反外国デモや
ストライキなどが頻発するようになります。
その為、各国駐留軍は自国民の安全を守るために
余計にも警戒せざるを得なくなりました。

この外国人への悪宣伝は最初は欧米人が主でしたが、
次第に、日本へとシフトして来ます。
白人と日本人との間を分断して、
日本人だけを叩いた方が効率がいいからです。

日本人を攻撃しても、白人は知らん顔をしますから。

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『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)P43~45

義和団事件

閑話休題。雨に煙る田園を後にして北京に到着。
北京は埃と砂嵐の町、乾燥した平地と禿山の町、夏暑く冬寒い町である。
黄海までは160キロ足らず。港は天津郊外の大沽である。

1900年の夏、事件が起きた。
「義和団」という狂信的秘密結社が宣教師を殺害したことに触発され、
中央政府の守旧派が義和団に加勢して外国人排斥を企てたのである。
包囲された北京の公使館員の救出に、連合軍が大沽から北京へ進撃した。
救出軍が到着する前にドイツ使節を含む多くの外国人が惨殺された。

ところが救出軍を目にしたとたん、
中国側は政府軍も義和団も守備を固めるどころか、算を乱して敗走した。
事変後、平時における外国人殺害という、
国際儀礼違反に対して賠償を課された。

その7年後、アメリカは賠償金2千5百万ドルを
アメリカ国内に学ぶ中国人学生の教育に活かした。

ところで、西太后はじめ中国側は、
連合軍が当然の措置として首都北京を永久に支配するものと覚悟していたが、
思いもよらず赦免され、復権を許されたから驚いた。
アメリカをはじめとする連合軍は「略奪蛮行」と非難された。
中国人は「非常に寛大な措置」に大喜びした。
進言を受けて屠殺を命じた当の西太后は「お構いなし」で済まされた。
講和文は条約文書としては実に奇妙なものである。
まず友好だの親善だの美辞麗句を長々と連ねた前文があり、
続いて崇高な条文が来る。
西太后以外の虐殺実行者には「清王朝の恵み深き特赦により自決を許」
された。その他、外国人に「清朝の寛大さを示す」ための条文が作られた。

この事件の数年前(“後”の誤植だろうと思われる)までは
一応友好的で宣戦布告することがなかったので、
外国要人を襲い、武力紛争を起したことは忘れられ、
中国人は「平和愛好者」との評価を取り戻した。
メッキは剥がれるものである。
1927年、同じような事件が南京で発生した。
国民党の正式指令の下、小規模ではあるが、
あの「北京の包囲と屠殺」が南京で起こったのである。
この事件で殺害された者の中には英国領事館員も一人含まれていた。
南京は北京上海間にあるから運良く当時英米の砲艦が近くにて、
襲撃者を打ち払い、包囲されていた人を救出した。

ここ50年、中国で外国人の虐殺が起きるたびに
「今ここにこのような蛮行は終わりを告げた。
今後、中国人は平和を愛する責任ある近代国民になるのである。
よって、以後、中国人に悪意を抱くことは不親切であり且つ不当である」
と宣言する立派なアメリカ人が何人もである。

が、こういう立派な連中は墓穴を掘っているようなものである。
無知なアメリカ人は
「このような残虐行為は無教養なものやごろつき連中が
繰り返している仕業だろう」と思っているが、そうではない。
1900年の義和団事件と同じく、
れっきとした政府高官によって何度も繰り返されていることなのである。

第31代大統領ハーバート・フーバーは義和団事件の生き残りだそうである。
事件当時天津にいたそうだ。

閑話休題。義和団の蜂起は「義和団の乱」と言われているが、
私に言わせればネーミングミスである。
というのは通常、「乱」は「現政府に対する反乱」という意味で使われる。
ところが義和団事件ではあろうことか、
当の中国政府自身が義和団の初期の勢いに乗り、同盟を組んだのであるから。

政府に後押しされた群集が、防禦が整っていない外国人居住地を襲い
女子供までも殺害したとしても特段驚くことではない。
確かに1927年の事件以来、大きなことは起きていないが、
上海とて安全とは言えない。
というのは、外国人は一箇所にまとまっているわけではなく、
国際租界やフランス租界に散らばっていて、
その周りには中国人が数十万もいるからである。
ということは、一旦事が起こったら直ちに一塊になれる体制でないと
(南京ではそれができたので助かったが)、
砲火から守ることはできないということだ。

それにしても、なぜ中国人は外国人を虐殺したがるのであろうか。
それは、外国人が裕福であるからである。
また中国の指導層も同じで、略奪権を与えるのである。
もちろん、中国軍が自国民つまり中国人を襲うことは日常茶飯事で
あるばかりか、殺そうと何しようとまったく平気である。
外国人を狙うことはそう頻繁にあるわけではないが、
やっても捕まらないと判断した時、やるのである。
中国人に寛大な人が増えているから、ますます増長しているのである。

―――――――――――――――――

『シナ大陸の真相――1931-1938』 K・カール・カワカミ著

外交官としての経歴を歩みだしてまだほんの間もない頃、
私は北京で血の洗礼を受けた。
私は、男、女、子供を含めて全部で千人ばかりの外国人の一人であったが。
当時中国で猖獗を極めていた排外的狂信主義の生贄として、
まさに虐殺されようとしていた。

この武装した狂信者の集団は義和団(拳匪)という名で知られていた。
彼らの目的は中国にいる全ての西洋人
(彼らは日本人もその中にはいると見做していたのだが)
の根絶であった。そして彼らは、清朝政府自体の暗黙の奨励を受けていた。
彼らの最初の標的は外国の外交団であり、
公使館地区に包囲攻撃をかけてきたが、
そこには北京及びその周辺地域の他の全ての外国人が避難してきていた。

1900年6月11日から9週間にわたって、
この包囲された地域に銃弾と砲弾が雨霰とばかりに浴びせかけられた。
我々が死に直面していない時間は1分たりとて無かった。
我々の中に正規軍の兵士は百名そこそこしかいなかった。
残りは民間人で、彼らはできる限りの武器を手にとって戦いに加わったが、
残念ながらそのような武器は殆ど見つからなかった。
私は勇敢な人々が私の目の前で次々に倒れていくのを見た。
食料は僅かしかなかった。
弾薬は底をつき補充のあては無かった。
外部の兵力が我々の救援にやってくるという知らせは無かった。
状況があまりにも絶望的な様相を帯びてきたので、
我々防御側の仲間の一人であるW・A・P・マーチン博士
(彼は米人学者であり宣教師であった)は、
キリスト教列強諸国による中国分割を世界文明に促す
熱烈な訴えの手紙を書いたが、従来彼は最も熱烈な中国の共鳴者であり、
かつまた最も誠実な中国の友人であったのである。

だが神の摂理は、我々が全滅せぬことを願っておられた。
包囲攻撃が始まってから10週目の初めに、
多国籍軍(その9割は日本軍)が外壁を急襲して突破し、
公使館地区に突入して我々を死の淵から救い出したのである。
我々の一部が生き延びて救援軍を迎えることが出来たのは、
奇跡以外の何物でもなかった。

外国人に対するこのような殺戮の発生した原因はなんだったのか。
それは中国人の主権を列強諸国が侵害したことだ、と中国人は答える。
彼らは不平等条約を中国に押しつけ、関税自主権を奪ってしまった。
彼らは租界という形で治外法権区域を設定した。
彼らは無防備な沿海地域を砲撃し、何千という罪のない民衆の命を奪った。
これらのありとあらゆる蛮行を一体どうやって止めることが出来たのか。
それは外国人の鬼(中国人は欧米人と日本人をこう呼んだ)
を絶滅することによってのみ可能であった。
義和団事件はまさにその結果であった。
事変が平定されて後は、野となれ山となれであった。
外国人の鬼は根絶されなかった。

それどころか逆に、彼らは数が増え、さらに強大になった。
そして彼らは以前よりもっと我が物顔に振舞うようになった。
ますますひどくなる外国勢力の侵害の大洪水の中で、
中国国家という船は絶望的にもがき続けた。
一口に言って、中国は崩壊寸前だったのである。
中国自身の自立能力によってではなく、
中国の領土を保全しようとする列強間の合意によってのみ、
中国は分割されずに存続することを許されたのである。
中国史のこの恐ろしい悲劇的な1頁が教える教訓とは何なのか。
簡単に言えばこういうことだ。
つまり中国は外国人の邪悪な点だけを指摘して、
自分自身の間違いは何一つ認めようとしなかったのである。
中国は自分自身を世界に冠絶した国家であると考えて、
あらゆる非難を列強諸国に向け、自分自身を何一つ責めようとしなかった。

このような態度の中に、
日本のそれとは異なる中国の特異な国民性を探る糸口が見つかるであろう。
日本の対外関係を修正しようとして
私がささやかな役割を果たしたこの数十年間を振り返り、
日本が開国して間もない頃に外国の侵入勢力とぶつかった経緯は、
現在の中国のそれと全く同じであることを私は認めざるを得ない。

我が日本の無防備な海岸は外国の艦船に砲撃された。
不平等条約が日本に押しつけられた。
治外法権の恥辱の烙印が我々に押された。我々は関税自主権を失った。
我々が管轄している国土の中に、外国の租界が作られた。
一般的に、外国人たちは我々に対して殿様顔に振舞っていたのである。

このような状況を打開するために、我々はいかなる方法をとったか。
答えはただ一つ。つまり自己検証である。我々は自分自身の欠点を認めた。
我々は決して排外運動を煽り立てたりしなかった。
中国の義和団事変に相当するようなものは、日本では何一つ起きなかった。
外国人を大量虐殺するような試みはただの一度も企てられなかった。

その反対に、我々は西洋文明の優越性を率直に認めた。
喩えて言えば、我々は欧米と言う師匠の下で一つの国民として学校へ通い、
平和の技術さらには戦争の技術さえをも学んだのである。
中でも特筆すべきは、我々は新しい学校制度を発足させた。
若者の心に排外的な敵意を植えつけるのではなく、
彼らを戒めて欧米の輝かしい歴史を学ばせた。
高等教育機関が設立された。法律は成文化され、司法制度は再編成された。
全くの自己規律によって、我々は誘惑的な外国の阿片商人の侵入を撃退した。
国の隅々まで平和と秩序が行き渡り、外国人の生命と権利は完全に守られた。
こうなってから初めて我々は列強諸国に向かって要求した。
我々の成長ぶりを認識せよ、
我々が対等な関係で文明諸国の仲間入りするのを認めよ、と。
そして彼らはそれを認めたのである。

外国勢力の侵害を処理するにあたっての、
日本と中国のやり方の鮮やかな対比は、
「旅人の外套と北風」の古い寓話を思い起こさせる。
北風が旅人の背中から外套を吹き飛ばそうとして烈しく吹きつければ、
旅人はよりいっそう必死になって外套にしがみつく。
太陽が前から暖かい光で照らせば、旅人は自発的に外套を脱ぐ。
中国は北風のやり方を選び、日本は太陽のやり方を選んだ。
前者にとってその報いは、内部混乱と外国列強との断続的な抗争の期間が
いたずらに長引いただけであった。

後者にとっては、国内発展及びその結果、列強国家として
国際的に認められたということが、その報酬であった。
義和団事変以降、
中国が目覚しい発展を遂げたことについては何人も否定できない。
しかしながら中国の過去37年間の歴史を見ていると、
中国の特異な排外主義は形を変えて現れ続け、
その結果周辺諸国とりわけ日本との友好関係を損なうに至ってしまった、
という見解は正しいように思える。

その特殊な排外主義は、
中国が自分自身の国内に導入した共産主義の影響によって強められてきた。
何故ならばその影響の背後にあるコミンテルンは、
その思想と行動において明らかに排外的だからである。

新秩序及びその中国との関連についていくつかの言葉の意味は、
第1次大戦の激動で取り乱した世界にとって
徐々に明らかになったと我々は考える。

この新秩序は、
中国は外国人に対する原始的な憎悪を克服した近代国家であり、
国際的な義務を進んで守り且つ遂行できるということを前提としていた。
だがしかし、中国は近代国家ではなくて
未だに中世的な国家であることが明らかになった。
西洋教育を受けた中国の外交官たちは、九ヶ国条約を日本が侵犯している、
といって声高に非難する。

だが彼ら自身の政府は、条約義務の尊厳を守ったためしが殆ど無いのだ。
新世界の秩序は、大国であると小国であるとを問わず全ての国々が、
この条約が要求する義務を遂行できるようになって初めて維持されるのだ。

先ず第1に九ヶ国条約は、法律上正当な権利を守るために
列強が武力手段に訴えるのを差し控えるよう要求している。
第2にそれは、父親が自発的に鞭を捨てたのにつけこむ
腕白坊主のような真似をしないよう、小国に命じている。
もしも小国が、この新しい平和機構に隣国が拘束されているのを知りながら、
その機構のよって立つ基本原理を平気で茶化したりするならば、
その茶化された隣国に常に温和で寛容な態度を
保つよう期待するのは果たして妥当であろうか。
この問いかけにはきちんと答える必要がある。

枢密院顧問子爵 石井菊次郎

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「義和団の乱」(義和団事件)(北清事変)は、
世界の大国であったイギリスがアジアの片隅の日本を信頼すべき相手と認め、
日英同盟を生み出すきっかけとなった事件でもあります。

柴五郎中佐~日英同盟締結の影の立役者~

人物探訪:コロネル・シバ~1900年北京での多国籍軍司令官

義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の
中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog222.html

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1899年から1900年にかけて、中国では「義和団事件」
または「北清事変」と呼ばれる大きな内乱が発生した。

義和団はもともと「義和拳」と称する武術を修練する、
山東省西部地方の自衛団的な組織だったが、
山東省にドイツとキリスト教が進出したことに反発し、
外国勢力に対する過激な排斥運動を開始した。
山東省には孔子が生まれた曲阜があるため、
外国勢力やキリスト教に対する反発がとりわけ強かったとのみ方がある。
義和団は農民や労働者の加入で急速に拡大。

1899年末には「扶清滅洋(清を護持し、外国を滅ぼせ)」
のスローガンをかかげて、河北省に進出。
各地の教会を焼き払い、宣教師や教徒を殺害した。

一方、戊戌の政変で清朝の実権を掌握したが
諸外国の反対で光緒帝を廃位できなかったことに
不満を持っていた西太后は1900年1月、
義和団を保護するよう勅令を出させた。
1900年6月10日、義和団は北京に入城。清朝正規軍の一部も合流した。

翌11日には日本の外交官を殺害、13日には北京各所で教会を襲撃した。
北京は義和団であふれかえり、その数は最大事に20万人に上ったという。
これに対し、日本、ドイツ、イギリス、ロシア、アメリカ、
イタリア、フランス、オーストリア
の8カ国は6月初旬、連合軍を結成した。

当初は2000人程度の兵力で苦戦したが、
いったんは義和団の解散を命じた西太后が態度を一転させ、
列強に宣戦布告すると兵力2万人に増強した。
その後も増強は続き、最大で7万人以上になった。
連合軍は7月に天津、8月に北京を占領。義和団の乱は制圧された。
西太后は光緒帝を伴い北京を脱出し、10月に西安に到着。

なお、脱出の際に宦官に命じ、光緒帝の愛妃だった珍妃を殺害させた。
北京を占領した連合軍は各所で略奪を開始。
頤和園も略奪と破壊の対象になった。
1901年に北京議定書が結ばれ、清は列国への賠償金の支払いなどを認めた。
賠償金は利息を含め清朝の歳入の10倍以上の9億8000万両に上り、
取り立ての対象となった庶民の間に反清感情が高まる結果となった。
また、清朝は関税収入や塩税を差し押さえられ、
北京や天津への外国軍の常駐を認めさせられるなど、
独立国として体裁を保てなくなった。

―――――――――――――――――

1899年~1900年、武装した狂信者の集団・義和団(拳匪)が
支那在住の外国人を大虐殺した。
乱はたちまち全土に広がり外国人にとってさながら地獄図となった。
このままでは皆殺しになるものの、
援軍を頼もうにも本国からでは間に合わない。
そこで日本に援軍の依頼が来たが、
日本は「侵略の野心あり」と疑われてはと警戒し、
すぐには動かず、再三の要請を受けてから出動し乱を鎮圧した。
上のニュースでは、
「北京を占領した連合軍は各所で略奪を開始。
頤和園も略奪と破壊の対象になった。」
と記述されているが、日本軍だけ略奪に参加しなかった話は有名だ。
義和団事件後に結ばれた『北京議定書』によって、
当時マトモな警察がなかった支那に代わって
外国の軍隊が支那に駐屯して支那の平和と秩序を維持することとなった。
したがってである。
「日本軍が支那に居て支那で戦争が行われたのだから、日本の侵略だ。」
という大馬鹿どもが後を絶たないが、
それはただ単に大馬鹿どもが無知なだけ。
今、自衛隊が在日米軍や在日アメリカ人を攻撃すれば、
日本国内でアメリカと日本の戦争が始まるが、
その場合には「アメリカの侵略だ」と言えないのと同じこと。

―――――――――――――――――

義和団事件後の処理

「義和団の乱」で、支那人たちが
北京などに駐在していた外国人を大虐殺した。
北京などで自国民が大虐殺された列国は、連合軍を派遣し、
ようやく支那人どもによる外国人大虐殺事件を鎮静した。

そのときに列国と清国と結んだ講和議定書が「北京議定書」だ。
――――――――
北京議定書
北京-山海関の12の要地における外国軍の駐屯
――――――――
この「北京議定書」は、
英・米・仏・露・独・墺・伊・白・西・蘭・日の11カ国と締結され、
外国の軍隊が支那に駐屯し、支那の警察の役割を務めることになった。

よって、日本も北京-山海関の重要な地域に
日本軍を駐屯させる権利を持っていた。
日本の支那駐屯軍は、港が近い天津に軍司令部を置き、
そこに支那駐屯歩兵第1連隊第2大隊、支那駐屯歩兵第2連隊等を配置。
また、北京には北平部隊が置かれ、
支那駐屯歩兵旅団司令部および支那駐屯歩兵第1連隊等が配置され、
その他、通州、豊台、塘沽、唐山、樂州、
昌黎、秦皇島、山海関にも部隊が配置されていた。

要するに、当時、支那にはマトモな警察がなかったから、
義和団事件のような支那人による在支外国人大虐殺が起こったのであり、
支那の警察の代わりに外国の軍隊が支那に駐屯して
支那の治安と平和の維持を担うことになった。

その後30年以上経っても、
支那にマトモな警察がなかった状況は改善されなかったので、
結局、各国の軍隊は第2次世界大戦まで駐屯し続けることとなった。

まずは、この事実をしっかり認識しなければ、
1937年から始まった支那事変のことも全く理解できなくので要注意。

『北京議定書』(北清事変に関する最終議定書)(辛丑条約)
1901年9月7日調印
【北京・山海関間の鉄道の保全、並びにこの間に居住する居留民の保護】
(北京と海港に至る交通通信の確保居留民の保護)のために
駐兵(及び演習)することになった。

明治三十四年義和団事変ニ関スル最終議定書
千九百一年(明治三十四年)九月七日北京ニ於テ調印
同年十二月二十八日公示
http://www.geocities.jp/bluemilesjp/2.html

第九条
清国政府ハ千九百一年十一月十六日ノ書簡ニ添付シタル議定書ヲ以テ
各国カ首都海浜間ノ自由交通ヲ維持セムカ為メニ
相互ノ協議ヲ以テ決定スヘキ各地点ヲ占領スルノ権利ヲ認メタリ
即此ノ各国ノ占領スル地点ハ黄村郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、蘆台、
唐山、礫州、昌黎、秦皇島及山海関トス

BOXER PROTOCOL (PEKING)
Peking, September 7, 1901
http://web.jjay.cuny.edu/~jobrien/reference/ob26.html

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◆中国の反日策謀

中国は1894年の日清戦争で負けた後、
日本に取られた領土を取り返すべく、欧米列強に働きかけました。
いわゆる“夷を以って夷を制す”です。

そして1895年に三国干渉でうまく遼東半島を取り返したのですが、
その代わりドイツに膠州湾と青島を、イギリスに威海衛と九龍を、
ロシアからは遼東半島の旅順と大連を、
フランスからは広州湾を租借させられました。

その後1896年、中国はロシアと日本を仮想敵国とした秘密同盟条約を結び、
ロシアに満洲での鉄道敷設権やその他の権益を与えます。
この条約によって中国は日露戦争の前から最中にかけて、
ロシアに有利な秘密の援助を与えました。
日露戦争の最中、新民屯の営長をしていた張作霖が
ロシア軍の食料・弾薬の輸送をしていて、日本軍に捕まります。
彼は死刑になる所でしたが、
井戸川少佐と田中義一中佐(後の首相)の嘆願で助けられました。
田中義一氏と張作霖の二人は後に満洲問題で関わってきます。

その次に、日露戦争で日本が勝ち満洲の利権を手に入れると
中国は、それを妨害する工作に出ました。
1906年 日本が南満洲鉄道株式会社を設立するや、
翌年には英国にファークメン鉄道の契約を持ちかけ、
日本の企業を無力化させようと企んだのです。
もっともこれは英国が日英同盟のよしみで受けなかった為、
陰謀は失敗しますが。
中国の妨害工作が、余りに露骨で執拗なため、
日本は遂に対華二十一か条の要求を出さざるを得なくなりました。
その目的は中国に侵害されかけている満州の利権を
保護することにあったのです。
要求は第1号から第5号まで、大別して5項目に分かれていますが、
加藤外相の本命は第2号の満蒙問題でした。
この要求に、元老・軍部・財界などが
それぞれの要望を付け加えた為21ヶ条に膨んだのです。
そして、この中の第5号が悪名高い項目です。

しかしこの第5号(希望条項)も
元老の反対で締結2日前には削除されました。
袁世凱は、これを受諾するにあたり
「日本の方から最後通牒のようなものをつき突付けてくれ」
と要求したのです。
その方が呑みやすくなる。
脅されてやったのなら国民に言い訳がたつというものです。
そんな事を言われて
「ハイそうですか!」とやる日本人もどうかと思うのですが。
ナイーブというか馬鹿というか。
お陰で日本人は完璧に悪者にされてしまいました。
もっとも、こういうやり方は中国の常套手段で、
後で何度も同じ事が出てきます。

そして中国はこれを反日宣伝に大いに利用しました。
結果、中国人の間に反日感情が高まります。
1919年1月中国はベルサイユ会議で
21ヶ条条約の破棄を訴える行動に出ました。
しかし、これが通らないとなると、
次は、5月4日学生を主体とする反日運動を起こし全国的に拡大しました。
その後1921年のワシントン会議で
「条約国が中国に特殊利益を獲得する行為を認めない」 
という9カ国条約が結ばれ、日本は譲歩して21ヶ条問題を片付けました。

しかし中国は排日運動を強め、1928年5月、南京の国民教育会議で

一、国家の屈辱に関する豊富な資料を、
中学校及び小学校の教科書に載せる事。

二、我らの国家的屈辱に関する事実を宣伝し、
どの国が中国の最大の敵であるかを国民に印象付けるために、
あらゆる機会を用いて学校を利用すること。

三、四、五、……略

などの決議を採択しました。

この中の「最大の敵」とは日本の事です。
尤もその前から幼稚園の本には
「日本は敵国だ。…侵略国だ…」とあったそうですけど。

こうやって、反日教育を受けた子供が大人へと育っていき
日本人への憎悪を醸成するわけです。
そして、このような排日・侮日の悪宣伝を信じ、
激昂した者が居留日本人を襲撃するようになります。

大部分は(K・カール・カワカミ著『シナ大陸の真相』)より引用

なお、この中国の反日の裏にはソ連の工作もありますので、
次はソ連の反日工作について紹介します。

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1915年5月9日、袁世凱政権は日本政府の「対華21ヵ条要求」を受け入れた。
「21ヵ条要求」は第一次世界大戦中の1915年1月に
日本が中国に提示した要求。以下の5号21ヵ条からなる。

◆山東省のドイツ権益の日本への譲渡(第1号)
◆南満州および内モンゴル東部における日本の特権の承認(第2号)
◆漢冶萍煤鉄(かんやひょうばいてつ)公司の日中合弁化(第3号)
◆中国沿岸の港湾・島嶼の他国への不割譲・不貸与(第4号)
◆日本人を中国政府の財政及び軍事顧問として招くこと(第5号)。

第5号は日本側が秘密条項にすることを希望したが、中国側は暴露。
日本は米国などから強く非難されることになった。
このため日本は第5号を撤回したが、他の条項の受け入れを強く迫った。

中国側は5月9日、第1-4号条項を受け入れたが、
国内で自国政府を非難する愛国運動が盛り上がり、対日感情も一層悪化した。
国民は要求を受諾した5月9日を「国恥記念日」と呼んだ。

第一次世界大戦終結のため、1919年に開かれたパリ講和条約で、
中国は「21ヵ条要求」の無効を訴えたが認められなかった。

同会議としても山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐことを認める運びに
なったため、中国の多くの民衆は激怒。

「21ヵ条要求」は結果として、同年5月4日に始まった五四運動など、
長期にわたる反日感情の悪化と抗日運動激化のきっかけになった。
(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)

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『孫文全集』より抜粋要約

二十一箇条条約の歴史に付いて略述する

多くの人は21か条要求を日本の中国侵略の現れだと思っている。
もし、それが本当であれば、
統一中国は、日本の圧迫に対抗すれば良い訳である。

ところが、この問題は中国側から起こったというのが事実である。
すなわち、袁世凱は、このような過大な特権を日本に承認する代償として、
日本に自分が皇帝になることを援助させようとしたのである。

当初、日本は、このような激烈な要求を出すことに、しりごみした。
当時の外相加藤高明は、袁世凱が要求を呑むかどうかを仔細に観察し、
呑むことを確認した後、絶対に秘密を守ることを要求し、
日本側が提出するまでは内容を漏らすことを禁じたのであった。

ところが、提出後、新聞に載り、
中国はもとより外国や袁世凱の部下までもが反対をした。
袁世凱は日本に対して終始この要求内容を堅持することを求め、
必要ならば日本軍を出兵して武力を誇示することを求めた。

そこで、日本は袁世凱の画策に従って中国に派兵したのである。
当時の日本人も日本政府の暴挙を攻撃したが、
政府はおかしな言い訳しか出来なかった。

一方、中国においては、袁世凱は日本の派兵を威嚇行為であるとし、
中国人に彼を信じさせようとした。
すなわち、21か条要求を承諾しなければ、日本は武力行使をするであろうと。

この袁世凱の深い密謀は、従来中国民衆が知り得なかったものである。
当時世論は、日本政府の大失態とし、加藤外務大臣は辞職。
中国側においても全体が一致してこの事に反対したが、
袁世凱は当時の首相(現北京総統)の徐世昌と外交総長の陸徴?に、
無理に中国を圧迫するこの協定に調印させた。
このため21か条条約は既成の事実となって、
日本人も重ねて政府を責めないようになった。

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『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)P256~258

二十一ヵ条要求の背景

世界中が戦争に巻き込まれていた1915年、
日本はこれを好機と捉え失地回復を図った。
二十一ヵ条からなる文書を認め、中国代表団に提示した。
いわゆる「二十一ヵ条要求」である。

確かに「要求」といわれれば「要求」かもしれない。
全容は明らかにされなかったが、日本が最も力を入れたのは、
1923年に期限切れとなる鉄道の租借期限の延長であった。

これを知ったアメリカがまず日本非難に回り、
列強も同調したので要求を幾分和らげることとなった。

これは交渉に当たった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、
内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、
調印に同意していたそうである。

ところが、中国側はこう持ち出してきた。
「内容はこれで満足だが『要求』ということにしてくれまいか。
そうした方が見栄えがする。
やむなく調印したのだという風にしたいのだが」と。

これを受けて日本側は「その方が良いならそういたしましょう」と言って、
高圧的な態度に出るふりをした。
それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。
裏でかなりの金が動いたであろう。
中国との交渉事は金次第とみてきたからである。

ところが今回は計算違いだった。
「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、
中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。
ところがアメリカがこれに噛み付いた。
「哀れな中国に、過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、
同情が湧き上った。

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『シナ大陸の真相』 K・カール・カワカミ著(1938年)

中央であると地方であるとを問わず
中国当局が余りにも妨害政策を推進したために、
日本は1915年に中国に対して
「21ヶ条要求」を提出しなければならなくなった。
この要求に関しては中国の宣伝によって余りにも大きな騒ぎが生じたために
その本質がかすんでしまうほどであった。
この21ヶ条要求(本質的な狙いは満州の日本利権の保護)は、
中国に侵害されかけているこの地域での日本の足場を確り固めようと言う
意図の下に考えられた警告手段以上の何ものでもなかった、
というのが真相である。
(中略)
21ヶ条要求が出されたとき日本側の責任者であった外務大臣の加藤伯爵の
伝記の中に、1915年の交渉のときに日本政府が最後通告を出すことを
中国側代表が非公式に求めてきた、と記されている。
その理由は、そうすることによって袁世凱大統領が条約により調印しやすく
なり、彼の政敵に対するもっともらしい言い訳を与えてくれるからだ、
というのだ。

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『シナ大陸の真相』K・カール・カワカミ著 P121~128

1925~27年にかけて幼稚園から大学に至るまであらゆる教育機関が、
日本に対する敵意を幼児や若者の心に注入するために利用された。
これは国民党が蒋介石の指導の下に1927年南京に政府を樹立した時、
とりわけ顕著になった。
1928年5月、南京の国民教育会議は次の決議を採択した。

1.国家の屈辱に関する豊富な資料を、
中学校及び小学校の教科書に載せること。

2.われらの国家的屈辱に関する事実を宣伝し、
どの国が中国の最大の敵であるかを国民に印象付けるために、
あらゆる機会を用いて学校を利用すること。

3.国家の屈辱の描いている地図と絵を用いること。
そしてあらゆる機会を利用して生徒の注意をそれらに向けさせること。

4.中国の最大の敵を打倒できる方法を、教師と生徒は共に学ぶこと。

この計画の中にある中国の「最大の敵」とは日本を意味していた。
この計画が採択される以前においてさえも、
幼稚園の本には次のような言葉が載っていた。
日本は敵だ!日本は中国から澎湖諸島と台湾を奪い、遼東半島を奪った。
日本は侵略国だ。国民政府は、日本の侵略を阻止し
これらの領土を取り返すことを目的とする政府だ。
これと同じ話はあらゆる教育機関で、別の言葉で繰り返し述べられている。
実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称をつけたことは
これまで一度もなかった。
台湾(フォルモサ)は1894年の日清戦争後に日本へ割譲された。
遼東半島は1904~5年の日露戦争後に、
日本が中国からではなくロシアから獲得したものである。
(中略)
例えば1936年8月、2人の日本の新聞特派員
(大阪毎日と東京日日の外国関係ニュース担当)
が投石され、刺され、物を奪われた上に殺害された。
その犯人は四川省成都の暴徒と化した少年少女である。
(中略)

▲北支

1、1935年5月、日本贔屓の傾向のある2人の
中国人新聞編集者が天津で殺害された。

2、1935年8月、満州国国境から天津に向け走行中の
満州国・中国国際列車が匪賊に襲撃された。
調査により判明したところでは、
彼らは天津の反日組織に扇動されていた。
約20名の乗客が殺害された。

3、1935年12月17日、
天津の日本軍守備隊総司令官多田陸軍中将の
邸宅に爆弾が投げ込まれ、中国人召使が負傷。

4、1936年1月2日、天津付近のタークーで
2軒の日本人商店が中国正規兵により略奪された。

5、1936年6月19日、
山東省防東で日本人が中国人に射殺された。

6、1936年6月26日、北京付近で中国正規兵が、
豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士を襲撃し重傷を負わせた。
それに対する謝罪を要求して中国軍兵営に赴いた日本陸軍大尉が
中国兵に刀と銃剣で斬りつけられた。

7、1936年7月22日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、
天津の日本総領事館に勤務する2名の警官を
領事館前で銃撃。1人死亡、1人重傷。

8、1936年8月23日、河北公共治安部隊の数名の兵士が、
天津の日本語学校を襲撃し略奪。日本人教師に暴行を加え拉致。

9、1936年10月、反日組織に扇動されたストライキが発生。
山東省青島の日本人経営の紡績工場が2週間閉鎖。

10、1937年5月23日、満州国大連沖で操業中の日本漁船2隻が、
中国の税関パトロール船に発砲された。
中国人税関警備兵がこの日本漁船に乗船し捜索したが、
犯罪に関するものは何も発見されなかった。

11、1937年6月1日、
中国人暴徒が天津付近の日本人経営の農場敷設を襲撃。
1つの倉庫と3つの住居に放火し、多数の日本人従業員が負傷。

▲中支

1、1935年11月9日、
日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。
(本件に関しては第8章で詳細に述べる)

2、1935年12月20日、漢口で大規模な反日デモ。

3、1935年12月21日、
約1千名の中国人学生が「日本帝国主義を倒せ!」
「全ての日本人を上海から追い出せ!」
と叫びつつ反日ビラを配布し、上海国際租界の中心部を行進。

4、1935年12月26日、
上海国際租界にある日本海軍の本部公館に爆弾が投げ込まれた。

5、1936年1月7日、3千人の学生が南京の孫文墓地に集まり、
反日デモを行った。
同時に、南京の日本総領事館前でもデモが行われた。

6、1936年7月10日、
東京三井物産上海支店の日本人社員が国際疎開で射殺された。

7、1936年7月18日、
中国人暴漢が日本人を殴打し、重傷を負わせた。
日本人の女や子供に投石する事件や
上海の中国人が日本人に対して行う暴力行為は、
日を追うにつれ増加。
短期間にそのような事件が20件以上も報告されている。

8、1936年8月7日、
南京の日本総領事館の松村秘書官が上海に到着した際、
彼の外交上の地位を承知の上で、
中国人税関職員は彼の携行していたかカバンの中を調べた。

9、1936年8月24日、
四川省成都で大阪毎日及び東京日日の特派員と
もう1人の日本人新聞特派員が
1万人の中国人暴徒(その大部分は少年少女)に襲われ、
最も残忍なやり方で殺され、他の2人の日本人が重傷を負った。
中国当局は暴動を抑えるための手段を何ら講じなかった。
南京の中央政府も同様に無関心だった。
四川省当局は必死で証拠隠滅を図り、
日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害。
日本の度重なる抗議の後8月26日、
国民政府は行政部門の特別会議を招集し、
日本国籍をもつ者に適切な保護を与えるよう
各地方長官に命令を出した。

10、1936年9月19日、
漢口の日本領事館の警官が中国人に射殺された。

11、1936年9月23日、
日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。
他の2人の水兵は重傷を負った。

12、1936年9月26日、
湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に中国人暴徒が放火。

13、1936年9月29日、
長沙の日本総領事館に爆弾が投げ込まれた。

14、1936年10月、
上海の中国警察による日本人の女や子供の逮捕・拘留が
気紛れの不法状態で行われる事件が増加。

15、1936年11月11日、
日本の汽船会社の日本人船乗りが上海で射殺された。

16、1937年2月13日、
漢口で日本人実業家の妻が中国人に襲われた。

▲南支

1、1936年1月6日、汕頭で2千人の中国人中学生が、
対日戦を要求するデモ行進を行った。

2、1936年1月21日、
汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が、
出勤途中中国人に射殺された。

3、1936年1月、
中国警察と税関警備兵が広東の36ヶ所の中国人事務所を襲い、
日本商品を没収。

4、1936年7月3日、広東の中国人商店は反日組織により、
日本商品ボイコット相互組合に加入することを余儀なくされた。

5、1936年9月3日、広東省パクホイで日本人薬局経営者が、
19路軍の中国人兵士に惨殺された。
暴徒が薬局を急襲した時、家族は夕食中であった。
経営者(中野)は街路に引きずり出され、
殴るけるの暴行の上殺害された。
その間、彼の中国人妻は筆舌に尽くしがたい虐待を受けた。
店は完全に略奪された。
広東の日本領事館職員が事件の調査のため汽船でパクホイに赴いたが、
19路軍が力ずくで上陸を妨げたため広東に戻らざるを得なかった。
そこで20日間足止めを食い、ようやくパクホイに入ることができた。

6、1936年9月6日、汕頭で反日デモが発生。
日本人経営の商店で働く中国人が退職を余儀なくされた。

7、1937年3月、
広西省当局は反日感情を煽り立てる目的のためだけに、
全ての日本人を広西省から追放した。

8、1937年5月22日、
汕頭の日本領事館に勤務する警官が中国警察に滅多打ちにされた。

―――――――――――――――――

支那事変前の外国人虐殺

1899年、義和団の乱。
義和団(拳匪)が、在留外国人を大虐殺。清朝政府は暗黙の奨励。

1927年3月24日、南京事件。
蒋介石の北伐軍が日本領事館を襲撃。英・米領事館なども同様で、
英と米は自国民の保護のために軍事行動に出たが、
日本は幣原喜重郎の対支宥和政策によって現地の日本人を見捨てた。

1928年5月3日、済南事件。
北伐軍が済南の日本人居留民十数名を虐殺。
略奪被害戸数136、被害人員約400。
中国側も立ち会った済南医院での日本人被害者の検死結果。

●藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。

●斎藤辰雄
顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。

●東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。

●東条キン(女性24歳)
全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり。
両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。

●鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創。

●井上国太郎
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。

●宮本直八
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による 切創。陰茎切除。

●多比良貞一
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。
腹部を切り裂かれて小腸露出。

●中里重太郎
顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。

●高熊うめ
助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。
右脚の白足袋で婦人と判明した。

●ほかの二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、
人定は不可能であった。
http://www2.odn.ne.jp/~cjj28150/seinan-shiryou.htm

1936年
6月19日、山東省防東で支那人が日本人を射殺。
7月10日、上海国際租界で三井物産の日本人社員が射殺される。
8月24日、四川省成都で大阪毎日新聞上海特派員渡辺洸三郎と上海毎日新聞
記者深川経二の2名が、支那人少年少女らに極めて残虐に殺される。
9月3日、広東省北海で19路軍の支那兵が、
薬局経営者の中野順三を街路で殴る蹴るの上虐殺。
11月11日、汽船会社の日本人船乗りが上海で射殺される。

幣原喜重郎の対支宥和政策で
図に乗った国民党は反日教育を激化(1927年頃)、
1936年頃の殆どの外国排斥テロは日本向け。

▲中国の民衆大虐殺は戦後も

1947年、2.28事件。
国共内戦に敗れた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、台湾民衆を大虐殺。

1949年に国共内戦が沈静化した後も共産党は国民党員とその家族を処刑。
毛沢東は、1957年2月27日、
「1949年から1954年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べた。
(ザ・ワールド・アルマナック1975年版)
周恩来は、同年6月、全国人民代表大会報告で、
1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、
16%にあたる83万人を処刑したと報告。
ただ、強制収容所で衰弱死させた知識人の数は、処刑した人数の何倍もいる。

大躍進政策で数千万人餓死

文化大革命の10年間で2,000万人殺害
(葉剣英・全人代常務委員会委員長の証言)

1989年6月4日、天安門事件。
民主化を求めて集まった学生や市民に対して
人民解放軍が戦車などで約3万人(国際アムネスティなどの推定)を大虐殺。

天安門事件
http://megalodon.jp/?url=http%3A%2F%2Fwww.boxun.com%2Fhero%2F64%2F52_1.shtml&date=20061025212351

▲共産中国に編入されている他民族虐殺。
チベット大虐殺  130万人
東トルキスタン大虐殺 40万人
モンゴル大虐殺 20万人

▲中国の民衆虐殺は現在も続行中

2004年
10月、四川省で土地の補償をめぐり農民ら10万人の暴動(死者1万人か)

2005年
4月中旬、浙江省で5万3千人の革命暴動が発生し市民137人死亡。
6月11日、河北省で立ち退きを拒否した数百人の農民を
武装集団が襲撃、6人が死亡。
12月6日、広東省で武装警察が、
発電所建設に抗議していた住民70人以上を射殺。

2006年
1月14日、広東省で土地収用に抗議する約2万人を
警察が電気警棒や催涙ガスで制圧、13歳の少女1人死亡。
4月12日、広東省で水門取り壊しを阻止する約5千人を
武装警察約3千人が催涙弾等で攻撃、女性1人死亡。
8月2日、湖南省で補償金が不正流用されて
集団直訴した住民100人以上を射殺か?

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◆ロシア・ソ連の反日工作

ロシアは日清戦争の翌年、日本を仮想敵国とした秘密同盟条約
リーフンチャン・ロバノフ条約を中国と結びました。
日本に負けた中国を利用しようという魂胆でしょう。
この条約によって中国は日露戦争前後の数年間、
日本の不利になるような秘密の援助を与える事になります。
日露戦争で日本が勝ち、ロシア革命が起ると、
ロシアの工作は終わりますが、変わって、今度はソ連の工作が始まりました。

ソ連は、中国に1924年国民党の軍官学校を設立させ
校長に蒋介石を任命しました。
ソ連大使館付武官室は
「この学校は我々の提案で設立され、我々の資金で維持されて来た。
1924年10月、この学校に約千名の学生がいた」と報告しています。

つまり国民党の軍官学校は最初からソ連の息が掛かっていたわけです。
そしてソ連は、1925年1月モスクワに中国人学生のための
中山大学を設立しました。
この学校は中国人の入学だけを認めており経費は全て支給されるものです。
これにより毎年数百名の共産主義者が祖国へ送り返され、
コミンテルンの下で働くことになりました。
彼らは、田舎で農民を集め集会を開き、
地方都市でしばしば暴動を起こしただけでなく、
大都市の外資系企業で盛んにストライキを頻発させました。

日系企業では、内外綿第五、第八工場、東洋紡績上海工場、
青島の日本紡績工場などでストが起きています。

5月14日に 内外綿第七工場でのストライキ中、
警備員が発砲して労働者顧正紅が死亡しました。
これに抗議して学生たちがデモを行うと、
イギリス警官隊が発砲し13名の死者を出したのです。
その為、上海の労働者・学生・商人が抗議ストを行い、
各地に反帝国主義運動が波及しました。

これだけを見ると普通の抗議行動のように見えますが
実はこれも仕組まれていたようです。
彼らを煽動したのは陳独秀という共産党員で、
彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が
控えていたという事です。
この宣伝工作活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてた報告書には
「綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、
モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていた、
この事件をうまく利用するために43万ドルのソ連資金が使われた」
ことなどが示されていました。

また1926年12月に 大使館付武官へ送られたソ連政府の指令は 
「…列強間における現在の敵対関係を維持していく事も極めて大切である。
とくに短時間で中国に大軍を動員できる日本を孤立させておく事は、
とりわけ大切である…」と言っています。

そして、1936年5月16日、
コミンテルン上海本部は天津に次のような指令を出しました。

一、天津のヤチェイカ(共産党細胞)は、
共産主義を通じて北京~天津地域の学生たちの間に、
日本軍の北支守備隊の増加と日本の密輸活動に関する暴露運動を行い、
反日感情をかきたてなければならない。

二、夏休みの間に学生たちを動員して農村へ行かせ、
農民たちの間に反日感情をひろめるために講義を行わせる事。

三、反日運動とボイコットを同時に行う事。
ボイコットを実施するためには密輸問題を取り上げて、
北支で出回っている日本製品は全て密輸品であると言わねばならない。
こうすれば、日本製品に対する反感が
広範囲にわたって引き起こされるだろう。
同時に、日本製品を買う者に対して南京政府は罰則を用意している、
という声明を出すことによって、日本製品の購入を阻止するよう努めること。

この記述の大部分は(K・カール・カワカミ著『シナ大陸の真相』)
よりの引用です。

そしてこの次に来るのが「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」
というわけです。
この様に、ソ連は、早くから中国を操り、反日を煽っていました。
次は、この排日運動が元で起こる、第一次南京事件を紹介します。

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◆第一次南京事件

昭和元年(1926年)蒋介石は、
他の軍閥を倒して中国を統一する為、北伐を開始しました。
この北伐は中国の国内問題ですから、日本としては干渉する気はありません。

ただ一つ問題があります。それは中国軍の常として、
軍が都市を通過する際、
略奪・強姦・殺戮・放火など乱暴・狼藉を働らく事です。
従って警戒しなければなりません。

ところが南京の森岡領事は、今の平和主義者と全く同じ考えで
《こちらが善意で接すれば、相手も善意で返してくれる》
と信じている人でした。
だから《過度に防備を備えて相手を刺激してはいけない》
と考えていたのです。

その結果どうなったか、そこの所を児島襄著『日中戦争』で見てみましょう。

森岡領事は、国民革命軍が入城した以上「十中八九危険は去った」と判断し、
荒木大尉に"武装"の撤去を求めた。
午前七時ごろ、約三十人の国民革命軍兵士が訪れ、
敗兵の所在を訊ねたが、不在と聞くと黙って去った。

日本人一同が安心していると、
約三十分後、五十人程の兵士が「疾風の如く」領事館に乱入して、
警察署長木村三畩の所持品を奪い左腕に貫通銃創を負わせた。

同時に居合わせた陸軍武官根元博少佐も腰を銃床でなぐられ、
署長と少佐は領事の病室に避難した。

二人が逃げると呼笛が鳴らされ、
すかさず平服の女性と青年を先頭にした兵士達約二百人が
喚声をあげて領事館内になだれ込んだ。
掠奪品運搬の為、トラック、馬車、人力車までが続行した。
暴兵と暴民は荒れ狂った。

館内の隅々まで先を争って走り込み、
トランクを開け戸棚を壊して物品を掠奪した。
男女の別なく衣服を奪われ財布・時計・指環は例外なく奪取されたほか、
次々に衣服をぬがされて身体検査をされた。
女性の場合は下着までぬがされて「忍ブベカラザル」検査さえされた。

森岡領事は荒木大尉を自室に呼び
「気の毒ながら各兵の階級章及び帽子の如き標識を一時取り去られたし」
と言った。
荒木大尉は血相を変えた。
国民を外敵から守るのが軍人の本務、
それを戦うなと言うだけでなく軍装まで解けと言う。

「度を過ごしたる無抵抗主義」は、
却って相手の増長心を刺激し暴行を激化させる。
そう思ったが「在留民の生命が風前の灯だから」
と病床に深々と頭を垂れる領事を見て承知した。
森岡領事の病室にも暴兵が乱入し、
室内の品を奪ったあと領事の布団・寝間着も剥いで行った。

一人の暴兵が領事めがけて威嚇射撃を行い、
居合わせた邦人数人が逃げ領事の他、
夫人・木村三畩署長・根元博少佐の三人が残った。
「外に出よう」 領事がベランダに出たとたん一人の暴兵が走り込んで来て、
木村署長は左胸を銃剣で刺されて階下に逃げ、
根元少佐は後続した二人の暴兵に左腹部・左臀部を刺され、
ベランダ下の貯水槽に転落した。

暴兵達はひとわたり荒し回ると事務所の大金庫に集中した。
こじ開けようとしたが開かないので館員のだれかれとなく鍵を出せと迫った。
領事夫妻はベランダにいたが、裏庭に避難した邦人達が
「暴兵達が車庫からガソリンを持ち出して放火しようとしている」
と告げたので、
階下に降り金庫の鍵を煙突の破口に投げ込んで、一同と合流した。

暴兵は尚も、一同に迫り交互に銃剣を突きつけて鍵を要求していたが、
午前十時半ごろ、一人の中国人将校が現れて、暴行を制止し終わった。
とあります。
本文は長いので抜粋しました。

尚、この様な掠奪・暴行は市内の全ての外国人のいる所で行われた様です。
そして、4月末に領事館を訪ねた佐々木少佐は
「…金物という金物はドアのハンドルにいたるまで取り外し、
窓枠の木材、ガラス、床板すべてが持ち去られ…」と記録しています。

また、女性に対する「身体検査」というのも
本当は強姦の事実を隠す"外交辞令"で、
実際には27人に輪姦された婦人もいるとの事です。

この事件で屈辱的な「無抵抗」を強いられた荒木大尉は自決しました。

次は済南事件です。

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◆済南事件

1928年、蒋介石が第二次北伐を開始すると、
日本は南京の二の舞は御免と、
居留民保護の為、出兵(山東出兵)を決めた。
中国から「統一を妨害するのか」と言われ、
一時ちゅうちょしたが、やはり出す事にした。

-以下、児島襄著『日中戦争』より抜粋引用-

済南で斉藤少将は、どうやって居留民を守るのか、熟慮した。
-「濁流はすべからく道を造りて流すべし」-
日本人居留民が住む商阜地は租借地ではない。
従ってなるべく衝突をさけ武力行使以外の方法で始末すべきである。
それには通行路を与えれば良い。

5月1日午前6時ごろ国民革命軍入城、
第9軍・第40軍・第1軍・第41軍と続々入城して来た。
この頃、街の雰囲気は一変して来た。
商阜地東部監獄から囚人が解放され、入城した部隊の内、
特に第40軍所属の少年兵が市内を走り回り、宣伝ビラを民家の壁に貼った。
「排斥日本帝国主義」「反対日本出兵」など、いずれも反日ビラであり、
中には張作霖と日本女性が「乱舞」している図柄もあった。
少年兵は、わざと日本軍歩哨に近づき白眼を向いて敵意を示しながら、
その前面の街路樹にビラを貼った。

国民革命軍第1軍第22師第64団が入城する際、
兵士の一人が日本人民家に掲揚中の日章旗を奪い破棄した。
その後も革命軍の入城は続き済南には約十万の将兵が充満した。
日本軍はたったの五千人で国民革命軍の人海の中に点在する形となった。

蒋介石は入城後、佐々木中佐を通じて、
日本軍の撤兵、警備区域の撤去などを申し入れた。
斉藤少将は、師団長に連絡する事なく防禦物の撤去を命じた。
日本側が徹夜で撤去作業をしていると、
中国兵の一団がその作業を妨害し、
あえてその前で中国市民に反日演説を行う者もいた。

5月3日、午前9時20分ごろ、国民革命軍の暴兵約30人が麟趾門街の
『満州日報』取次販売店吉房長平宅に乱入し、掠奪を始めた。
久米川小隊は現場に急行、到着してみると、
先着した二人の巡査のうち岡田巡査が暴兵に袋叩きにされ、
佩剣を奪われ、射殺される寸前であった。

久米川小隊はとっかんし、暴兵は東方約百米の民宿に逃げ込んだ。
兵舎に利用された民家は、強固な土塀の中に数家屋が密集していて、
出入口は一箇所しかなく、二人の中国兵が立哨していた。
久米川小隊が近づくと歩哨は発砲し、屋内からも射って来た。
久米川小隊は応戦し、中隊に伝令を送った。

銃声を合図の様に国民革命軍兵士は
商阜地内の随所で掠奪と射撃をはじめた。
天津歩兵隊第四中隊本部には、久米川小隊からの伝令が届く前に
「緯一路三馬路交差点付近で中国兵多数が日本人民家を襲っている、
国旗を破棄している」
という急報が伝えられた。

斉藤少将は日中交戦を知り、装甲車を出動させようとしたが、
中国兵がいち早く電話線を切断したので、
旅団司令部にも師団司令部にも、電話連絡出来なかった。
おっとり刀で日本軍部隊は現場に急行したが、
民家の土塀越しに射弾が集中し、前進が困難であった。

それでも中国兵がたむろする民家を一軒づつ掃討して行くと、
民家のほとんどが掠奪・暴行されていた。
「支那人民ノ柱ニ縛ラレアル等 惨状目モ当テラレズ」
と言った光景も少なくなかった。

午前11時 蒋介石は停戦を要望、福田中将も応じた。
しかし、中国側は発砲を止めなかった。
旅団司令部は、参謀菊地中佐が、
中国側に停戦を勧告すべく、捕らえた康明震を派遣した。

康明震と他二人は白旗を振りながら二馬路を西進したが、
中国側が容赦なく射って来るので、康明震らは立ち止まって前進を拒否した。
田中伍長が先頭に立ち
「不打(うつな)」「不打」と叫んで一行を引率したが、
緯五路二馬路交差点に差しかかった所、
南側民家に潜伏した中国兵の機銃射撃を受け田中伍長は戦死。
一行は遺体を収容して旅団司令部に引き返した。

―――――――――――――――――

『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著(1939年)P191~192

国民党の特に激しい反日感情を思えば、
満州において親日的張作霖の独立的支配を保持することは
明らかに日本の利益であった。
1927年から29年まで続いた田中大将の政友会内閣は、
国民党の、揚子江下流から北京への進出を阻止し、
満州から安全な距離の所に食い止めようと努力した。
日本は、多数の在華日本臣民の生命財産を保護するために山東省に出兵した。
そして1927年3月の南京事件があってからは、
支那以外の如何なる国もその駐屯に抗議することはできかねた。

だが、日本軍の駐屯はまた、国民軍の北上阻止にも役立った。
1928年5月、山東の首都斉南において日本軍と支那国民軍との衝突が起こり、
日本軍は国民軍を撃破して斉南を占領し、
国民軍がそれ以上鉄道によって北京へ進出することを許さなかった。

だが、南方からの進出の阻止は、西方からの北京の脅威を排除し得なかった。
そして張作霖が山西軍の強圧下に窮地に陥ったことが明らかになるや、
日本政府は新しい行動をとった。

日本政府は北京、南京政府に対し、次のような声明を発した。
『満州の平和と秩序を脅威する如き険悪状態に立ち至るならば、
日本政府は、満州の平和と秩序を維持するために、
適切有効なる手段をとらざるを得ないであろう』と。

これは即ち日本が山と海に挟まれた山海関の狭い海岸通路において
北京=奉天間鉄道を遮断する決意を示したものである。
張は同通路遮断以前にその軍を満州に還すように警告された。
もし敗戦の張が勝ち誇った国民軍に追撃されて同地に至るならば、
日本の哨兵線の通過を許されないであろうからである。

張はこの命令に従い、戦わずして北京を撤退した。
だが、察するに彼は、日本の指令には甚だ不満であって、
むしろ山西軍との間に一戦を賭すことを欲したように思われる。

彼は北京を発って奉天へ直行したが、
その列車が満鉄線と京奉線の交差する鉄橋下を
通過する刹那、爆弾でやられた。
この暗殺の計画者及び動機は今日まで不明であるが、
張の参謀長楊宇霆がそれに関係あることは想像される。

当時、張の蒋介石に対する接近説が伝えられていた。
蒋介石は前に既に2回まで張に提携を申入れていたのだが、
満州の独裁者は自身満々でそれを斥けていた。

だが、北京を失った今となっては、張の気も挫け、
政策の転換も考慮しかねない気持ちであったことだろう。
一方楊宇霆は、満州を支那本土から完全に分離すること
――事実1個の満州国を作ること――を望んでいたといわれる。

陰謀者たちは、張作霖の嗣子張学良は父の地位を継ぐ能力がなく、
楊宇霆が実権を握ると考えていたかもしれない。

ところが張学良は、王朝的世襲権にでもよるかのように直ちに父の後を襲い、
自分の意思を持った人間であることを示した。
日本は、彼が南京政府と取引の手を打つのを
極力妨げようと努力したが効がなかった。
彼は、分離主義の存在を取引の梃子に用いて南京と交渉した結果、
満州における彼の独立性をさして損なうことなしに
支那の国政に関与する権利が得られるような協定を結んだ。

彼は南京16人の国民政府委員の1人に任じられ、
満州の三省及び熱河省の督弁としてその行政を総監することになった。
その代償に彼は、満州に国民党旗を掲げ、
且つ国民党支部の合法的存在を許容した。
1932年1月10日、張学良は楊宇霆の殺害によって
完全に親日派の覊絆を脱した。
楊宇霆は張学良の招待した饗宴の席で射殺されたのである。

―――――――――――――――――

『平和はいかに失われたか』
ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー著 (1935年) 2部3章 P153~4

1927年6月1日、日本軍が居留邦人の保護を理由に
青島(チンタオ)に上陸した。
日本は第一次世界大戦中にドイツに戦線布告して山東省に出兵。
1915年に袁世凱に「二十一か条要求」をつきつけ、
山東省のドイツ権益を譲り受けた。
27年当時、済南、青島及び膠済鉄道沿線には
1万7千人の日本人が居留していた。

一方、蒋介石を軍事委員主席とする国民政府軍は、
北方軍閥を打倒し中国の分裂状態に終止符を打つため、
1926年7月に北伐を開始。
27年5月には軍閥との戦闘を続けながら江蘇省を北上し、
山東省に迫る勢いとなった。
同年3月、北伐軍が南京に入城した際に大衆も加わった暴動が発生し、
米、英、日本などの領事館や居留地が襲われる「南京事件」が起きており、
同様の事件の再発も懸念された。

このため5月下旬、日本の田中義一内閣は、
山東省における日本の権益と日本人居留民の保護のため、派兵を決定。
ただし、当時は金融恐慌のさなかであり、
財政的に大規模な出兵は無理だったため、満洲駐留部隊を派遣した。
6月1日に日本軍が青島から上陸すると、
北京政府は「中国政府の事前の同意なしに突然派兵したことは、
主権を侵犯する行為である」として抗議し、日本に対して派兵中止を求めた。

一方、欧米列強は日本の派兵に対して比較的寛容だった。
当時は、自国民保護のための軍派遣を
比較的妥当な行為とみなす国際的習慣があり、
日本軍も闇雲な戦線拡大の動きをみせなかったからとされる。
8月、蒋介石は張作霖の軍閥に大敗し、山東省に入ることなく撤退。
このため日本政府は撤兵を決定し、9月に撤兵を完了した。
翌1928年にも蒋介石の北伐に関連して、「第二・三次山東出兵」が起こった。
―――――――
ちなみに12人の日本人居留民が虐殺されたことで有名な「済南事件」は、
第二次山東出兵の際の1928年5月3日に起こった。
ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー著
『平和はいかに失われたか』(1935年)には、
当時の真相が以下のように述べられている。
―――――――
続いて起こった事態の理非は、
田中メモランダムの信憑性と同じくらい論争のあるところで、
そしておそらく同じくらいアカデミックな問題である。
田中内閣は、野党時代の1年前に前内閣(*若槻礼次郎内閣)に
やらせようとして実行できなかったことをなしとげたのである。
それは、済南を守るための日本陸軍の大部隊の派遣である。
(*1927年に始まったいわゆる「山東出兵」)。
済南は、当時日本の巨大な権益が集中していた所であり、
重要な鉄道分岐点でもあった。
この鉄道線路沿いに国民党の北伐軍が、
北京ならびに華北の征服をめざして進軍していた。

どれほど多くの口実や挑発があったにせよ、少なくともそこには、
こうした予防措置を正当化するだけの有力な日本の利権が存在していた。
日本政府は英米両国と異なり、
国民党軍の進撃路から避難するようにと居留民に勧告はしなかった。
日本は条約上の権利に固執し、米国にとっての上海・天津と同じように、
日本にとって重要なこの地帯の居留民が
攻撃されることは絶対許さないとの態度を決めていた。

日本のこの姿勢は色々に解釈された。
中国在住の他の列強諸国の代表たちにとっては、
自分たちができないことが
日本にはできるという立場が羨ましい限りであった。

また北伐中に外国の教会施設の財産を没収したり、
外国人の生活を無視して理不尽な態度を
あらわにしている得意満面の国民党軍を、
日本軍が寄せつけないのも他の列強には羨望の的であった。

しかしながら中国にしてみれば、日本軍の済南防衛は口実にすぎなかった。
鉄道をおさえて勝ち進んできた国民党の北伐を、
日本が妨げ喧嘩を売る手段としているにすぎないと考えていた。
―――――――
ちなみに、上の文中マクマリーは田中メモランダムについて触れているが、
この「田中上奏文」が偽書だったことは既に明白となっている。
―――――――

2006年3月2日産経新聞

「田中上奏文」 中国側「存在しない」偽文書認める。

中国が日本の大陸侵略意図の証拠としてきた「田中上奏文」について、
中国政府直属の学術研究機関である社会科学院の
蒋立峰・日本研究所所長が
「存在しなかったという見方が主流になりつつある」と述べ、
偽文書であることを事実上認めていたことが1日、分かった。
昨年12月に中国を訪問した新しい歴史教科書をつくる会の
八木秀次会長(当時)らのグループに語った。

田中上奏文は、昭和2年に当時の田中義一首相が
昭和天皇に報告した文書の体裁をとり、
日本や欧米では偽文書であることが証明されているが、
中国では歴史教科書に記述されるなど事実として宣伝されてきた。

しかし、蒋所長は八木氏らに
「実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方が
だんだん主流になりつつある。
そうした中国の研究成果を日本側は知っているのか」と、
中国の研究成果としても偽文書が通説であることを明らかにした。

蒋所長は社会科学院の世界歴史研究所や日本研究所で
日本近現代政治史や中日関係の研究を
長年続けてきた中国の日本研究の責任者。
八木氏は「偽文書だと分かっているなら、
中国政府は田中上奏文を根拠とした対日非難をやめ、
教科書記述も改めるべきだ」と話している。

八木氏らと中国側のやり取りは
1日に発売された月刊「正論」4月号に掲載されている。

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済南事件

戦闘はこの後も続くが、この間に、日本人居留民の受けた被害は、
掠奪された戸数136、被害人員約400人、中国兵襲撃による死者2人、
負傷者30余人、暴行を受けた女性2人、行方不明12人であった。
尚、この12人については、裸体にされ後手に縛られ、
中国兵に連行されるのを見たという情報もあったので捜索が続けられた。
12人は、後に、死体で発見された。その惨状は次の通りであった。

▼藤井小次郎(土産物商)
頭及び顔の皮を剥がれ、眼球摘出。内蔵露出。陰茎切断

▼井上国太郎(雑貨商)
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。上膊部に刺創。左股に貫通銃創。

▼斉藤 辰雄(桐材商)
顔面に刺創。地上をひきずられたらしく全身に擦創。

▼東条弥太郎(土産物商)
両手を縛られて地上をひきずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。

▼同妻 きん
両腕を紐帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。
肋骨切損。陰部に棒を差し込まれていた。

▼鍋田銀次郎(雑貨商)
左脇腹から右脇に貫通銃創。

▼宮本 直八(土産物商)
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。 陰茎切除。

▼多比良貞一(土産物商)
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。
腹部を切り裂かれて小腸露出。

▼中里重太郎(土産物商)
顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創

▼高熊 うめ
肋骨切損。右眼球突出。全身火傷。
左脚の膝から下が脱落。右足の白足袋で婦人と判明した。

▼他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、
人定は不可能だった。

また堤口部落東北四百米の日本人墓地は、
墓があばかれ、葬儀場や火葬室も破壊されていた。
あばかれた墓の周囲には、砕かれた骨壺や骨片が散乱していた。

「惨状 視ルニ忍ビズ」
(以上、児島襄著『日中戦争』より抜粋引用)

――――――――

これらの残虐行為は日本人には想像もつかないものであった。
この後、国民党軍の大部分は済南を抜け出し、
残置兵との戦闘が11日まで続く。
蒋介石は、一方的に日本に発砲を止めろというのみで、
自分の兵に戦争を止めさせようとはしなかった。
中国は、自分たちで残虐行為を働いておきながら、
日本軍がやったと逆に宣伝、翌年には、この事件を「国恥」として講演した。

――――――――

この事件について、華北の有力外字紙「京津タイムス」は 
「日本軍がいなければ外国人はことごとく殺戮されただろう」と報じ、 
英紙 「デイリー・テレグラフ」は 
「支那人は略奪と殺人を天賦の権利であるごとく、暴行を繰り返している」 
「日本人の忍耐にも限度がある」と書いている。

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◆張作霖爆殺事件

蒋介石軍の北伐が進展し満州に近づくにつれ、
関東軍は警戒せざるを得なくなりました。
南京での中国軍の暴虐、済南での残虐行為、
これらを見るにつけ、勝ち組であろうと負け組みであろうと、
中国軍が満州に入って来ると大変な事になると判ったからです。

中国北部は張作霖が支配していますが、
これを蒋介石が討伐すれば、
張作霖の敗兵は満州になだれ込んで来るでしょう。
張作霖の軍隊は30万もいます。

ところが守る関東軍は1万にも満ちません。
それも鉄道沿線に散らばっています。
満州には百数十万の帝国臣民がいるのですが、
これをどうやって守るのか、それが問題でした。
そこで、その解決策として河本大佐が考えたのが張作霖の暗殺です。

張作霖が死ねば軍は四散する。
そうすれば蒋介石が攻めてくる理由がなくなるという物でした。
張作霖は、満鉄の平行線を試みるなど日本の既得権益を侵害し、
かつ排日運動を利用して、日本人の生活を圧迫していました。

また、軍費調達の手段として大豆、高粱、米、粟その他の特産品を買占め、
紙幣の乱発、不当課税などもしていました。
その上、市中を行進するときは皇帝の行幸のようなまねをし、
威勢の誇示と虚飾に満ちた生活をしていたのです。
それは出費を伴い満州の課税率を高めます。
"民に重税を課し、民を苦しめ嫌われているのだから、
殺しても問題ないだろう"
河本大佐はそう考えたわけです。
実際、彼は何度も暗殺され掛かっていますので。

――――――――

一方、これより一年前、田中義一首相は「東方会議」を開き
満蒙問題について話し合いました。
田中首相は、中国の動乱が満州に及ぶことを恐れ、
「支那本土と満蒙」とを別扱いにしようとしていたのです。

田中首相は日本人居留民の保護以外で、
蒋介石軍の北伐に干渉する気はありませんが、満蒙だけは別でした。
「東方会議」では
「満蒙殊に東三省地に関しては、国防上並びに国民的生活の関係上
重大なる利害関係を有する…」、
「万一動乱満蒙に波及し治安乱れ、
同地方に於けるわが特殊の地位権益に対する侵迫起こるの虞あるに於いては、
其の何れの方面より来るを問はず之を防護し…
機を逸せず適当の措置に出づるの覚悟あるを要す」
と規定しています。これは関東軍の考えと大差ありません。

違うのは田中首相が張作霖びいきだった事だけです。
彼は張作霖に満州を支配させる気でした。
日本としては蒋介石軍と張作霖軍が衝突するのを好みません。
張作霖軍の敗兵がなだれ込んで来るのも嫌なら、
蒋介石軍が攻め込んで来るのも嫌でした。

そこで田中首相は、張作霖に"今のうちに満州に引き上げろ、
戦乱が激しくなったら入れん"と言ったのです。

しかし関東軍としては、
30万の軍隊が武器を持ったまま満州に入るのを好みません。
武装解除してから入れるつもりでした。
その為には軍を錦州や山海関に移動させる必要があるのですが、
そうするには奉勅命令が必要となります。

ところが、奉勅命令が出ません。
このままでは30万の張作霖軍が満州に雪崩れ込んでくる。
そうなるとトンでもない事になる。
そこで已む無く、と言うか初期の考え通り、暗殺を決行したというわけです。

ところが、いざ暗殺してみると
息子の張学良が後を継いで何にもなりませんでした
それどころか、張学良は国民党の旗を満州に掲げ、
蒋介石の仲間である事を鮮明にしたのです。

その為、蒋介石は労せずして満州を手に入れ、
ここに統一がなってしまいました。
これは、関東軍や日本政府の思惑と違い、全くの逆効果でした。
河本大佐は、蒋介石に満州をノシを付けてさし上げたわけです。
だからと言って蒋介石が日本に感謝するわけはありません。
当然の事ながら張作霖爆殺を非難し、排日運動を強め、
日本人居留民を迫害して行きます。
これが満州事変へとつながって行くわけです。

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張作霖爆破事件 coffeeさんの見解

coffeeさんの見解
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37494995.html

張作霖爆破事件は第二次世界大戦に至る歴史の中で
満州権益の保護拡大のため関東軍が独断専行の結果
引きおこしたものだという歴史観がありますが、
「関東軍が独断専行…」といいますが、
張作霖爆殺に関与したのは河本大作大佐と
それに従ったせいぜい10人余りの連中であって、
「関東軍」という言い方は大きな誤解を招きます。

ドミトリー・プロホロフとアレクサンドル・コルパキジの共著
『GRU帝国』や、イワン・ヴィナロフ著『秘密戦の戦士』などを見ると、
首謀者はソ連であり、どう見ても河本大佐や東宮大尉らは
ソ連特務機関GRUの工作員としてソ連のために張作霖爆殺を実行し、
あえて自分たちの犯行を示す証拠を残したり
言いふらしたりしたと考えられます。

月刊『正論』2006年4月号に
『GRU帝国』のドミトリー・プロホロフのインタビュー
【「張作霖爆殺はソ連の謀略」と断言するこれだけの根拠】
という記事が掲載されました。

そのインタビューを要約すると次のとおりです。
―――――――
張作霖は1924年9月20日に、ソ連と「奉ソ協定」を締結し、
東支鉄道(東清鉄道、中東鉄路)の共同経営を行った。
しかし、張作霖軍は鉄道使用代金の未払いを続け、その額が膨らんでいた。
1926年1月、ソ連がこれに抗議して、鉄道の使用禁止を通達すると、
張作霖軍はこれに反発し、
鉄道を実力で占拠して、同年9月には実権を握った。

こうした張作霖の反ソ的な姿勢に対し、スターリンのソ連政府は、
張作霖の暗殺を、軍特務機関の
フリストフォル・サルヌイン(サルーニン)に命じた。
サルヌインは暗殺計画を立案し、
ソ連特務機関GRUのレオニード・ブルラコフが協力した。
一回目の張作霖暗殺計画は
1926年9月末の奉天の張作霖の宮殿での音楽会を目標に企てられた。
しかしこれは張作霖の特務機関が察知、爆発物は押収され、未遂に終わる。
張作霖は、ブルラコフら3人を逮捕。

その後、張作霖は、モスクワに対してあからさまな敵対的行動に出た。
1927年4月には、北京のソ連総領事館に強制捜査を行い、
暗号表や工作員リスト、モスクワからの指示書等を押収した。
張作霖は、支那共産党に対しても、
共産党員を多数逮捕するなど、共産主義に対する弾圧を行った。
また、亡命ロシア人や土匪部隊を仕向けて、ソ連領を侵犯させるなどした。

その一方、張作霖は、1928年、日本側と交渉を始め、
日本政府の支持を得て、
満州に反共・反ソの独立した満洲共和国を創設しようと画策した。
この動きは、ソ連合同国家保安部の諜報員、
ナウム・エイチンゴン(エイティンゴン)がモスクワに知らせた。

クレムリンには、日本と張作霖の交渉は、
ソ連の極東方面の国境に対する直接的な脅威と映った。

スターリンは再び、張作霖の暗殺を実行に移す決定を下し、命令した。
暗殺計画の立案とその実行には、クレムリンに報告をあげたエイチンゴンと、
1回目の暗殺計画を任命されたが失敗したサルヌインが任命された。
(1927-28年当時、GRUの支那における活動の中心は上海にあり、
組織には表の合法機関とは別に、非合法の諜報組織があり、
1927年に着任したサルヌインが非合法諜報組織の長をしていた。)
サルヌインは、上海で非合法工作員のとりまとめ役をしていたが、
満洲においても多数の工作員を抱えていた。
張作霖暗殺の疑惑を、日本に向けることが重要だった。

1928年6月4日夜、
張作霖が北京から奉天に向かう列車は、奉天郊外で爆破された。
重症を負った張は、その後、死亡した。

東京裁判では、元陸軍省兵務局長の田中隆吉が、
「河本大佐の計画で実行された」
「爆破を行ったのは、京城工兵第20連隊の一部の将校と下士官十数名」
「使った爆薬は、工兵隊のダイナマイト200個」などと証言した。

しかし、日本では、東京裁判後、
日本には張作霖を暗殺する理由がまったくなく、
暗殺には関与していないという声があがった。

1990年代初め、ソ連の最高機密資料に接しうる立場の元特務機関幹部で
歴史家のドミトリー・ボルゴヌフ氏は、ロシア紙のインタビューの中で、
ロシア革命の指導者の一人、トロツキーの死因を調べている際に、
偶然、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺された資料を見つけたという。
メキシコでのトロツキー暗殺に関与していたのはエイチンゴンだった。
―――――――

これらの証言があるので
「関東軍が独断専行の結果引きおこした」とは断言できません。
各種証拠から河本大佐が張作霖爆殺に関与したことは間違いありませんが、
次の2つの可能性があります。

【1】
エイチンゴンやサルヌインらによる張作霖暗殺計画と、
河本大佐らによる張作霖暗殺計画が、別々にあった。
エイチンゴンやサルヌインらは、
河本大佐ら関東軍の一部が先に実行したので
自らの計画を実行する必要がなくなった。
日本にとっては張作霖を暗殺する動機は乏しく、国益に反するが、
河本大佐ら関東軍の一部は理解できず、
張作霖を暗殺する方が良いと考えて勝手に行動した。
【2】
ソ連特務機関GRUは、河本大佐らをGRUの工作員とした。
エイチンゴンやサルヌインらと、河本大佐や東宮大尉らは、
共にGRUの非合法組織で通じていた。
ソ連としては、張作霖暗殺を日本の仕業とすることが重要だったので、
日本軍に張作霖暗殺を実行してもらえば最も都合が良かった。
そこで、河本大佐や東宮大尉ら関東軍の十数名が実行することになった。
日本軍には、共産主義に幻想を抱き、
ソ連の工作員として働いていた者が居た。


これなら全て辻褄が合います。
しかも【2】の可能性が極めて高いと考えられます。

なぜならば、河本大佐や東宮大尉らは、
普通なら隠そうとするはずの暗殺事件をあえて隠そうとはせず、
ワザとらしい証拠を残したり、周囲に言いふらしたりしていたからです。

河本大佐は、事件の直前、
在京の親友磯谷大佐宛ての昭和3年4月18日付け書簡で、
「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。
今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やってみる」
と、犯行を予告する文言を書き送っています。(秦郁彦『張作霖爆殺事件』)

河本大佐が純粋に日本の国益のためを考えて張作霖を殺害するなら、
犯行前にこんな手紙を書き送るはずがありません。
この事実一つとっても、河本大佐がソ連の工作員だったと考えるべきです。

河本大佐は日本政府の調査に対してはシラを切る振りをしましたが、
実際には上述した犯行前の手紙の他、
事件後も、周囲のいろんな人々に犯行を吹聴していました。

また、実行犯の一人である東宮大尉も、
「陰謀の黒幕が関東軍高級参謀河本大作大佐だった」ことを、
奉天副総領事森島守人に「内話」しています。
(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』)

極秘であるはずの暗殺事件を、
あえて河本らは意図的に言いふらしていたことが良く分かります。

これは張作霖暗殺の首謀者の疑いが
ソ連に向かないようにするためだと考えられます。

更に、松村謙三著『三代回顧録』によれば、
爆破した橋台から少しはなれたところに日本兵の監視所があり、
橋台の下に爆薬を埋めて、そこから監視所まで電線を引き、
東宮大尉が監視所でスイッチを入れて爆発させたのですが、
爆破後、東宮大尉はその電線を巻いて隠さず、
監視所まで引かれた電線をそのままにしていました。

それを、しっかりと支那側の官憲も見つけました。

こうなると、どう見ても、河本や東宮らが、
ソ連に疑惑が向かないようにするための工作をしたとしか思えません。

以上のことから張作霖爆殺事件は、河本大佐や東宮大尉ら関東軍の一部が
ソ連特務機関GRUの工作員となり、ソ連のために張作霖爆殺を実行し、
あえて自分たちの犯行を示す証拠を残したり
言いふらしたりしたと考えられます。

この説が最も真相に迫っています。

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◆満州事変の背景

父親を関東軍に殺された張学良は、日本の言いなりになるのを嫌い、
蒋介石と手を組み、国民党勢力を満州に招き入れて、
排日運動を激化させました。

結果、関東軍は、我に二十倍する優勢にして抗日意識旺盛な、
支那大軍の包囲下に置かれる事になりました。
排日・侮日行為はますます組織的となり、
在満邦人に対する投石や暴行などの事件が頻発するようになります。

そして中国は、満州人の所有地を
日本人に売ったり貸したりする事を禁ずる条例や、
それまで自由に行われていた日本人の鉱山事業を
一切禁じる新鉱業法を制定したのです。

その為、鉱山や製造業の分野に巨大な投資をしていた日本人や日本企業は、
即座に営業を続けられなくなりました。

また、中国は1930年、満鉄の東西に平行する二大幹線を作り、
これを北寧線に連結、新たに良港を築いて連絡し、
満鉄を潰す計画を立てました。

そして7月から錦州の南のコロ島で
ドイツ資本による大規模な港湾建設工事を始めたのです。

これに危機感を抱いた満州青年連盟の人たちは、
無関心な日本人に注意を喚起するため、
パンフレットを作り各地で演説、内地遊説に回りました。

一方、国民党の中央執行委員呉鉄城は1931年2月、
党支部を作るため、満州に行き、3月26日党省部成立式を行い、
飛行機5機で宣伝文を撒布、4月2日には排日演説を行いました。

そして5月2日には、陳某がチチハルで全市中等学校生徒を集め、
日本と東北(満州)問題に関し演説し、3日には5・3惨案記念式を挙行
(5・3惨案とは済南事件の事で、自分達のやった残虐行為を、
日本軍が中国人にしたかの様にすり替えた物)
5月9日には国恥記念日(対華二十一か条の要求を受諾した日)として、
各機関・学校を休業、各戸は一斉に弔旗を掲げ、宴会は停止とさせました。
この事によって民衆の反日意識は確実に高まって行きます。

結果、満州では朝鮮人に対しても迫害が酷くなり、
敦化やその他の地から満鉄沿線の長春に、朝鮮人が避難してきました。

この避難してきた朝鮮人農民と地元の中国人農民との間で
いさかいが起こったのです。
万宝山付近の荒地に入植した朝鮮人農民が、
伊通川から水路を引こうとすると、
武装した中国人農民が実力で妨害、水路を破壊しました。
このため日本警官隊との間で銃撃戦になります。

この時、朝鮮では「万宝山で朝鮮人農民が中国人に襲撃され死傷者が出た」
という『朝鮮日報』の号外が出た為、
激怒した朝鮮人が朝鮮の各都市で中国人を襲い暴動に発展しました。
出動した日本警官は武装していなかったので、群衆を制御できません。
この時の、中国人死者は100人を超え、生死不明63人、負傷者は160人に達し、
数百戸の中国人家屋と財産が灰燼に帰したと言います。
この事件により、中国の反日気運は一気に高まり、
国民党宣伝部は、これを日本が朝鮮人を扇動してやらせたと宣伝しました。

同じ頃、満州では、中村震太郎大尉殺害事件が起きます。
大尉は対ソ作戦の兵要地誌作成の為、
南興安嶺付近を旅していたのですが中国軍につかまり射殺されました。
日本は抗議しますが、中国側は否認し
「日本によるデッチ上げ」と新聞で論陣を張ったため日本側が硬化し、
関東軍は、あくまで白を切るなら実力で捜査すると威嚇したのです。
満州を視察して帰った政友会の森代議士は
「事実上交戦直前の状態」と報告しています。
事の重大性をやっと認識した中国は中村大尉殺害を認めました。

中国は、このように無茶苦茶な事をし、
日本人が生きて行けない法律を作り、日本人を迫害し、圧迫していたのです。
そして、それを正当化するため反日宣伝を行いました。

日本人が生存できないまで追い詰められた為、
関東軍は、百姓一揆のように、満州事変を起こしたのです。
これは生存権確保の行動です。

張学良の悪政に憤激した満・漢・鮮人の間には、
清朝の廃帝を祖先の地に迎えようという運動が起き、
1931年10月に満州各地の代表が揃って、
天津に溥儀を訪ね出馬を懇請しました。

かくして、満州国は成立します。

ところが、この満州事件には実は、もう一つの側面があるのです。
それは「満蒙独立運動」です。

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『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)P252~253

満洲の推定人口は1900年、約500万であった。
それが1931年になると約3000万に増えた。
5倍以上も増えたことになる。理由はさまざまである。
例えば、満州産の大豆に世界の需要が集まったこともあろう。
今世紀初頭、日露両国が鉄道を敷設したので発展したということもあろう。

以前は中国人の満州移住は制限されていたが、
政権が変わって移住制限が緩和されたことも一因である。

清王朝は満州人が築いた王朝であったが、
満州を政治的に中国とは切り離し、私有地扱いにしていた。
300年前、満州族は生まれ故郷を捨て、暖かい南の地に大挙して渡って来た。
それから中国人が満洲の地に足を踏み入れることを禁じたので人口が減少した。

ところが1907年、ロシアの南下政策を阻止するため、移民を盛んに奨励した。
と同時に政策を転換し、満州を中国の一部と扱うようになった。
辛亥革命が起こると中国全土がますます混乱し、満州にも火の粉が飛んだ。
日本も対岸の火事では済まされなくなった。
満鉄と周辺の権益を保護するため、
兵力を増強せざるを得なくなったのである。

混乱に乗じて満州に張作霖が現れ、中国政府に逆らい、満州を支配した。
張は中国兵を放逐するため、
中国人とは思えないほどの強力な兵力を整え始めた。
1923年には何と5億ドル(中国の通貨であるが)もかけ、
兵器工場を奉天に完成させた。

デンマーク人の建築家を、後にはドイツ人、フランス人、イギリス人も雇い、
日本人の軍事顧問まで雇っている。
中国では5億ドルといえば途方もない額である。
これだけかけた兵器工場はまさに脅威である。

1924年から27年には常時2万人が働いていた。
ほんの2年前の1931年、約1000人の外国人を招聘し指導に当たらせている。
この兵器工場の生産能力には舌を巻く。
砲弾は日産4500発、弾薬は日産40000発、大砲月産12問、
と日本ははじいている。
工場の規模、従業員数から考えて法螺とも思えない話である。
(今日ではこれほどではないにしても大規模兵器工場が中国各地にある)。
加えて20万とも30万とも言われる私兵を蓄えていたのである。

1928年、張作霖が暗殺され、遺産は無能な放蕩息子の張学良に転がり込んだ。
父の張作霖は慎重だった。日本に好意を持っていたわけではないが、
かといって公然と敵対行為に出ることはなかった。
日本人を脅かすこともあったが、
政情定まらぬ国では普通にありえる程度のことで、
日本が行動するほどのことではなかった。

張学良が後を継いでからは事態が一変した。
南京を拠点とする風見鶏の蒋介石と同盟を結び、
中国の地に乗り出し、政治に手を出し、
汪兆銘の「中央政府」を追い落とした。
北京を乗っ取り、取れるだけ税をとった。
南京中国中央政府に「手の者」を多数忍び込ませた。

それから「外務協会」と「北東文化協会」という
反日プロパガンダ組織をつくり、盛んに活動を開始した。
部下は新政策の一環として日本に次々と要求を突きつけた。
大連と旅順の返還を迫り、条約を無視し、税金を取り立てようとした。

たとえ父の張作霖の腹心の部下であっても、
反日政策に乗らない者を容赦なく追放し、暗殺した。
日本に留学したというだけで追放し、虐殺した。
父張作霖の子飼いの部下2人を麻雀に誘い、殺した。

満州全土で日本人襲撃事件が多発した。
張学良の狙いが何なのかはわからない。
ただ、中国と関わりを持ったことで、
1927年に政権を取った国民党の排外政策に同調したことだけは確かである。
しかしこれが仇となり、権力を奪われ、満州を追われる身となったのである。
歴史に「もし」はないが、もし、初めから負けるとわかっている戦を
仕掛けないで、父と同じようにしていたら、満州に残れたかもしれない。
そして満州は「満州国」にされずに満洲のままでおれたかもしれない。

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『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)P276~277

日本の満州占領に理あり

確かに、条約、協定、議定書などに従えば、日本が満州を占領したのは悪い。
しかしながら、見方を変えれば日本が正しかったとも言える。
いくら条約を結んでも、
日本の権益を不安に曝す中国人の妨害行動は収まらなかった。

条約は守らない、地下工作・破壊活動は止まない。
こういうことが何年も続いた。

これでは、日本がこう言うのも当然ではないか。
「日本が安全を確保している地域が中国人の隠れ家となっている。
彼らは敵に残虐行為を働くことを楽しみにしている奴らである。
このままでは日本人の安全は確保できない」と。
平時から、日本人は「敵」となり被害を蒙ってきたのである。

日本が立ち上がった時、世界はそれを「戦争」と呼んだ。

これに対して菊の御紋の国の怒りが沸騰した。

「我々が何年も耐え忍んできた苦労も知らず、
結果しかご覧になっていない。日本は不況のどん底にある。
世界的不況のあおりを受け、数百万の国民が苦境に立たされた。
満州開拓は日本の生命線である。
中国人の行動が厳密な意味では戦争と呼べないからといって、
我らの生命線が破壊されるのを黙って見ていることができようか。
彼らは日本人を殺している。日本人の資産を破壊している。
無知の民を煽動し、世界の同情を背にし、破壊工作を続けているのである。
無責任な同情である。
火の粉が降りかかる心配のない連中が、勝手に編み出したものである。
我々が皇軍の精鋭を投入せず、ただ手を拱いていろというのか?」

中国にいる数千の英米人は、
日本人と同じ苦悩を味わっているから、気持ちがよく分かる。
大半は内心、日本を応援したと思う。
アメリカ領事も在中国期間がある程度あれば、同じだろう。

真面目に反日運動をする中国人がいた。
己を犠牲にしてまでも敵に打撃を与えるため、
日本製品を買わないという人である。
しかし、極々少数で、人口比率でみれば顕微鏡的数値である。

しかし1931年に始まったこの運動も、ほかのことと同様、
一旦始まってしまうと、全く手の付けられないものとなった。
運動の主体となっているものは十中八九、風見鶏のチンピラである。
愛国を唱えてはいるものの、愛国の「あ」の字もない連中である。

典型的な行動だが、中国人はいわゆる墓穴を掘るようなことをする。
戦争は全く苦手なのに日本を追い詰め武器を取らせてしまった。
ドイツの優秀な軍事顧問の指導を受け、数百万の兵を養い、
科学者、技術者を多く抱えながら、正々堂々の勝負ができない。
地下工作・破壊活動という姑息な手しか使えない。

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◆満蒙独立運動

満州国の設立に際して、関東軍は清朝の廃帝溥儀を皇帝に迎えますが、
これは単なる関東軍の陰謀ではありません。
この裏には“満蒙独立運動”というもう一つの側面があるのです。

話は、義和団事件にまで遡ります。 

義和団を鎮圧した際、近衛篤麿(近衛文麿の父)ら東亜同文会の人たちは、
清朝が余りに弱体化している事に気づき、
“このままではロシアの南下を防げない、
安全保障の面から「支那保全」が必要”と考えました。

そこで清朝の体制内改革を期待し行動しようとしたのですが、
時の政府の方針(内政干渉したくなかった)と合わず、
妨害され思うように進みませんでした。

一方、別の方面から、清朝の再建を助ける者がありました。
義和団の乱の時、清朝が義和団に加担して参戦し北清事変となったので、
連合軍は北京を占領しました。連合軍は城への攻撃を主張したのですが、
日本軍は平和解決を望み、川島浪速が「紫禁城の開城は私にお任せ下さい」と
中に立って説得にあたったのです。

川島の必死の勧告で城内の兵は降伏し無事被害もなく解決しました。
北京占領後、日本軍は市内の一区画の警備を割り当てられ、
川島は警察制度の改革に着手します。
民政権が連合軍から清国側に移ったあと、
清国は川島の借用を日本に依頼しました。

そこで川島は北京に残り清朝の改革に協力する事になります。
この時、川島は粛親王と懇意の仲になりました。
その粛親王の妹が内蒙古のカラチン王妃だったのです。

ある時、カラチン王を大阪で開催される内国勧業博覧会に
極秘に招くという動きがありました。
カラチン王の来日に際し、
福島安正少将と王との間に
日蒙親善の一環として女子の教育機関を作ることで一致、
その一つとして川原操子が蒙古に行き、
王の子弟の教育に携わることになりました。
日露戦争中は後方攪乱のため、横川庄三や沖禎介が王宮に立ち寄っています。

明治39年末、粛親王は川島と暖炉を囲みながら日中両国の提携を力説、
このような親交を経て二人は義兄弟の契りを結んだのです。
ところが辛亥革命が起こり、彼らの努力は無駄になりました。

川島や近衛篤麿のような人達は、孫文の行動を
“革命ごっこ”と見て快く思っていません。
海軍軍令部嘱託の宗方小太郎は、「為す所児戯」、
「統一的に共和政治を実行する事はできまじく」、
「群雄割拠で…」と酷評し、
上海駐在の加藤荘一郎中佐は「留学生の幼稚なる理想」、
「この後も紛擾が続いて収拾すべからざる状態に陥る」と言って、
実際、その通りになりました。

(ここまで、波多野勝著『満蒙独立運動』
PHP新書2001年3月刊行より抜粋要約引用)

一方、清朝に征服されていた蒙古やチベット等の諸民族は、
清朝が無くなったのだからと独立を宣言します。
ところが中国は、これを許しません。
自分たちが満州族の支配を排して独立したにも拘らずです。
当然、満州も自分とこの物と考えています。

この考えの不自然さに気づかない日本人が沢山います。
満州族から独立した中国が、「満州は自分の物」と言うのは、
日本から独立した韓国が「日本は韓国の物」と言うのと同じ事です。

そして中国が「蒙古やウィグル、チベット、台湾等を自分の物」と言うのは、
韓国が「台湾や南洋群島を自分の物」と言うのと同じ事なのです。

満州族が中国を支配し
《同様に蒙古やウィグル、チベット、台湾等を支配していた》のです。

それは、日本が韓国を支配し、
《同様に台湾や南洋群島を支配していた》のと同じ事です。

そんな中国の理屈が通るのなら、
韓国が日本や台湾を自分の物という理屈も通ります。

こう言えば、中国の言うことの不自然さが解かるでしょう。

彼らの理屈は泥棒の理屈です。
他人の物は俺の物、俺の物も俺の物という理屈。それは侵略者の理屈です。
中華五千年の侵略者の理屈なのです。
ハッキリ言ってこれは他民族に対する中国の侵略です。
問題は中国には“侵略しているという意識が無い”という事です。
そういう中国の身勝手な理屈から満蒙独立運動が始まります。

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以下、波多野勝著『満蒙独立運動』PHP新書2001年3月刊行より要約引用

川島は、下関で辛亥革命の報に接します。
そこで彼は、清国の民生部顧問だった旧知の宮島大八に
「日本が覇権を確立するには満州・東部蒙古を占領すべきである。
それにはまさに崩壊しようとしている清朝を助け、
黄河以北三国を独立せしめ、以南は革命国家の自由に任せる事で、
平和を回復する方が、列国の利益になる」
と電報しました。

しかし、西園寺内閣は、介入を好みません、
軍人や政府の人間が余計な事をしないようにと警告しました。

一方、清朝の忠臣、良弼・鉄良らは親王たちとともに、
清朝の命脈を支えるべく宗社党を結成しました。
ところが、良弼が中国のテロによって爆殺されたのです。

そこで川島は、有力皇族をかくまうべく、
粛親王や他の皇族たちを満州へ逃がしました。
しかしながら、満州は既に、革命党や、馬賊、匪賊に入り込まれていて、

“このままではいずれ満州も袁世凱の手に渡る”と恐れた川島は、
無名の保護国を建国することを考えました。
これは後の満州国につながる発想です。

そして川島は、多くの軍関係者や大陸浪人を集めて運動を起こしました。

12月6日、川島は参謀本部の福島次長を通じて
横浜正金銀行から二万両の借款をカラチン王に与えるよう依頼し、
カラチン王に三万発の弾薬を送ったのです。

しかし参謀本部は露骨な日本の介入を好みません。
それは川島も心得ていて、宗社党関係者の勝手な行動ということにしました。

明治45年1月13日、北京の高山公通大佐から福島次長に
「蒙古挙兵の準備は着々と進んでいる」との電報がありました。
そこで参謀本部は、2月に守田利遠少佐を蒙古に派遣し、
高山大佐には清朝皇族の動向調査を命じます。

ここに陸軍と清朝皇族との接触が始まります。
一方、多賀少佐は、武器等の供給について、
カラチン・巴林王たちと連絡を取り、
満州で準備を整えつつある事を報告してきました。

3月13日、カラチン・巴林王は、
松井、木村両大尉に付き添われて、北京を発ち満州へと向かいます。
この動きは、既に満州に勢力を持っている張作霖にとっては、
気が気ではありません。

ところが、この工作が突然中止させられました。理由は外国の干渉です。
イギリスは袁世凱に中国統一をやらせようとしていたので、
満州分離を許すわけにはいきません。

ロシアにも同様の視点がありました。そこで圧力をかけてきたわけです。
日本政府としては黙認していただけですから、
外交問題となると即座に中止に動きだしました。

といっても、現地では工作が進んでいますので、すぐにはやめられません。
そこで武器だけでも送り届けようとしたのですが、
この輸送隊が中国軍に襲撃され失敗しました。

日本政府は関与を否定し「浪人たちの仕業」とします。
川島は、粛親王たちに害が及ぶことを恐れ、工作を中止しました。
しかしあきらめたわけではありません。

一方、かって孫文を支持した内田良平は、
宋教仁が殺されるに及んで革命を見限りました。

そして大正2年7月、政府に 「日本は南満州及び東蒙古に独立政府を作り、
この政府と特別条約を結び、
我が保護国としてこれを統覧す」という案を提示したのです。

これは、前に川島が考えた案とよく似ています。
もちろん政府はウンとは言いません。やんわりと断りました。

同年7月、内田は満蒙問題の解決と称して対支研究会を組織し、
他の12の団体と連合して統一戦線を組みました。
当然、川島はこのグループに参加していきます。

―――――――――――――――――

大正4年6月、蒙古から二人の人物が日本にやってきました。
この二人は日露戦争の時、
日本軍の特別任務班に参加したパプチャプ配下の者です。

彼らの土地に漢人が大量に入植してき、
牧草地が奪われ失業するモンゴル人が増えて来ました。
彼らは、辛亥革命以来ずっと、新中国を相手に抗戦していたのです。

人を置いていなかった満州は、既に、漢人によって侵略されていますが、
パプチャプのいる内蒙古はまだ頑張っていました。

この時、パプチャプは書簡で

「聞くところによれば、帝政ロシア、中国、モンゴル三国協定の結果は、
多くのモンゴル人の期待を裏切って締結され、
ハルハアイマクの領地もまた、中国の一地方と定められたと言うことである。
事実とすれば、それは、どうしても受け入れ難いことである」

と言っています。

外蒙古は、ロシアや中国の支援を受けるためには、
パプチャプ軍を攻めるしかありません。
そうなるとパプチャプの残された道は、日本の力、
それも清朝復辟の運動に乗ることしかなくなります。

彼らは、清朝の復活をねらって蜂起しようとしたのですが、
辺境のため武器弾薬の補充もままならず、
一度北方のハルハ河畔に移って兵力の充実を図り、
かっての満蒙独立運動にならって日本に援助を求めようとしたのです。

その為8月、小磯国昭少佐が参謀本部付けとなって満蒙旅行を命ぜられ、
また同地方には参謀本部から合計三つのグループが同じころ派遣されました。

ここで川島は、満蒙独立のために再度尽力することに決します。
そして対支連合会も動き出しました。
予備騎兵大尉の青柳勝敏、予備歩兵大尉の木澤暢らも
同士とともに蒙古調査のために、
パプチャプ軍のいるハルハ河畔に向かいました。

大正5年1月、青柳らはパプチャプ軍に加わり、木澤らは大連に集結、
川島も遅れて大連に到着、
そこに予備後備の軍人や大陸浪人も加わってきます。

3月下旬同志が集まって今後の作戦を協議しました。
武器弾薬の輸送の手はずも協議しますが、
大連の宗社党本部では、
パプチャプ軍南下の障害になる張作霖の殺害計画が立てられました。

5月27日、中村覚関東都督が奉天にやってくるので、
その時を狙って決行しようという物です。
いかに用心深い張でも、この時ばかりは出迎えにくる。
その帰りを狙おうというものです。

決死隊は三村グループ、それを支援するのが伊達順之助グループ。
斎藤正明が体に爆弾を巻き張の馬車に乗り込み自爆する手はずでしたが、
張が行きと帰りの馬車を替えたため失敗しました。

この失敗がもとで、日本政府は立場上、
挙事グループを解散させなければならなくなりました。
しかしパプチャプの動きまでは制御出来ません。

7月下旬、戦闘が始まりました。
張軍の増援部隊が続々到着しパプチャプ軍との戦闘が一週間も続いたのです。
満州各地での総決起が遅れると判断したパプチャプは、
方向を変え郭家店に移動、8月に郭家店を占領しました。

夜半に蒙軍側から入江らに参集の来電があり、
川島らは同軍に加わるべく移動しました。
これは、挙事を中止させなければならない田中義一次長にとっては
頭の痛い事です。

また、これとは別に、パプチャプ軍が郭家店を占領したころ、
近くの鄭家屯で一人の日本人が中国側の巡警に殴打、
連れ去られるという事件が起きました。

聞きつけた日本領事館の巡査が、
中国側の巡警局に行ったところ、押し返されたのです。
そこで、日本側の守備隊20名とともに向かうと、中国側が射ってきました。
日本側も応戦し、結局日本兵11名が戦死すると言う事件になりました。

鄭家屯には既に黒龍会のメンバーが駆けつけていて、
彼らの憤慨は大変なものでした。
彼らは、日本兵が殺された事で"日本の対支方針"を非難し、
かつ、「なぜ日本はパプチャプ軍を見殺しにするのか」と憤ったのです。

―――――――――――――――――

一方、郭家店近くで混乱が生じました。
張軍の近くには日本陸軍守備隊の兵舎がありました。

(これは恐らく張軍がわざと、日本軍兵舎のそばに布陣したと思われます。
第二次上海事変でも中国軍は英国租界のすぐ側に布陣して
日本軍の流れ弾が外国租界に当たるようにしていましたから。
こういうのは中国軍の伝統でしょう。
第三者を巻き込んで相手を非難させるのは)。

流れ弾が兵舎に飛び込んで来るので、
稲生田守備隊長が部下を率いてパプチャプ軍陣地に行き、
撤退を要請しました。
そして、これを約束させた後で、
張軍陣地に向かうとなんと張軍側は軍使に発砲してきたのです

(これも済南事件と同じで
軍使に平気で発砲して来る中国軍の伝統でしょう)。

この為、稲生田は公主嶺の日本守備隊に応援を依頼しました。
その間に、張軍軍事顧問の菊池大佐が来て休戦協定を結ばせました。

日本軍としては満鉄に被害があっては困るので、
パプチャプ軍に退いてもらう事にしました。
その代わり、パプチャプ軍に武器を与えるという条件でですが。
もっとも、このことは外務省には内密ですけど。

パプチャプ軍は9月2日引き揚げました。
ところが、張軍は陣地を構築してパプチャプ軍に攻撃を掛けたのです。
(これも、盧溝橋や、紀元前3世紀、
劉邦が項羽に対してとったのと同じ停戦協定破りです。
停戦協定をまじめに守って引き揚げる者を攻撃するのは中国の伝統です)。

この時、日本軍の公主嶺守備隊の一中隊が応援に駆けつけ、
パプチャプ軍は張軍を追い払いました。
パプチャプ軍は、ようやく内蒙古にたどり着きますが、
その入り口で張軍に攻撃され、パプチャプは戦死しました。

―――――――――――――――――

蒙古の独立運動は、中国の汚いやり方と、
日本の中国に媚びた態度で潰されます。
日本政府は、昔から中国に甘く、
助けを求めて来るものを見殺しにしていたのです。
日本のこの態度は"瀋陽の領事館に駆け込んだ北朝鮮人を、
中国の官憲が侵入して連行するのを許した"のと同じ態度でしょう。

―――――――――――――――――

また公平とか内政不干渉の美名の下に、中国の蒙古侵略を許してしまうのも、
現在、内政不干渉の名の下で、
中国のチベット侵略を許しているのと同じ事でしょう。
日本人の甘い性格は今も昔も全く変わっていません。

―――――――――――――――――

2回目の満蒙独立運動に夢破れた粛親王は2月に訪日を打診しますが、
日本政府は断りました。
日本政府は北京支持にまわり
「日本の復辟援助は事実無根」と言ったのです。
(これなども現在、中国の顔色を伺って
李登輝氏の訪日を拒否するのと同じ態度です)

大正6年3月、旅順の粛親王は軍再編成の命を出しました。
旧パプチャプ軍は再びハルハ河畔を出発、
6月初旬進撃に移りハイラルに入り、
そこでコロンバイルの独立宣言を発表しました。

驚いたロシアと中国は、
蒙古軍参加の日本人退去を二瓶領事に要請してきます。
そこでやむなく外務省と参謀本部は動き出し、最も効果的な方法として、
旅順の粛親王の滞在に圧力を加える事にしました。

その為、川島は妥協せざるを得なくなり、
無念の涙を呑んでやめることになりました。
(またも日本は中国にいい顔をして満蒙の独立運動を潰してしまいました)。
日本人が離れると、ロシア・中国の連合軍は蒙古軍を総攻撃し、
ここに蒙古の独立運動はついえました。

―――――――――――――――――

挙事に失敗した粛親王は大正11(1932)年2月旅順の邸宅で死去します。
川島は旅順に駆けつけ葬儀に参列、
粛親王の子供たちを引き取り、日本で教育を与えました。
廉子と芳子は川島の養女となり、
特に、芳子は男装の麗人、東洋のマタハリとなって活躍します。

また、粛親王の第一王子は満州国宮内府侍従武官に、
第七子は新京特別市長に、第14子はチチハル市長になりました。
満州事変は、いわば満蒙独立運動の最後の総仕上げでもあったわけです。
中国人に侵略された祖国を関東軍の手を借りて取り戻したのです。

1931年9月、柳条湖事件
9月下旬、遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル等は独立を宣言
10月、満州各地の代表が揃って、天津に溥儀を訪ね出馬を懇請
11月、溥儀、天津脱出
1932年、満州国建国、溥儀執政に就任

関東軍は、川島らの満蒙独立運動を陰で応援していましたが、
時の政府の中国への遠慮からことごとく潰されて来ました。
今回は日本人の生存が脅かされた為、政府の意向を無視して、
軍事行動に出て、ついでに満蒙独立運動もやったわけです。

満州事変は、日本の自衛行動であると共に満蒙独立運動でもあったわけです。

満州事変はこれで終わるのではなく、続きがありますが、
その前に、中国の反日激化と第一次上海事変をとりあげます。

―――――――――――――――――

『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)P291~294

日本は満州国の建設についてこう説明するのだ。
満州がかつて中国の一部だったことはない。
全く逆で、中国のほうが満州帝国の一部だった。
満州人が北京に在って中国を統治している限りは、
2つの地域の間に関係はあるだろう。

しかし、万里の長城が証明しているように、
満州王朝の統治時代でも、
満州の各省は中国の境外の地と考えられていたのだ。

1912年の革命で満州王朝は倒れた。
これによって中国と満州の法的関係は切れたにもかかわらず、
西洋列強は満州は中国の一部であるという
擬制(フィクション)を続けている、と日本はいう。

これに対して、不平等条約は満州王朝との間で結んだのだから、
外国に付与された特権は当然、満州にも及ぶ、
だから中国に対して満州まで主権を及ぼすよう求める現実的理由があると
いうのが西洋列強側の主張だった。
しかし、中国は確信をもって主権を主張することが出来なかった。

辛亥革命後の中国情勢は混沌としていた。
満州は1928年まで、老将軍、張作霖によって支配されていた。
彼は北京の中央政府に権力を得たこともあるが、
「中央政府」の中にいるときも外にいるときも、
満州を自分の私領と考えており、2度満州の独立を宣言しているのだ。

1928年、張作霖が爆死したあと、
息子の「若き元帥」(張学良)が父の領地と軍隊を引継いだ。
若い張は軍閥というよりプレイボーイだった。
彼の統治は実効性がなく、軍に対する統制もとれていなかった。
そして「共産系匪賊」が混乱に輪をかけていた。

事態をさらに悪くしたのは、若い張が親日より親英だったことである。
日本は、全列強と同じように、自分の勢力圏に「友好的」政府が欲しかった。
日本は1931年9月18日、張の無統制の軍隊が
日本が租借している鉄道を爆破したとして、懲罰行動に出た。
(いわゆる柳条湖事件:日本謀略)
これが我慢の限界であると日本はいうのだった。

日本の説明では、満州の独立運動は長い時間をかけてはぐくまれ、
現地住民が自発的に張の悪政からの独立を宣言できるところまで、
熟成していたのだ。
事件はそのきっかけをつくたにすぎない。
満州国民は若い張と彼の軍隊が戻って来るのを望んでいない。
独立を求める機運は満州全土に行き渡っている。
国民は既に「独立宣言」のために
瀋陽の「制憲議会」に送り出す代表を選出した。
この独立運動は「本物で、自発的で、国民の意思により、自然に生まれた」
ものであり、如何なる意味に於いても、日本の支援は受けていない。

日本は、独立戦争のときにアメリカを支援したフランスのように、
革命勢力を助けたに過ぎない。
満州国に於ける日本の役割は、
「共産主義の脅威」と軍閥の悪政から国民を守り、
近代国家への発展を助けることなのだ・・・。

このように米を納得させようとした日本は、最初の教育期間中、
イギリスの先生がどうやったら喜んでくれたか、思い出そうとしたのだった。
自分たちが革命を起こし近代化の努力をしていた時、
確かイギリスの先生は、社会の安定と国民の忠誠を確保する上で、
王政は優れた知恵だと教えてくれた。
そこで、新国家は満州支配の皇統を継ぐ満州王朝の王位継承者、
溥儀に父祖の地に戻って、新しい国を治めて欲しいと「請願」する。
そして、日本には満州と日本の相互防衛のために
軍隊の駐留を続けて欲しいと請願する。

これ以上合法的なことはないではないか。

しかし、リットン調査団は、そうは考えなかった。
報告は、連盟加盟国は満州国を承認すべきではない、と勧告した。

日本がリットン報告にびっくりしたのは当然である。

―――――――――――――――――

久保田文次編『萱野長知・孫文関係資料集』P232より
※萱野長知著『中華民国革命秘笈』序文から抜粋された個所

満州と支那は別物

・支那4千年の歴史で漢民族が満州を支配したことは
辛亥革命後まで一部分を除いて殆んどなかった。
(漢民族の王朝が全満州地域を支配下においたことは、
明代の一時期を除いて、一度もなかった。
しかし、満州南部の遼西・遼東地域は戦国時代から
漢民族系農耕民の居住世界であり、度々漢民族王朝の支配下におかれた)

・三民主義(内一つが民族独立)を掲げて辛亥革命を行ったくせに、
チベットや蒙古の独立宣言を認めず、袁世凱は侵略をした。

・中華民国政府が清朝と結んだ『退位協定』には、
「大清皇帝は辞位後も皇帝の尊号を廃止せず、
中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する」とあった。

・溥儀は自らの意志で満州国皇帝になった。

・国連加盟国が約50カ国しかなかった時代に、
満州国を世界の20カ国以上が承認。

・鉄道や都市開発等は日本をも凌いだ程で、
事変前の人口3千万人が10年後の1941年には4千3百万人に急増。

「満洲」というのは、トゥングース系の言語である「満洲語」、
自称 manju gisun を話す満洲族が住む地域のこと。

シナ語では、
地域は「満洲」Manzhou,民族は「満族」Manzu,言語は「満語」Manyu.

英語では「満洲」は Manchuria,
モンゴル語では Манж(ローマ字轉写すると Manzh)になる。

もちろん、トゥングース民族はロシア・シベリアにもいる。

【民族の独立】が辛亥革命の目標(基本政策)の一つだった。

【辛亥革命】
革命運動の目標(基本政策)として、
「民族」の独立、「民権」の伸張、「民生」の安定、
という3つ「三民主義」を掲げた。
1911年10月、孫文の中国革命同盟会が湖北省の武昌で反乱をおこすと、
16の省がつぎつぎと清朝からの独立を宣言。
各省代表が南京に集まり、
1912年には、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立させた。

辛亥革命で満州王朝(大清帝国)から独立する支那人たちが、
「満州と支那は別物」、
「満州は支那にとって外国」と認識していたのだから、
辛亥革命における『独立』は
当然満州王朝(大清帝国)からの『分離独立』を意味する。

胡漢民は「支那と満州は別物」と強く主張し、
孫文も「支那革命は万里の長城以北には関係せぬ」と述べていた。

――――――

同盟会創立当時の機関紙民報に「支那革命党の弁駁書」
と云う胡漢民の大論文を翻訳して載せてある
其の内容は『国民新聞』が満州政府は支那政府である
何の為に支那人が革命を必要とするかと論及したのに対して、
支那と満州は別物である。
之を同一視するには支那の歴史を知らぬものであると
国民新聞を痛切に駁論して居る処と、
孫公が露西亜亡客ドクトルゲルシヨニの懇請を退けて、
支那革命は万里の長城以外には関係せぬと断然ことわつて居る処と、・・・

―――――――――――――――――

林房雄著『大東亜戦争肯定論』

孫文以下の指導者も「中国にとっては満州は外国であり、
革命成功の後は、満州問題は日本に一任する」と公言していた。
――――――
その理由は「革命同志会」の標語は「倒満興漢」であり、
清朝を倒して元来満州人である清国政府を
その故郷満州に追い返すことを主張していたからである。
機関紙『民報』は「日本と革命中国の国民連合」を唱え、
孫文以下の指導者も「中国にとっては満州は外国であり、
革命成功の後は、満州問題は日本に一任する」と公言していた。
彼らは革命後にも漢民族の勢力は満州までは及ばず、
清朝は満州帝国を再建して、ロシア帝国と手を結び、
漢民族の敵国となるだろうと予想していたのである。

―――――――――――――――――

『ノモンハン事件の真相と戦果――ソ連軍撃破の記録』
小田洋太郎・田端元著

満州が支那ではないことは、支那人の英雄・孫文が言っていたのだ。

また、中華民国政府が清朝と結んだ『退位協定』には、
「大清皇帝は辞位後も皇帝の尊号を廃止せず、
中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する」とあった。

そして、大清帝国と列国が締結した各種条約は、
革命後、最初の支那政権、即ち袁世凱政権がそれを継承するといった。

袁政権崩壊後は、支那各地の軍閥政権が、その都合に応じて、
例えば、借款が欲しいとかいう都合に応じて継承するといったり、
突然豹変して関係ないといったり
(例えば、塩税や釐金税の徴収権など)など、
支那は到底『主権国家』等といえる状態ではなかったが、
その都度、列国が認める時の中央政府が形式上継承している形だった。

しかし、その都度態度が変るため、列国は権益保持のため軍隊を駐留させ、
軍閥政権が発作的に起す暴挙に対応する準備をしていた。

以上が、『大清帝国後の各種支那政府』と
諸外国との条約関係から見た継承関係だ。

更に日本の場合、今から100年以上前、
日本を守るためにはロシアに侵略されそうだった朝鮮を
守らなければならなかった。
そのため、日本軍は満州でロシア軍と戦った。

日露戦争後、関東州の租借地(遼東半島)と
南満州鉄道が日本のものになった。

それらの守備をするために関東都督府陸軍部が置かれた。

そして、1919年に関東軍となった。

「満州事変までの満州では武装盗賊が強盗殺人をやりたい放題」

張作霖、張学良親子は、武装盗賊の頭領で、
満州で強盗殺人をやりまくっていた。

――――――

清国衰弱と共に満州には多くの中国人が流入し、
日本の後援を受けた張作霖が独立国とした。
(張作霖、張学良が満州の民衆を搾取していた実態や、
張作霖の度重なる危機を関東軍が救った話は
古野直也氏著の近著「張家三代の興亡」が好著である)。

張作霖父子は中国征服に乗り出し、20年先の税金まで一般人から取り、
日本や朝鮮人にも法外な税金を徴収したり、
土地、会社などを没収したりしたので
日本に対する忘恩行為と言われたが、特に朝鮮人は虐待された。
(略)
当時、朝鮮人は日本人だったが、日本人としての権益を認めず、
朝鮮語、朝鮮服の使用を禁止したり、朝鮮学校の没収を行い、帰化を強制し、
あげくには帰化朝鮮人まで追放し、殺害、略奪の対象になった。

―――――――――――――――――

『リットン報告書』

支那に於ける主導的要素は徐々に行われつつある国民自体の近代化なり。
現代支那は其国民生活のあらゆる方面に於いて
過渡的証跡を示しつつ進展しつつある国家なり。
政治的擾乱内乱、社会的及経済的不安は中央政府の衰微をもたらすとともに
1911年の革命以来支那の特徴となりたり。
之等の状態は支那の接触し来れる
あらゆる国家に不利なる影響を及ぼし来れるものにして、
匡救せらるるに至る迄は常に世界平和に対する
脅威たるべく又世界経済不況の一原因たるべし。

以上のことから満州事変は、
関東軍が満州から武装盗賊を追い出した警察行動だったことが良く分かる。

当時の満州には3000万人の
「満州人・蒙古人・支那人・日本人(朝鮮人含む)・ソ連人」が住んでいた。
張学良が率いる盗賊軍は約20万人~30万人だった。
関東軍は1万人だった。

これは、人口3000人の村に、30人の武装窃盗団が蔓延って居て、
1人の警察官が居た状況と考えれば良い。
たった1人しか居ない警察官は、3000人の村民の強い要請や支援がなければ、
30人の武装窃盗団を村から追い出すことなんて不可能だ。

つまり、張学良の盗賊軍30万人を満州から追い出し、
満州国を建国したのは、1万人の関東軍だけの力では到底不可能であり、
3000万人の満州住民の強い要請と支援があったからこそ
実現したということだ。

たった1万人の関東軍が、30万人の張学良軍と3000万人の満州住民を相手に
「侵略」など出来る訳がない。

―――――――――――――――――

紐育タイムス北平通信 1931年10月20日

数千の満州避難民(大部分富有階級の支那人)の談話を綜合するに
彼等は連盟の主張するが如き現状の回復を望まず。
彼等の満州より避難し来れるは
支那兵及び土匪の乱暴を恐れたるが為めにして
日本兵を恐れたる結果にあらず。
彼等は張学良の秕政に苦しむよりは日本の支配下に生活せんことを欲す。
蓋し満州の支那軍閥は通貨を下落せしめ、
人民の生産物を無価値の紙幣を以て
強制的に買上げて外国の金貨に代へて巨利を収め、
人民の租税は悉く軍隊の支払に充つる有様なるを以て、
張学良の復帰を見るよりは
寧ろ日本の支配下に新なる支那政権樹立せられんことを望むものなり。
蒙古に対する支那の悪政は更に甚だしく、
官吏は土地を押収し重税を課し人民を飢饉に陥れる有様にて
人民は徐々に奥地に逃れつつあり。
特に最近日本兵より武装を解除せられたる支那兵は
蒙古に入込み掠奪放火を恣にし居る有様にて、
蒙古人は支那の悪政より免がるる為め日本の支配を歓迎せんとする状態なり。

ところが、国際連盟は、
満州国不承認と、日本軍の鉄道付属地への撤退を決議した。

―――――――――――――――――

東京裁判研究会編『共同研究 パル判決書(上)』(講談社)P696

日本が国際連盟の勧告に従わなかった事実は、大いに利用されている。
国際連盟は、他のどのようなことを討議するよりも前に
まず日本軍が撤収することを強要したのである。
一部の人たちが考えているように、国際連盟のこの態度は、
この事件の事情に鑑みて、
正当なものとはみなし得ないかもしれないのである。
日本軍の立場は、国境を侵した軍隊の立場とは異なっていた。

「まったく安全な自国の国境線内に軍隊を撤収させることと、
容易に包囲されうる外国領土内を走る鉄道沿線へ軍隊を撤収させることは、
まったく事情が異なるのである」。
この命令は連盟によって発せられた独断的なものである。
「しかしながら、だれでも、この命令が実行されることもなければ、
またそれを実行させることもできないということを承知していたのである。
もし日本がこの威嚇に屈服し、その軍隊を撤収した暁においては、
満州は以前よりもはるかに恐ろしい無政府状態
および悪政に委ねられたことであろうと思う」。

連盟自身は満州に立ち入って、
その秩序を回復しうる手段をもっていなかったのである。
また同様に連盟は、日本軍の安全を保障しうる手段をも
有してはいなかったのである。

―――――――――――――――――

『大東亜戦争への道』中村粲著

事変後の目覚しい治安回復と発展

昭和8年ロンドンタイムズ紙は「独立2ヵ年の満州国」に関する報道記事で、
次のように論評している。

「外来の訪客は過去1ヵ年に於ける満州国の財務上の
迅速な進歩に驚くであろう。通過は安定した。
一文の値打ちもない旧軍閥の不換紙幣の洪水に
悩まされていた満州国にとって、これだけでも計り知れぬ恩恵だ。」

「満州国に於ける在留外人は外国商権の将来に関して
懸念を抱いていることは勿論だが、
大体日本人の施設に対して好感を抱いている。
やろうということを実際にやる実践的な日本人を
相手とすることになって助かったというのだ。
30年も前から支那人がすぐ始めようと言っていた各般の計画が
いまや着々実施されるに至った」

「満州国は既成事実だといわねばならぬ。
2ヵ年前に於ける日本の行動の是非は、極東の現状乃至将来に対して
最早関連のない事柄だ。満洲は今や『啓蒙的開発』というのが
最も適切な過程を経過している。啓蒙的な一番いい証拠は、
三千万の民衆がこの過程から恩恵をうけていることだ。」

―――――――――――――――――

「満州国の最近の発展」 1934年11月23日
フィラデルフィアのアメリカ政治社会科学アカデミーにおける
斎藤博・駐米大使の講演

リットン報告書によれば馬賊は中国の歴史全体を通じて辿ることが出来、
且つまた中国の行政体がこれまで
一度として完全に鎮圧出来なかったものでもある。
その馬賊の問題に関連して、日本当局の「満州における日本軍部隊の存在は、
主要な馬賊グループを2~3年で消滅させてしまえるだろう」
という主張は今や実質的に実現された。
満州国誕生後2年半の間に、かつて鉄道沿線はおろか
町や村などにも出没していた馬賊は事実上鎮圧された。
いわゆる満州事変の発火点となった1931年9月18日夜の奉天での
運命的な衝突事件が起きる以前は、満州に10万人前後の馬賊がいた。
事件直後にその数は21万人にまで増えたが、
それは敗残兵の多くが馬賊の仲間入りをしたためである。
しかし今ではその数は僅か3万人にまで減少し、
彼らは事実上吉林省の森に被われた丘陵地帯に追放されてしまっている。

―――――――――――――――――

1934年末、満州を訪れたイギリス産業連盟の使節団の調査報告

『満州国住民は治安対策の向上と秩序ある政府を与えられている。
軍(満州事変以前に、満州を牛耳っていた軍閥)による
略奪と摂取はなくなった。
課税制度は妥当なもので、公正に運営されている。
住民は安定通貨を持つことができた。
輸送、通信、沿岸航行、河川管理、公衆衛生、診療施設、医療訓練、
そしてこれまで不足していた学校施設などの設備計画が立てられ、
実施されている。
こうしたことから、満州国の工業製品市場としての規模と将来性は
容易に想像することができる。近代国家が建設されつつある。
将来に横たわる困難はあるが、これらは克服され、
満州国と他の国々の利益のために、
経済繁栄が徐々に達成されるものと期待される』

―――――――――――――――――

Japan On the Globe 地球史探訪:満洲 ~ 幻の先進工業国家
傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に
年間100万人以上の中国人がなだれ込んだ理由は?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog239.html

完成後に見学に訪れたフィリピン外相は、次のような歓声を発したという。

『フィリッピンは、スペイン植民地として350年、
アメリカの支配下で40年を経過している。
だが、住民の生活向上に大きく役立つものは一つも作っていない。
満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか』

―――――――――――――――――

【年表】
満蒙独立運動、復辟運動、張作霖の独立宣言、満州事変、満州国建国

●1911年、辛亥革命が起こる。

●1912年
1月、中華民国成立宣言。首都:南京。
モンゴルやチベットなど諸民族も独立宣言。
2月2日、清朝の皇族・粛親王、川島浪速らの手で北京を脱出、
旅順に保護【第一次満蒙独立運動】

●1916年、蒙古馬賊の巴布札布(パプチャップ)が
日本軍部や旧清朝の粛親王の後押しを得て軍事行動【第二次満蒙独立運動】

●1917年
4月30日、張作霖が国民政府から独立を宣言。
7月1日、張勲が北京で宣統帝の復辟を宣言。康有為らが参加。

●1922年5月12日、張作霖が東三省の独立を宣言。

●1924年11月29日、溥儀が日本公使館に移る。

●1925年2月23日、溥儀が北京の日本公使館を出て天津の日本租界に移る。
復辟をめざす鄭孝胥や羅振玉らが側近となる。

●1927年
3月24日、南京暴動(第一次南京事件)
7月25日、張作霖が満鉄併行線敷設禁止協定を無視して満鉄併行線を建設。
米国は張作霖に資本提供。

●1928年
5月3日、済南事件。北伐軍が山東省済南市に入城、
邦人経営商店での略奪行為をきっかけに日本軍と衝突。
日本の被害は、戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、
暴行侮辱30名余、奪被害戸数136戸、被害人員約400。
6月4日、張作霖が爆殺される。
7月、支那兵たちの一団により東陵(清朝代々の皇帝の墳墓)が
爆破・盗掘される。溥儀は国民政府に抗議。

●1931年
6月27日、満州で中村大尉殺害事件。
満州を地理調査中の中村大尉が行方不明になり、
やがて支那人部隊に殺害されたと判明。
7月2日、万宝山事件。
満州の長春の北にある万宝山で朝鮮人農民(日本国籍)が
支那人農民に襲撃されたため、朝鮮の各都市で朝鮮人が支那人を大虐殺。
排日運動がさらに激化。米国は張学良に兵器工場建設を援助。

★9月18日、柳条湖事件(満州事変勃発)
関東軍が張学良軍を追放。
遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル等は独立を宣言。
満州各地の代表が溥儀に出馬要請。
11月10日、溥儀、天津を出発。

●1932年3月1日、満州国建国宣言。首都:新京(長春を改称)
溥儀、満州国の執政(国家元首)に就任。
9月15日、日本が満州国を承認。

●1934年3月、溥儀、満州国の皇帝に即位。

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◆中国の逆恨みと反日激化

満州事変が起こるや、中国は、自分達の悪逆非道・満蒙侵略を棚に上げ、
日本を逆恨みして、日本が侵略していると罵り、外国に訴えました。
まるで自分達のものが盗まれてるかの様にです。

彼らが盗んだものを、真の所有者に取り返して上げた、
行為を泥棒だと錯覚しているのです。
自分達の悪に気づかない中国は、逆恨みの反日・排日を激化させます。

長沙、南昌、北京、上海等その他の都市では全国的に反日市民大会が開かれ、
寧波の大会では「対日宣戦、永久反日」が決議され、
漢口、武漢を中心とする湖北救国会では
次の様な「排日十大方針」が宣言されました。

一、日貨を買わず日貨を用いず

二、日貨を積まず

三、日本船に乗らず

四、日本人と往来せず

五、日本人に雇われず

六、日本人を雇わず

七、日本の銀行に預金せず

八、日本人に食料を供給せず

九、日本に留学せず

十、日本で商売せず

です。

この十大方針は、各地に同調の輪を拡げ、
日本人居留民に暴行を加える傾向も高まって来ました。
そして、国民党中央常務委員会は、
高等中学校以上の学校に「青年義勇軍」、
初等中学校以下に「童子義勇軍」を組織させ、
各学校の教職員、学生に「不買日貨」を宣誓させました。

これら「義勇軍」には、このほか各自の胸に
「団結奮闘雪恥救国」と墨書した白布をぬいつけ、
毎朝の朝礼のさい「誓雪中国国恥」、「恢復中国領土」、
…等のスローガンを高唱することが義務づけられます。

これら国民党政府の煽る反日は、次第に激化し、
遂には、政府の統制の利かない所まで行ってしまいました。
日本に宣戦を布告しない政府を軟弱と非難し、
暴動を起こすようになったのです。
蒋介石の罷免を要求したり、
政府要人に対してまでテロをするようになります。

こういう状態ですから、
日本人に対するテロや暴行は当然のように激化していきます。
それは、上海でも例外ではありません。

―――――――――――――――――

◆第一次上海事変

日本人が、生きて行けないまでに圧迫された為、
関東軍が自衛権を行使すると、中国は逆恨みして排日運動を激化させました。
上海でも反日感情が高まります。
上海居留民団の記録によれば、満州事変から年末の3ヶ月間で、
商社・商店・個人が受けた略奪・暴行などの被害件数は二百件を超え、
とくに通学児童に対する妨害、悪戯は七百余件にも達した、との事です。

そんな折、上海で日本人僧侶一行が中国人に襲撃され、
二人が重傷、一人が死亡するという事件が起きました。
彼らは寒行に行く途中、
馬玉山路のタオル工場『三友実業者』近くで襲われたのです。

翌日、村井総領事が犯人の逮捕と処罰を要求すると、
中国側は「関係者多数につき真犯人は判明せず」と答えました。

これに激怒した「青年同士会」員30人が夜中に『三友実業者』に行き、
物置に放火して半焼させました。

帰り道、中国人巡警にみつかり、
銃撃・乱闘となって双方に死傷者を出しました。
「青年同士会」員らは、総領事館に自首し、
村井総領事は事件を工部局に伝え、
被害者の中国人巡捕に見舞金をおくる用意がある旨伝えました。

しかし、激昂した居留民団は納まりません。
「大会」を開き、次の決議を採択します。
「…今や抗日暴状は其の極に達す。帝国は肚を決め直ちに陸海軍を派遣して
自衛権を発動し、抗日運動の絶滅を期すべし」と。

その後、興奮した八百人が、
総領事館、海軍陸戦隊本部にデモ行進をしました。
総領事館で「善処する」との村井総領事の返事を受けた一行が
北四川路を通行していると、中国人靴店と隣の洋品店の階上から、
ビールびん、棒切れが投下されました。
そこで、一行は両店のショウ・ウィンドウを粉砕した後、
隊伍を整えて行進していると、今度は、工部局外人警官13人が走りより、
数人の頭を殴りつけました。
そこでデモ隊は向きを変え、逃げ遅れた二人の警官を袋叩きにしたのです。
行進を再開すると、今度は行きかう電車、バスの車掌が
吐き出す罵詈が聞こえたので、
デモ隊は近づく電車とバスを襲撃し、三度行進を再開しました。

陸戦隊本部では鮫島大佐が応接し
「万一の際…断固たる処置に出る覚悟を持っている…から、
よろしく我々を信頼されよ」と諭し安心させました。
鮫島大佐は、また問題を起こさせないよう、帰路に陸戦隊の警護をつけます。
日本側のこの興奮は中国側をも刺激し、
学生・労働者を含む数十人の中国人男女が群がり、
夜を徹して反日、抗日のスローガンを叫び続けました。

そして翌日には、『民国日報』が「青年同士会」の『三友実業者』襲撃
について、「日艦陸戦隊が鉄甲車四輌とともに
便衣日浪人70余人を支援して実施した」と嘘の記事を載せたのです。

鮫島大佐は、陳謝と責任者処罰を申し入れます。
反日感情はますます高まり、
市中には日本人を見つけ次第殺せとのビラが撒布され、
第19路軍は戦闘準備を下令しました。

この頃、上海に日本の軍艦が多数やってきました。
これは前年の租界防備委員会で日本の担任区域が拡大された為、
その配備の為の陸戦隊員を乗せてきたものです。
これが中国側の反感をよけいに誘いました。
陸戦隊員が所定の配備位置に行く途中で
中国軍に挟撃され第一次上海事変の幕は切って落とされます。

この後、大変な激戦となりますが外国の仲裁で停戦協定が結ばれ、
上海に非武装地帯が設けられました。
(ここまでの所、児島襄著『日中戦争』より抜粋要約引用)

尚、最初の僧侶襲撃については、
田中隆吉という人が自分が仕掛けたと言ってますが、
今一信用できないところがあります。
と言うのは、彼は、"関東軍参謀板垣征四郎大佐から
「上海で事を起こして列国の注意をそらして欲しい」と頼まれ、
中国人を買収して襲わせた"と言ってるのですが、
僧天崎は道を間違え予定の道とは違う道を通ってしまったのです。
にも拘らずその間違えた道で襲われました。これはどういう事でしょうか。
考えられる事はただ一つ、
田中隆吉の企みとは無関係に襲撃されたということです。
もしかしたら、田中隆吉は、やってもいないのに、
さも自分の手柄のように吹聴しただけかも知れません。
今でもそういう人は沢山いますから。

―――――――――――――――――

第一次上海事変の経緯については、他にもnmwgipさんの投稿が
非常に分かり易くまとめられていたので紹介させて頂く。

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南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

2007/ 2/15 2:16 No.16390 投稿者 : nmwgip

第一次上海事変の経緯

1.1月18日、日蓮宗の2僧及び3人の信者が
中国人経営のタオル工場「三友実業社」前で
同社の職工百余人から投石・暴行を受け、3名が重傷、1名が数日後死亡。

2.日本人居留民「上海青年同志会員」32名が
「三友実業社」に対し抗議を行うも、激昂の余り同社に放火、
駆けつけた中国人警官2名を殺害し、2名に重傷を負わせる。
但し、日本人も1名が射殺されている。
この不法行為を働いた日本人首謀者は総領事館に自首し、
首謀者は長崎地裁で懲役1年6ヶ月の判決を受けている。

3.国民党系新聞が「上海青年同志会員」の暴行を
日本軍の使嗾によるものと報道。
日本軍はこれに抗議。
租界当局はこの新聞社を租界の秩序を乱したとの理由で強制閉鎖。

4.1月21日、日本総領事が上海市長に対し、
日蓮宗僧侶暴行事件に対する謝罪と加害者の逮捕処罰等を要求。
また居留民に対し、不法行為は日本の国法で処罰される旨警告。

5.事態収拾のため、海軍が巡洋艦、駆逐艦、航空母艦を上海へ増派。
上海の海軍司令官塩沢少将は日本総領事が上海市長に
要求した謝罪等の対処を強硬に要求する声明を発するとともに、
1月22日、急進派居留民と会談。急進派は示威活動を停止する旨を声明。

6.1月28日朝、日本総領事館に爆弾が投げ込まれる。

7.1月28日午後3時、上海市長は日本総領事の要求を受諾。

8.塩沢司令官、上海に布陣する中国軍の撤退を要求。

9.1月28日午後4時、租界当局が戒厳令を宣布。
上海駐屯の各国軍が担当警備地区に配備開始。

10.日本海軍陸戦隊が日本軍担当地区に配備を開始したところ、
便衣隊の狙撃を皮切りに、中国軍より機関銃の猛射を受け、自衛のため反撃。
(信夫淳平著『上海戦と国際法』及び戦史叢書を参照)


これが第一次上海事変の始まり。
日蓮宗僧侶暴行事件を兵力増派の口実になどしていない。
増派が決定されたのは、日本人居留民が暴発してからだ。
そんなものを口実にしなくても、
日本軍は上海に駐留する権利を有していたし、
日本軍は寧ろ、日本人居留民がこれ以上暴発しないよう抑えていた。
どんな憶測・曲解を並べようと、
日本が布陣したのは日本軍が担当することが予め認められていた地区であり、
第一次上海事変で先に攻撃を仕掛けてきたのは中国軍だ。
また、一部で垂れ流されている、
日蓮宗僧侶暴行事件が日本軍の陰謀によるものだ、
等という妄説には全く根拠がない。

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)P273~274

中国全土と同じで、福州でも収奪目的の学生秘密結社が
いくつも存在していて日本人も被害に遭っていた。
ある日本人教師夫妻が標的にされた。「殺す」と脅されていた。
脅された教師には何の咎もなかった。

ただ、家が中国人の家の近くにあり、
警備が十分でないのでカモにされたのである。
日本人子女の先生だから、中国人と接触し挑発することはない。
日本総領事は、ばかばかしいことではあるが、
主権国家に対する礼儀を重んじ、
福州当局やら警察やらに状況を説明し、警備を要請した。
日本側でできるのではあるが、
そうすると主権国家間の慣行に反すると判断したのである。

要請を受けた中国側は教師宅の前に中国兵を配置した。
この中国兵は、数日間は交代で24時間警備に当たった。
ところがある夜、何の前触れもなく、消えた。
説明も何もなく突然いなくなったのである。
策を講じるまもなく、夫妻は襲われ、殺されてしまった。
信頼させておいて寝首を掻く中国の軍隊、警察のいつものやり口である。

当局が秘密結社と組み、殺害させたのではないとしても、
ぐるになって襲撃の時に警備を引き揚げさせたとしか思えない。
日本人の怒りは頂点に達した。

田村総領事は中国当局役人を呼び、こう述べた。
「非難するつもりはないが、双方の同意に基づいた警備に
落ち度があったから今回の事件が起きたのである。
この重大な過失に対し、ご遺族に5万ドル賠償願いたい」。

対する中国側は言を左右してまともな返事をしない。
業を煮やした田村総領事が、
「よろしい。これ以上申し上げることはない。
後はそちらのご判断しだいである。
一言申し添えるが、当方はすでにことの詳細を海軍に打電し、
軍艦数隻がこちらに向かっている。
おわかりかな。熟慮のほど、重ねてお願い申し上げる」
と席を立とうとすると、
中国側は「艦砲射撃を喰らっては職も失う」と思ったのか、
「局に持ち帰って相談してみます」と持ちかけた。
「5万ドル耳をそろえて持ってくるまでは面会無用」と席を立った。

徹夜で相談した中国側は、
明け方になってようやく5万ドルを現金で持ってきた。
直後、日本の軍艦が到着した。
艦長たちは事が収まったと聞いてがっかりしたに違いない。
これは第一次上海事変の1ヶ月前のことであった。

―――――――――――――――――

◆中国の満州侵犯と熱河作戦

中国は、自分達の悪逆非道を棚に上げ、
日本の自衛行動を侵略と逆恨みしました。
元々、自分の物でもない満州を侵略しておきながら、
本来の持ち主に取り返して上げる行為を侵略と逆恨みしているのです。
盗っ人猛々しいとはこの事です。

日本は、侵略者の中国に"侵略"呼ばわりされるいわれはありません。
満州人に言われるのなら別ですが。関東軍の軍人が横柄で、
皇帝をないがしろにしていたのは事実です。
ですが、それもある程度、仕方がなかった事です。

中国が常に再侵略を狙っていましたし、
出来たばかりの満州国に自衛能力はありませんから。

また官僚組織も不十分でしたので、
いきおい関東軍が指図することになります。

しかし、これも時が解決したでしょう。
軍人はしょっちゅう移動させられますし、
時が経てば建国の功労者もいなくなります。
その時には国の整備も整い、真の独立国になれたかも知れません。
あまりにも早く潰された為に判らなくなりましたけど。
だが満州事変は、いくつかの地域を占領しただけでは終わりません。
これを防衛しなければならないからです。
中国軍がいつ反撃してくるか判りませんので。

遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイルなどは独立宣言をしましたが、
その他の地域は手つかずで残っています。
最初、日本は中国東北辺防軍のいる錦州は攻撃しませんでした。
それは、政府が中国と全面戦争になることを恐れていたからです。

関東軍は馬賊の討伐もやっていますので、
これを追撃すると錦州に逃げ込みます。
関東軍が手を出せないので、錦州が馬賊の聖域となっていました。
そしてこの馬賊は中国東北辺防軍の別働隊でもあったのです。

また錦州政権の存在は
関東軍占領下の小軍閥の動きにも影響を与えていました。

そこで、関東軍は錦州を何とかしなければと考え、
錦州を爆撃する事にしたのです。

といっても爆撃機ではなく偵察機で、
しかも人が手でもって落とすだけですけど。
従って、たかが知れています。

では何でそんな事をしたのかというと、目的は軍事効果ではなく、
それによって、お目出度い政治家の頭を吹き飛ばす事にあったのです。

後に日本は交渉で張学良軍を山海関の外に移動させます。
しかし、これで、満州国が安定したわけではありません。
昭和7年7月17日午後1時ごろ、
満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が
両省の境に近い南領~朝陽寺間にさしかかった所、
一隊の武装兵が停車を命じ、
乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。
犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。
熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。

満州を追われた張学良は、
4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。
そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。
結局、熱河省も制圧しない事にはどうしようもないと判ったからです。
関東軍は昭和8年熱河作戦を行い、
結果、本来、満州の領域である熱河省の回収にも成功することになります。
この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。

ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、
結局、長城の南にも行かざるを得なくなったのです。
その時、関東軍は、天津・北平(北京)に迫る勢いを見せました。

これは不都合ですからやめさせなければなりません。
長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、
南に行くとその理屈が通らなくなります。
外国から見ると侵略に見えます。だから止めなければなりません。
ところが現場がなかなか止まりません。

というのは中国兵を南に追いやっても、
関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。
だから"もっと遠くへ"とやっている内に、こうなったのです。
しかしこれでは際限がありません。

そこで"中国軍が二度と満州を侵略できないようにと
《北京北方から密雲以東、長城線から約五~六十キロの深さの河北省》
を非武装地帯にする"という塘沽停戦協定を中国と結んで、
関東軍は長城の北に引き揚げました。
これにて、満州事変は終了します。

しかし中国側は納まりません。
つねに満州再侵略を試み、また中国国内での排日運動を激化させます。

―――――――――――――――――

塘沽協定から冀察委員会まで

停戦協定が結ばれたからといって、
ハイそうですか、と引き下がる中国ではありません。
執拗に満州再侵略と非武装地帯侵犯をくりかえします。

1934年(昭和9年)11月 
宋哲元の部下の馮治安の部隊が突如、熱河省を侵犯し、
大灘西方20キロの断木梁という部落に進出して来ました。

そこで怒った関東軍が、
どこまでも追撃し宋哲元の本拠地近くまで迫ったのです。

困った宋哲元は、天津軍司令官梅津少将の所に泣きつき、
天津軍のとりなしでやっと関東軍は追撃を止め引き返しました。

1935年5月3日、天津の日本租界で、
国権報の社長胡恩傳と振報社の社長白逾桓の二人の親日分子が
白昼何者かに襲撃され、命を落とす事件がありました。

これについては、米公使ジョンソンは北京憲兵の関与と言っています。

また塘沽協定で設けられた緩衝地帯には、いつのまにか匪賊がはびこり、
彼らは「抗日義勇軍」を名乗って、
5月24日、長城を越え熱河を侵犯しました。
これもどうやら河北省主席である
第51軍長于学忠が後で糸を引いていたようです。
便衣隊の侵入、共産党の策動などで、河北は物情騒然となって来ました。

天津軍の任務は本来
《北京・山海関間の鉄道の保全、並びにこの間に居住する居留民の保護》
だったのですが、現状ではこの任務も危うくなります。
そこで「こんな事では困る!」と短気な酒井参謀長は、
華北粛清対策案を起案紙に一気呵成なぐり書きしました。

通告
一、最近華北に頻発しつつある排日・侮日の諸現象は、
方(ひと)しく塘沽協定の破壊行為たると共に、
また北清議定書の精神を蹂躪するものなり、
我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、
条約上の権限に基づき、今後自衛上必要と信ずる行動に出るある事を通告す。

二、これを未然に解決せんが為、左記各項の即時実行を要求す。

イ、軍事委員会北京分会、憲兵第3団、国民党本部、
政治訓練所、藍衣社等の一律撤去。

ロ、黄杰の第2師、関麟徴の第25師等、中央直系諸軍の華北撤退。

ハ、河北省政府主席于学忠、憲兵第3団長蒋孝先、
藍衣社主任劉一飛等の罷免ないし処罰。

ニ、排日侮日行為徹底取締りの確約 

以上

というものです。

そして、これを北京の何応欽の所に持って行き、談判して呑ましたのが、
梅津・何応欽協定です。

その次に、中国軍の熱河侵犯があまりにも執拗なため、
6月28日、土肥原少将は断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、
新たに《京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する》
という協定を秦徳純に結ばせました。
これが、いわゆる土肥原・秦徳純協定です。

中国は屈辱的な協定を耐えて飲みますが、
それで大人しくしているわけではありません。
次の手段として、幣制改革を打ち出しました。

これは中国の通貨を英国の通貨にリンクさせ、
英国の経済と一体化させて、日本の影響力を排除しようというものです。

これが成功し北支が経済的に国民政府のコントロール下に入れば、
北支に交易の基礎を置く満州国は、重大な経済的脅威にさらされます。

危機を感得した、関東軍と支那駐屯軍は、
「北支を南京より経済的に分離するしかない」
と考え分離工作を始めました。
そこで11月25日、
土肥原少将は殷汝耕を長官とする冀東防共自治政府を成立させたのです。

また土肥原少将は、宋哲元に独立政権を樹立させようと、
日夜腐心していましたが、
南京行政院は、そうはさせじと先手を打って
12月11日に冀察政務委員会設置法案を満場一致で可決し、
その委員長に宋哲元を任命しました。

(幣制改革を除く大部分 
寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より引用)

(幣制改革の部分は児島襄著『日中戦争』より引用)

梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府設立等、
これらの一連の行為を日本の華北侵略と言う人もいます。

が、そうせざるを得ない様に仕向けたのは中国です。
別に日本は侵略したくてそうしたわけではありません。
中国が執拗に満州を再侵略し、テロで北支の治安を乱し、
意図的に日本が困るようなことを企むものだから
日本が自衛策をとっただけです。
中国が最初から友好的な態度をとっていれば起こらなかった事です。

―――――――――――――――――

満州事変は侵略か

世間一般では日本が満州を侵略したことになっています。
そしてそれに都合の良い材料はゴマンとあります。
しかし、果たしてそれでいいのでしょうか。
満州事変が起こるまでには、長い中国の反日策謀と嫌がらせがありました。
日本はこれに耐えていたのです。

第一次南京事件における、日本領事館襲撃、
居留民に対する暴行・乱暴狼藉、そして済南における大虐殺等、
これら“人間の所業とも思えない”中国人の暴虐に
警戒感を抱いた日本人が、
満州を分離しようと考えても不思議ではないでしょう。

満州はもともと中国人の土地ではありません。満州人の土地です。
従って、分離しても何の問題もないはずです。
中国が辛亥革命で清朝を倒した時、他の民族も独立を宣言しました。

ところが中国は、蒙古や他の民族の独立を認めないと言うのです。
自分たちが、満州人の支配を脱して独立したにも関わらず。
そのことから、満蒙独立運動が起こり、中国は満蒙を侵略しました。
そして、そこにある日本の利権を侵害したのです。
中国の圧迫は段々激しくなります。
一方、済南虐殺事件を見るに及んで
河本大佐は中国の動乱を満州に入れないため、張作霖爆殺を決行しました。

ところが、これが中国の迫害をさらに激化させ、
日本人の生存権をことごとく奪う挙に出られたわけです。
その為、こらえ切れなくなった関東軍が自衛行動を起こし、
本来の土地の持ち主に返して上げる挙に出たのです。
元々中国が、満州を侵略していたのです。
日本は土地を本来の持ち主に取り返して上げたにすぎません。
侵略者の中国に、侵略呼ばわりされるいわれはありません。
満州人に言われるのなら別ですが。
関東軍がふんぞり返り、満州を我が物のように扱っていたのは事実です。
しかし建前は独立国です。
朝鮮や台湾と違って日本に併合していません。

ということは、将来において真の独立国になれる可能性は残されています。
侵略を邪魔された中国は、逆恨みして、反日運動を激化させ、
執拗に満州再侵略を試みました。
この事が熱河作戦をよび、それが長城の南に非武装地帯を作るという
塘沽停戦協定を招いてしまったわけです。
それでも、中国は、執拗に満州侵略を繰り返します。

その為、“断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、
新たに《京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する》”という
新たな土肥原・秦徳純協定を結ばせられてしまいました。
それでも尚、緩衝地帯へ匪賊を侵入させ熱河を侵犯させたり、
はたまた華北に便衣隊を送り込み、共産党の策動を許して、
華北を物情騒然とさせたりするものですから、
梅津・何応欽協定を結ばされてしまったのです。

ところがそうすると、
中国は経済改革でもって満州国潰しを画策してきました。
その為、土肥原少将は、満州国防衛のために、
やむなく、北支に親日的政権を樹立させることにしました。
別に日本は侵略しようとして、そうしたわけではありません。
中国が執拗に攻撃してくるからそれに対応し、自衛していただけです。

中国は、自分の攻撃を隠し、日本の反撃を侵略と宣伝します。
中国が先に何をやったかを見ずに、
山東出兵、張作霖爆殺事件、満州事変、錦州爆撃、熱河作戦、
長城作戦、関内作戦、北支に非武装地帯設定、
梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府と並べれば、
日本の侵略に見えるでしょう。

でも先に中国が何をしたかいう事に気づけば、
全てが逆である事が見えてきます。
中国は、先に殴っといて、反撃されると「侵略だ!」と言ってるわけです。
彼らの無分別な乱暴を抑止する行為を侵略と言ってるのです。
日本の行為を侵略と言うのは簡単です。
教科書も世論も外国も皆そう言ってますから。
証拠を挙げる必要もありません。それは一番楽なやり方です。
しかし、その前に中国が何をしたかを知るべきでしょう。

―――――――――――――――――

満州を侵略したのは中国

辛亥革命で清朝が滅んだ時、蒙古・ウィグル・チベット等、
清朝に征服されていた諸民族は独立を宣言しました。
ところが中国は、これを許さず侵略に乗り出したのです。
自分たちが満州族の支配を排して独立したにも関わらず。

当然、満州も自分とこの物と決め付けています。
この考え方の不自然さに気づかない日本人が沢山います。

満州族から独立した中国が、
「満州は自分の物」と言うのは、
日本から独立した韓国が「日本は韓国の物」と言う様な物です。
そして中国が「蒙古やウィグル、チベット、台湾等を自分の物」
と言うのは、
韓国が「台湾や南洋群島を自分の物」と言うのと同じ事なのです。

満州族が中国を支配し
《同様に蒙古やウィグル、チベット、台湾等を支配していた》のです。
それは、日本が韓国を支配し、
《同様に台湾や南洋群島を支配していた》のと同じ事でしょう。

そんな中国の理屈が通るのなら、
韓国が日本や台湾を自分の物という理屈も通ります。
満州は、中国の領土ではありません。満州人の土地です。

中国が満州・蒙古を侵略していたのです。
満蒙の人達は中国の侵略に抵抗していました。

日本政府は中立と称して満蒙独立運動を見殺しにしていたので、
日本の民間人有志(本土から来た連中、のち右翼と呼ばれる)
がこれを応援していたのです。

日本政府が「日本人有志の行動」を妨害したため、
中国の満蒙侵略は順調に進みました。
侵略者中国は図に乗って、日本人居留民を迫害、法律を無茶苦茶に変え、

日本人が生きていけないまでに追い詰めたため、関東軍が立ち上がり、
一向一揆のように暴虐な侵略者を追い出し、満蒙独立運動を助けて、
土地を本来の所有者である満州人に取り返してあげたのです。

1931年9月、柳条湖事件

9月下旬、遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル等は独立を宣言

10月、満州各地の代表が揃って、天津に溥儀を訪ね出馬を懇請

11月、溥儀、天津脱出

1932年 満州国建国、溥儀執政に就任

出来たばかりの満州国に自衛能力はありません。
官僚組織も不十分です。いきおい関東軍が指図することになります。
なにしろ中国が常に再侵略を狙っていましたから。
この後も中国は満州を度々侵犯します。

中国が満州を侵犯したため関東軍は熱河作戦を断行、
結果、本来の満州の領域を回収しました。

次に、中国が長城の南から熱河を侵犯したため、長城作戦を行い、
長城の南へと反撃、長城の南に非武装地帯をつくる塘沽停戦協定を結んで
事変は終了しました。

ところが、1934年(昭和9年)11月 
宋哲元の部下の馮治安の部隊が突如、熱河省を侵犯し、
大灘西方20キロの断木梁という部落に進出。
1935年5月24日、「抗日義勇軍」を名乗る匪賊が
長城を越え熱河を侵犯したのです。

そこで土肥原少将は、6月28日、断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、
新たに《京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する》
という協定を秦徳純に結ばせました。

いわゆる土肥原・秦徳純協定です。

2年後日中戦争が始まりますが、
戦後、日本がいなくなると、
中国は、早速、満州・蒙古・ウィグル・チベットを侵略し、
満州の地名を抹殺しました。満州語は既に絶滅の危機に瀕しています。

というわけで、満州を侵略したのは中国です。
日本はそれを一時中断させたに過ぎません。

日本は、満州国というカイライ政権を作り侵略したと言われますが、
少なくとも満州国は独立国でした。建前だけでも。
ところが中国は満州を完全に中国の一部とし、
満州という地名すら抹殺したのです。
どちらが悪質か明らかでしょう。

日本に満州侵略を妨害された中国は、逆恨みしてテロを激化させます。

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

◆日本人記者惨殺事件

満州事変以後、中国では反日が激化し、国民党中央常務委員会は、
高等中学校以上の学校に「青年義勇軍」、
初等中学校以下に「童子義勇軍」を組織させ、
各学校の教職員、学生に「不買日貨」を宣誓させました。

そして、これら「義勇軍」には、
各自の胸に「団結奮闘雪恥救国」と墨書した白布をぬいつけ、
毎朝の朝礼のさい「誓雪中国国恥」、「恢復中国領土」、…等の
スローガンを高唱することを義務づけたのです。

こうやって反日で高揚させられた学生達が、
成都で日本人記者惨殺事件を起こしました。
以下は児島襄著『日中戦争』の要約引用です。

―――――――――――――――――

1936年5月、日本政府は1931年以来閉鎖していた成都の総領事館を
再開しようと岩井英一領事代理を派遣しましたが、
中国は上海で「成都駐在」を拒否しました。
川越大使が「ともかく行け」というので、岩井は重慶まで行きましたが、
中国側が「護照」(通行証)を発行せず、
飛行機の搭乗券も売らないので、結局あきらめました。

一方、岩井領事代理には、上海から四人の同行者がありました。
『大阪毎日新聞』上海特派員渡辺洸三郎、『上海毎日新聞』記者深川経二、
南満州鉄道上海事務所員田中武夫、
漢口の『瀬戸洋行』店主瀬戸尚の四人です。

彼らは、ともかく行く事にしました。瀬戸は商用で、他の3人は取材でです。
総領事館開館には関係ないので、「護照」はすぐに発行されました。
四人が成都に着くと「日本総領事館開館反対」の民衆大会が開かれ、
「岩井領事は即刻四川を去れ」のビラが貼られていました。
彼らは『大川旅館』に投宿します。
そうした所、四人の部屋に中学生達が押しかけ、
在室していた渡辺洸三郎と瀬戸尚の前でビラの文句を読み上げ、
二人をにらみつけて立ち去ったのです。
学生達が護衛の警官と大声で押問答をかさね、
次第に市民たちも内庭に集まってくるので、
警官は、しっかり鍵をかけて外に出るなと指示しました。

午後五時ごろ、階下からガラスが割れる音、家具を打ち壊す音が響き、
その音が一階から二階へと上昇して来、四人は危険を感じたので、
室内の机、椅子をドアにあてがって防禦物としました。
そうしたところドアの上半部が破られ、
破口から中学生がのぞきこみ叫びました。

中学生の叫びを合図に体当たりが加えられ、
バリケードを蹴散らして十数人が乱入してきたのです。
四人は「護照」を示し、総領事館と無関係であることを説明し、
相手はようやく部屋を出て行きましたが、

ものの30分もすると、また群衆が押し寄せ、
前にも増して激しく打ち壊しをするようになりました。
中国人警官はこの間に約40人に増員されていますが、
丸腰なので静止できません。
群衆は、またも四人の部屋に乱入し、
今度は「殴れ」「殴れ」と叫びながら四人に殺到してきました。

たちまち、深川経二が異様なうめき声をあげて倒れ、
田中武夫は、その後は自分の記憶しかないと言っています。
田中は両手を縛られた後、財布、時計その他身につけたものを略奪され、
外に引きずり出されましたが、
旅館の庭、周辺は群衆で埋め尽くされていて、
群衆は口々に田中を罵りました。

現場には、警備司令部から派遣された武装兵士約二百人が来ていたのですが、
発砲して群衆を解散させるでもなく、傍観していました。
学生が田中を連行してくると、兵士が田中を引継ぎ市中を引き回しました。

次々に群衆の殴打を受けながら夜の街を歩かされていましたが、
右耳を棍棒で強打され倒れました。
警官は「この男は死んだ」と叫んで、なおも殴ろうとする群衆を制し、
人力車でカナダ人経営の『四聖病院』に運ばせたのです。
田中は病院で気がつきましたが、群衆はなおも病院内に押しかけ、
入れ代り立ち代り懐中電灯で田中の顔を照射しています。
午後11時ごろ、督弁公署に移され、
軍医の手当てを受けて、ようやく田中は安堵しました。
瀬戸尚も督弁公署に運ばれていて、二人は無事を喜びあいましたが、
残る二人の安否が気がかりでした。
翌日、二人の死体が王府街の火神廟前で発見されました。
二人とも全裸にされ、さんざん殴られ、顔もぐしゃぐしゃに潰されて、
酸鼻をきわめた殺され方でした。
この後、惨殺は広東省に飛び火します。

―――――――――――――――――

テロ続発

成都で8月24日に日本人記者が惨殺されると、
今度は、9月3日に広東省の北海市で
『丸一洋行』店主・中野順三が惨殺されました。
北海市には、8月24日、反蒋介石を主張する第19路軍の一部、
フン照垣指揮の「抗日救国軍第一師」約千五百人が進駐し、
随行してきた学生約三百人とともに
「打倒日本賊」「打倒蒋介石漢奸」などのビラをまき、
市内要所にたむろしていました。

師長フン照垣は、進駐してくると、
商務局を通じて立ち退き要求を繰り返し、
中野順三も、やむなく承知して店じまいの準備を進めていました。

ところが、9月3日午後7時ごろ、
『丸一洋行』に30才前後の男二人が入ってきて、
買物客の風情で店内を歩き回りながら、店番をしていた長男の清に、
いきなり拳銃をつきつけ「ここは日本人の店か」と言ったのです。

拳銃を向けられた清は、
「お父さん」「お父さん」と連呼しつつ、2階にかけ上りました。
2人は拳銃を発射し、その発射音を合図に17、8才の青年4、5人が
ジャックナイフを振り回しながら乱入してきました。

中野一家のうち、第2夫人は年少の男児3人をつれて外出中で、
店には中野当人のほか第1夫人、長男清、長女千鶴子しかいません。
第1夫人と長女千鶴子は長男清のあとを追おうとしましたが、
乱入してきた一味に突き飛ばされました。

2階に殺到した一味は、食事中の中野順三に襲いかかり、
猿ぐつわをして壁におしつけ
ナイフで右胸部、腹部、頸部を刺して殺害しました。
長男清は2階の窓から飛び降りて逃げ、階段をはいのぼってきた千鶴子は、
気を失いながら父親の殺される状況を目撃したと言います。
(ここまでは児島襄著『日中戦争』の要約引用です)
こういう惨殺行為はあちこちで起こりました。

―――――――――――――――――

(ここからはK・カール・カワカミ著『シナ大陸の真相』より引用)

1935年
5月、日本びいきの中国人新聞編集者二人が天津で殺害された。

8月、満州国の国境から天津に向けて走行中の列車が匪賊に襲撃され、
約20名の乗客が殺害された。

11月9日、日本海軍准尉(准尉は原文のまま)の中山秀夫が
上海国際租界で射殺された。

12月17日、天津の日本軍守備隊総司令官である多田陸軍中将の邸宅に
爆弾が投げ込まれ、中国人の召使が負傷した。

12月25日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に爆弾が投げ込まれた。

1936年
1月21日、汕頭の日本領事館に所属する日本人警官が
自宅から出勤途中、中国人に射殺された。

6月19日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。

6月26日、北京近くで中国軍の正規兵が、
豊台日本軍守備隊に所属する日本兵に襲いかかり重傷を負わせた。

それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本の陸軍大尉が
中国軍兵士に刀と銃剣で切りつけられた。

7月10日、三井物産上海支店の日本人社員が国際租界で射殺された。

7月22日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、
天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。
一人は死亡、一人は重傷を負った。

8月23日、河北公共治安部隊の数名の兵士が
天津の日本語学校を襲撃して略奪し、日本人の教師に暴行を加え拉致した。

9月19日 漢口の日本領事館の警官が中国人に射殺された。

9月23日 日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。
他の二人の水兵は重傷を負った。

9月26日 湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に中国人の暴徒が放火。

9月27日 長沙の日本領事館の建物に爆弾が投げ込まれた。

11月11日 日本の汽船会社の船乗りが上海で射殺された。

1937年
2月13日 漢口で日本人の事業家の妻が中国人に襲われた。

6月1日 中国人の暴徒の一団が天津付近の日本人経営の農場施設を襲い、
一つの倉庫と三つの住居に放火し、多くの日本人従業員が負傷した。

この他にも、数多くの暴行事件がありますが、字数の都合で省略します。

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◆盧溝橋事件前 共産党の策動

反日扇動がいきすぎ、とんでもない数のテロや暴行、殺害等を生み出し、
蒋介石は、日中全面戦争になるのではと恐れました。
これだけやれば、いつ戦争になってもおかしくないからです。

しかし、日本は動きません。抗議と犯人の処罰を求めただけです。

参謀本部の石原莞爾第一課(?原文のまま)長は
「対支作戦」を行う意思はないと言明しました。

むしろ、中国の方が積極的だったのです。
「いつ対日戦争を開始するのか」と蒋介石につめよっていました。
しかし、蒋介石にとっては、後ろで、反乱を起こし
領土を拡大している共産党のほうが気がかりでした。
後顧に憂いを残しては対日戦争は戦えません。
だから先に共産党を討伐し天下を平定しようと、
張学良を共産党討伐の総大将に命じたのです。

ところが、張学良は共産党と組んで蒋介石を捕らえ、
共産党の討伐をやめさせ対日戦争をやるよう約束させました。
共産党は、国民党軍と日本軍とを戦わせて、
その間に自らの勢力の拡大を図るつもりだったのです。
蒋介石は、そんな事は百も承知だから動かなかったのですが、
対日私怨に燃える愚かな張学良には、そんな事は解りません。

その頃、ソ連のコミンテルンは、
日中全面戦争を仕掛けるためのプランを作成し、
その実行を、中国共産党に命じました。

その内容は

一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。

二、右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく局地解決。
(例えば北支を分離せしめることに依って戦争を回避するの類)
日本への譲歩に依って
支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。

三、下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、
国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。

四、党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。
日本を援助せんとする第三国に対しては
ボイコットを以て威嚇する必要がある。

五、紅軍は国民政府軍と協力する一方、
パルチザン的行動に出なければならぬ。

六、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、
国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。

というものです。

(「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」
昭和14年10月興亜院政務部資料)

共産党は、コミンテルンの指示に従って、
対日戦争のための工作を開始しました。
1937年、1月から6月にかけて、日本の軍用電線がしばしば切断されるので、
日本側は河北省政府主席馮治安に取り締まりを要求しましたが、
全くのなしのつぶてでした。

この馮治安配下の部隊のある西苑の兵営では、
よく学生の軍事訓練が行われていて、
そこには共産党の劉少奇が出入りし、
学生たちにアジ演説を行なっていたのです。

その頃、北京・天津地区には謡言が乱れ飛んでいました。
「日本軍は近く華北で事を起こし第二の満州国をデッチ上げる」とか
「日本軍は戦略要衝盧溝橋に基盤を築き、
北寧・京満鉄道を支配下に置くべく、
目下隠密裏に工作をすすめている」
とか、はたまた
「七夕の夜に華北で第二の柳条溝事件が起る」等という物です。
この謡言の出どころについては、北京憲兵分隊長赤藤庄次少佐は
「…どうも西苑の学生層から出ているらしい。
そうすると共産党の策動も考えられる」と言っています。

この謡言を警戒した、参謀本部の石原少将は
「若い者が何かしでかさん様に」と岡本中佐を華北に派遣しましたが、
日本側に、そのような動きはありませんでした。
(寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より抜粋要約引用)

後に、中国は、文革の前ごろ

「七、七事変(盧溝橋事件)は劉少奇率いる救国抗日学生の一隊が
決死の覚悟で引き起こしたものである。
‥‥結果として、日本帝国は滅び、欧米租界も一掃され、
蒋介石も台湾に追い出されてしまった。
最後に勝利したのは我々の方であった」

と高らかに公表しました。

これは私の記憶ですので、
原文とは少し違っているかも知れませんが、大体こんな所です。
今はとぼけていますけど。
尚、この記事が何年何月何日の何新聞だったかは判りません。
私は、目が乱視の近視で老眼になっている為、
大量の縮刷版を漁るのに耐えられません。悪しからず。


盧溝橋事件(1937年7月7日に日本軍が攻撃され7月8日に反撃)1
なぜ日本軍が支那の盧溝橋付近で演習をしていたのか?
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/22260211.html
盧溝橋事件(1937年7月7日に日本軍が攻撃され7月8日に反撃)2
「盧溝橋事件」とその後に続く日支全面戦争は
支那共産党が計画的に行なった根拠
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/22301264.html
盧溝橋事件(1937年7月7日に日本軍が攻撃され7月8日に反撃)3
8日四回目の銃撃で反撃開始・『盧溝橋事件』寺平忠輔著
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/22324391.html
盧溝橋事件(1937年7月7日に日本軍が攻撃され7月8日に反撃)4
毛沢東、周恩来、?小平、劉少奇(葛西純一)
…「共産党が戦争を起こした!」
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/22327852.html

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盧溝橋事件直前の予兆

日本側に、冀察政務外交専員の林耕宇から
「空砲で演習する場合でも、あらかじめ中国側に通告して欲しい」
との要請があり、特務の方で検討する事になりました。

北清議定書では、実弾射撃の場合は通報する事になっていますが、
空砲の場合は規定されていません。

「日本だけ勝手に規定を変える事はできない、
ここは他の列強と協議してからでなければ」

「しかし、今、不穏なこの時期、間違いがあれば大変な事になる」

「ここは一時的に彼らの要求を通したら」

という事で、《7月6日、7日、9日、10日の4日間、
日本軍が盧溝橋の原で昼夜空砲を使って演習する》
という通告が、その日の晩に、中国側に通達されました。

一方、その頃、今井武官にはおかしな事が起こっていました。
7月3日、反日で有名な馮治安から
今井武官は迎賓館開館の賓客第一号に招待されたのです。
そして列車で保定に行く途中、馮治安から
「近ごろ宛平県城の北面の壁めがけて
夜間しきりに機関銃の射撃をする者があって困るんです。
それが空砲じゃなくて実弾なんです。
日本側でも一応調べてみて下さいませんか」
と申し出られました。

武官は「そりゃ、初耳です。調べてみましょう」と言って、
翌4日、旅団次級副官の小野口大尉に照会しました。
副官は早速各中隊に連絡し、くまなく調べさせましたが、
そんな事実はありませんでした。

そこで5日朝、結果は武官に報告され、武官は馮治安に回答しました。
武官にとって、これは謎でした。
“日本軍が、好き好んで夜中に宛平県城を射撃するなど
常識として考えられないし、ことに実弾使用となると、
日本軍は射耗報告がやかましいから、そんな事はできない。
だからと言って中国側が自ら宛平県城を射撃するような芝居、
これもうがち過ぎて考えにくい”

翌6日の夕6時、またしても今井武官に不可解な事が起こりました。
今井武官が北京北城鼓楼西、陳子庚博士の邸の宴会に招かれていた時、
表の方から一台の自動車があわただしく走りこんで来ました。
ボーイが名刺を捧げもって入って来
「ただいま石友三将軍がお見えになりまして、
今井武官に緊急の用でお目にかかりたいと申しております」と伝えたのです。

今井武官が会うと、
石友三は「突然、こういう席に飛び込みまして不躾の段お許し下さい、
実はただいま、盧溝橋で中日両軍が衝突し、
今盛んに射ち合いを始めております。
私は早速部下に命じ、日本軍に対し絶対に抵抗してはならんと
言い含めて参りました。
どうか日本軍も今後、私の部隊に対してだけは
攻撃行動をとられないよう直ちに手配を願います」
と言ったのです。

武官は彼のこの言葉を怪しみました。
もし事実なら武官室からとっくに電話で報告が来てる筈です。
「石さん、それはどこから入った情報ですか」
「これは最も確実な情報です、絶対間違いありません。
だから武官を探して飛んできたんです」
周囲をはばかって出どころを言おうとしない。
先方が真剣なのに、けなしつけるのも礼がない、
デマだとは思うが、そこはさあらぬ体で
「それは、ご連絡有難う、日本軍は一番親日の石さんの部隊に対し、
どうこうする考えは毛頭ありません。どうぞご安心下さい」
としかるべくあしらった。

その晩は何事も無く平穏にすぎ、
石友三のもたらした情報はデマである事がハッキリした、
が1日後、場所も状況も彼の言った言葉そのままに現実となって現われた。
これは、一体何を意味するのか。
(寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より抜粋要約引用)
今井武官は「石友三は何か知っていたのではないか。
あまりに思いつめて日にちを一日間違えて、
私の所に飛んできたのかも知れない」と言っていますが、
私は、間違えたのではなく、
一日早めに来て、暗示のような形で教えたのではないかと思います。
日本側には、その発想が無かったので、意味が理解できなかったのでしょう。
宛平県城への銃撃は、共産党の仕業と考えられます。
そうする事によって日本軍の仕業と思わせ、
日本軍への疑心暗鬼を起こさせられるからです。
この翌日、盧溝橋事件は起こります。

盧溝橋事件1 日本軍銃撃さる
ブログ「おやじの独り言」さんのわかりやすい地図
http://blogs.yahoo.co.jp/moai33jp/26208316.html

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以下、
『寺平忠輔著「盧溝橋事件」読売新聞社刊 昭和45年発行」より抜粋要約引用

1937年7月7日、日本軍は盧溝橋の原で、
鉄帽もかぶらず空砲を使って演習していました。
この時、永定河の堤防の上から中国29軍の兵士が見物していました。
ところが、夕方になっても帰りません。
「まさか、あいつら俺たちを監視してるのか」
と言いながら演習を続けていました。

夜10時半ごろ、清水中隊長は
「今夜の演習終了」を伝令に伝達に行かせました。
本当は一声怒鳴れば聞こえるのですが、
夜間の隠密作戦の訓練なので、そうしてるのです。
そうした所、仮設敵陣地の機関銃が突然、うなり出しました。
伝令を敵襲と勘違いしたようです。

ところがその時、突然、堤防の方から実弾が飛んできました。
危険なので、中隊長は集合喇叭をふかせます。
そうすると、竜王廟と鉄橋の中間で懐中電灯の合図があり、
途端に、トーチカのすぐ南側、堤防上から十数発の実弾が飛んできました。
「伏せっ!」、「小隊長は直ちに人員点検!」、
殆どの小隊に異状はありませんでしたが、
第一小隊だけは報告がありませんでした。
伝令に行った新兵がまだ戻ってなかったのです。
まさか、今の弾で殺されたのでは。
清水中隊長は、岩谷曹長を騎馬で豊台へ連絡にやりました。
その後で、行方不明の新兵が戻ってきました。

豊台で岩谷曹長の報告をうけた一木大隊長は、
北京の旅団副官松山少佐に電話しますが、
少佐は河辺旅団長に随行して出張で留守でした。
そこで、こんどは牟田口連隊長に電話します。
こちらは出張から帰ってきたばかりでした。
一木大隊長は、顛末を説明し
「部隊を率いて盧溝橋に行き中国側と談判したい」と申し出、
牟田口連隊長が「よろしい」と答えたので一木大隊長は、
岩谷曹長に「絶対に応戦するなと、中隊長に伝えて置け」と伝令に戻し、
出動の準備を始めました。

一方、特務機関のほうにも、旅団副官小野口大尉から連絡が入りました。
特務は、林耕宇やその他必要な関係者に電話します。
特務機関が慌ただしく動いているとき、小野口大尉からまた電話があり、
行方不明の兵が戻ってきたと伝えられました。

最初は、謝罪の要求とか、中国軍の撤退要求とかの話もありましたが、
“そんなことより、まずは軍使を派遣して、
中国側の代表と交渉し、現状を打開することが先”という事で、
寺平補佐官が行く事になりました。
他に、憲兵分隊長赤藤庄次少佐、桜井29軍顧問、
中国側から林耕宇と宛平県長王冷斉が行く事になります。

一行が出かけようとすると、連隊本部の方から
「相談したい事があるので」立ち寄って欲しい
と電話があり、寄る事になりました。
森田中佐も部隊を率いて一緒にいくそうです。

この時、桜井顧問は「城門開門の交渉をしてくるから」
と先に現地に行きました。

連隊本部では牟田口連隊長が、
王冷斉に「軍に命令できるだけの権限を与えられているのか」と問いました。
それが無いことには、交渉ができないからです。
そこの所があやふやだったので市長に問い合わせをしましたが、
相手につながらず、結局あいまいなままで行くことになりました。

また一方、寺平補佐官に対しては、牟田口連隊長は森田中佐のことで
「彼は、爆弾三勇士で有名な廟行鎮突入部隊の指揮官ですが、
あの調子でジャンジャン攻撃命令を出されると、とんでもない事になる。
君がシッカリ手綱を引いてくれ」とブレーキ役を頼みました。
午前四時前、一行は出発しました。

一方、現地では、午前3時25分、またも三発の銃声がしました。
現地ではやっと仮設電話が開通したので、一木大隊長は、
北京の牟田口連隊長に電話し、三度目の銃撃を報告し、
「もう反撃してもよいのではと思いますが、お許しになられますか」
と問いますと、連隊長はしばらく考え込んでから
「よろしい。やり給え」と答えました。
驚いたのは一木大隊長、言ってはみたものの、
まさか、断を下すとは思ってなかったからです。
本当にやると責任重大だから
「本当にやってよろしいんでありますか」と念を押すと
「やってよろしい。いま、午前4時20分。確実に僕は攻撃命令を下した」
と答えました。
これで、いつでも反撃できる態勢がとれます。

一木大隊長は攻撃の許可をとった後、
スッキリした気持ちで戦闘準備をしようとすると、
嫌な人間がやって来ました。
桜井29軍顧問です。彼は事態を不拡大に揉み消してしまうからです。
一木大隊長も不拡大なのですが、不拡大の意味が違っていました。
桜井顧問の方は戦闘をせずに丸め込むことが最良と考えてるのですが、
作戦部隊の方は「それでは駄目だ、中国人はガツンとやらなければ、
増長して却って悪くなる」という考えだったのです。

そこで、一木大隊長は桜井顧問に
「今度という今度は断固やりますよ」というと、
桜井顧問は「イヤ今度は止めやせん。
ただちょっと貴方にお話しておかにゃならん事があるんです」
と切り出しました。
「ここに来る前、私は秦徳純に会いました。
ところが先方は『城外には一兵も配置しておらん』
と言うんです」
「そんな事は絶対ありません。現に…」
「まー、私の話を聞いて下さい。それでもし城外で銃声がしたと言うなら、
それは29軍の兵士でなく匪賊かもしれん。便衣隊の仕業かも知れん。
あるいは西瓜畑の番人が泥棒と間違えて撃ったかも知れない、
と言ってるんです」。
「そんな馬鹿な…」 
「まー待って下さい。それからこうも言っとるんです。
もしかしたら29軍の兵士かも知れない。
だとしたら上司の命令を聞かないワカラズヤどもだから、
攻撃しようと討伐しようと、日本側のご自由に、とこう言うんです」
「へー」
「そこで私の意見を申し上げますと、
宛平県城には一般民衆も住んでいますから、
どうかこの城だけは攻撃しないで下さい」
「承知しました。宛平県城に対しては銃先を向けません。
その代わり城外にいる匪賊か便衣隊か西瓜泥棒か判らんやつは攻撃します」
「そうして下さい。じゃあ私は宛平県城に入りますから」
と言って二人は別れました。

宛平県城に軍使一行が入り、
中国軍営長金振中と話している時に戦闘が始まりました。
第四回目の銃撃を受けたので、これをきっかけに反撃を開始したのです。
時に昭和12年7月8日午前5時30分

このため、交渉は打ち切りとなり、軍使は人質状態になりました。
寺平補佐官は、人質状態の間、
一旦始まった戦闘をいかにして停止させるかを考えていました。
そこで考えついたのが、永定河を挟んで兵を別けるという方法です。
日本軍を東側に、中国軍を西側にです。
近くにいたら撃ち合いを始めますので、
鉄砲の弾の届かない、この位の距離が必要なのです。
これを金振中に話すと「同感です、これが一番理想的な解決方法でしょう」
と賛成しました。

ところが「ただ私はこの地区の警備を任されています。
私が西側に行くと、職場放棄で命令違反となります。
従って私の一存では動けません」と言ったのです。
そこで北京に行って、話しをつけることになりました。

一方、日本軍の方は、中島から反対岸まで進んでいました。
この間、日本軍が相手していたのはれっきとした中国軍です。
西瓜泥棒などではありません。
戦闘が始まったとき、宛平県城の中国兵は日本軍に向かって発砲しました。
桜井顧問が「撃つな」と言っても聞きません
「仲間が殺されるのを黙って見ておれるか」と憤っていたのです。
それなら最初から「外の兵は中国兵」と認めていれば、
こんな事にはならなかったのに、
最初から認めていれば、謝罪だけで済んだものを。
なぜか中国は嘘をつくわけです。そして事態をややこしくさせます。

憲兵分隊長赤藤少佐は竜王廟一帯の敵陣地を視察し情報資料を探索しました。
下士官らしき死体があったので書類ぐらい持ってるかも知れないと
ポケットを探らせると、手帳が出てきました。
そこには直系上官氏名がずらっと書いてあったのですが、
その中に、一つ気になる事が書いてありました。

「諸情報を総合するに、日本軍は最近の機会において、
演習の名目の下に宛平県城を奪取する企図を抱いているようである。
この情勢はここ数日来、とくに緊迫したものが感ぜられる。
該地の警備に任ずる部隊は、昼夜間断なく至厳なる警戒を実行し、
防務の完璧に最善の努力を傾倒する事が肝要である」

こんな訓示が出てるもんだから、にわかに堤防上の陣地を強化したり、
夜間、配備についたりして、こんな事になったのか、
と赤藤少佐は理解しました。

停戦交渉

軍使一行は北京に行く事になりましたが、
城門には土嚢が積まれていて出られません。
そこでロープを伝って城壁から降りる事にしました。

ところが、そこに米人記者エドガー・スノーが来ていて、
この光景を写真に撮っていたのです。
そこで一行は、スノーの車を借りて北京に行く事にしました。
米国国旗がついているので、両方の攻撃を受けないで済むからです。
北京に着いた、寺平補佐官は秦徳純市長を捜しましたが、
なかなか捉まりません。
やっと捉まえて、交渉しても埒があきませんでした。

中国側は《中国軍が永定河の西に移動する事》を、
《日本が東側を盗る》と考えているのです。
寺平補佐官は「私が言ってるのは、永久駐屯とか何かじゃなくて、
今の事件を丸く納める為の一時的措置なんです」と言ってるのに、
グズッてなかなか進みません。
スッタモンダの挙句、
秦市長は「一応、皆と相談してみます」と言って、会議室に消えました。

その時突然、林耕宇が彼の主宰する新聞、亜州日報を差し出したのです。
「寺平さん、もう今日の記事と写真ができましたよ。早いでしょう」
「ほほう、これが私の宛平城乗り越えの写真か、…」
「何だって? 至今晨四時許 到達宛平県署 寺平仍堅持日軍須入城捜査…、
林さん!これだとまるで日本軍が勝手に戦争を始めたようじゃないか。
これが君の筆だとすると、私の方にも文句があるぞ。
私がいつ城内の捜査を要求したんだ?…」
「イヤ、これはその、実情を知らない記者が書いたんで、…」
とにわかに狼狽し始めた。
「宛平城内の状況を知っているのは、林さんしかいないじゃないか…」
(林耕宇は、いろいろ弁解しましたが、結局この記事は訂正されることなく、
現在も、中国側に、盧溝橋事件の原因として利用されています)

二、三十分して、秦市長は戻って来、
「まだ時間がかかる。午前三時頃までには、ご返事できます」と言って、
寺平補佐官達を帰らせました。

ところが、午前一時ごろ張允栄がもうやってきて、次のことを言ったのです。
「死傷者の手当て、整理の為に、七、八十名の兵を残して欲しい。
次に部隊が撤退してしまうと、
治安の維持をする者がいなくなってしまうので、
代わりに北京から五百名の保安隊を入れたい」と。
(寺平補佐官は、停戦をする為に、一時的に兵を別けるだけ、
と言ってるのに、こういう事を言って、話をややこしくするのです)
7月9日、やっと停戦の話がまとまったので、
日本軍が約束通り兵を退こうとすると、宛平県城の方から撃ってきました。
だから、また戦闘になります。
そのあと、スッタモンダしてやっと宛平城の兵の移動が始まると、
今度は、宛平城に正規の保安隊以外に、別の保安隊もやってきました。
中国側が妙な小細工をするものだから、
話がややこしくなり変な事になっているのです。

両軍の兵が完全に別けられたあとで、協定の条文作成交渉が始まりました。

条文案を作る準備をしている時、
関東軍から「山海関に兵を集結、出動準備完了あり」
との電文が届いたので「こりゃいかん、連中戦争を煽っとる」と、
急いで会議が開かれ、案文が検討されました。そこで決まった内容は

一、謝罪と責任者の処罰

二、中国軍は、豊台駐屯日本軍と接近し過ぎ、
事件を惹起し易きを以って、永定河東岸には軍を駐留せしめず

三、藍衣社、共産党、その他抗日団体の取り締まりを徹底す。

というものです。

( とうとう、中国側が警戒していた項目(二)が入ってしまいました。

最初、寺平補佐官が、軍使として出発した時の、
日本側の要求は、(一)だけだったのです。
旅団の小野口副官から、(二)の中国軍の移動の話もありましたが、
いくらなんでも厳しすぎると松井機関長は拒否していました。
中国側が嘘を言わず素直に対応していれば、(一)だけで済んだものを、
戦闘になってもまともに対応せず、
何だかんだと交渉を引き延ばして小細工を弄するものだから、
結局こうなってしまったのです)
交渉は難航しましたが、7月11日午後8時、やっと調印が終わりました。
事件勃発以来丸四日間、
不眠不休で不拡大の工作を続けて来た彼らは
やっと安堵の胸をなで下ろしました。

以上、寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より抜粋要約

中国停戦協定破る

本交渉で協定案文の詰めが行われている最中、不測の事態を起こさせない為、
軍を動かさないよう、中国側から申し入れが、10日午後4時にありました。

ところが中国側は、その日の夕方、襲撃を掛けてきたのです。

実は、申し入れより前すでに中国側は、夜襲を計画していました。
埼玉県の海軍受信所は7月10日(土)午後2時、
北京の米海軍武官から米本土にあてた
「信頼スベキ情報ニヨレバ、第29軍、
宋哲元麾下ノ一部将兵ハ現地協定ニアキタラズ、
今夜7時ヲ期シ、日本軍に対シ攻撃ヲ開始スルコトアルベシ」
という電報を傍受しました。

この情報はすぐさま、陸軍省に伝えられましたが、
陸軍側は「何かのデマだろう、現地協定ができている以上、
そんな事はある筈がない」と取り合いませんでした。
ところが、実際、襲撃してきたのです。日本人は、つくづくお人好しです。

停戦協定が調印されて、日本人は安心しましたが、それは甘い考えでした。
翌々日の13日には中国兵が大紅門で、
移動中の日本軍トラック二台に手榴弾を投げ込み全員を爆死させました。

ドーンという音を聞いた笠井顧問と周参謀は現場を見に行きましたが、
そこは惨憺たる状態でした。
そこへ中国軍の営長が四、五人の部下をつれて通り掛ったので、
周参謀は呼び止めて 「これは、お前の部下がやったのか」と聞くと
「ハイ、そうです。ちょうどこの付近を警備していた私の部下が
やっつけたんです」と得意満面に答えたのです。
周参謀は声を荒げて「とんでもない事をしてくれた。…」
と張師長の命令書を見せました。とたんに営長の顔色が変わりました。

ここで笠井顧問は「日本軍が今日ここを通ったのは、
豊台に移動するのが目的で、あなたの部下と戦争する為ではありません。
今後もこの付近を通るでしょうが、師長の命令にある通り、
今後こういう事をしてはいけません」と注意しました。

この事件でトラックに乗っていた日本兵は肉片と化しましたが、
日本側は厳しい注文をつけませんでした。

注文は、

一、破壊自動車後片付けに対する援助
ニ、日本軍通過部隊に対する安全保障

だけです。
日本側は、これほどまでに中国側に気を使っていたのです。

そうした所、今度は、団河付近で騎馬兵が殺されました。
14日、天津騎兵隊は通州を通過して豊台に向かっていたのですが、
大紅門事件の事を聞いてましたので
不測の事態を避ける為、迂回していたのです。

主力は無事豊台に着きましたが、
二人ほど、落鉄のため部隊から遅れ
馬をひいて歩いていると中国兵に出くわし、機銃攻撃をうけました。
近藤二等兵はその場に撃ち倒され、大垣軍曹は高粱畑に逃げ込み、
日が暮れてから、通州に歩いて戻りました。

翌日、桜井顧問が現地に派遣され、営長の董少校と会見します。
始めのうちは言を左右にしていましたが、
営長室の片隅に立てかけてあった日本の四四式騎兵銃を見つけられ、
白状しました。

現場に行き死体の検証を行うと、二等兵は銃弾六発を身に受け即死、
その後、青竜刀で頭を二つに割られ、脳漿がなくなっていました。
その上、右脚も切り落とすという残酷な殺され方だったのです。

以上、寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より抜粋要約

日本側は、戦闘を小競り合いで終わらせ、
拡大しないように努力しているのに、
中国側は、日本がルールを守って攻撃しないのを良い事に、
一方的に攻撃をかけているのです。

それだけでは、ありません。蒋介石は宋哲元に
「日本軍は15日に総攻撃をかけてくるから戦闘態勢に入れ」
と要求しました。誰の吹き込んだガセネタかは判りませんが、
中国側の一方的な思い込みで、事態はますます悪い方へ進んでいきます。

停戦協定を結んでも、攻撃を止めず撤退もせず、
一向にルールを守ろうとしない中国に苛立ち、
日本本土は、“中国懲らしめの為の軍を動員する必要があるのでは”
と考えるようになります。

郎坊事件と広安門事件

7月13日、蒋介石は宋哲元に「盧溝橋事件の平和解決はあり得ない、
政府は対日宣戦を決定した、決して単独行動をとってくれるな」
と電報しました。
日本が、戦争にならないように努力している時に、
蒋介石は戦争を決めていたのです。

というか蒋介石は、戦闘が始まるやすぐに動員を始め、
7月9日には四個師団と戦闘機を北支に派遣しました。
蒋介石は、共産党の策動に騙されて、
日本が侵略を始めたと思っているようです。
宋哲元は、日本が侵略しているのではないことを知っていますので、
蒋介石の言う事を聞かず日本との和平を進めようとします。

そこで蒋介石は、7月16日宋哲元に
「日本側の策謀に乗じられるな、戦備を整えよ」と打電しました。
宋哲元は、日本との和平を進めたいのですが、
蒋介石の逆の命令でジレンマに立たされます。

また蒋介石は、7月17日に宋哲元への牽制をも込めて
ラジオから『生死関頭』演説を流しました。

その内容は
「盧溝橋が日本に取られれば、北京は第二の奉天となる。
北京が第二の奉天となれば、冀察地方は第二の満州となる。
北京が奉天となるなら、南京が北京にならないと、だれが保証できよう。
盧溝橋事件の推移は全国的問題であり、
その収拾の能否は最後の関頭(分かれ目)の限界である」
というものです。

このような蒋介石の決意に、宋哲元の心は揺れます。
蒋介石は、19日までに30個師団を北支に集結させ、
22日までには梅津・何応欽協定を破って、
蒋介石直属の師団を河北省に入れました。

宋哲元だけでなく、これまで親日と言われていた石友三の部隊や
冀東防共自治政府の兵の中にも動揺するものが出てきます。

蒋介石が、そこまで決意している時に、いつまでも親日をやっていたら、
将来、漢奸として罰を受けかねない。もう見切り時と見たのでしょう。
彼らが口火を切って、日本軍に攻撃を掛けてきます。

7月24日、郎坊付近で日本軍の電話線が切られたので、
修理班が現地に行くと、これまでと雰囲気が違っていました。
この辺は親日と言われる石友三の部隊の管轄ですが、
駅の周囲には陣地が構築され、修理中に中国兵が銃を向けていたのです。

その日は何とか無事に終えましたが、
翌日、また郎坊付近で電話線が切られましたので、
今度は護衛兵をつけることにしました。
修理班と五ノ井中隊は午後四時過ぎ郎坊に到着しましたが、
修理は手間取り、五ノ井中隊は宿舎の提供を中国側に要請しました。

しかし拒否されたので、仕方なく、駅で夜を明かしていると、
午後11時30分、中国側が、突然小銃、機銃を乱射してきたのです。
五ノ井中隊が応戦せずにいると、
午前0時過ぎ、中国側は迫撃砲を撃ち始め、
たちまち、重傷二人、軽傷四人の損害を出しました。

そこで反撃開始、天津に急報します。
報告を受けた香月中将は、舌打ちする想いに襲われました。

即座に兵を派遣して助けたいのですが、
14日づけの「事変処理ニ関スル方針」で
「兵力使用ハ中央部ノ承認ヲ得ル事」と指示されたからです。
「こんな事で、急の場合、間に合うのか」と言っていた事が、
現実になりました。
(何か、今の自衛隊を見ているようです)

香月中将は、独断で派兵を決心し、東京に兵力使用の要請電を発しました。
今度は、参謀本部も許可しました。
応援部隊がやって来て、中国軍を蹴散らし郎坊事件は終わります。

ところが、今度は広安門で事件が起きました。
香月中将は、郎坊に部隊を送る時、北京にも部隊を送ったのです。
居留民の保護のためです。
ところが、これが中国側の警戒心を高め事件となりました。

早めに通告すると、妨害が予想されるので、直前になって通告したのです。
広部部隊が入城していると、
途中から門を閉められ、兵を分断され銃撃されました。

ここに至って、穏忍自重していた日本軍も遂に切れ、実力行使に転じます。

―――――――――――――――――

◆通州虐殺事件

香月中将は、最後通牒を出し、
通告どおり7月28日、北京の中国軍へ攻撃を開始、実力排除に出ました。
宋哲元はこれまでと北京を去りましたが、只では逃げません。

通州と天津に分駐する冀東保安隊と第38師の一部に“蜂起”を指令しました。
そしてその指令は実行されます。

天津の中国軍は、天津駅、東機器局、飛行場、
日本租界、支那駐屯軍司令部などを襲撃しました。
尤も、これは日本軍によって撃退されますが。

一方、通州の方は事情が異なっていました。
通州は親日政権冀東防共自治政府の所在地であり、
保安隊は野砲を持つ強力な存在だったので日本軍は安心していたのです。
ところが、彼らは、ひそかに宋哲元に服従していました。

南京から「日本軍が負け、中国軍が勝っている」というラジオの偽放送があり、
これを信じた彼らは、このまま親日でいたら自分たちが危ない、
ここは一つ手柄をたてて、宋哲元の下に馳せ参じようと考えたのです。

そこで、彼らは29日、通州にある特務機関、警察分署、守備隊、旅館、
出張所、食堂、民家、など日本人のいる所を一斉に襲撃しました。
ここで彼らは軍人、警察官だけでなく、
非戦闘員の日本人居留民約260人を惨殺しています。老若男女の別なく。

その惨状は聞きしに勝るものでした。証言には、

《城内は実に凄惨なもので到る処、
無惨な日本居留民の死体が横たわって居りまして、
殆ど全部の死体には首に縄がつけてありました。
頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐えませんでした》

《旭軒とか云ふ飲食店を見ました。
そこには四十から十七~八歳迄の女七~八名は皆強姦され
裸体で陰部を露出したまま射殺されて居りました。
そのうち四~五名は陰部を銃剣で刺されていました。
家の内は家具・布団・衣類等は何物もなく掠奪されていました》

《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。
同所は危険を感じた日本人が集まったものの如く
大量虐殺を受けておりました。
錦水楼の女主人や女中等は数珠繋ぎにされ、
手足を縛られたまま強姦され、遂に斬首されたと云ふ事でした》

《男は目玉をくり抜かれ、上半身は蜂の巣の様でありました》

《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしき者が
引っ張りだされ殺された屍体が路上に放置されてありました。
これは腹部の骨が露出し、内蔵が散乱しておりました》

《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、
そこに居りました七~八名の女は全部裸体にされ、
強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押し込んである物、
口中に土砂を填めてあるもの、
腹部を縦に割ってあるもの等、見るに耐えませんでした》

《東門近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、
その池には首を縄で縛り両手を併せて、
それに八番鉄線を通し(貫通)、一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、
歴然たる死体がありました。
池の水は血で赤く染まって居たのを目撃しました》

《守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が
横たわって居るのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。
敵兵は見当たりませんでしたので‥‥「日本人は居ないか」と連呼し乍ら、
各戸毎に調査して参りますと、
鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等が、そこかしこの塵埃箱の中や壕の内、
塀の蔭等から続々這い出して来ました》

とあります。

彼らは、日本人をやっつけた手土産を持って意気揚々北京にやって来ました。
ところが、そこにいたのは宋哲元ではなく、日本軍だったのです。
彼らは慌てて逃げますが捕まります。

温厚な中島29軍顧問は「機関銃をくれ、仇をとってやる」と息まきました。
尤も「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ」と止められ、
結局、連中は収容もされず城外に放置されただけでした。

理由は「収容すると飯を食わさにゃならん。
本当は鉛の弾を食わしたいくらいなのに、飯などもったいない」
という事です。
彼らは後、移動して中国軍に加わります。
これが当時の日本軍だったのです。現在宣伝されている事とえらい違いです。

この後も、日本は和平を模索しますが、蒋介石は逆に上海戦を計画します。

―――――――――――――――――

盧溝橋事件~通州事件

『シナ大陸の真相』K・カール・カワカミ著 P139~149

1937年7月7日夕方、約150人の日本兵は
マルコ・ポーロ橋の近くのいつもの練兵場でいつも通りの演習を行っていた。
いつものように中国側は日本側から前もって連絡を受けていた。
日本兵は実弾を携行していなかった。いつも通り彼らは空砲を撃った。

ところが全く予期せぬことに同日夜11時40分、
これらの日本兵は29路軍第37師団の中国軍部隊によって銃撃された。
彼らはマルコ・ポーロ橋の方角から撃ってきた。
この日中間に生じた戦闘の最初の局面に詳細に立ち入る前に我々は、
北京・天津地域に軍隊を駐留させている国は日本だけではない、
ということに留意せねばならぬ。
日本軍派遣部隊が中国軍に銃撃された当時、
この地域の諸外国の守備隊の内訳は次の通りである。
(略)
ここでマルコ・ポーロ橋事件に話題を戻すと、
150人の日本軍は7月7日の夜、中国軍に銃撃された時、
実弾を携行していなかったので反撃できなかった、
彼らは演習を中止し、少し退却して、
約2マイルほど離れた場所にある豊台の
かつて英軍兵営だった場所にある日本軍本部に通報した。
深夜0時を少し過ぎた頃に援軍部隊が到着した。
それから中国軍の銃撃に対する日本軍の応戦が始まった。

そうしている間に北京の中国軍と日本軍の地方当局は
この事件の報告を受けた。
直ちに彼らは日中共同の調査団を結成し、現地へ派遣した。
その結果、7月8日午前6時に戦闘は止んだ。

しかし当日午後3時及び午後6時に、中国軍は日本軍に銃撃を浴びせてきた。

翌朝7月9日、中国29路軍の代表と日本軍松井大佐との間に
休戦協定が結ばれた。

7月10日午後5時から午後8時の間に、
200人以上の中国兵が迫撃砲を使用して新たな攻撃を開始。
これは休戦協定を完全に無視したものであった。
日本軍は当然のことながら応戦した。

しかしながらまた休戦協定が結ばれた。
というのは日本軍はこの事件を地域的なものに限定して、
一刻も早く清算したいと熱望していたのである。

7月11日に日本政府は現地の日本軍に指令を送り、
早期解決を図るべく努力を傾注するよう促した。

同日午後4時、日本側の松井大佐と中国側の張自忠(天津市長)及び
殷雲(河北省の公安長官)との間で協定が結ばれた。
その協定の条文は次の通りである。
(略)
7月13日、第29路軍の司令官であり
河北・チャハル政治会議(事件を処理する十分な力がある)議長である
宋哲元将軍は天津へ赴き、
日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将と交渉を始めた。

将軍は前記の条項を事実上受け入れ、
7月18日盧溝橋事件について遺憾の意を表明し、
事件収束の方向に向けてスタートした。

ところが南京政府は、
この事件を交渉によってではなく武力によって解決する決定を下した。
盧溝橋に最初の銃声が響き渡るやいなや、南京は動員を開始。
7月9日、南京政府は4個師団と戦闘機を北部へ派遣。
これらは勿論、もう既に
北支に大量に存在していた中国軍に追加されたものである。

7月19日までに30個師団(約20万人)もの中国軍が北支に集結。
このうち約8万人が北京周辺に展開。
同日南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めないし、
東京は直接南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通告した。

これは、河北・チャハル政治会議議長と日本軍守備隊司令官との間で
結ばれた協定を南京政府が拒否するつもりであることを意味する。
(略)
この間ずっと南京政府は、このような地域レベルでの解決に対して
異議を唱えたことは一度も無い。
ところが今や中国の軍事指導者は、
日本と戦場で対決する準備が整ったのでその結果、
地域レベルで平和的に解決しようという日本の申し出を
きっぱり拒否できるようになった、と明らかに確信してしまった。
(略)
7月23日までに蒋介石自身が率いる師団が河北省に入った。
これは1935年の協定への違反であり、
この協定によれば南京政府は河北省に1兵足りとも進駐させない、
と自ら誓ったのである。

7月20日、宋哲元の誓約にもかかわらず、
第37師団の部隊は盧溝橋付近で再び日本軍に対する攻撃を再開した。

宋哲元将軍は、7月21日正午までに第37師団の撤退を行う、
と日本軍司令官葛城将軍に再び保証した。

同日午前11時蒋介石は会議を開き、
日本に対して戦争の手段に訴えることを公式に採択した。

7月23日、蒋介石の右腕といわれる南京副幕僚長孫浜将軍は
飛行機で北京と保定(河北省の省都。北京南方90マイル)に赴き、
その地域の軍隊に日本軍と戦うよう勧告し、金・人・武器の面で
南京政府からの寛大な援助を彼らに約束した。

このようにして、第37師団を撤退させるという
宋哲元の度重なる誓約にもかかわらず、
この軍隊は日本軍と対峙している同じ場所に事実上留まりつづけた。

それにもかかわらず7月25日、
葛城司令官はこの事件が平和的に解決されるだろうという意見を表明。
彼がこのような楽観的な意見を述べているときでさえも、
中国軍は北京・天津間を結ぶ日本軍の電話線を切断したりした。
この両都市の丁度真中の廊坊で電話線が切断されているのが発見された。

7月25日午後4時20分、
歩兵1個中隊に護衛された日本軍工兵隊が廊坊に赴いたが、
これは同地域を支配していた第38師団司令官の張治中将軍の
明確な了解を得た上でのことである。

同日午後11時までに修復工事は完了し、
日本軍の技師と兵士は鉄道の駅で遅い夕食を食べていた。
その時突然、中国軍が攻撃してきた。
彼らはライフル、手榴弾、機関銃、そして迫撃砲をも使用していた。

日本軍は夜陰に紛れて、圧倒的多数の敵前で陣地を固守した。
たった今修理したばかりの野外電話線を使い、天津の日本軍部隊に通報した。

廊坊は天津から約40マイルの地点にあり、
包囲攻撃された部隊が差し迫った全滅の危機に
曝されているまさにこの瞬間に、
通常の手段で救援軍を現地に派遣するには
余りにも遠すぎて不可能である。
そういうわけで翌日(7月26日)午前7時、
数機の日本軍戦闘機が廊坊に到着し、中国軍陣地を爆撃し日本軍を救った。

ことここに至ってようやく葛城司令官も、中国軍の司令官は信頼できない、
という結論を認めざるを得なかった。
その結果、葛城司令官は宋哲元に最後通告となる覚書を送った。
(略)
中国軍がこれらの条項に応じなかったのは言うまでも無い。
そういうわけで7月28日、日本軍は中国軍前線に向けて進撃を開始した。

7月27日、日本政府は平和的解決の望みを捨てて
中国への援軍派遣を決定した。

日付に注意して欲しい。

本国の軍隊を紛争地へ派遣する命令を出すまでに
3週間が経過しているのに対して、
南京政府は7月9日の段階で動員令を出しているのだ。
20日間もの間、日本は何とかしてこの軍事衝突を最小限に抑え、
地域的な紛争に限定し、平和的解決を図ろうと必死の努力をしたのである。
だが中国は戦争を熱望していたのである。
(略)
7月29日、29路軍の3000人以上の兵士が
北京の北の通州で、日本の民間人200人を虐殺した。

同日の殆ど同時刻に29路軍の兵士が
天津の日本租界区域に攻撃を仕掛けてきた。
そこには1万人以上の日本の民間人が居住していた。

―――――――――――――――――

揚子江上流邦人引揚げ

盧溝橋事件が始まると、揚子江流域でも不穏な状態になってきました。
各地で抗敵後援会が組織され、
日本人や日本人に使われている中国人に対して迫害が増えてきました。

27日には、長沙で20数名の中国人が
「スパイ・漢奸」の名目で湖南省特務室に引致されました。
奥地では、居留民を守り切れないため、
政府は揚子江流域の各領事に対し
「居留民は早めに引揚げよ」と訓令を出します。

糟谷領事は重慶居留民に対し、
とりあえず30日朝までに家財を宜陽丸に積み込み、
その上で即時引揚げか形勢暫時観望かを決定すると伝えました。

一方、宜昌、沙市でも引揚げ準備が進められます。

ところが、漢口の松平総領事代理と長沙の高井領事代理は、
引揚げに反対でした。

この人達は、今の平和憲法主義者と同じ考えで、
“中国が「安全を保証する」と言っている以上これを信頼すべきだ。
いまこの時期、そのような行動をとれば、
中国を刺激し《戦争準備》と疑われる。
むしろ海軍がいるから戦争になるのだ”と考えていたのです。

重慶市内の状況は次第に険悪となり、31日、市商会は日貨売買を禁止し、
違反者は重罰に処すと宣言しました。
このような状況下で重慶居留民総員29名は18:00宜陽丸に乗り終えます。

一方、長沙では、対日空気は更に悪化し、
日本人使用人に対する圧迫が顕著となってきました。
軍艦『勢多』に石炭・重油を運搬する船頭は、
水上警察署巡警から脅迫され、今後運搬不能と申し出ました。

8月1日、重慶、宜昌、沙市の居留民は船に乗り出港します。
一方、漢口では、中国は日本人に対し、米、塩の販売を停止しました。

2日、長沙の高井領事代理はやっと、引揚げを決めます。

3日、漢口では、日本人使用の中国人に圧迫が加わり、
日本人経営の工場は中国人職工の欠勤で就業不能となり、
日清汽船の中国人船員は乗船を拒みました。
この日、南京でも、朝から上海への引揚が続出します。

4日、漢口では、「租界内の支那人は5日までに退去すべし。
然らざれば身は危険にさらされ、又逮捕の上極刑に処す」との流言があり、
租界外に逃げ出す中国人が急増しました。

5日、22:00漢口において中国側は、日本租界への交通及び電話を遮断し、
6日の午前0時から、租界周囲前線の土嚢陣地に兵力を増強しました。
そこで陸戦隊も0時から土嚢を積み、
両軍対峙、一触即発の状態となりました。

ところが松平総領事代理は、
この様な事態になってもまだ、引揚げを発令しません。
そこで、居留民代表が総領事代理に引揚げ発令を迫り、
もし発令のない時は、民団は自由行動に出ると申し入れたのです。

このとき、漢口に来ていた田中宜昌領事が同総領事代理を説得して、
やっと引揚げを発令しました。
この日、蕪湖では婦女子の引揚げが完了します。

7日、漢口陸戦隊は、中国軍と対峙しながら引揚げを支援しました。
信陽丸は13:10「比良」護衛下に、鳳陽丸は17:15「勢多」護衛下に
上海に向け漢口を出港しました。

居留民の引揚げが済んだので、陸戦隊も日没後に撤退作業を始め、
8日未明に引揚げる予定でしたが、これが中国側に漏れたため、
予定を早め無灯下で撤退作業を行い01:00に出港しました。

かくて残留者は総領事館員77名となります。
尚、漢口より上流の各地領事館職員で引揚げに抵抗していた人達も、
居留民引揚げ後、漢口に残留しました。
が、中国側から食料と電気を止められ、
結局、引揚げざるを得なくなりました。

8日、蕪湖や南京でも居留民が引揚げました。

9日、引揚者は全員無事上海に到着します。

10日、漢口に居残っていた領事館員たちも、岳陽丸に乗って出港、

12日、南京に立ち寄り、南京で後始末をしていた領事館員を積んで
上海に向かいました。
ところが、13日、江陰にさしかかった所、
中国軍艦「海容」に停船を命ぜられ、
「水路危険につき通行禁止」を通告され、南京に戻らされたのです。

後で判った事ですが、12日に、江陰に、
軍艦5隻と2000tないし5000tの商戦18隻を沈めて、
水路を閉塞させていたのです。
南京に戻った領事館員たちは鉄道で青島に脱出しました。

(以上、海軍戦史叢書より抜粋要約引用)

この日(13日)、中国はすでに上海で戦争を始めていました。

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

◆蒋介石が仕掛けた上海戦

盧溝橋事件が起こると、蒋介石は本格的に戦争準備を始めました。
そして、上海の外側の非武装地帯に、
ドイツ軍将校指導の下、トーチカを築き、
上海から南京に至る途中には
ヒンデンブルクラインなる防御線を構築したのです。
その上で、上海の外側に、
遠巻きに保安隊を配置し、徐々に包囲網を狭めていました。

これには8月6日、同盟通信上海支局長の松本重治氏が遭遇しています。
松本氏は第一報を東京に打電したのですが、
翌日、海軍武官室から呼び出され
《戦争を煽る様な記事はイカン、
今後もこの様な記事を書くなら上海から退去させる》
と警告を受けました。当然この記事は没になります。

その頃、保安隊の進出で戦争を察知した住民は
外国租界へと避難を始めていたのです。
これを裏付ける物として、
毎日新聞社刊『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』に
8月6日の日付けで“住民が外国租界へ避難している”写真があります。

一方、そんな事とは知らない日本は、
通州で日本人居留民260人が虐殺されたにも拘わらず、
中国へ和平の話を持ちかけていました。
それも中国が呑みやすいように大幅に譲歩してです。

その内容は

(1)塘沽協定の解消
(2)梅津-何應欽協定の解消
(3)土肥原-秦徳純協定の解消
(4)冀察政権の解消
(5)冀東特殊貿易の廃止
(6)非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
(7)華北における自由飛行の廃止
(8)中国側が要求すれば上海停戦協定をも解消

というものです。

ところが、中国は、和平会談の予定されていた8月9日に、
海軍陸戦隊の大山中尉を惨殺して、これをぶち壊しました。

実は、この日は、揚子江の奥地から居留民が
陸戦隊ともども上海に引揚げて来ていた日です。

大山中尉一行は、周辺地区の巡回に行き、
虹橋飛行場近くの越界路で、進出していた保安隊に遭遇し殺されました。

日本側は中国に抗議するのですが、
向こうは日本に責任をなすりつけて、取り合いません。

「大山中尉が中国兵の止めるのも聞かず、
衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」と言うのです。

大山中尉は拳銃を携帯しておらず、
運転手の斉藤水兵は持っていましたが
ホルスターに入ったままで殺されているのにです。
車は機関銃で蜂の巣にされ、
その後中尉は、車から引きずり出されて、
銃剣で胸を刺され、かつ大刀で頭を割られています。

中国側の態度に危険を感じた海軍は、
警備の為、陸軍の応援を要請するのですが、
参謀本部の石原少将は《上海に陸軍を出すと戦火が拡大するので出せない》
と断りました。

仕方がないので海軍は、陸戦隊を1200名程増派します。

ところが追加の陸戦隊が上海に着いた8月11日には、
既に日本人居留区は保安隊に包囲されていました。
そして、この日の夜、中国は上海付近の鉄道を抑えて、
民間の使用を禁じ、軍用に切り換えて、上海に12万の大軍を送り込み、
12日には通称日本租界を包囲し、保安隊に取って代わったのです。
当時、上海にいたのは海軍陸戦隊四千名のみで、
とても中国の大軍を相手に出来ません。
そこで改めて陸軍の派遣を要請しました。

またこの日、中国は上海の大河“黄浦江”に船を沈めて川を封鎖し、
次いで揚子江の江陰という所にも船を沈めて川を封鎖しました。
この為、最後の引き揚げ船は揚子江を下る事が出来ず、
総領事達は一旦南京に戻り、
陸路、列車で青島に脱出せざるを得なくなったのです。

緊迫した情勢の中、13日、政府はやっと陸軍の派遣を決めます。
と言っても、これから準備するのですから、
到着するまでに約20日は掛かります。
従って「絶対に先に手を出すな」と指令しました。

ところが、この日、中国は既に上海への攻撃を開始しました。
そして翌14日には上海市街を爆撃したのです。
爆弾はキャセイホテルやパレスホテル等にも落ち、
中国人や西洋人に大量の死傷者を出しました。
あまりの暴虐さに日本政府は「暴支膺懲」を宣言し、
海軍は台風の中にも拘わらず、日本本土から直接爆撃機を飛ばして、
中国軍の飛行場や前線基地を叩き、邦人の命を永らえさせました。
これが第二次上海事変の始まりであり、長く続く戦争の始まりです。


中国の長期戦策定

日本は、8月13日に、始めて、戦争準備に取り掛かりますが、
中国は、もっと前から準備をしていました。
そして長期戦略を策定していたのです。

8月6日に中国は、第一回国防会議を開き、
三つの防御ラインと長期戦を原則とする対日戦略を決定しました。

その内容は

「勝倭の道」
「大敵に遇えば即退き、小敵に遇えば即戦う」
「対倭作戦」
「戦術でもって武器の不足を補う」

「戦術原則五項目」

一、 要以持久戦 消耗戦之決策 以打破敵人速戦即決之企図

ニ、 要立主動 敵攻我守 待其気衰力疲 我即乗出撃

三、 要固守陣地 堅忍不退 以深溝高塁厚壁 粉砕敵進攻

四、 要利用民力地物 処処設穽防 従抗戦殺敵

五、 要講求防制敵機 大砲戦車毒気之戦術 便其攻撃気効

というものです。

一、二は「空間を以って時間に代える」持久戦・消耗戦略で、
要するに奥地に引きずり込んで疲弊させる、というもの。

ニは、主動的立場に立ち、敵が攻めれば我は守り、
敵が疲れて其の気力の衰えるのを待ち、我乗り出して撃つ

三は、深い溝、高い防塁、厚い壁で以って敵の進攻を粉砕し、
陣地を固守し、絶対に退かない。

四は、民衆の力、地の利を利用し、罠を仕掛けてのゲリラ戦

五は、空襲、大砲、戦車、毒ガスへの対策

です。

日本が、一生懸命、和平を持ちかけている時に、
中国はこういう怪しからん事を企んでいたわけです。
そして8月12日には大本営を設置しました。

一方、日本の方はまだ消極的です。
参謀本部の石原少将は《上海に陸軍を出すと戦火が拡がるので出せない》
と断り、13日のぎりぎりまで抵抗していました。

しかし、事態が逼迫してきたので折れざるを得なくなったのです。

嫌がる陸軍を拝み倒して来て貰うのですから海軍は敬意を表して、
当時、連合艦隊の旗艦であった戦艦陸奥や長門を陸兵の輸送に供しました。
陸奥や長門は当時、日本の誇る最高の戦艦だったのです。
これで陸軍の兵隊を運ぼうと言うのですから、
海軍の気持ちがいかばかりか解かるでしょう。

それでも、石原少将は、目的は上海を取り巻いている中国軍を蹴散らし、
邦人の命を護る事だからと、二個師団しか出しません。
これが少なすぎて犠牲者を増やすことになります。

陸軍は、最初、上陸まで20日と言っていましたが、
ぐずぐすしてたら邦人が皆殺しにされますので、
必死で頑張って10日に縮めました。
そして8月23日に呉淞に上陸したのです。

ところが、中国側は鉄壁の布陣で待ち構えています。
従って、なかなか進めません。
犠牲者が増え、後から後から、部隊を追加せざるを得なくなりました。
第3、第11師団においては、歩兵は最初に出征したものは殆んど死傷し、
殆んどが補充員によって置き換えられたと言われています。

その為、新たに、
三個師団と台湾から重藤支隊が派遣される事になりました。

この責任をとって、石原少将は、第一部長の職を辞す事になります。

また、上海戦においては、弾薬も不足していました。
人間が来ても弾がないから攻撃できないのです。
「弾薬不足は日本軍の伝統的、宿命的欠陥」
と元参謀本部の井本熊男氏は言っています。

川柳にも「たまに撃つ、弾が無いのが、玉にきず」とあるそうです。

中国側は、最初から準備を整えて戦争してますから、勢いよくやれますが、
日本側はロクに準備もせず、バタバタやってきたので大変苦戦をします。


中国の嘘と呼応する人

日本は、8月14日の中国軍機・上海市街無差別爆撃に怒りましたが、
市街に死体が転がっている写真を新聞に載せることは許可しませんでした。
敵のやったことでも残酷写真は不許可なのです。

ところが、中国はこともあろうに、
この爆撃を日本がやったと世界に報じました
(K・カール・カワカミ著『シナ大陸の真相』を参照の事)。
尤も、これは目撃者多数ですぐバレますけど。
しかし遠方の人たちは訂正を知らず真実と思っているでしょう。

中国は今でもその嘘を流し続けているようです。
笠原十九司氏を始めとする中国信奉者が、
中国の爆撃した残酷写真に日本の仕業と説明をつけていますので。
日本は急いで戦争準備をし8月23日に呉淞に上陸しましたが、
中国側が鉄壁の布陣で待ち構えていますので、なかなか進めません。
犠牲者が増え、後から後から、部隊を追加せざるを得なくなりました。

それでもなんとかジリジリ押して行きますと、
中国軍は井戸に細菌を投げ込み後退したようです。
その為か、9月には日本側にコレラが多発します。
井戸水には、アメーバーや赤痢菌がうようよいました。
そして、中国軍から奪った指令には
「井戸水を飲用すべからず」とあったそうです。

この頃の不許可写真には、
自動車のような巨大な浄水機で黄浦江の水を浄水に変えてる写真や、
クリークの水を飲用にするために簡易濾過している写真がありますが、
これはそれを裏付けるものでしょう。

また、中国軍は撤退の際に毒ガス弾を放置して行きましたので、
これを日本軍が鹵獲すると、
中国は、先手を打って「日本が毒ガスを使用した」と
嘘の報道を流しました(昔の新聞にあります)。

自分たちの犯罪が暴かれる前に、日本のせいにしようと言う魂胆でしょう。
こういう犯行のすり替えは中国の常套手段です。
日本軍が上陸した8月23日にも、
中国軍機は、上海南京路の先施公司デパートを爆撃し、
酷い惨状を作り出しましたが、これも日本軍がやったと報じています。
もちろんすぐにバレますけど。

これも笠原十九司氏らが「日本軍がやった」と書いていますので、
多分、世界の遠くの方では、真実とされているでしょう。
大山中尉の時もそうですが、
とかく中国は、すぐバレる嘘でも平気でついて引っ込めません。
時が経てば知らない人が増え、真実とされるからです。

我々は、こういう中国の深謀遠慮を知らなければなりません。
ヒットラーではないが、嘘も百遍言えば真実となるのです。
嘘もつき通せば真実とされます。
そして、もっと始末の悪い事には、
中国の嘘にすぐ呼応する日本人が現れることです。
こうなると間違いを正すのが非常に難しくなります。

ここで笠原氏の問題の本を紹介しておきましょう。
それは『写真記録 日中戦争3.拡大する日中戦争 1937~1941』
ぽるぷ出版・鈴木亭、笠原十九司編という本です。
この本は南京大虐殺がメインのようですが、上海の所は嘘ばかりです。

25頁に住宅街らしき所が爆撃されてる写真があり、
本文には「日本空軍の爆撃で燃え上がる上海市、
日本軍は連日にわたる渡洋爆撃と航空母艦からの爆撃によって…」とあり、
次26頁には写真Aとして、爆撃後の、路上に死体が散乱した写真があります。

そして、その説明には
「上海市の惨状 爆撃による市民の惨状は目をおおわせた」とありました。
話の流れからすると、その惨状を作り出した犯人は
日本軍のように見えますが、実は中国軍なのです。
この写真は1937年8月14日に
中国空軍が上海・南京路に爆弾を落とした時の写真です。

そして、前頁の写真は9月末から10月始めに掛けての
閘北(ざほく)総攻撃の時の写真で上海戦の終り頃の写真です。
コメントの内容とは何の関係もありません。
これは中国軍の本拠地を叩いている所で、
別に市民を攻撃しているわけではありません。
そもそも、両方の砲弾が飛んで来る所に
市民がいつまでもいるわけないでしょう。
とっくに逃げ出してるでしょう。
しかも、このコメントは間違っています。

日本の艦載機は中国軍の前線基地を叩き、
渡洋爆撃は南京、広徳、南昌、杭州などの飛行場を攻撃したのであって、
別に上海市内を攻撃したわけではありません。

そもそも日本軍が何で日本人のいる所に
爆弾を落とさなければならないのでしょうか。
上海を攻撃してるのは中国軍です。
中国軍が中国人や外国人もろとも日本人を攻撃しているのです。
笠原氏は、この戦争が全く解っていません。

また、この本は、中国軍の爆撃によって破壊されたパレスホテル
(27頁上段B)の写真に
「日本空軍の爆撃による破壊、上海市の中心、
先施公司の爆撃で中国市民数百人が犠牲となった」
と説明をつけるなど二重の誤りを犯しています。

ちなみに、パレスホテルは8月14日、
先施公司は8月23日に中国軍が爆撃したものです。
27頁中段Cには、
本物の先施公司(シンシアコーズ)デパートの写真がありました。
全く「素人か!」と言いたくなります。

次に、28頁下段に避難民の写真がありますが、
ここの説明には
「上海避難民 日本軍の爆撃と攻撃にさらされた市民はなだれを打って
外国人租界に流れ込んだ」となっています。
これもデタラメです。

本当は、盧溝橋事件の後、
蒋介石が上海攻撃を企図し保安隊を遠巻きに配置しながら
徐々に包囲網を狭めていた為、
戦争を察知した住民が外国租界に逃げだしたのです。

この事は、「責任なし26蒋介石の仕掛けた上海戦」の中でもふれています。
中国があからさまに戦争準備を始め、11日から12日にかけて鉄道を押さえ、
軍隊を続々上海に送り込み通称日本租界を包囲、
12日には黄浦江との揚子江の江陰に船を沈めて川を封鎖したので、
市民が雪崩をうって、外国租界(特にフランス租界)に逃げ込んだのです。
つまり市民が逃げたのは中国軍が戦争を準備したからです。

そして 13日には攻撃を開始し、14日には上海市街を爆撃しました。
26頁A・27頁上段Bの写真は、この時の物です。

ここでハッキリしている事は、26~27頁の酷い写真は、
いづれも中国空軍の仕業で、この中には一枚も日本の加害写真はありません。
無いのは当たり前で、日本軍はそんな所爆撃していないからです。
日本軍が爆撃したのは、中国軍の飛行場や前線基地です。
もちろん中国軍が民衆の多くいる所にわざと集結して、
そのため民衆が被害を受けたという可能性は否定できませんが。
その場合、責任は中国側にあります。
笠原氏は、この戦争の実態を全く理解していません。

笠原氏の言わんとする事は
《日本が侵略して、上海に爆弾を雨あられと降らし、上海を地獄に変えた》
という事でしょうが、これは《中国の嘘の宣伝》そのままで、
事実とは関係ありません。
実際は、中国軍が、上海を包囲し攻撃爆撃したのです。
日本海軍は、陸軍が間に合わないので、中国軍の飛行場や前線基地を叩いて、
上海の邦人の命を護ろうとしたにすぎません。

故意か、無知(恥)かは判りませんが、笠原氏の出たらめにも程が有ります。
善意に解釈すれば、何も知らずに中国の嘘に騙されたという事でしょうが、
その場合彼は無知という事になります。
私ですら判る事実を知らないのですから。
もし故意だとすればとんでもない事です。
どっちにしろ、この人の本は信用できなくなります。


外国の加担

中国は自らの、上海市街爆撃を日本軍の仕業とすりかえ、
細菌、毒ガスも日本軍の仕業とすりかえ宣伝しました。
そのころ、外国駐在大使館においても、
嘘八百の宣伝がなされていたようです。

1937年10月2日の中外新聞は
―――――――
〔ロンドン発1日同盟〕
…支那側のデマ宣伝はいよいよ露骨を加えてきた…
ロンドン駐在支那大使館では毎日のように日本軍を中傷する記事を流して、
英国民の反日気勢を煽っている。
その上在支外国通信員を動かす等の間接方法をも併用、
絶体絶命、泣き落とし政策で英国民の同情を得んと必死になっている。
従って日本側の反駁ないし抗議はともすれば無視されがちである。
…外人目撃者のいない場所に関しては、今なお…デマが行われている。
9月28日のロンドン・タイムスは 
「英国政府は26日、支那側のマークを付したる日本軍飛行機二機が
広徳・安徽方面に現れ、爆弾を投下したとの支那政府の覚書を受領した」
と報道し、ラジオも同趣旨の放送を行った。
―――――――
と伝えています。

このような、絶え間のない悪宣伝により、
外国は騙されて(或いは、騙された振りをしてこの際、
ライバルの日本を叩いておこうという魂胆か)、
中国の戦争に加担するようになります。

上海戦が始まるとソ連はすぐに中国と「中ソ不可侵条約」を結び
大量の武器や資金の援助をしました。
ダリン (David J .Dallin)は、その著『ソ連と極東』に
「ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、
直ちに飛行機400~500機と同数の操縦士および教官を送り、
ソ連士官が中国軍に配備された。
チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。
1938年から40年までの間に、ソ連は中国に3億ドルの借款を与えて、
戦車、飛行機その他の軍需品を送った。」
と書いています。

また、英国人は上海戦の最中、中国兵に武器や食料を与え、
中国軍が租界の中で勝手なことをするのを放置していました。
“第87師の師長、王敬久は外国租界の中から部隊を指揮していた”
と劉勁持は怒っています。

その上、“上海戦の最終段階で四行倉庫に立てこもった中国兵は、
英国の好意により外国租界を通って撤退した”
と中国軍の記録にあります。

また、中国軍は外国租界を背にして布陣し、
日本軍の砲弾や空爆の弾が租界に落ちるようにしました。
次に、騙されたわけではありませんが、
ドイツは中国軍の顧問として作戦を指揮し、大量の武器を援助していました。

そしてアメリカはこの時点では直接的な援助はしていませんが、
精神的なサポートをしています。
この外にも外国人は、中国軍が自国の旗を悪用するのを放置していました。
中国軍はビルに隠れて外国の旗を掲げ、
日本軍が近づくと銃撃したりしていたのです。

そのため日本軍が旗を信用せず踏み込むと、
そこは本当に外国人の住まいだったりして、
外国人に反感を持たれたりしました。
こういう中国軍の外国旗濫用が後に南京で、
パネー号誤爆事件やレディーバード号誤砲撃事件を引き起こすわけです。

もちろん、この他にも中国お得意の便衣隊戦法というのもあります。
これは兵隊が民間人に化け、人込みの間から銃を撃ち、
人込みの間に逃げるという戦法です。

こんな戦法を取られるとウカツに反撃できません。
撃ったら無関係の民間人に当たりますから。

これで日本軍が反撃でもしようものなら、
日本軍は何の罪もない民間人を殺害したと逆宣伝されます。

中国軍の汚いやり方と、それに加担する外国のため、
ルールを守って戦おうとする日本軍は、非常に困難な戦いを強いられます。
そういう困難にもめげず、
日本は、上海の日本人居住区を包囲している中国軍を蹴散らし、
中国側に和平を持ちかけました。
ところが、蒋介石はこれを蹴ったのです。


中国和平を蹴る

上海戦が始まっても、日本は和平を諦めていません。
常に和平の道を模索していました。

参謀本部石原少将の第一部長離任転出直前、第二部の馬奈木中佐が
「今度支那の大使に着任したトラウトマンは
ベルリンで補佐官をしていた時代の友人である」
と言ったので、

石原第一部長は
「それは願ってもない。すぐ支那に行ってトラウトマンと会い、
日支和平工作の手がかりを作ってくれ」
と、馬奈木中佐を上海に行かせました(オット大佐同行)。

この後、石原少将は第一部長を離任、満州へ転出します。

10月26日から3日間上海で会談し、
いい感触を得たのでこれを広田外相に報告。

10月30日ごろ上海の日本人居留区が中国軍の脅威から解放されたので

11月2日、広田外相は正式にドイツ大使に仲介を依頼し、
日本側の条件を提示しました。

その内容は

(1) 内蒙古民族は自治政府を樹立する。その国際的地位は外蒙に同じ。

(2) 満州国国境に非武装地帯を設定し、中国警察が治安維持にあたる。
北支の全権は南京政府の手に存する。
…事変前から交渉中の鉱物採掘権については日本に満足のいく結果を求める。

(3) 上海は非武装地帯を拡大し国際警察を設けて管理する。

(4) 抗日政策の停止

(5) 共同して防共に努める

(6) 関税の引き下げ

(7) 外国の諸権利を尊重する

日本側は、この条件に従って7月7日以前の状況にまで軍を退く 
というものです。

この内容を、ディルクセン駐日独大使は“穏当なもの、
これなら中国側の面子も潰れないだろう”と言いました。

後に、白崇禧将軍も
「たったこれだけの条件なら、なんのための戦争か」と言ったくらいです。

ここで、補足しますと、(1)の“内蒙古民族は自治政府を樹立する”は、
事情を知らない人は侵略と見るでしょうが、
“満蒙独立運動”の所を読まれた方は、
そうでない事がお解かりになると思います。
これは“満蒙独立運動”の一環だからです。
これは“満蒙独立運動”を知らないと唐突に見えて理解できません。

日本の条件は、トラウトマン駐支独大使から、
11月6日、中国に伝えられました

ところが、蒋介石はこれを蹴ったのです。
彼は、国連に「日本が侵略している」と訴え、
これが9ヵ国会議に付託され審議されていたので、
いい結果が出るのを期待していたのです。
“図々しい”と言うか何と言うか、
中国は自分の方から戦争を仕掛けておきながら、
9月12日に「日本が侵略している」と国際連盟に訴えたわけです。
そしてあきれた事に国連は中国の言い分を聞き、
10月5日に、日本の行動は9ヵ国条約に違反、
9ヵ国会議で解決すべきだと決議しました。
その為、9カ国会議がブリュッセルで開かれたのです。
日本は、戦争を止めたくても中国が止めない限りやめられません。
一方的に停戦しても向こうが喜んで襲撃してくるのは経験済みだからです。

しかし日本は追撃の限界線を一応 蘇州までと定めました。
そこで蘇州まで追撃し、19日にこれを攻略したのです。

ところが、蒋介石は 「敵が南京に至れば我々は南京を防衛する。
敵が四川を攻撃すれば我々は四川を防衛する。
敵の侵略が続く限り我々は永久に戦い続けるであろう」
と世界に向かって公言しました。

これではまるで日本が侵略しているかの様に聞こえます。
そして20日の「遷都宣言」でも次の様に言いました。
「盧溝橋事件発生以来…日本の侵略は止まる事を知らず…
各地の将士は奮って国難に赴き…死すとも退かず…
日本は更に暴威を揮い…わが首都に迫る…
およそ血気ある者で瓦全より玉砕を欲せざる者はない。…」

日本は「戦争を止めよう」と言ってるのに、
蒋介石は拒否しながら、こんな事を言ってるわけです。
しかも自分の方から戦争を仕掛けておきながら。
この時点では、日本は四川はおろか南京攻略の予定すらありません。

一部の将軍には南京への考えを持つ人もありますが参謀本部が許可しません。
しかし、蒋介石が和平に応じなければ、
いつまでも“南京進撃”を抑止する事はできなくなります。


南京進撃への陰謀

日本は最初南京に進撃する予定はありませんでした。

戦争の目的は、あくまでも上海の邦人救出が目的だったのです。
だから、軍の名称も上海派遣軍ですし、
派遣した軍隊もたったの2個師団で、軍編成も臨時のものでした。

ところが、ここに、南京進撃を画策する者が現れました。
参謀本部の下村定少将です。
彼は石原莞爾少将の後任として第一部長に就いた人です。

石原少将は、上海戦に反対し、たったの2個師団しか出しませんでした。
それが少なすぎて、後から追加の軍を出さざるを得なくなり、
辞職に追い込まれたのです。

後任の下村少将は、
もっと積極策をとるべく「杭州湾上陸作戦」を建てました。
「杭州湾上陸作戦」の部隊は第10軍と名づけられ、
最高指揮官に柳川平助中将があてられます。

ところが、第10軍が杭州湾に上陸する頃、
上海の戦況が好転し、中国軍が西に背走し出したのです。
その時に、第10軍が杭州湾に上陸したものですから、
中国軍は雪崩をうって西へと背走し始めました。

現在の、我々の感覚からすれば
「シメタ戦わずして戦争は終わる。儲けもんだ」となるのですが、
当時の軍人はそうは考えていません。
ここまで来て、何もしないで終わるのは面白くない。
ならば南京へ進撃しようとなるのです。

ところが、上海派遣軍の方は「冗談言うな、
我々は3ヶ月間戦って、くたびれ上がっている。
第一、南京に行く準備はしとらん」となります。

参謀本部は、和平を模索していますから余計な事をされては困るので、
「上海派遣軍はくたびれているから、休ませろ」とか
「補給が出来ないから駄目だ」と言って制止するのですが、

第10軍は、「上海派遣軍が駄目なら、我々だけでもやる」、
「補給が出来なければ現地調達でやる」と言って聞きません。
ここに下村少将の陰謀が始まります。
彼は、第10軍の南京進撃をしやすくします。

第10軍が出来た後、上海派遣軍と第十軍をまとめる為に、
中支那方面軍が編成されますが、
最初のころ、第10軍は中支那方面軍の
指図を受けない権限を持っていました。

参謀本部は第十軍の考えを抑制する為、
11月7日、臨命第六百号で
「中支那方面軍ノ作戦地域ハ、概ネ蘇州、嘉興ヲ連ヌル線以東トス」
という指示を出しました。

多田次長は、この線でも出過ぎると渋っていたのです。
中央部においては、制限線で作戦を打切るか、
さらに一押しするかについて各種の意見があり、検討が進められました。

多田次長や河辺作戦課長は制限線を頑強に守る考えでしたが、
下村部長は南京追撃を考えて
「・・・制令線を今一つ押し出してはどうか・・・」
と作戦課に研究を命じていたのです。

11月15日前後になると「制限線を撤廃すべき」
という空気が濃厚になって来、
河辺作戦課長は17日「実情を見てくる」と上海に発ちました。

一方、第十軍は南京追撃を阻止された後でも、この企図を放棄せず、
認められた範囲内で実質的追撃行動に移り、数回にわたり、
方面軍及び中央に対して南京追撃の意見を具申しました。

11月18日、第十軍司令官は独断で「南京に向かう追撃」を発令。
これを知った多田次長は、
「イカン・・・すぐ止めさせなきゃ」と下村部長に指示しました。
ところが、下村部長は「第十軍がそんなことをしましても、
方面軍は中央の意図に従ってるのですから、方面軍が処置するでしょう。
中央が指示するのは良くありますまい」と抵抗するのです。

それでも次長が「とにかく・・・止めさせてくれ」と繰り返すので
「・・・は臨命第六百号指示の範囲を逸脱せるものと認めるにつき為念」
という中途半端な電報を中支那方面軍に送りました。

極めつけは、11月17日の御前会議です。
下村部長は、草案通りの上奏をした後
「・・・統帥部と致しましては、今後の状況如何により・・・
南京その他を攻撃せしむる事を考慮しております」と付け加えたのです。

参席者の多くは「ナニ!」と眉を上げましたが、動けません。
御前会議では、発言者以外は不動の姿勢を取らなければならないのです。
後で多田次長は怒りますが、もうどうにもなりません。
御前会議での上奏は最高方針の決定だからです。

このことによって、南京進撃を禁ずることが、難しくなりました。
下村部長に外堀を埋められた、多田次長は、抵抗していましたが、
結局、下村部長の説得を受け入れざるを得なくなったのです。


上海から南京へ

中国が和平に応じないものですから、
日本としては追撃の手を緩めることが出来ません。
放って置いたら態勢を立て直してまた攻めて来るからです。
日本軍は背走する中国兵を追って西へ進撃しました。

この時、三光作戦をやったという話がありますが、果たしてどうでしょうか。
戦争ですから、略奪が全く無かったとか、民家が全く焼かれなかったとか、
兵士以外の中国人が一人も殺されなかった等とは申しません。
そういう事はあったでしょう。しかし、宣伝されるような内容でしょうか。

実は日本軍が来る前に中国軍が同じ事をやっていたのです。
上海から南京へ敗走する途中、中国軍は略奪や放火をやりました。
これについては、幾つかの証言がありますのでそれを紹介しましょう。

ラーベ
11月16日 蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、
ひどい略奪が行われたという。済南の手前にある鉄橋が
中国人の手によって爆破されたという。日本人の進攻を防ぐため

孫元良
やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、
蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、
我々に休む間を与えなかった。

第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏
上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、
沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、
また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し…放火・破壊した、
支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた。

第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏
わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、
蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、
蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、
屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める。

徐永昌の日記
11月26日 聞くところによれば、
蒋介石は、不安分子が栗水、栗陽などで強奪・強盗などを
働いたと聞いて激怒したとの事。

これらの行為は、兵隊によるものですが、
国家的政策によって行われたものもあります。
それは清野作戦です。
中国は日本軍が近づくと「鎮江」の街を焼き払いました。
そして南京の周り半径十六キロ以内の建物を全て焼き払ったのです。
その目的は、日本軍に利用できる物は何も与えない。
ただそれだけの為です。
こういう、中国軍のやった跡を見た、記者や善人根性の日本兵が勘違いして
日本軍がやったと証言した可能性はないでしょうか。

日本には最初、南京に行く予定はありませんでした。
とりあえず、上海戦の限界は蘇州-嘉興までだったのです。

しかし中国が講和に応じない限り、追撃の手は緩められません。
現場からの声にせっつかれて限界線を無錫-湖州の線にまで延ばしました。
これを攻略してしまうと、次の制限線へと寸刻みに延ばしていきました。

その間、参謀本部は現場の南京進撃許可要求に対して、
「補給が追いつかないから駄目だ」
とか
「上海派遣軍は疲れているから休ませろ」
とか言って抑えていたのですが、とうとう南京の近くまで来てしまいました。
こうなると、もう、「南京攻撃は駄目だ」とは言えなくなります。
結局GOサインを出さざるを得なくなったのです。

このころ中国は、日本が前に出した停戦案を検討するようになります。
9ヵ国会議でいい結果が出なかったからです。
12月2日にトラウトマンに日本の条件はまだ変わってないかを聞いて、
受諾するかどうかを会議にかけました。大勢は賛成でした。
しかし、時すでに遅し。
日本は12月1日南京攻撃を決定し、動き出していたのです。


怪しい三光証言(上海~南京)

上海から南京に到る途中で、松井軍司令官や他の将軍たちが
三光作戦や虐殺の命令を出していたかのように言う証言がありますが、
これは変です。

松井大将は、日中友好協会の会長のような人で、
常に「支那人を愛護せよ、労われ」と言っていた人です。
この人がそんな命令出す筈がありません。

松井大将は、11月11日、上海で外人記者団と会見した折
「・・・抵抗は、果たして支那将兵の意志なりや・・・
気の毒に耐えない・・・」と言っています。

これは、上海の南市攻撃の前で、
一部の兵が中国軍を追って西へ動き始めた頃の話です。
このころ、第10軍の第6師団は、
上海派遣軍応援のため崑山に行かされました。

この時の、証言に (秦郁彦著『南京事件』より引用)
《一時、上海派遣軍へ編入され崑山へ進撃中の第6師団司令部へ、
「女、子供にかかわらずシナ人はみな殺せ。
家は全部焼け」という命令が届き、
「こんなバカな命令があるか」と平岡副官が握り潰した》
(平松鷹史『郷土部隊奮戦史』)

《筆者も当時第6師団歩兵第45連隊長だった竹下義晴氏から、
“火の不始末を注意したところ、部下の大隊長から
「中支を全部焼き払えと軍司令官が言ってるのを
新連隊長は知らないのですか」と反問された”のを聞いた》
(従軍カメラマン河野公輝氏の回想『証言記録・三光作戦』)

と言うのがあります。

これが南京で出てくると、「さもありなん」と思うでしょうが、
これは、まだ上海戦です。

しかもこの頃、上海憲兵隊の塚本大尉が、
崑山の花園アパートに下士官何人かと寝起きしていました
(塚本誠著『ある情報将校の記録』)。

しかし彼は、その様な現場を目撃していません。
彼は、常に中国人擁護に回っていた人です。
そんな事をされたら彼が黙っていません。
彼の友人には松本重治氏がい、松本氏の友人にはティンパーレがいます。

次に秦氏が『南京事件』に引用した証言に

《国崎支隊の歩41連隊に従軍した宮下光盛一等兵は、杭州湾上陸時に
「1、民家を発見したら全部焼却すること。
2、老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」
との命令を受けていたという》

というのがあります。
兵士が「従軍」という言い方も変ですが、
それより前に、杭州湾上陸時に、
その様な「命令」が出ていたという事自体が変です。
第10軍の目的は、上海派遣軍を助けて、上海を解放する事です。
何で「皆殺し焼却」命令があるのでしょうか。
この時点では、まだ南京攻撃の予定はありません。
もし、この命令が事実なら、第10軍の通った後は、
一面焼け野原で累々たる死体が転がってる筈です。

しかし、そうはなっていません。
第一、そうだったらティンパーレが黙ってないでしょう。
彼は南京大虐殺の前に「杭州大虐殺」を書いた筈です。
彼は「南京大虐殺」を書く時、
ベイツから「南京だけではまずいから、他所も調べてくれ」
と言われて調べたのですが、
「上海・松江・嘉興に関しては、日本軍の暴行の証拠は見つからなかった」
と報告しています。
松江とは、国崎支隊が上陸してすぐ攻略した都市です。

上記の証言が正しければ、
松江は《皆殺しの焼け野原》になってなければなりません。
国崎支隊は命令違反をしたのでしょうか。
そして他の部隊も。なら、南京やその途中でもそうする筈ですが。

次に、リリー・アベックは、『支那の革新』の中で
《日本軍は、上海までは非の打ち所のない軍隊だった》風に書いています。

また、第10軍司令官柳川中将は、11月17日に「南京追撃」の方針を示した際、
次の様に訓示しました。

「・・・窃に聞く所に拠れば、最も忌むべき婦女暴行・金品強奪の犯行、
二、三に止まらずと謂う。
斯ては、集団の戦績を汚辱し、皇軍の威武を涜すものにして、
まことに痛嘆に堪えず、隷下の将兵克く自動自戒し、軍規厳正、
益々士気を励起し、各々、其の任務を邁進すべし」

と「皆殺し焼却命令」を出している者が
「婦女暴行・金品強奪」など気にするでしょうか。
実にこの「皆殺し焼却命令」は不自然です。行なわれた形跡もありません。
南京ではこの手の証言が通用しても、上海では通用しません。


揚子江啓開作戦

この項目は最初、書くつもりなかったのですが、
南京虐殺の証言に関連事項があるので入れました。

南京攻略が本決まりになりますと、
海軍としても南京に行かなければなりません。
ところが、中国が揚子江のあちこちに閉塞線をつくり、
機雷を浮かべていますので、簡単には行けません。
そこで揚子江啓開作戦が始まります。

11月29日~12月7日までの活動は省略

12月8日、第2掃海隊はクーパーバンク西方の水路を啓開。
スリーツリー北方設標中、天塩丸は前方江上に
管制機雷の爆発2条を認めたので、敵トーチカを砲撃、
同隊は19:00までに北水道南方水路を掃海、巫山・弧山の
連結線以東の福姜沙海岸水路の掃海を完了した。

9日、2掃の間宮丸・天塩丸・雄基丸の3隻は、
8日掃海した北方水面の掃海を08:30再開した。

ところが09:15雄基丸は
巫山の330度4200m付近で触雷沈没、

他の2隻は直ちに北岸の敵トーチカを攻撃、かつ、乗員の救助に任じた。
この辺の掃海は一端停止、後で本格的にやることとした。

1掃及び「勢多」、「江風」、「比良」は三江営陣前に交戦しつつ進出、
三江営陣の敵は野砲及び小銃、機銃で攻撃、激戦 1時間、
ほぼ同地を制圧したので「掃2、掃4号」を以って
13:00から同陣地上下流約6キロにわたる間を掃海。

この間、「勢多」は、亀山砲台の偵察を実施、
2キロ付近に達した時、同砲台から突如砲撃を受け直ちに応戦。
約90発の散弾を浴び、前檣、煙突に各一発命中弾を受け、一時避退した。

同夜、各艦は三江営の下流6キロ付近に警泊、北岸の敵から2回猛射をうけた。

10日、15:00ごろ「比良・勢多」は三江営付近を制圧。
「江風」は神川丸飛行機と協力して亀山砲台を制圧した。

11日、田村一掃司令は第1、第2小隊の掃海艇4隻を率いて
09:00泊地発、主隊の前路を掃海。
「保津・勢多・二見・熱海・比良」並びに一掃各艇は16:25泊地発、

丹徒水道を探索しつつ遡江、都天廟狭水道付近に達するや、
都天廟砲台及びその東方陣地から猛烈な射撃をうけた。

これに対し16:30第24駆逐隊各艦は援護射撃を開始。
各艦艇は弾雨の中掃海を続行、都天廟敷設線を突破、
「勢多・保津」は焦山南水道を突破して鎮江に突入18:00桟橋に横付けした。

12日、前衛部隊、主力部隊の順に08:30追撃を開始。
鎮江から下江してきた「保津・比良・勢多」と共に、
都天廟砲台及び付近の残敵の猛射を反撃、
かつ途中左岸一体の敵陣地密集部隊と交戦、

これを撃破制圧しつつ全軍一丸となって砲台下を強行通過。
「掃6・掃3号」は先頭部隊の「保津・勢多」と合同、
12:30ごろ烏龍山閉塞線付近に到着し、掃海作業に移ったが、
北岸の劉子口付近から野砲・機銃・小銃の猛射をうけた。

この時「保津」は命中弾をうけ左舷機故障、掃6号は後部艦橋に、
掃3号は艦長室水線付近に被弾し、
負傷者発生のため一時避退し応急修理を行なった。

15:30ごろ主隊が閉塞線付近に到着、
第24駆逐隊並びに神川丸機
及び2連空機は烏龍山砲台及び北岸陣地の砲爆撃を実施。

同夜、23:00ころから諸岡少佐指揮の工作隊は安宅の高速艇に乗り、
「勢多」援護下に閉塞線に接近し、
閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断、
箱舟やジャンクを取り除き、約3時間後幅300mの可航水路を啓開した。

13日、「勢多・保津」は霧の晴れるのを待って10:30抜錨、
閉塞線を突破して劉子口野砲陣地からの猛射に反撃しつつ、
烏龍山砲台及び水路を偵察しつつ引き返した。

12:10近藤司令官は南京への進撃を下令した。

12:30前衛隊、15:15主隊の順に泊地発、
縦陣列で閉塞線を突破し、南京に向けて進撃を開始した。

この時、江上、江岸は敗走する敵大部隊、舟艇、筏で充満していた。

各艦は、これに攻撃を加え、更に天河口・硫安工場付近の野砲陣地
その他の抵抗を排除しつつ前進し、先頭の「保津・勢多」は15:40、
主隊は17:00南京に突入した。

第1掃海隊は、南京到着後直ちに泊地を掃海、浦口桟橋を確保。
「保津」は南京到着後、「パネー号の救助に向かえ」との指令を受け、
直ちに下関を出港、20:30開源碼頭に到着、
パネー号の遭難者の救助にあたった。
(海軍戦史叢書より抜粋要約引用)
尚 揚子江の掃海は、この後4月までかかった。


南京陥落

日本軍が南京に近づくと、
蒋介石は唐生智に防衛を押し付け、サッサと漢口に逃げ出しました。
日本軍は南京の東部・南部を包囲し、空から降伏勧告のビラを撒きます。
期限は10日までです。

ところが唐生智は返事を出しません。徹底抗戦ということです。
部下が船で逃げ出さないよう、下関の港に部隊を配置し、
大きなフェリーボートは先に漢口にやってしまいました。

そうやって部下に徹底抗戦を強いたにも関らず、
唐生智は12日、自分の手勢だけを連れて船で逃げ出したのです。
そして他の者は敵前突破しろと言いました。
随分、勝手なものです。
このことから悲劇が起こります。

まず第66軍の葉肇と第83軍の?竜光は
日本軍第16師団と第9師団の間を突破する形で打って出ました。

「午後9時、太平門の防御物を爆破、通路が開かれると、
人は先を争って飛び出し、弱者は踏みつけられて命を落とし、
強者はその上を通って命を永らえた。
下敷きになった者は手榴弾を投げて周囲の者と共に自爆した。
先頭部隊は日本軍と戦闘になった。
我々は日本軍の夜営のかがり火を遠く避けてうまく脱出した」

と劉紹武は書いています。

この時、佐々木倒一少将の部隊と遭遇戦闘になります。
12月12日24時、仙鶴門鎮の集成騎兵隊のいる所に、
約2万の支那兵が・・・殺到‥。
《‥暗黒裏に敵の襲撃を受け・・・人200・馬60の損害を被る・・・》
(佐々木倒一少将私記)
死闘は13日午前9時まで続きました。
第83軍長の?竜光や第66軍長の葉肇は、うまく脱出しましたが、
この戦いで3000の部下が戦死しました。

一方、第2軍は要領よく脱出しました。
彼らは第13師団が烏龍山に着く前に、
周家沙・黄泥湯の渡船場から渡河を始め、
夜明けまでに主力は対岸に渡り終えたのです。

この時、日本海軍の第11戦隊は、
まだ、烏龍山沖の閉塞線の除去作業中で、
中国軍第2軍の渡河を阻止する事は出来ませんでした。
これらの部隊は夜陰に紛れ、なんとか脱出しましたが、
全部が全部そういうわけには行きません。
唐生智が逃げた事を知った、
他の兵は我も我もと下関の港へ殺到、城門に殺到する兵のため
前の者が踏み潰され圧死と同士討ちで大量の死者が出ました。

やっとの事で外に出たら船がない。小舟の奪い合いで同士討ちになりました。
この時の争乱で火災を起こし黒こげの死体の山が出来ます。
これは中国側の記録にある事です。
ラーベ達はこの死体を日本軍の仕業と勘違いしたようです。
もちろん後から来た日本兵や新聞記者もです。
逃げ損なった大量の中国兵は、城内に戻り市民を殺して服をはぎ取り、
安全区に潜り込みました。
彼らは便衣兵となって攪乱工作に転じます。


紫金山頂の教導総隊は、
13日午前8時血路を開かんと、佐々木部隊に殺到、激戦となりました。
敵陣突破ですから死に物狂いです

一方、南京の西側を揚子江沿いに南下して脱出しょうとする中国軍第74軍は、
北上して来る日本軍第6師団歩兵第45連隊と出くわし戦闘になりました。
最初は激戦でしたが、
そのうち中国側が崩れ、北に逆行、江岸に逃げだしたのです。

その為、歩兵第45連隊はこれを追撃し、江岸に機銃を据え、
筏や戸板にすがって渡河しようとする敵を掃蕩しました。

他方、第16師団の軽装甲車中隊は
午前10時頃から南京城の北側を回って下関に進撃、
江岸に蝟集する敵を掃討、渡河中の敵5~6千を攻撃、
午後3時頃、下関に進入、
同日夕までに少なくとも 500名を掃討したと言います。

また、歩兵33連隊は午後2時30分に下関に達し、

「揚子江上に無数の敗残兵船筏その他あらゆる浮遊物を利用し
江を覆って流下しつつあるを発見、
速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事2時間、
殲滅せし敵2000を下らざるものと判断す」

と言っています。

但し、この下関の戦果については、疑問があります。
というのは、彼らが来る前、既に、
中国軍の同士討ちで大量の死体があった筈だからです。
当然彼らはそれを戦果に加えているでしょう。
それに、速射砲を2時間も連続で撃ったら、
あっという間に弾の予備がなくなるのではないかと思われます。
その前に、銃身が焼けついてしまうかも。
もっと前に相手は水に流れているから、
2時間と言わずに目標は射程外に去ってしまうと思うけど。
無駄弾の撃ち過ぎに見えるのですが、素人の考え過ぎでしょうか。

次に、江上の敵殲滅数も適当に誇大報告した可能性があります。
水の上のものは数えられませんし、第一、流れて証拠が残りませんから。
しかもこの後、閉塞戦を突破してきた海軍第11戦隊も
同じく流れてくる中国兵に銃弾を浴びせていますので、
この軽装甲車中隊、歩兵33連隊、
海軍の3つの戦果は重複しているでしょう。

佐々木少将は
「此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上り・・・
その後捕虜続々投降し来り数千に達す、
激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮・・・」
と言っていますが、
この「遺棄された敵屍一万数千」には、
この日以前の戦闘の分も含まれていますので
12日夜から13日に掛けての戦果とは一概に決め付けられません。

大虐殺関係の資料ではこれらの話も数にいれているようですが、
これは違うのではないでしょうか。
これは明白な戦闘行為です。どんなに気に食わなくても。

13日午後に第66連隊が1200名を投降させていますが、
この1200名を投降させた第66連隊の小宅小隊長代理は
「・・・中国兵は三々五々降服してきたので、
私の所で検問して後ろに送った・・・どのくらいいたのか判らない。
後で1200・・・と聞いた。しかし、あの時、1200人の捕虜を検問して
武装解除するだけの時間があったか・・・とても1200人もいたとは言えない」
と言っています。
やはり、戦果を誇大報告しているようです。


coffeeさんの解説コーナー

佐々木少将の証言の中に、
「・・・その後捕虜続々投降し来り数千に達す・・・
片はしより殺戮・・・」というのがあるが、
この場合の「捕虜」とは正確には(国際法上は)、「捕虜」ではない。

「捕虜が投降する」などということは、日本語としておかしいのだ。
国際法上の「捕虜」「俘虜」とは、
投降して、敵に投降(捕虜となること)が認められ、
収容されて初めて保護されるべき「捕虜」「俘虜」となることができる。

ハーグ陸戦法規では、
「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」
を禁止しているが、
状況によっては投降を拒否して攻撃・殺傷を継続することを認めている。

したがって、佐々木証言の「捕虜が続々投降し来り」は正確な表現ではない。

このように、当時の多くの日本軍将兵は、
国際法上正確には「捕虜」「俘虜」とは言わない敵の
「投降兵」や「敗残兵」などのことを、
「捕虜」「俘虜」と記録しているので要注意。

反日左翼は、このような証言や記録を以って、
「日本軍は保護すべき捕虜を不法殺害した」と主張するが、それは間違いだ。

この佐々木少将の証言のように、日本軍が殺したのは、
国際法上保護すべき「捕虜」「俘虜」ではなく、
正確には「敗残兵」「投降兵」だったのだ。

ちなみに、支那軍は、
投降したり負傷して捕まえた日本兵を一人残らず全員惨殺し、
捕虜として保護したことは全くなかった。

米軍も、支那軍のように一人残らず全員とまではいかないまでも、
投降した日本兵を捕虜にして保護することは極めて少なく、殆どを惨殺した。

米軍による日本軍投降兵虐殺に関する資料としては、
『リンドバーグ第二次大戦日記』が最も有名だが、他にもいろいろある。
連合軍が日本兵を捕虜にせず殺害しまくった例は枚挙に暇がない。
カリフォルニア大学のダワー教授はその著『人種偏見』において、
連合軍側の虐殺行為を詳しく紹介している。

例えば、すでに米軍の支配下にあった島に、
仲間とはぐれた日本兵を一人放ち、
その兵士が身の安全を求めて狂ったように
駆け出すところを銃の標的として楽しんだ。

ペリリュー島や沖縄の激戦地で、
米軍兵士は日本兵の死体から手を切り取って
戦果のトロフィーとする、金歯を漁る、
死体のあいた口めがけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、
「みじめな生活から逃れさせてやっただけだ」
と気にもとめない、といった具合である。

太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは、
1946年・昭和21年の『アトランティック・マンスリー』誌に、
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、
救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、
まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、
死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、
または他の骨でぺーパーナイフを作るとかしてきたのだ」と書いた。
これらの陰湿な虐殺行為は政府によって公認されたこともあった。

ジョン・ダワー教授はいう。
「ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、
日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、
あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。
たとえば日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて
何百何千という生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、
この虐殺をその公式報告書に記録し、
しかも上官から公の賛辞を与えられている。」

さらに、ダワー教授はこう述べる。
――――――――
「連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。
そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、
補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側が
それでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を
捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。 」
――――――――
投降した日本兵を「反戦兵士」にする者を除いて全員惨殺し、
一人たりとも捕虜としてマトモに保護しなかった支那軍など論外。

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捕虜・便衣隊の処刑

日本軍は、南京陥落戦の時、投降してきた中国兵を大量に処刑しました。
(これは笠原十九司氏編集『南京戦史』の証言を信用しての話ですけ) 。
そして、安全区に潜り込んだ中国兵を摘発し処刑しました。
この時、間違って民間人を連行し処刑した可能性はあります。
この事が虐殺と言われる所以ですが、私は、敢えて、異論を唱えます。
これらを残酷と言うのは、今の平時の感覚です。
当時の兵士の感覚としては戦争の続きでしょう。
さっきまで殺し合いをしていた相手が河に逃げたからと言って
「撃ち方止め」とはならないでしょう。
当然、その延長線上として撃ちます。

また、さっきまで殺し合いをしていた相手が手を挙げたからと言って、
「ハイそうですか」とはなりません。
特に、中国の場合、手を挙げたからと言って信用できません。
カンフー映画(酔拳だったか?)に 
《ジャッキー・チェーン扮する正義の味方が
負けそうになって哀願すると、悪役が後ろを振り向く、
そうするとまた襲い掛かる》 というシーンがありました。

中国では正義の味方ですらそうなのです。
実際に、《捕虜が手榴弾を投げつけた》という例もあります。
「投降した支那兵の中には小銃は捨てても
懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた」
と島田勝巳、歩兵第33連隊第二機関銃中隊長は言っています。
日本人は正々堂々を好みますが、中国人は逆なのです。
日本人の最も嫌う汚いやり方、反則わざを好んで使います。
(それをスマートに発展させたのが孫子の兵法や諸葛孔明の謀略)

便衣隊など、その最たるものでしょう。
そういう事から反感や不信感がつのって
「やってしまえ」となっても仕方のない事です。

また、投降兵が大量すぎると、捕虜として管理できなくなります。
唐生智が全軍まとめて降伏し無血開城したのなら別ですが、
そうでない場合は、まだ戦闘中ですから、大量の捕虜を抱えると、
動きが取れなくなり却って危険になります。

かつ日本軍には、大量の捕虜に食べさせる食料がありません。
なにしろ自分たちが食べる物すらないのですから。

さりとて、大量の兵をそのまま釈放したら、
武器をとってまた攻めて来るかも知れない。
ならば、現場の師団長あたりが、
松井大将の意志を無視して処刑命令を出したとしても不思議はないでしょう。

佐々木倒一少将など、酷く悪く言われてますが、
彼は松井大将と並ぶ中国人びいきだった人です。
彼は済南事件の時は、蒋介石に付いて従軍し、
日本軍から「貴公はそれでも日本人か」と言われ、
満州では、満州国軍を創設する際、
周囲の反対を押し切って漢人を軍の主力に据えた人です。
その人が、南京虐殺の犯人のように言われているわけです。

中国びいきの佐々木少将にして、こういう対応しか取れないのなら、
一体誰が、今の人の言うような奇麗事ができるでしょうか。
これは戦争なのです。

また、安全区の便衣隊狩りにしてもそうです。
彼らが、便衣に着替えて安全区に隠れなければ、
間違われて殺される民間人はなかったのです。
その前に、便衣隊掃蕩という作戦も無かったでしょうけど。
便衣隊の過酷な摘発、厳しい処刑の原因は中国側にあります。
問題は、中国軍が降伏もせず、武器を持ったまま安全区に潜った事です。

中国には古来から
《兵隊が民間人に化け、民間人の間から攻撃をかけ、民間人の間に逃げ込む》
という卑怯な戦法がありました(いわゆる便衣隊戦法です)。
これは必然的に、無関係な人を巻き添えにします。
だからこそ、このような汚い野蛮な戦法には、
厳しく対処しなければならないのです。

しかしながら南京の外国人には、そんな事情は解りません。
彼らには、日本軍が無慈悲に民間人を連行して
処刑しているとしか映りません。
それをいい事に、中国は便衣隊を使って南京を攪乱し、
日本を落としいれる作戦に出ました。


南京、便衣兵の攪乱工作

下関脱出に失敗した大量の中国兵は、
城内に戻り市民を殺して服をはぎ取り、安全区に潜り込みました。
彼らは便衣兵となって攪乱工作に転じます。

12月12日 日本軍の南京突入前に龍上校と周上校がラーベ宅を訪れ、
「私と周の2人は負傷者の面倒を見るために残された」
と言って3万ドルを置いていきました。
恐らく、工作を指揮するためでしょう。

そして、郭岐は下関脱出を断念したあと五台山に部隊を待機させ、
翌13日午後、部下に便衣に着替えさせ、
イタリア大使館に逃げ込み、それから難民区に潜り込みました。

ラーベ達外国人は、安全区に潜んだ中国兵を、
戦意を喪失した無害な市民と思い、
日本軍を非難していますが、これはとんでもない勘違いです。
彼らは、戦争を放棄していない危険集団だったのです。
歩兵第7連隊が安全区内で鹵獲した武器だけでも膨大な量があります。

(南京城内掃蕩成果表)「12月13日~12月24日」によると、
鹵獲品 
15センチ砲 2門     同弾薬  約600発
20センチ級砲 8門    同弾薬  約1000発
小銃      960挺    同実包  39万発
水冷式重機関銃12挺    軽機関銃 33挺
拳銃     103挺    同弾薬 261,350発
高射砲     1門     高射機関銃 1挺
山砲     6門      同弾薬  82発
迫撃砲   10門     同弾薬 57,218発
戦車砲弾   39,000発  銃剣   320挺
手榴弾    55,122発  青竜刀  2,020振
対戦車砲   2門     戦車   4台
機関砲    1門      自動貨車 16台
便衣服  2,300着    夏衣袴  25,300着
とあります。
しかもこれは実際の3分の1だそうです。

そして『ニューヨーク・タイムズ』(1938年1月4日)は、
「元中国軍将校が避難民の中に
大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」
《…彼らは金陵女子大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、
砲台から外した機関銃一丁に、弾薬を隠し持っていた。
…この将校達は南京で略奪した事と、
避難民キャンプから少女達を暗闇に引き込んで、
翌日には日本兵が襲った風にした事を、
アメリカ人や他の外国人たちの前で自白した…》

と伝え、

『チャイナ・プレス』(1938年1月25日号)は、
12月28日現在、外国大使館や建物から支那軍の将校23名と下士官54名、
兵卒1498名が摘発された。
《南京平和防衛軍司令官ワンシンローはチェンミーと名乗って、
国際避難民地帯の第4部門のグループを指揮していた。
また、前第88師の副師長マーポーシャン中将や、
南京警察の高官ミシンシもいた。
マ中将は安全地帯内で反日攪乱行為の煽動を続けていた。
安全地帯にはホァンアン大尉の他17人が、機関銃1丁、
ライフル17丁を持ってかくまわれ、
ワンシンローと3人の部下は略奪、扇動、強姦に携わった》

と報じています。

また郭岐は
「日本の獣兵は南京市を占領していたが、
周辺のデマで日夜不安であり、まるで針の筵に座っているかのようだった。
ある時、中央〔国民政府〕の便衣隊約5~6人が入城し、
中華路付近の地下室内に潜んでいた。
ちょうど5人の獣兵が3~4人の人夫を伴って北から南へ、
我が便衣隊の近くにやって来た。
彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、
4人の人夫に「中央軍は既に入城した」と言って、人夫たちを安心させた。
この4人の人夫は狂気乱舞して「中央軍が入城した」と叫んでまわった。
・・・難民区の日本旗や腕章はいっせいに大通りに捨てられ・・・」
と書き、これと符号する内容をラーベは、
「1月8日 今日、中国人の間で、
中国兵たちが南京を奪い返そうとしているという噂が、またもや広まった。
それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。
まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。
日本の腕章も。
・・・相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという」
と日記に書いています。

つまりこの様に、安全区に潜入した便衣兵は、
けっして無害な存在ではなかったのです。
彼らは、略奪・強姦・放火をしながら、反乱を画策していました。
ラーベ達の見方とは、全く違っていたのです。
この様な事実を基に、
ラーベの日記に出て来る異様な日本兵を見直してみますと、
あれが一体何者であったかが判ってきます。
恐らく、彼らは “日本兵に化けた便衣兵”でしょう。
そう見た時、彼らの不可解な行動が理解できます。
ラーベ宅に執拗に侵入を繰り返しては、簡単につまみ出される日本兵。
日中合弁の新築店舗に放火する日本兵。
日本軍の指示に従って、
安全区から自宅へ戻ろうとする中国人に石を投げつける日本兵。
行軍の邪魔になる、壁掛け時計やピアノを盗む日本兵。
などなど。
これらを日本兵と見ると理解に苦しみますが、
便衣兵と見れば何でもなくなります。単なる攪乱工作だからです。
特に、壁を破ってピアノを盗むなどは中国人の典型でしょう。
―――――――
数年前、福岡市の新天町で中国人窃盗団が
宝石店の壁を破って侵入し宝石を盗んだ事があります。
それまで日本には壁を破って泥棒に入るという発想は
無かったので驚きでした。
最近では同様の中国人犯罪が増えていますので珍しくなくなりましたけど。
――――――――
ここから考えるに李秀英女史の件も疑うべきでしょう。
本人が生きてるにも関らず、襲われた場所が
2ヵ所と異説があるのも変ですが、
“残虐な”日本兵3人に襲われながら、相手の短刀を奪って格闘し、
かつ37箇所も刺されながら生きているというのも変です。
“残虐な日本兵”3人のわりには弱すぎないでしょうか。
妊婦1人を3人がかりでどうにも出来ない“情けない日本兵”が
大虐殺をやったと言うのでしょうか。
むしろこれは便衣兵が、
残虐に見えるように数多く刺しながらも致命傷を与えず、
早めに病院に運んで、
日本兵の仕業と証言させたと言うべきではないでしょうか。
――――――――
ともかく便衣兵は、このようにして、
ラーベたちが体を張って護っている安全区の中に隠れて、
犯罪を犯し、治安を乱していたわけです。
ラーベが南京を去る直前に、龍上校と周上校の2人がラーベ宅を訪れてから、
南京を去りました。
彼らはラーベという庇護者がいなくなると危険なので去ったのでしょう。
以後、南京での犯罪は下火になります。


便衣隊狩りは正当

日本軍は13日の午後、南京に突入し、一歩一歩注意深く前進しました。
どこに敵が潜んでいるか判らないからです。
14日、15日、は中国兵の掃討、便衣兵の摘発が行われ、
17日は入城式、18日は戦没兵士の慰霊祭です。

松井大将はこの時、中国兵も同時に慰霊するつもりでしたが、
他の将軍達の反対や準備不足などで止めました。
尚、17日から18日にかけての夜、幕府山で悲劇が起こります。

第13師団に大量の中国兵が投降して来たのですが、多すぎて処置に困り、
こっそり揚子江の対岸に逃がそうとした所、
対岸から撃たれ、捕虜が暴れだして、
結局、機関銃で撃ち殺さざるを得なくなりました。

翌日調べたところ死体は1000くらいで残りの3000は逃げたとのことです。

19日には、第10軍は杭州攻略戦に向けてUターンし、
他の部隊も21日に各配置場所に向けて南京城を去りました。

22日からは第16師団だけが南京警備に残されました。

ところが、第9師団だけは、
居残って安全区の便衣隊摘発をやっていたようです。
特に第7連隊は24日まで粘って、かなり過酷な摘発と処刑をやったようです。
――――――――
こういう事が、大虐殺として、宣伝される原因です。
しかしながら、先に示しましたように、これも理由があっての事です。
中国兵が、降伏もせず、安全区に武器を持ったまま潜入したのが原因です。

彼らは、安全区内に大量の武器を持ち込み、
略奪・強姦・放火を行い、反乱も画策しました。

従って、日本軍の便衣隊狩りには正当性があります。

間違えて民間人を摘発したとか、兵民分離がずさんだとか、
ロクに調べもせずに適当に連行して殺したとかあるでしょう。
これを非難するのは簡単です。

しかしながら、そうなるように仕組んでるのは中国です。
彼らは意図的にそうしているのですから。

中国には古来から
《兵隊が民間人に化け、民間人の間から攻撃をかけ、民間人の間に逃げ込む》
という卑怯な戦法があります。
これは意図的に、無関係な民間人を巻き添えにし、盾にします。

この作戦は、相手が善人であればあるほど有効です。
善人であれば民間人を攻撃できません。
その中に隠れて攻撃すれば、こんな楽なことはありません。

相手が反撃して民間人を殺せば市民を虐殺したと宣伝できます。
かつ、相手の善人は罪の意識にさいなまれるでしょう。そこが付け目です。

つまり、この戦法は相手の善人心を逆手にとっての戦法なのです。
日本軍もある程度、中国と戦争していると、
そのやり方が理解でき、
日本的奇麗事・善人根性では対応できないことが解かって来ます。

そうすると、中国的非常手段をとらなければならなくなります。
しかしながら日本人は、中国軍のように《中国人もろとも日本人を殺す》
という非情さに徹し切れません。

兵隊と民間人を選り分けようとしますが、簡単には区別がつきません。
潜伏した中国兵が良心的な存在なら問題ありませんが、
油断してたら、どこで攻撃されるか判らない存在です。

そんな状態では、疑わしい者を片っ端からしょっ引いて殺す、
というのもやむを得ない事でしょう。
奇麗事を言ってたら自分が危ないのですから。
彼らはわざと、日本軍が間違えて民間人を摘発するようにしています。
自分が助かる為に。

従って、非は中国にあります。
過酷な便衣隊摘発処刑・誤民間人の処刑等の全責任は中国にあります。
そのような作戦を当たり前のように行なう中国に問題があるのです。
非は日本にありません。我々が罪の意識を持つのは間違いです。
――――――――
便衣隊狩りに参加された心優しき方が、
罪の意識を感じて、残酷証言をなされてますが、
もう、ご自分を責めるのはおやめ下さい。あれは戦争だったのです。

あなた方は謀略によって残酷な事をせざるを得ない状況に置かれただけです。
あなた方に罪はありません。
向こうはもっと汚い残酷で卑怯な事をしています。

彼らは、古代から大虐殺をやり続け、今もチベットで行なっています。
皆様方の善意の証言は、その真実を覆い隠すことになります。
それは決してアジアの人達との平和や友好の為にはならないでしょう。


信用できるか南京証言

『南京戦史』には、おどろおどろしい残酷証言が沢山ありますが、
どこまで信用できるのでしょうか。
私は、これまで、こういう証言の胡散臭さを指摘してきました。
もちろん、南京証言の全てが嘘というつもりはありません。
中には本物もあるかも知れません。
しかし、当時、そこにいなかった私には判別がつきません。
幸い、当時、そこにおられた方が
反対意見を述べておられますので参考にしてみましょう。
京都福知山20連隊の第3大隊を指揮していた「森王 琢」という方が、
他人の証言を批判されています。
当人と関係のある人に対する批判だけを挙げてみましょう。
――――――――
5、東史郎 歩兵第20連隊第3中隊上等兵。
「わが南京プラトーン」という著書で随所に諸上官の悪口を書き、
戦友の非行として虐殺、強盗、強姦の情景を描写。
「7千人の捕虜を各中隊に分配して殺害した」
「中隊長自ら斥候(偵察)に行った」等と書いています。
彼は私の連隊の兵士です。
捕虜を各中隊に分配して殺害するというような事はあり得ませんし、
現に私の中隊はそんな分配など受けた覚えはありません。
またどんなに激戦であろうとも、
中隊長が約200人の部下の指揮を放棄して斥候に行くなんて、
そんな馬鹿なことも考えられません。
各中隊はみな「中隊会」という戦友会を持っていますが、
そんなウソを平気で書く男ですから、戦友会を除名されております。
また、「東という兵士が倉庫に秘蔵していた手記を
我々に資料として提供した」
と発表した新聞がありますが、
同じ町に住んでいる私の部下が、私に手紙を送ってくれて、
「東の家に倉庫なんてあったことはありません」と、
はっきり言っております。又、朝日新聞の記事によりますと、
彼は自分の階級を「軍曹」と詐称して福岡で講演したこともあります。
――――――――
6、北山与  歩兵第20連隊第3機関銃中隊。
「12月13日西山(前記の溝山のこと)麓で捕虜を火刑に処す」
「12月14日戦銃隊は紫金山の掃討、
約800名、武装解除後、皆殺し」と証言。
これは私が第3大隊長代行として指揮した部隊の兵士です。
こんな命令を出したこともありませんし、
これほど重要な事を、直接の指揮官である私が知らないはずがありません。
――――――――
と言っておられます。
また森王氏は、兵士の日記についても
――――――――
まず第一に、日記や手紙を書いたというのがおかしいと思います。
戦場で兵士が日記を書けるものかどうか。
背嚢(はいのう)は必要最小限の携行品で一杯になっています。
その中へ一体何冊のノートを入れていったのか?
筆記具は鉛筆なのか、インキなのか?
当時はボールペンなどはありません。
終日戦闘を続けて、あるいは土砂降りの雨の中を一日中行軍して、
くたくたになって露営して、暗闇の中にはロウソクの灯りさえ無いのです。
また敵と至近距離に対峙(たいじ)して夜を徹することもあります。
戦場では、眠るのが精一杯のことが多いのです。
そんな中で、どうして日記が書けるのでしょうか?
丹念に日記を書くという力があったのでしょうか?
それだけ考えても、戦場で書いた日記だというのは、
どうも信用出来ないのです
――――――――
(上記はネットの第16師団関係で検索)
――――――――
確かに、これは納得できる指摘です。井家又一氏など日記をつけてますが、
当時南京は停電 (ラーベの日記参照の事) していました。
どうやって書いたのか、言われてみればその通りです。
今の若い人は街灯のついた明るい道路しか知らないでしょうから、
月のない日は、どこが川だか道だか判らなくなる様な
真っ暗闇を知らないでしょう。
終戦直後生まれの私にはこの指摘は良く解かります。
他にも、同じ部隊の関係者から
「嘘をつくな」と言われている人も沢山あるようですが、
こういう人達は、「嘘でもこういう事を言うのが善人の証だ」
と思っているのでしょう。それは中国側に利用されるだけですけど。


coffeeさんの解説コーナー

証言は、それが『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』
という2点がとても大事です。
日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか
虐殺したという証言をした人もいました。

しかし、これまで本名で証言をした人は例外なく
すべて嘘であったことが確認されています。

例えば、元軍人であれば同じ部隊の人がまだ生きていたりしたので、
周囲の人の証言や記録を調査すれば、
彼は南京にいなかったとか作り話であるということなどが判明します。

これまで本名で証言をした人は例外なく
すべて嘘であったことが確認されています。

東史郎
一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。
支那じゃ未だに真実扱い。

中山重夫
戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが場所時間が
コロコロ変わったのでうそがばれた。

富永博道
当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。
経歴照会であっさり嘘判明。

舟橋照吉
東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。
輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するという
カッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×。

曾根一夫
野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。
やっぱり経歴を調べられて嘘と判明。
懺悔屋の代表格で、秦郁彦も騙された。

田所耕三
強姦と虐殺を証言していたが、
所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。
後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状。

太田壽男
死体大量埋葬を供述書に書く。
が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により
当時証言場所にいなかった事がバレる。
撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった。

富沢孝夫
海軍の暗号兵で、
「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」
と証言。(だから逆説的に虐殺があったという主張)。
だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、
おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた。

上羽武一郎
「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。
しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」で、
しかもそんな命令が出たという史料は一切無し。

匿名・仮名証言の嘘の例
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言』
というトンデモ本は匿名(仮名)の証言集だが、バレバレの嘘だらけ。
例えば、南京で強姦しまくったと証言した鬼頭久二
(第16師団歩兵第33連隊 第1大隊)(仮名)は、
計算すると南京戦当時11歳だったことになるが、
帝国陸軍に11歳の少年兵は居なかった。

南京虐殺は嘘 目次1
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27009515.html
南京虐殺は嘘 目次2
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27009833.html

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

大虐殺はもともと中国の伝統です。

古代においては、秦の始皇帝が有名ですが、
その秦を滅ぼした楚の項羽も、函谷関に入る手前で、
秦の降兵20万を崖から追い落として坑殺しています。
そして彼は秦の都、咸陽で、兵に略奪、強姦、放火を命じました。
阿房宮は3ヶ月間燃え続けたと言います。
――――――――
黄文雄氏は
「中国は有史以来、戦争には略奪と虐殺はつきものだった。
ことに京師(都)では大虐殺が繰り返されてきた。
…その程度が最もひどかった場所を挙げるとすれば、
西安、開封、南京、洛陽、陽州…。 
中でも南京城は、六朝時代の東晋から陳王朝に至るまで(4世紀~6世紀)、
王朝が変わるごとに大虐殺場所と化した」と言っています。
次に氏は3つの「南京大虐殺」を挙げています。
梁の武帝の時の「南京大虐殺」、隋の煬帝の時の「南京大虐殺」、
太平天国の乱の時の「南京大虐殺」です。
――――――――
そして、我々に近い所では、
義和団事件、済南事件、通州事件があるでしょう。
また中国は国共内戦でも、残虐行為を働いています。
それを外国人の記録から見てみましょう。
――――――――
アグネス.スメドレー『中国紅軍は前進する』
紅軍が長沙の町を占領した瞬間から、
国民党と帝国主義者どもは大恐慌におちいった。
戒厳令が海岸及び河川流域の都市にしかれた。
漢口、上海、広東、天津で“嫌疑者”の大量逮捕がはじまり、
速射銃をもった特別警察が各工場に配置された。
そして、これら揚子江流域の姉妹都市は、連日大量虐殺の舞台となった。
都市の外国新聞や国民党新聞は、気が狂ったのではないかと思われた。
長沙の町に焼き打ちをかけたのは紅軍だというのだ。
“紅軍はすべての協会や商社、全住民の家を焼き払った”、
“紅軍は数万の民衆を屠殺した”、“長沙にはもう処女はいない”、
“紅軍は略奪し、中国文化を破壊している”
――――――――
エドガー.スノー『中共雑記』
個人的逮捕、処刑は別にしても、
今日までに約300万人が揚子江南北の前5回にわたる反共戦で殺害された。
江西省ソビエト地区は、隆盛期には、250万の人口を有していたが、
最後の反共戦で紅軍がやむなく撤退してのちの人口は、
150万に過ぎなかった。
湖北、河南、安徽のソビエト地区では、
国民党部隊の占領後、人口が60万も減少した。
江西、湖南、湖北辺境地区では、50万人が〈粛清〉によって殺された。
――――――――
ロバート.ペイン『長征への道』
海陸豊地方は、国民党軍に包囲され、
朱徳将軍率いる軍を歓迎した女たちは、何一つ容赦されず、
村はことごとく焼かれ、大部分の女は暴行を受け、
ほとんど皆、銃剣で殺傷された。
――――――――
とあります。
また日中戦争前の数年は、
軍人・民間人を問わないテロ攻撃で大量の日本人が惨殺されました。
そして、開戦直前・直後には、
日本人に米を売ったり仲良くした中国人は殺され、
見せしめの為に首を電線に吊るされたりもしました。
日中戦争中(省略)
――――――――

戦後

1、日本の統治下にいた中国人は、
ただそれだけの理由で、漢奸として裁かれ処刑されるものもあった。

2、天下を取った共産党は資本家や地主を大虐殺した。
この時、数千万の人が殺され、
私は子供の頃、グラビア雑誌でその残酷写真を見ている。

3、次に台湾に逃げた国民党は、二、二八事件を引き起こした。

4、その次に中国はチベットを侵略し、大虐殺を行ない、
その残虐行為は今も続いている。

5、文化大革命では数千万の人が殺されたと言われる。

6、ウィグル人への弾圧、残虐行為

7、天安門事件

と続く。
――――――――
こうやって見てくると、中国人の言う、残虐行為や大虐殺というものが、
中国特有の文化であることが判ってくるでしょう。
これは日本の文化とは異質のものです。

彼らは、自分たちの虐殺文化を日本人に投影して
南京大虐殺のイメージを作り出しているのです。

黄文雄拓植大学客員教授 諸君8月号平成16年

中国では長年にわたり、王朝が変わるたびに、
北京、西安、開封、揚州と大虐殺を繰返してきました。
南京では、東晋の時代に王敦という武将が行っている。
それ以降も大虐殺を繰り返し、
近代最大のものは、曾国藩の弟で、曾国茎という武将によるものです。
3ヶ月くらい略奪したり、火をつけたりしている。
非常に詳しい記録が残っているのですが、
それが「南京大虐殺」における今の政府の発表とそっくりなのです。
つまり、中国の伝統に則っている。
中国の戦争には古来、「屠城」という伝統があります。
普通軍隊は給料を払わないから、
虐殺と略奪によってまかなうやり方が伝統としてある。
だから、以前大学で教鞭を執っていた南京出身の学者に聞いたら、
「日本軍の大虐殺なんて嘘ですよ」とはっきりいっていました。


南京、虐殺話の製作

中国は南京に大量の便衣兵を残して攪乱戦術に出ました。
その結果ラーベ達外国人は日本軍を統制の取れない野獣の集団と見ました。
一方、日本軍は攪乱の元凶便衣兵を摘発し処刑しようとするのですが、
それは外国人から見て市民を殺す残虐行為にしか見えません。
だからよけいに非難しました。
中国は、これを大いに利用しました。ティンパーレやベイツ教授などを
金で雇って日本軍の残虐行為を書かせ、世界に宣伝してもらったのです。

その材料は、

一、13日の戦闘で出た大量の戦死者や投降兵の処刑

二、第13師団が、大量の捕虜をこっそり揚子江の対岸に
逃がそうとして失敗し、殺してしまった件。

三、潜伏便衣兵の摘発と処刑

四、ラーベ達外国人への駆け込み報告(大部分は便衣隊の犯行と思われる)

五、日本人兵士が吹いた残虐武勇伝や毎日新聞に
掲載された“百人斬り”などのホラ話。

六、国中から募集した、日本軍の残虐行為に見える写真
(その殆どは偽物、その内訳は次の通り)

1、中国軍がやった残虐行為を日本軍にすりかえた物。

2、遥か昔から売られている残酷写真に日本軍がやったと説明をつけた物。

3、農作業の行き帰りを護衛している写真に、
日本軍が強制連行していると説明をつけた物。

4、負傷して足を失った中国兵を看護している衛生所の写真に、
逃げられない様に足を切ったと説明をつけた物。

5、ポルノ写真に日本兵の性犯罪の様な説明をつけた物。

6、スタジオで撮影したもの。特に打ち首の写真など。

その他利用できる物は何でも利用しました。

ここで、中身を検討しますと

一は本来、戦闘ですから、虐殺に入れるのは筋違いです。

二は虐殺と言うより事故でしょう。

三はグレーゾーンです。
ここでは間違われて処刑された民間人もあるでしょう。
しかしながら、ここで、日本を非難するのは筋違いです。
元々は、中国が便衣隊戦法という《民間人巻き添え戦法》
をとった事に原因があるのです。
意図的に民間人に犠牲が出るようにしているのですから。
非は中国にあります。

四は基本的に便衣隊の仕業でしょう。

五、百人斬りのホラ話の証明
向井少尉は砲兵隊所属です。砲兵は大砲を引っ張って移動するもの。
先頭を行ってる歩兵でもないのに
どうやって人斬り競争が出来るのでしょうか。
その間に敵の砲撃を受けたらどうします。

しかも彼は12月2日に迫撃砲弾で脚及び右手を負傷し、
後続の看護班に収容されて、15日まで加療しています。
担架に乗って帰隊したのは15、16日、それ以後も治療を続けています。

ちなみに南京が占領されたのは13日。
どうやって百人斬りが出来たのでしょうか。
これは浅海記者の作り話なのです。

虐殺数についても、ラーベ達は4~5万と見ていましたが、
中国はこれを、20万、30万、40万、50万、百万とエスカレートさせて行き、
最終的に30万に決定しました。
後は、それにふさわしいデータを集め、捏造して行くだけです。

このようにして南京大虐殺の話は作られて行き、
これを「自分は善人に見られたい」、
と願う日本人たちが支えて行ったのです。

この事件の中には、捕虜を処刑したり、
民間人を便衣隊と間違えて摘発・処刑した事も含まれています。

しかしながら、この件で我々が罪の意識を持つのは間違いです。
仮に残虐行為が有ったとしてもです
この戦争は元々、中国が仕掛けたものです。
日本は何度も和平を提案しました。それを蹴ったのは中国です。

そして、南京では、降伏勧告を拒否しながら、
司令官だけが逃げ出して混乱を作りだしたのです。

また、市民に害の及ぶ便衣隊戦法を意図的にとってるのも中国です。
そういう中国のデタラメさが、
中国の市民を虐殺 (事実と仮定して) したのです。
この事件の全責任は中国にあります。日本に責任はありません。
ましてやデッチあげや虚構を含んでいる分には何をか言わんでしょう。

虐殺の話はここまでにして次からは本筋に戻ります。


蒋介石を対手とせず

日本は、南京陥落の後、またぞろ和平の話を持ちかけました。
条件は前より少し厳しくなりますけど。
参謀本部は最初、前のままでやるつもりだったのですが、
内務大臣から「これで国民が納得するかね」と言われ、
やむなく修正したのです。

そうすると蒋介石は案の定、講和を拒否しました。
昭和13年1月2日、
ドイツ大使トラウトマンが返事を聞きに来ても蒋介石は会わず、
変わりに王寵恵外交部長が会いました。

王部長が、「独大使が回答を催促している」と報告すると、蒋介石は
「日方所提条件等於征服與滅亡我国、與其屈服而亡、不如戦敗而亡之為愈」
(日本の条件は我が国を屈服して滅亡させる為のものだ、
屈服して滅びるよりは、戦って滅びる方がよい)
と大声でわめき、
王部長に「応即厳詞拒絶」 (断固、拒否せよ)と命じました。
その翌日、国民政府は正式に次のように決定します。
「否認将派代表赴南京與日方議和」
(日本との和平交渉の為に代表を南京に派遣することは認めない)
明確な和平拒否です。
しかしながら、この決定は極秘にされ、独大使には伝えられませんでした。

――――――――
その為、日本が待てど暮らせど返事が来ません。
日本は回答の期限を逐次延期してきましたが、
しびれを切らして、12日に「最終期限は15日」と伝えました。
この日本の意思は独大使から王部長に伝えられます。

その時、独大使から聞いた話で
“日本政府と大本営が連日会議をしている”
との情報を王部長から聞くと、
蒋介石は「倭今日始知対華戦争非長期不可乎!」
(それじゃ日本は、やっと中国との戦いが長期戦以外に無いと気づいたのか)
と述べ、
「それなら、中国はますます有利になる。
国際情勢は必ず、反日親中国の味方をもたらす」
と述べたのです。

何という事でしょうか。
日本は勝ち戦にも関わらず、
こちらの方から和平を持ちかけているというのに。
厳しくなったと言っても、別に領土を要求しているわけではありません。
前の条件が非常識なくらい譲歩していたので、
少し戦勝国らしい体裁を繕っただけです。
日本は、被害者なのに辞を低くして和平を持ちかけ、
常に善意で接しているのに、
加害者の中国は負け戦でありながら、この態度です。
蒋介石は和平拒否の方針を決めていますので会議も開きません。
その上で、王部長は独大使に回答文を手渡しました。
その内容は 「日本側の要求は漠然としているので、何も決定できない。
具体的に示してくれ」というものです。
この回答には、さすがのトラウトマン大使も唖然としました。
さんざん待たされた挙句に何の討議もせず、時間稼ぎのこれです。
――――――――
この回答は、1月15日に大本営政府連絡会議にかけられます。
政府側は 「中国側に誠意なし、交渉を打ち切るべし」 と主張しましたが、
軍部の方は「打ち切るのは尚早、今一度、交渉すべき」 という態度でした。
参謀総長も
「詳細が中国側に伝わっているのかどうか、確かめる必要がある」
と言いました。

参謀本部や軍令部などは、
中国の要求に応じて何としてでも講和に持って行こうとしたのですが、
蒋介石の腹を見抜いた広田外相は断固打ち切りを主張しました。

ここに、“軍部が和平を主張し、政府が戦争継続を主張する”という、
逆転現象が生じたのです。

広田外相は 「永き外交官生活の経験に照らし、
支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭なり、
参謀次長は外務大臣を信用せざるか」と迫り、
政府側は内閣総辞職を掛けて臨んだので、
統帥部も折れざるを得ませんでした。
(内閣崩壊は対外的に悪いイメージを与え、中国につけこまれるから)

そして、政府は1月16日 「爾後(今後)、国民政府を対手とせず」
と宣言しました。
これを、「近衛首相は早まった」と言う人もありますが、
蒋介石に和平の意思が無い以上しかたのない事でしょう。

この後、日本は南京に自治政府を作らせ、長期戦に備えます。
そして国家総動員法を制定しました。
これからは、蒋介石の望む長期戦です。 

しかし、日本としては、あての無い、ゴールもなきゃ目標もない、
いつ終わるとも判らない、前途暗澹たる戦争です。
多田次長は、それを恐れていたのです。
日本は、戦争を望んでいなかったのですが、
中国がそのつもりだから仕方がありません。


中国軍黄河を決壊さす

蒋介石が講和に応じないため、和平交渉は手詰まり状態となり、
しばらくお預けに成りました。
その間、中国軍は自国民を盾に取る戦法に出ました。

昭和13年6月、開封の街が日本軍に占領されると、
中国は、日本軍の追撃を断ち、かつ日本軍を水攻めにする為に、
黄河の堤防を決壊させたのです。これは蒋介石の命令によるものです。

その水没流域は、最大幅約28キロ、長さ南北約120キロにも達しました。
日本軍のいた中牟では、
水が城壁頂上にあと1mの所まで上がって来たといいます。

この洪水による被害は「水没部落約3500、罹災民約60万人、
行方不明約12万人」に及びました。
この時、濁流に飲まれる住民を救ったのは、誰あろう日本軍です。

昭和13年6月23日の同盟ニュースには、濁流渦巻く水禍の中、
ボートで救助作業をしている日本兵の姿が写真に写っています。
ところが、中国は卑劣にも、
この犯行を「日本軍がやった」と嘘の報道を流したのです。
毎度ながら良くやるものです。
――――――――
また、この後、中国軍は、揚子江の堤防をも決壊させました。

昭和13年6月26日の同盟ニュースには

“悪逆、暴虐、その極に達す  敵、揚子江堤防を決壊”
「悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、
無辜の民幾10万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、
なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、
太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、
付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、
怨嗟憤怒は地に満ちている」

とあります。
――――――――
中国軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけの為に、
おびただしい数の中国人の生命と財産を犠牲にしたのです。
 
しかもお人好しの日本軍に自国民を救助させて。

“自国民に危害を加えて、敵(日本軍)に救助させる” という戦法は、
世界広しと言えど中国くらいのものでしょう。
(しかも、助けられて日本人と仲良くなった者は、
戦後、漢奸として裁かれます)。

この態度には先例があります。それは南京でです。
昭和12年11月27日に
《ドイツ大使館のローゼンが
「もしも最悪の事態になった場合、誰が秩序を守るのか、
誰が行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を
行わないようにするのか」と質問すると、
蒋介石もしくは唐は「そのときは日本人がすればいい」と返事した》
とラーベが書いています。

中国は、便衣隊戦法によって秩序を破壊し、
自国民を故意に地獄の苦しみに合わせながら、
秩序を維持しようとしている、日本人を極悪の犯人に仕立てたのです。
――――――――
その他にも、中国は、黄河や揚子江の堤防を破壊した同じ6月に、
毒ガスを使って住民に災禍を与えました。

昭和13年6月21日の同盟ニュースには

“山西の敗敵、妄動しきり 暴虐毒ガスを使用して挑戦”
「皇軍が黄河以南作戦のため一部兵力を移動している隙に乗じ、
山西の敵大部隊は気勢を挙げ、徐州敗戦の汚辱を一挙に雪ぐべく、
手段を選ばざる挑戦に出で、
暴戻にも毒ガスを使用し、付近の無辜の民は、
この惨禍を蒙るもの多く、正に人道上許し難し…」

とあります。

そして

昭和13年7月22日の同盟ニュースにも

“暴虐支那軍又も不法 イベリット糜爛性毒ガス使用”
「我が森本部隊の息をもつかせぬ猛攻撃に敗退一路を辿る支那軍は、
張杏鎮において、又もや不法にも、猛烈爆発式撒毒管による
イベリット糜爛性毒ガスを使用、我が急追をはばまんと…」

とあります。
――――――――
中国軍は自分たちの安全のために
自国民を盾にする事を何とも思っていません。
しかもその後始末は全部日本軍がやっているのです。

揚子江や黄浦江に沈められた大量の船や機雷の除去、
中国軍が撤退の際に焼き討ちにした都市の後始末、堤防の修復、
その他もろもろ。
その上で、日本軍が犯人と、逆宣伝をしているわけです。

『抗日戦回想録』郭沫若自伝より
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、
京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。
わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、
実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、
むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。

支那派遣軍化学戦教育隊がまとめた【敵軍毒瓦斯(細菌を含む)使用調査】
(内藤裕史編・解説『毒ガス戦教育関係資料』所収)によれば、
昭和12年から昭和15年にかけて、
中国軍による毒ガス戦の事例は13件、細菌戦の事例は20件であった。
右の調査は、その年月日、場所、
種類、方法、被害、概要を一覧表で記録している。

例えば、昭和12年9月7日、
宝山城付近にて中国軍はコレラ菌 を井戸に投入し、
このためその井戸水を飲んだ日本軍及び中国人民数10名が罹患している。
また、昭和13年7月26日、九江においても同様の理由で日本軍百29名、
中国人民500名の罹患者を出している。

また、重慶を脱出した国民党軍の元軍政部防毒処勤務将校の情報をまとめた。
【支那軍の化学組織系統の概要】
(昭和16年6月26日付、前掲『毒ガス戦教育関係資料』所収)によれば、
中国における毒ガスの研究及び製造は、
「軍政部兵工署理化研究所」において行われていた。

中国は1926年3月、ソ連から一万発の毒ガス弾を購入し、
1937年9月、第二次上海事変で細菌、猛毒兵器を使っている。
日本軍は中国軍から、大量のソ連製毒ガス兵器を押収している。

『細菌・毒ガス戦/中国が最初の違反者だった』信夫淳平博士

【昭和史研究會報】中村粲/第39、40より

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

中国の逆宣伝と英国の中国傾斜

中国側が毎日繰り出す嘘の反日逆宣伝で、
英国内では反日運動が拡がって行きました。

昭和12年10月1日(上海戦の最中)、
ロンドンで吉田駐英大使は日本の新聞記者に次のように語りました。
「“5日に行われる反日大会の司会”をカンタベリー大主教が引き受けた
ので抗議の書簡を送った。大主教は、支那側の逆宣伝による根拠なき
作り事を何ら確かめもせず受諾している」
と。
また10月2日の中外新聞は
――――――――
〔ロンドン発1日同盟〕
支那軍の全面的敗退に狼狽した支那側のデマ宣伝は
いよいよ露骨を加えてきた…
ロンドン駐在支那大使館では毎日のように日本軍を中傷する記事を流して、
英国民の反日気勢を煽っている。
その上在支外国通信員を動かす等の間接方法をも併用、絶体絶命、
泣き落とし政策で英国民の同情を得んと必死になっている。
従って日本側の反駁ないし抗議はともすれば無視されがちである。
…外人目撃者のいない場所に関しては、今なお…デマが行われている。
9月28日のロンドン・タイムスは
「英国政府は26日、支那側のマークを付したる日本軍飛行機2機が
広徳・安徽方面に現れ、爆弾を投下したとの支那政府の覚書を受領した」
と報道し、ラジオも同趣旨の放送を行った。
――――――――
と伝えています。
英国は、中国の流すデマを何ら確かめもせず垂れ流しているのです。
それだけではありません。
香港は10月初め(上海戦の最中)、中国への武器輸送基地になっていました。
広東の兵器工場が日本軍の爆撃で使えなくなった為、
飛行機は香港で組み立てられ空中輸送をされ、
自動車は広東まで鉄道で運ばれて、
そこから道路を奥地に輸送されていました。
この時の武器援助も半端なものではありません。
ソ連をはるかに上回るものです。
当時の、新聞に発表された記事では
――――――――
英国より支那に支給しつつある武器弾薬で
10月中旬現在確実に判明せるもの
(×印は交戦法規で禁止されているもの)

既に支那に到着せる物

飛行機 高速度戦闘機2機、軽戦闘機6機、駆逐機5機、偵察機40機、
V・I七型偵察機9機、爆撃機10機、その他30機、合計102機、
飛行機捜査聴音器20台、 高射砲四門、高射砲弾80トン、同3800箱、
付属器具20箱、強烈爆薬(T・N・T一箱50ポンド入り)2200箱、
敷設水雷100内外

10月中旬支那に向け輸送途中にあったもの

飛行機7機、飛行機用モーター12台、飛行機部分品250トン、
飛行機用機関銃70挺、×焼夷弾十万発、爆弾(大型)105箱、高射砲22門、
野砲8門、武器220箱、機関銃150挺、小銃2000挺、
小銃(自動式九ミリ)2600挺、同(ヴィーカス7.2ミリ)3000挺、
小銃弾180万発、同8740箱、弾薬396トン、機関銃及び弾薬101箱、
弾薬(数量不明)、同31トン、戦車10台、十型戦車13台、装甲自動車42台、
乗用自動車150台、無電機3台、ガスマスク8箱、軍需品200箱、
×クローリンガス入り筒150箱、×ガス円筒入り6筒、敷設水雷23個、
各種爆薬物200箱、ダイナマイト70箱、×液体ガス(数量不明)、
手榴弾280箱、ブラックパウダー95箱、特別軍需品13箱、
弾丸及び弾薬30(単位不明)、×チューブ入りガス10(同)、
(後略)
――――――――
とあります。 
新聞は「英国より支那に輸送されたガス類およびダムダム弾が、
すでに戦場鹵獲品中に多数発見せられつつあることは
人道無視の行為であって…」と英国を非難しています。
この当時、中国の味方であったドイツならともかく、
中立を装い、正義・人道を口にしている英国がこんなことをしていたのです。
ドイツは中国の軍事顧問ですから当然、武器輸出をしています。
しかし、日独防共協定の関係で日本が抗議をすると、
昭和13年の半ばごろ停止しました。
しかし、ソ連と英国の中国支援はこれからも続きます。
そのため日本軍は、その輸送ルートを断たなければならなくなりました。
そうしなければ蒋介石は戦争をやめないからです。
その援蒋ルートを断つために奥地へ進んでいくと欧米と接触し、
大東亜戦争への道が開かれて行くわけです。


外国の中国傾斜と東亜新秩序

日本を悪者視しているのは英国だけではありません、米国もです。

米国でも中国の反日悪宣伝が盛んに垂れ流されていますので
当然と言えば当然の事ですけど。
米国は、盧溝橋事件当初から、日本を悪者視していました。

昭和12年7月16日、ハル国務長は
「日本が武力を以て対支政策を遂行することに反対」と声明 

(武力を以て対日政策を強行しているのは中国なんですけど)  し、

10月5日に、ルーズベルト大統領はシカゴで
「戦争伝染病を隔離せよ」 と演説しました。

この演説を聞いた、日本人特派員はてっきり中国の事だと思って、
記事にそう書きました。
ところが、これは、日本の事だったのです。

そして昭和13年7月1日、米国は同義的対日禁輸を行います。
その内容は、飛行機製作物資の若干です。

次に、
9月30日、国際連盟は顧維鈞中国代表の請求に基づき、
連盟規約第十六条の制裁条項が日本に適用できると確認しました。
これに対し、日本は脱退以後も継続していた連盟諸機関に対する協力を
停止、完全に連盟との関係を絶ちます。

10月6日、米国は長文の覚書を提出して、
《満州事変以来の“門戸開放、機会均等、九カ国条約”違反により、
米国始め諸国に大なる被害を与え、
支那が日本の独占市場と化し、他国に閉鎖されている》
と非難しました。
――――――――
こういう背景の中で、
近衛首相は、「国民党を対手とせず」は行き過ぎと反省し、
中国との和解を念頭においた「東亜新秩序」の声明を11月3日に出します。

これは「日・満・支三国が協力して政治・経済・文化を発展させて行こう」
というもので、国民党の参加を拒否していません。
しかしこれは欧米列強から見れば、市場の締め出しに見えます。

尤も、この具体的項目の付記には外国についても触れられ
「日・満・支三国提携強化のため、
第三国の支那における経済活動および権益が、幾分制限されるが、
これは主として国家存立の必要に立脚せる範囲のもので、
この目的の範囲を超えて、
第三国の活動ないし権益を不当に排除制限するものに非ず」
となっています。

つまり、「諸外国の権益を不当に排除しない」と言ってるのです。

しかしながら、この声明は、馬鹿正直と言うか、
余計なことを言って、中国に逆に利用されました。
――――――――
中国は、外国の援助を引き出す際に、これを利用したのです。

11月4日、蒋介石は英大使A・カーと会談した際
「もし援助がなければ、中国は別の友人、
例えばソ連あるいは日本にさえも求めざるを得ないだろう。
中国が日本と運命をともにすれば、
中国における日本以外の外国権益は一切排除されることになる」
と脅しました。

日本の馬鹿正直が逆手に取られた例は、上海戦のときにもあります。

日本は12年9月に南京を爆撃する際、各国領事館に
「気をつけるが、万一誤爆で被害を与えてはいけないので、
諸外国の人々は一時避難して欲しい」
という趣旨の通告を出したのです。

これが無差別爆撃と解され、けしからんと非難されました。
実際は軍事目標に限られていたのですけど。

本来、空襲は、無警告でやるもので、
予告したら、対策を採られて役に立たなくなります。
それを“善意”のつもりで通告したものですから、
逆に、悪者にされたのです。
日本人は昔から善意の甘チャンだったのです。

今回も、「第三国の権利が少し制限されるかも知れない」などと
余計なことをいうものだから、
諸外国から警戒され、逆に中国に利用される事になりました。

こういう事から、諸外国は中国への傾斜を更に深めて行きます。

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

米国の講和妨害と中国支援

英国は、香港の方から軍事物資を運び、
中国の継戦能力を維持させていましたが、
日本軍によって、広東を抑えられ、不可能になりました。 
軍事物資が手に入らなければ、中国はお手上げです。

どうにもならないので、
汪精衛が重慶から出てきて日本と講和しようとします。
汪精衛は、戦争一本槍の蒋介石と違って、
“これ以上国民を苦しめるべきでない”という考えでした。

だから、近衛首相の呼びかけに応じて出てきたのです。
特務機関に命を狙われながらも。
(昭和13年12月18日重慶脱出~昭和14年5月8日上海着)
――――――――
汪精衛の側近だった胡蘭成氏は、
「汪精衛が重慶を出るとき蒋介石と話をつけていた」と言っています。
「建前として蒋介石が抗戦を担当し、汪精衛が講和を担当する。
うまく行けば講和に移ると。

汪精衛は東京で近衛首相(?この時、近衛氏は首相を辞めていた)と会って、
その真意を確かめてから上海に帰り、蒋介石に打電した。
『これで私の役目は終わった、本番は貴方に頼む』と。

ところが、この時、既に事情が異なっていた。
米国が中国に“軍事物資の援助をするから”
と言って蒋介石に講和を止めさせた。
米国の意向を無視してまで講和は出来ない。
結果、汪精衛は裏切り者にされた」と言っています。

胡蘭成著『日本及び日本人に寄せる』日月書店 昭和54年1月発行より要約
――――――――
米国は、後に日本に対して
「戦争を止めろ、中国から手を退け」と言い出しますが、
中国に対しては「講和をするな、助けるから頑張れ」とやっていたのです。

これでは戦争をやめられる筈がありません。
特に、中国は、停戦協定を結んで安心している所を襲ってくる国です、
一方的な停戦などできません。

米国が中国に軍事物資の援助を開始すると、英国も援助を再開しました。
それもビルマなど日本の手の届かないところからです。

日本としては、蒋介石に戦争を止めさせるには
援蒋ルートを断つしかありません。
しかしそれをやるにはビルマ進駐や仏印進駐が必要となります。

ところがそれをやると欧米と戦争になります。
戦争を止めるために戦争相手国を増やしては元も子もありません。
従って、うかつには動けません。

そうした所、ドイツがフランスを占領したので、
これならまあいいかと北部仏印に進駐したわけです。
もちろん外交交渉してですけど。
しかしこれは欧米諸国から見ると火事場泥棒というか侵略に見えます。

そこで米国は日本に屑鉄の輸出を止め、日本に圧力をかけてきました。
尤も米国は、
その前から日本への良質の航空機燃料の輸出を停めていますけど。

そういう米国の、圧力・嫌がらせに対抗するため
日本は、日独伊三国軍事同盟を締結しました。
軍事同盟と言っても日本が欧州戦線に行けるわけでもなし、
ドイツが日本を助けられるわけでもなし、単なる精神的なものですけど。

しかし米国はこれに不快感を強め
(と言うか精神的は百も承知で、これを口実に)、
ますます圧力・嫌がらせを強めていきます。

そして中国には飛行機や武器弾薬その他必要物資を送り、
ボランティアという形でパイロットや指導教官を送り込みました。

実際、晴天白日旗のマークをつけた米国製戦闘機に米人パイロットが乗り、
日本機と交戦しています。

そういう事をしながら、米国は日本に外交交渉で圧力を強めていったのです。
「戦争をやめろ、中国から手を退け、
でなければ石油を止めるぞ、…を止めるぞ」と。

中国には、講和に応ずるなと言いながら、
日本には戦争をやめろと言ってるのです。
これでは日本は動きがとれません。

こうやって米国は、日本を抜き差しできない状態におきながら、
石油を止め、ABCD包囲網を敷き、最後にハルノートを突きつけて、
窮鼠猫をかむように仕向けていったわけです。


アメリカは日本の真珠湾攻撃の半年前から対日戦争に参戦していた。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18552735.html

伝説の戦闘機部隊「フライング・タイガー」の元パイロットが訪中―北京市
4月23日15時43分配信 Record China

2007年4月21日、日中戦争で活躍した戦闘機部隊「フライング・タイガー」の
エドワード元大佐が訪中し、北京航空博物館に訪れた。
フライング・タイガーは中国空軍所属のアメリカ志願兵による戦闘機部隊。
1942年にアメリカ人飛行教官の
シェンノート(中国名は陳納徳)氏により創設された。
200余名の隊員からなり、大きな戦果を挙げたことで知られる。

エドワード氏は当時のパイロットスーツに貼られていた布を見せた。
「来華助戦洋人、軍民一体救護
(この者は中国を助けるためにやってきた外国人である。
軍人も民間人もみなこの者を助けよ)」と書かれており、
不時着した時などに現地の中国人の助けを借りるためのもの。
実際、多くの隊員が救われたという。
フライング・タイガーの元隊員も
中国人の戦友もかつての友情を忘れていない。
87歳になるエドワード氏は今回が19回目の訪中。
「古い友達に会いに来たんだ」と語った。
北京訪問後は各地をまわり戦友たちと旧交を温める予定だという。

―――――――

実は、このフライング・タイガーこそ、
アメリカが真珠湾攻撃以前から対日戦争に参戦していた何よりの証拠だ。

1941年7月23日、ルーズベルト大統領など米国首脳が
フライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に署名。
7月25日、在米日本資産を凍結。
8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止。
11月26日、ハルノート提示。
12月7日、真珠湾攻撃。

真珠湾攻撃(奇襲)よりも4ヶ月以上前に
アメリカによって日米戦争は始まっていたのだ。
――――――――
大戦中の義勇軍「フライングタイガーズ」
正規の空軍部隊だった 米紙が報道
1991/07/08, 読売新聞

【ロサンゼルス七日=桝井成夫】
第2次大戦で蒋介石総統の中国国民党軍に協力、
中国南部とビルマ戦線で日本軍機を大量撃墜したことで知られる
「フライングタイガーズ」は、日米開戦半年前の1941年春、
米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた
戦闘機パイロット259人による正規の“エリート空軍部隊”だった、
と6日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。
同部隊はこれまで、民間義勇軍とされ、国防総省自体、陸軍省や大統領との
つながりをいっさい否定してきたが、約100人の生存者が国防総省に
史実を認めるよう請願、このほど退役軍人として認められたという。

同紙によると、「フライングタイガーズ」のパイロットは、
蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、
当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと
日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、
全米各基地から集められた。

全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。
蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、
弱体の中国航空部隊を裏で支えた。

現地で飛行訓練を積んだ後、12月の真珠湾攻撃直後から
国民党軍のマークが入ったP40戦闘機に搭乗、
中国南部とラングーン周辺で日本軍機と交戦し、
日本陸軍航空隊の戦闘機など日本軍機296機を撃墜したとされている。

同紙は「フライングタイガーズ」研究家デービッド・フォード氏の
証言として、当時のモーゲンソー米財務長官が取り決めた国民党への
一億ドルの融資が役に立ち、ルーズベルト米大統領経済顧問の
ロークリン・カーリン氏が計画全体の調整役を務めたとの見方を示している。

さらに同紙は、
「フライングタイガーズは大統領と米軍中枢の承認を受けている」
との米陸軍航空隊ヘンリー・アーノルド将軍のメモ(1942年)も
見つかったとしている。
真珠湾奇襲の半年前に米側が軍事行動をスタートさせていたことを示すもの
として議論を呼びそうだ。

―――――――

「真珠湾攻撃」の5ヵ月前 米が日本爆撃計画 「大統領も承認」 ABCテレビ
1991/11/24, 読売新聞

◆米・ABCテレビが「米の責任」論評

【ニューヨーク22日=藤本直道】
米ABCテレビは22日夜の報道番組「20/20」で、
日本軍の真珠湾攻撃の5ヵ月も前にフランクリン・ルーズベルト米大統領は、
中国本土から日本への長距離爆撃計画を承認していたと伝え、
同大統領は日本を意図的に開戦へ追い込んだと論評した。

真珠湾50周年を前に日本の奇襲を改めて強調する報道が多い中で、
米国の開戦責任を米国側からまじめに論じたものとして異色の番組。
この爆撃計画そのものは1970年に公開された公文書の中にあったが、
その後、歴史家に検証されることなくやみに埋もれていたという。

同テレビは当時のパイロットや大統領補佐官などの生々しい証言を伝え、
米政府が日本への石油禁輸を決めた時期と対日爆撃計画承認が
ほぼ同時期であり大統領補佐官の証言からも、
ルーズベルト大統領が日本を開戦に追い込む意図であったと論評している。

この計画はJB355と名付けられ、
1941年7月23日に大統領だけでなく当時の戦争長官、海軍長官なども署名。
ビルマから中国への物資補給路を援護するため
中国に雇われた米人パイロット・グループ、フライング・タイガースを率いる
クレア・シェンノート氏がこのJB355計画にもからんでいた。

米政府は日本の弾薬工場や重要な産業施設を爆撃するため、
長距離爆撃機66機を供与するほか、
数百万ドルにのぼる経費や兵員も負担することを承認していたが、
これは当時の米国の中立法に反するという。

シェンノート氏は、この爆撃により
「日本の紙とマッチの軸で出来たような建物を灰に出来る」
と報告していたが、作戦実施に手間取っているうちに真珠湾攻撃が始まった。

―――――――

『フライング・タイガース』ダニエル・フォード著

《素晴らしいアイデア》

中国国民政府の蒋介石主席の要請から日本空爆という
アイデアを得た米財務長官、ヘンリー・モーゲンソーは
1940年(昭和15年)12月19日のホワイトハウス閣僚会議のあと、
ごく内輪の閣僚にだけ知らせることにした。

フランクリン・ルーズベルトの声がかりで
「プラス・フォー」と呼ばれていた
財務、国務、陸軍、海軍の四長官がゆっくりと席に着いた。

モーゲンソーは説得に難航すると思われたコーデル・ハル国務長官には
すでに了解を得ており、成否はヘンリー・スティムソン陸軍長官と
フランク・ノックス海軍長官という
軍サイドの堅物二人をどう納得させるかにかかっていた。

閣僚室の大きな机にまず中国の大きな地図が広げられた。
蒋介石の特別代表、宋子文が提供したその地図には中国南部と
東部にある136ヵ所の滑走路の位置が記してあり、
そのうちの一つには日本の長崎、佐世保の海軍基地から
わずか600マイル(約960キロ)と書き込まれている。

モーゲンソーはこれによって航続距離の長い新型爆撃機
「空飛ぶ要塞(B17)」なら日本本土に到達し、
爆撃後の帰還も可能なことを説明したのだった。

地図を興味深げにのぞき込むルーズベルトの様子について
「いかにもうれしそうだった」と、
モーゲンソーは翌日、宋子文に伝えている。
ルーズベルトはこの日、
「プラス・フォーの間で計画をさらに具体化するように」と指示を与えた。

モーゲンソーは21日の日曜日に中国空軍将官や中国軍顧問の
元米陸軍航空隊大尉、クレア・シェンノートらを自宅に集めた。
シェンノートの計画では、爆撃機は米軍パイロットと搭乗員だけで操作し、
まずフィリピンの米軍基地に飛ぶ。
パイロットらはそこで退役扱いとなって中国軍に月1000ドルで雇用され、
中国大陸の空軍基地に移る。
そこから日本を爆撃するわけだ。
爆撃機の整備に必要な地上要員も米軍が用意し、
名目はともかく、あくまで米軍が作戦を仕切ることになる。

モーゲンソーは目を輝かせて
「日本の家屋は木と紙でできているのだから焼夷弾で焼き払おう。
爆弾より軽いので航続距離が伸びるというメリットもある」と提案し、
シェンノートから「素晴らしいアイデアだ」と即座に受け入れられている。

―――――――――――――――――

【ルーズベルト秘録】より

資料には、「規律と効率を改善するため、
陸軍航空部隊の士官4、5人が早急に必要である。」とも記述。

『JB355』は、大統領だけでなく当時の戦争長官、海軍長官なども署名。

「フライングタイガーズは大統領と米軍中枢の承認を受けている」との
米陸軍航空隊ヘンリー・アーノルド将軍のメモ。

デービッド・フォード氏によれば、
資金源はモーゲンソー米財務長官が取り決めた国民党への一億ドルの融資で、
ルーズベルト米大統領経済顧問の
ロークリン・カーリンが計画全体の調整役を務めた。
―――――
大統領宛 1941年7月18日

カリー大統領補佐官の要請により、
統合本部は中国政府への航空機提供に関する勧告を作成した。
41年7月9日の統合計画委員会報告JB355号に盛り込まれているこの勧告を
統合本部は承認しており、大統領による検討のため送付する。
この提案が実現するためには、すでに英国に供与している機材の振り分けに
関する同国の協力が必要であるが、われわれが推奨する振り分けは
克服できない困難を伴ったり、多大な不利を及ぼすものではないことを
特記したい。われわれはこの報告を承認した。
送付にあたり大統領閣下も承認を与えることを推奨する。

暫定陸軍長官 パターソン(署名)
海軍長官  ノックス(署名)
―――――
7月23日

OK。ただし、軍事ミッション(を派遣する)か、
大使館武官(を通じた方法)かを比較検討せよ

FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領、署名)

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『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)

日本は日華事変を終結させ、一応の安定に復帰するため、
絶えず蒋介石に働きかけたが、米英は、日本が莫大な財政的損失を出し、
アジアの前で威信を失うまで、戦争を継続させる考えだった。

問題が日中間だけに留まるものなら、
日本は寛容を装ってでも、戦略的撤退をしていただろう。

しかし、戦争の終結条件を決めているのが中国ではなく英米である以上、
日本は行くところまで行くしかなかった。
でなければ、生存の条件として教えられた大国の地位を失うしかなかった。

日本は益々泥沼に沈んでいった。
日本は米国の動きに応えようとしたが、何をしても米英両国から叩かれた。

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仏印進駐

外国が、軍事物資を援助しているため、
中国はいつまで経っても戦争をやめません。
そのため日本は、援蒋ルートを断たなければならなくなりました。

ビルマルートは簡単には近づけませんが、
北部仏印ならその気になれば何とかなります。
但し欧米を敵に回すことになりますけど。

そうした所、ドイツがフランスを占領したので、
これを契機に外交交渉をして
北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)したわけです。
ところが、そうすると案の定、
米国は屑鉄の対日輸出を全面的に止めました。

そんな中、3ヵ月後、タイと仏印との間で国境紛争が起こります。
タイは1867年にフランスから譲渡させられていた国境地帯の一部の
失地回復を要求し、交戦状態となったのです。

日本は、間に立って停戦協定を成立させ、
東京でタイ・仏印国境紛争調停会議を開きました。
交渉は難航しますが、
調停は成功し昭和16年3月11日タイ・フランス平和条約が成立します。

この事によって日本がこの地域に地歩を固めますと、
米英は苦々しく思い、ますます経済制裁を強めていきました。
オランダ領インドシナには、日本に石油を売らない様圧力をかけました。

英・米・蘭の結託で日本にとって必要な資源が手に入らなくなります。

その為、日本は南方に資源を確保する必要に迫られました。

一方で、英国はビルマルートから中国に武器の輸送を盛んに行なっています。
ビルマルートを塞ぐ事と、南方の資源確保の必要性から、
日本は南部仏印にも進駐する必要に迫られました。

そこで日本は、仏印政府と交渉して
平和裏に南部仏印に進駐(昭和16年7月29日)したのです。
米国は、これを南方の侵略準備と見ます。
しかし、そうせざるを得ない様に仕向けてるのは米国でしょう。

日本の、南部仏印進駐の真の目的は支那事変の解決なのです。

参謀本部の田中第一部長は手記に
「仏印、タイを我が軍事的結合圏内にすみやかに編入するため、
取りあえず、仏印南部に所要の兵力を進駐させる必要がある。
その目的は全仏印の実質的把握…更にタイに、にらみを利かせ…
情勢に応じてはビルマに進駐する為の基地とするにある。
これによって対支封鎖の陣形は完成される」
と書いています。

また御前会議の理由書にも
「…最近米国ヲ中心トスル英米蘭支ノ戦略態勢強化…
若シ帝国トシテ速ヤカニ之ニ対抗スル措置ヲ執ルコトナク…
日ヲ閲スルニ於テハ…支那事変ノ 解決ハ更ニ遷延スヘク…
帝国トシテハ此ノ際仏印・タイ全域ニ渉リ帝国ノ軍事的地歩ヲ
先制確保スル要極メテ緊切ナリ…」
とあります。

つまり、真の目的は支那事変の解決なのです。
ただその前に英米蘭の妨害があるわけです。
日本が生きていくために必要な石油や鉱物資源などを止められ、
売ってくれなきゃ、腕ずくででも取るしかありません。

戦争をやめろと言われても、戦争を仕掛けてるのは中国です。
日本に言うのはお門違いでしょう。
言うなら、中国の方に言うべきなのです。

日本はやめたくても、向こうがやめないから、やめられないだけですから。
こちらが一方的にやめても、向こうは喜んで攻撃してきます。

それを知ってか知らでか、戦争を仕掛けてる中国には言わず、
被害者の日本に「戦争をやめろ」と逆さまの事を言うから、
どうにもならなくなるわけです。
おまけに加害者の中国には、
「講和に応ずるな、頑張れ、」とやっているのですから、
何をか言わんでしょう。

この様に米国が加害者と被害者を
取り違えているから話がややこしくなるのです。
中国に騙されているのでしょうが、
物理的に出来ないことを言われても出来ません。

日本が真珠湾攻撃を行なったのは、窮鼠猫をかむ行動からですが、
この南部仏印進駐も、実は、窮鼠猫をかむ行動だったのです。
これをやれば米国がどういう態度に出るかは、予想はついていました。

しかし、それでも敢えてやらなければならなかったのです。
この時から、日本は窮鼠猫をかむ行動をとらされていたわけです。

戦後の「日本悪者」思想に洗脳された人達は、「この時、やめておけば」、
「あの時、やめておけば」と、アホな事を言っていますが、
そのような事が不可能な事は明白でしょう。

日本は自分の意思で戦争をしているわけではないのですから。

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フランス領インドシナ進駐

仏本国が独に降伏したので、
仏領インドシナ総督は対日関係を好転させるために
仏印経由の蒋介石支援ルートの遮断を日本側に申し入れた。

日本はシナ事変を早期に終結させるために
援蒋ルートの遮断を要求していたので歓迎し、
援蒋ルート遮断の実行を確認するために
フランスとの協定に基づいて北部仏印に進駐した。
(1940年9月23日)
すると、米国は屑鉄の対日輸出を全面的に止めた。

さらに、タイと仏印との間で国境紛争が起こると、
日本は、間に立って停戦協定を成立させ、
東京のタイ・仏印国境紛争調停会議で調停が成功し
1941年年3月11日タイ・フランス平和条約が成立。

すると、米英は苦々しく思い、ますます経済制裁を強めようとした。
当時、日本が最も多く石油を買っていた相手先は米国だったが、
米国は理不尽にも戦争を続ける支那を支援し、日本へ制裁をしたため、
日本は南部仏印に進駐する約1年前の1940年7月からから
米国に代わる石油供給源を求めようとして
蘭印政府(インドネシア)と交渉を始めた。

ところが蘭印政府は、
既に米国政府から対日圧迫の協力を求められており、
日本へは強硬姿勢を貫いた。
米国は、日本と蘭印間で交渉が行われている最中に、
日本軍侵入の際にはすべての油田を破壊する命令を現地米総領事が出し、
米陸軍も80機の戦闘機を派遣した。
英・米・蘭の結託で日本にとって必要な資源が手に入らなくなり、
その為、日本は南方に資源を確保する必要に迫られた。

日本は、戦略物資の豊富な南部仏印が、
米英に占領される事態を予防するために南部仏印への進駐に踏み切った。
(1941年7月28日)
日本の全面屈服か戦争かを求めていた米国は、
石油の全面禁輸、日本資産の凍結という報復手段に出た。(1941年8月1日)
しかも、南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。
米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。

日本の南部仏印進駐のもう一つの要因で、実は最大に目的は、
「援蒋ルートを遮断してシナ事変を解決する」ことだった。
日本が北部仏印に進駐した後も英国は
ビルマルートから支那に武器の輸送を盛んに行なっていた。
南部仏印進駐も英国によるビルマ経由の援蒋ルートを遮断して
シナ事変を解決するために仏印政府と交渉して平和裏に行った。

参謀本部の田中第一部長は手記に、
「仏印、タイを我が軍事的結合圏内にすみやかに編入するため、
取りあえず、仏印南部に所要の兵力を進駐させる必要がある。
その目的は全仏印の実質的把握…更にタイに、にらみを利かせ…
情勢に応じてはビルマに進駐する為の基地とするにある。
これによって対支封鎖の陣形は完成される」と書いている。

また御前会議の理由書にも
「…最近米国ヲ中心トスル英米蘭支ノ戦略態勢強化…
若シ帝国トシテ速ヤカニ之ニ対抗スル措置ヲ執ルコトナク…
日ヲ閲スルニ於テハ…支那事変ノ 解決ハ更ニ遷延スヘク…
帝国トシテハ此ノ際仏印・タイ全域ニ渉リ
帝国ノ軍事的地歩ヲ先制確保スル要極メテ緊切ナリ…」
とある。

つまり、真の目的は支那事変の解決だった。
ただその前に英米蘭の妨害があるわけで、
日本が生きていくために必要な石油や鉱物資源などを止められ、
売ってくれなきゃ、腕ずくでも取るしかなかった。

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米国の敵対行動と大東亜戦争誘導

米国は露骨に中国側につき日本を圧迫してきましたが、
これは単に中国の嘘宣伝に騙されたからだけでしょうか。
善意に解釈すればそうとれますが、必ずしもそうとは言えません。

日露戦争後、米国は、日本を仮想敵国とした
オレンジ計画なる対日攻略プランを作成しています。
そして以後、移民の締め出しなど色んな嫌がらせをしてきました。

その上、真珠湾攻撃の5年前には、
ルーズベルト大統領は「日系人強制収容法案」を考えました。
まだ盧溝橋事件すら起こっていない時にです。
当時の日本は日米戦争はおろか日中戦争すら考えていません。
そんな時にです。

そして盧溝橋事件が起こると、日本を侵略と非難し、
上海戦の最中には、
日本を“戦争病患者”として「隔離せよ」と非難しました。

昭和13年7月1日には、
米国は同義的と称して飛行機製作物資の若干を対日禁輸します。

次に、
10月6日、米国は長文の覚書を提出して、
《満州事変以来の“門戸開放、機会均等、九カ国条約”違反により
米国始め諸国に大なる被害を与え、
支那が日本の独占市場と化し、他国に閉鎖されている》と非難しました。

昭和14年7月、米国は日米通商航海条約を破棄

昭和15年
1月4日、米国は錫、屑鉄の対日輸出額を前年度の半分にすると通告

3月30日、汪精衛の南京遷都に対し、ハル国務長官は重慶政府支持を声明

6月5日、工作機械の対日輸出を禁止

6月13日、重慶爆撃を非難

7月16日、ハル国務長官は英国が3ヶ月間ビルマルートを
閉鎖することに反対を表明

7月26日、石油および屑鉄を輸出許可適用品に追加して、
その制限強化を示唆

7月31日、良質の航空機用ガソリンの西半球以外への輸出を禁止

8月7日、米国は日本の対仏印要求に関して警告

9月23日、(日本の仏印進駐に対して)、
ハル国務長官は脅迫による仏印の現状変更に不承認を表明

9月26日、屑鉄の輸出を全面的に禁止

10月5日、(9月27日の日独伊三国軍事同盟の調印に対し)
ノックス海軍長官は日独伊三国軍事同盟の挑発に応ずる用意ありと演説

11月30日、(汪精衛の南京政府との間に)日華基本条約が調印され、
日満華共同宣言が発表せられた日、ハル国務長官はこれの否認を表明

12月2日、米国は重慶政府が6月ごろ要望していた一億ドルの借款を供与

昭和16年
1月6日、ルーズベルト大統領は武器貸与法案を議会に提出

3月31日、成立、逐次実行に移された。

(この後、重慶政府に対して大規模な武器貸与が行われ、
在支航空義勇軍が編成された。
また米国は爆撃機による「日本本土爆撃計画」も密かに作成したが、
これは、欧州戦線で爆撃機が大量に必要となり、実施されなかった)

7月23日、日本と仏印政府との間で、南部仏印進駐の話しがつき、
大本営が南部仏印進駐を発令すると、米国は

7月25日、在米日本資産を凍結。

7月29日、日本軍が平和的に仏印南部に進駐すると、米国は

8月1日、日本に対して石油の輸出を全面的に禁止。

日本は外交交渉で話し合おうとしましたが、
米国はまともに話し合いなどする気なく、
難癖をつけて交渉を長引かせ、最後にハルノートを突きつけて来ました。

そして大西洋の艦隊をハワイに移動して日本を挑発、
オトリの工作船を南シナ海に遊弋させて日本を挑発したのです。
ここに至って、東條首相も、
遂に「清水の舞台から飛び降りる覚悟で」大東亜戦争を決意しました。

米国は日本艦隊がハワイに向かっているのを知りながら、
わざと現地に知らせず攻撃を受けさせ、
待ってましたとばかり日系人を強制収容し、日本討伐に向いました。
米国は、この様にして、日本を大東亜戦争へと導いて行ったのです。

こうやって見てくると果たして米国は、
本当に中国に騙されていただけでしょうか。
本当はライバルの日本潰しに中国の嘘を利用したのではないでしょうか。

次からは、まとめです。

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はめられた戦争、侵略でない

大東亜戦争が米国の陰謀によって
誘導された事は多くの人が知っていますが、
日中戦争も「はめられた戦争」と知る人は少ないでしょう。
これまで、長々と述べてきたことで明らかなように、
これも「はめられた戦争」だったのです。

もともとこの戦争はソ連が計画し、中国共産党が盧溝橋で仕掛けたものです。

日本は、一旦、この火を消しかけたのですが、
蒋介石が上海で火をつけ拡大し、
ソ英米が奥地から軍事物資を送って中国を助け
(つまり燃料を送り)、戦争を終わら (火を消) せなくしたのです。

そこで戦争を終わらせる為に、援蒋ルートを断とうとすると、
欧米と衝突し、大東亜戦争になったというわけです。
結果として戦場が拡がりますが、これは日本の意思ではありません。
コミンテルンや蒋介石・米英の意思です。

では、その前はどうなんだ「満州事変は」と言うと、
これも侵略ではありません。

中国側の不当な圧迫によって、
日本人が生きていけないまでに追い詰められた為、
生存権確保の為に関東軍が立ち上がっただけです。
そして本来の所有者である満州人に土地を取り返して上げたのです。

そもそも満蒙は、中国人の土地ではありません。
満蒙の人たちの意思を踏みにじって、中国が侵略していたので、
関東軍が満蒙独立運動を助けて、満州国を建国させて上げただけです。

自らの非を覚らない中国は、当然の様に満州を侵略してくるので、
反撃して北支に緩衝地帯をつくらせ、
それでも、執拗に侵略して来るので、土肥原・秦徳純協定を結ばせた。

そうすると次には、北支でテロを頻発させたため梅津・何応欽協定を、
また幣制改革で満州経済の壊滅を図ったので、
防衛策として冀東防共自治政府設立を、と相なったのです。

全ては中国の絶え間ない侵略・攻撃が原因です。
中国は自分たちの悪を悟らず、逆恨みして、日中戦争を仕掛けたのです。

ではその前の張作霖爆殺事件はどうなんだと言うと、
これは、もっと前の済南事件や第一次南京事件に原因があります。

蒋介石が北伐を開始すると、中国軍は南京の日本領事館になだれ込み、
乱暴、狼藉、暴虐の限りを尽くしました。
そして済南では、日本人居留民12人を惨殺したのです。
それは日本人には想像もつかない残虐なものでした。

この事件は日本人に教訓を与えました。
勝ち組であろうと負け組みであろうと
中国軍が満州に入って来ると大変な事になる。
満州には百万の邦人がいるがこれをどうやって護るのか、
それが問題でした。

そこで河本大佐が考えたのが張作霖の暗殺です。
彼を殺せば彼の軍は四散し、
蒋介石が攻めてくる理由が無くなるというものでした。

ところが、息子の張学良が跡をついで何にもなりませんでした。
それどころか、張学良は蒋介石と組んで
国民党を引き入れ反日運動を激化させたのです。
そのため邦人は、ますます危険にさらされる事になり、
満州事変へともつれ込んだというわけです。

第一次南京事件のころの日本人は、今の平和憲法主義者と同じで、
防備をすることは中国を刺激する、だから外すべきだという考えでした。
そこで防備を外すと大変なことになったのです。
日本人の理想平和主義は中国人には通用しません。

中国は、これよりはるか前から反日悪宣伝を行なっていました。
これがテロを生む要因だったのです。
中国は、反日宣伝の根拠を対華21カ条の要求に求めますが、
悪名高き部分は締結前に削除されています。

そしてこれは、1921年のワシントン会議で、
9カ国条約を締結した時、終りました。
そもそもこれは中国が、
満州における日本の利権を執拗に侵害した為に出されたもので、
逆恨みもいいとこです。

このように、どこまで行っても中国の攻撃(武力とは限らない)が先にあり、
日本がこれに対応すると、
逆恨みしてまた攻撃してくるというパターンだったのです。
しかも、常に、「日本が悪いことをしている。侵略している」
という悪宣伝を流しての。

この悪宣伝に、外国人や善人根性の日本人が騙され、
ことごとく日本の足を引っ張り、事態を悪化させていったのです。
そして、戦後はこの人達が天下をとり、
中国におべっかを使い、嘘の歴史を嬉々として受け入れるようになりました。

現在の外務省の問題や、
反日日本人の愚かな行動の遠源はこの辺にあるわけです。

日本にA級戦犯はいない

A級戦犯とは戦争を企み指導した連中という意味ですが、
そういう意味でなら日本にA級戦犯はいません。
日本は侵略戦争など計画していないからです。

これまで長々と述べてきたことでお解かりのように、
日本は仕掛けられた戦争にやむなく対応しただけです。
最初に日中戦争を企んだのはソ連です。

これを実行するために盧溝橋事件を仕掛けたのが中国共産党で、
それを拡大し長期戦にしたのが蒋介石で、
簡単に終わらせないようにしたのが、米・英・ソで、
これを大東亜戦争にまで拡大したのがアメリカです。

これらの国が一堂に会して、
共同謀議をしたという事実はありませんが、個別の謀議ならあります。
中ソ、中英、米中、英米などのように。
支那事変から大東亜戦争までの一連の戦争は、
これらの国の阿吽の呼吸による
連携プレーによって遂行されたと言うべきでしょう。

最初、日本が相手していたのは中国だけでしたが、
最初のころ、中国の後ろにはドイツ軍がついていました。
そして上海戦になるとソ連が加わり、
ソ連人パイロットが日本機と交戦しました。
その時、英国は大量の武器を中国に送っていました。

また、昭和13年ころには米人パイロット(義勇兵)が
中国機にのって日本機と交戦したり、
台湾爆撃や北九州上空へのビラ撒きに参加しています。 
昭和16年の正式な航空義勇軍編成より、はるか前のことです。

中国の援軍はタッグマッチのように入れ替わり交代していたのです。
日本は宣戦布告していない複数の敵から、
背面攻撃、側面攻撃をうけていたようなものです。

日本は戦争をする気は無いので、早く止めたかったのですが、
これらの国がグルになって止めさせませんでした。

状況証拠から見る限り、A級戦犯にふさわしいのは、これらの国でしょう。
真のA級戦犯は、
スターリン・毛沢東・蒋介石・ルーズベルトと言うべきです。
この連中こそが戦争を企んだ真のA級戦犯だったのです。

また、松井大将がはめられた大虐殺の罪にふさわしいのは、
蒋介石・毛沢東・トルーマン・スターリンでしょう。

蒋介石や毛沢東は、内戦の最中あちこちで大虐殺をしています。
そして“自分たちが天下を取りたい”だけの為に、日本に戦争をしかけて、
何億という中国人を地獄に落とし、
日本の度重なる停戦要請を拒否して人民を苦しめ続けました。

開戦直前直後には、
日本人と口を利いたり日本人に米を売ったりした者を殺して、
見せしめの為に首を電線に吊るし、人民を恐怖に落としたりしています。

その上“日本に罪を着せる”ただそれだけの為に、わざわざ中国人を殺し、
“自分たちが安全に逃げる”ただそれだけの為に
大量の中国人の生命と財産を犠牲にしたのです。

おまけに彼らは、
戦後、日本の統治下にいた中国人に漢奸の言いがかりをつけて、
かなりの人間を処刑しています。
彼らにとって人民の命は虫けらほどにもありません。

人民だけではありません。天下をとった後は、
戦争中の同士ですら自分の地位を脅かす者として抹殺したのです。
劉少奇しかり林彪しかり。
中国とはそういう国です。

そして、トルーマンは原爆や絨毯爆撃で日本人を大虐殺しています。
次に、スターリンはソ連内で大量の粛清をしました。
日本にはA級戦犯に該当する人物はいませんが、
戦勝国には、これにふさわしい人物が沢山います。

――――――――

東京裁判で、日本人に押し付けたA級戦犯の罪とは、
実は、戦勝国自身がやったことで、
彼らは自分の犯罪を隠蔽するために、
日本に押し付けたのではないでしょうか。

歴史をよく見ると、
当時の日本人は今と同じく平和憲法的で、現在と殆んど変わりません。
戦争ですから中には問題のある人もいたでしょうが、
全体を見る限り、概して他の国より穏便だったようです。

特に中国の残虐さから比べれば天地雲泥の差があります。
日本は侵略したのではありません。
侵略しているように見せかけられただけです。

むしろ、中国や欧米列強の方が侵略の常習犯でしょう。

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中ソ米英こそ侵略者

東京裁判で、日本が侵略戦争をしたかの様に決めつけられましたが、
その事実はありません。
逆に、日本が中国から権利を侵害(侵略)されていたのです。
むしろ中ソ米英の方が根っからの侵略者でしょう。

中国は、古代からの侵略者です。中華五千年の歴史は侵略の歴史でしょう。
中国がなぜ大きくなったのか、それは周りを侵略したからです。

五千年の侵略者が、たかだか数十年の「進出」に、
“侵略”とわめくのは見苦しい限りです。
日本の数十年の進出を“侵略”と感じ、
苦痛に思うのなら、彼らが過去に犯した悪業の数々を反省し、
周りに謝罪し、二度と侵略行為をしないよう心掛ければ良いのですが、
彼らはそうはしません。
常に、虎視眈々と、弱い所を狙っています。

辛亥革命で、清朝が滅ぶと、他の諸民族も独立を宣言しましたが、
中国はこれを許さず(そんな権利は無いのに)、満蒙の地を侵略しました。
しかしこれは満州事変で、日本に中断されます。

戦後、日本という邪魔者がいなくなると彼らは、
早速、満州・蒙古・ウィグル・チベットを侵略しました。

そして、満州の地名を抹殺したのです。
いまや満州語は絶滅の危機に瀕しています。

また中国は、ウィグルでは弾圧を行い、
チベットでは大虐殺を行ないました。この残虐行為はいまも続いています。

次に、中国はチベット侵略の余勢をかって、
インドにまで攻め込み中印戦争を引き起こしました。

そして、毛沢東は、
「ビルマは土地が余っているので、あそこをとって中国人を送り込もう」
とも言ったのです。

その次に、中国は、日本の尖閣列島付近の海底に
石油があるかも知れないと聞くと、
即座に尖閣列島は中国のものだと言いがかりをつけ、
侵略の食指をのばしてきました。

同様の理由で、西沙諸島、南沙諸島にも食指を伸ばし、
近隣諸国と揉めています。

こんな極悪非道の侵略大国中国に被害者で
善人の日本が侵略呼ばわりされるいわれはありません。
謝るなどもっての外です。

また欧米列強が侵略大国であった事を知らない人はいないでしょう。

ロシアはシベリアを横断して太平洋に出、
南下して中国を侵略しようとしたら、そこに邪魔な日本がいた。

アメリカはインディアンを虐殺しながら大陸を横断し太平洋に出、
ハワイ、フィリッピンをとり、
中国に進出しようとしたら、ここに邪魔な日本がいた。

そして英仏はアフリカからインドを経由して南太平洋を支配しながら、
北上して中国を侵略しようとしたら、日本が割り込んできた。
欧米列強にとって、日本は目障りな存在だったのです。

そういう理由から侵略大国がグルになって日本を侵略者に仕立てあげ、
自分たちの罪を日本になすりつけても、不思議ではありません。

彼らは、日本を悪者にすることでは、利害が一致しています。
中国は、かってはアジアの超大国として君臨していましたが、
日本に上に立たれどうにも赦せなかった。

欧米は、日本さえいなければ、
世界は白人の天下で、有色人種を下等生物として扱えたものを、
日本が白人の技術をものにし、白人と互角に渡り合ったため、
白人の尊厳がズタズタにされてしまった。

だからこそ、赦せない日本を完膚なきまでに叩き潰す必要があった。
それこそが、支那事変から大東亜戦争まで、
中ソ米英が共謀してやった日本潰し8年戦争の真の理由でしょう。

そして、最後の総仕上げが極東軍事裁判です。

日本人は大概で目を覚ますべきです。日本は侵略者ではありません。

はめられただけです。
被害者が加害者に謝っても何の解決にもなりません。

―――――

ジョージ・F・ケナン著『アメリカ外交50年』P23-25(1951年)

膨張論者はいろんな議論を展開した。
ある者は、これらの領土獲得は我々の「顕示的な運命」であると述べた。
他の論者は、我々が色々の理由からこれらの領土に対して
優越的利益を持っていると述べた。
更に他の者は、我々は文明国及びキリスト教国として、
これら無智にして迷える住民たちを更正させる義務があると主張した。
また他の議論によれば、これらの領土は、
わが大陸領域の防衛上必要であるというのであった。

最後に、商売気のある人達の云い分によると、
所謂偉大な将来を持つ東洋貿易において、
分相応な役割を確保するために、
我々は、これらの領土殊にハワイ
及びフィリピンを獲得しなければならないと云うのであった。
(中略)
帝国主義者たちの最も強力な議論は、実際は今私が述べたようなものでなく、
時に偶発的必要と呼ばれるようなものであった。
それは、我々がこれらの領土を取らなければ、
誰か他の国が獲得するだろうし、
それではもっと具合の悪いこととなると云うのである。

ポルト・リコ及びハワイの場合、この議論は実情に沿わないものと思われる。
誰も別に干渉しようとする気配が実際存在していなかった。
我々の安全に関する限り、ポルト・リコをスペインの手に残すか、
キューバのように独立を与えるか、どちらにしても全く安心していられた。

フィリピンの場合、問題はもっと重大であった。
(中略)
それは何かと云えば、
当時の米国民ないしは少なくともその有力な代弁者の多くの者が、
わけもなく帝国の味を好きになり、同時代の植民地強国と肩を並べ、
遠く熱帯の島々に米国旗が翻るのを眺めたり、
対外的冒険と権威とを発揚する気持ちを味わい、
そして世界の偉大な帝国的列強の一つとして
公然と認められたいとの欲求を感じていたという事実なのであろう。
(中略)
フィリピンの場合、その併合数年を出ずして、
比島領有の最初にして最も熱心な唱導者であった
セオドア・ルーズベルトがもはや幻滅を感じて、
自分が音頭をとったことを後悔し、
厄介者から逃れたいと望んでいたことが想起される。

結局我々は1930年代に比島の解放を決定し、
最近になってこれを実行した。
だが、我々の考えておかなければならないことは、
それは決してフィリピン人のためを思ってではなく
(気の毒に思ったり、或は彼等が独立の用意が出来たと考えたり、
また我々が独立を許す義務をもっていると感じたではなく)、
寧ろ、彼等が我々自身にとって
一寸した厄介者であることが分ったからであり、
我々の領有下において当然予期された比島との経済的接近が、
我国における強力な私的利益にとって
面白くないものであることがはっきりしたからである。

つまり、「白人の重荷」という言葉によって
表現されるこれらの初歩的な犠牲すら、
我々として長い間我慢する用意を持たなかったからなのである。

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戦争責任は中ソ米英 にあり

日本に戦争責任などありません
戦争を仕掛けたのは中国です。
そしてそれを企んだのがソ連で、それを拡大したのが欧米です。

日本は仕掛けられた戦争に、已む無く応じたに過ぎません。
その後、日本は何度も、停戦や和平を持ちかけたのですが、
中国はこれをけって世界に
「日本が侵略している」と嘘の宣伝を流しました。

嘘の宣伝に騙された欧米が、ビルマや南方から武器を送り、
中国を助けたので戦争が終わらなくなったのです。
日本としては戦争を止めるには、援蒋ルートを断つしかありません。

そこで仏印進駐すると、
米国の陰謀により大東亜戦争まで行かされたというわけです。
日本は、アジアを侵略しようとしてそうなったわけではありません。

中国と欧米に嵌められ、
そこに進出せざるを得ないように仕向けられただけです。
無理やり戦争を仕掛けられた日本に、戦争責任などありません。

戦争責任は中ソ米英の方にあります。
その中でも最も責任の重いのは中国でしょう。
彼らは、勝てる能力もないのに、
外国をあてにして、無理やり戦争を仕掛けたのですから。

能力のない者が無理に戦争を仕掛ければ、
負けて被害が出るのは当たり前です。
それを外国に訴えて同情を引き日本を悪者にしようとしたのです。

彼らは《自分達が天下を取りたい》
ただ、それだけの為に、おびただしい中国人の命を犠牲にしました。
加害者は中国で、被害者は日本です。
被害者の日本に戦争責任を問うのは筋違いでしょう。

南京大虐殺だとか三光作戦だとかいいますが、事の真偽はともかく、
個々の戦場において、小さな残虐行為や非行はあったでしょう。
日本人も全てが聖人君子ではありませんし、
8年も訳の分からない戦争を強いられれば、おかしくもなります。

しかし、これを以って、日本を非難するのも筋違いです。
そもそもは、中国が戦争を仕掛けて止めない事が原因なのです。

日本は何度も和平を持ちかけました。
中国はそれを蹴って戦争を続けたのです。
従って、そこに生ずる不都合の全責任は中国にあります。
日本の責任ではありません。

それどころか、中国は、自分の手で、
中国人に残虐行為を働いていたのですから、何をか言わんでしょう。

止まれ!「日本の戦争責任」と言いますが、
無実の罪とは言え、既に刑は執行されています。
A級戦犯、B・C級戦犯併せて大量の人の命を差し出しています。
死刑以上の責任の取り方があるでしょうか。

やってもいない罪で死刑になっているのに、
なぜこの上、まだ、無実の責任を要求するのでしょうか。
数学では0にいくら掛けても0です。
従って、無限に要求せざるを得ないのでしょう。

既に、責任を取り終えている者になぜ、執拗に「責任を」というのか。
それは、中国こそが真犯人だからです。

無実の者をいくら処刑し、謝らせても、
自分が真犯人である限り、落ち着きません。
だから執拗に日本を非難し、謝らせ、
教科書を歪曲させ、戦争責任をと言うのです。

被害者を犯人に仕立て、声高に叫び続ける事により、
他人が《自分が真犯人である事》に気づくのを防止し、
かつ、自分の心の動揺を隠すためです。

中国は先の戦争で、数々の残虐行為・非行を行いながら
全く謝罪も反省もせず、歴史を歪曲し、
罪を日本になすりつけ、
被害を受けた国(日本)の人々をさらに傷つけています。

中国は戦争責任を正しく認識し、過去の清算をしなければなりません。
世界の平和と友好の為に。

次に、世界の平和と友好を願う人は、
中国の犯罪を暴き、彼らの戦争責任を追及し、
併せて、今現在、進行しているところの、
ウィグル・チベットでの残虐行為と
南沙諸島、西沙諸島、台湾、
日本の尖閣列島への侵略予備行為を阻止しなければなりません。

「日本の戦争責任を」と言う人は、大概で目を開けて、
歴史の真実を見つめるべきです。

「歴史の真実に目を閉ざすな」、
「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在においても盲目となる」
ワイツゼッカー

以上をもちまして私の長い「日本に戦争責任はない」を終らせて頂きます。



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