●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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すばらしい日本
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明治維新
19世紀の後半、わが国が明治維新をし開国をした時の状況は、 簡単にいえば、西力東漸、 つまり西の勢力が東の方へどんどん押し寄せてくる。 そういう西力の東漸の中でアジアというものが まさに風前のともしびに瀕していた。 当時アジアにおいて独立国だったのは、わが国のほか、 現在のタイであるシャム王国、それからヒマラヤ山中の小さな国、 ネパールとブータンくらいだった。 当時の支那(清国)はもう独立国としての実態を失っていた。 アヘン戦争ですでに開国しており、イギリスに香港を奪われている。 北のほうは、外興安嶺(がいこうあんれい)から黒竜江までは 全部ロシアに奪われ、南のほうの沿海州も全部ロシアに取られていた。 明治維新で日本が開国したとき、清国はすでにそういう状況だった。 その他、太平洋の島々は、 イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、アメリカといった国々で 完全に分割されている。 インド、ビルマ、安南、マレー半島、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、 こういうものが全部西洋の植民地になって数百年を経ていた。 日本は徳川時代初期から300年経っていた。 こういう時代が開国当時の東アジアの状況だった。 江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による天皇親政体制の転換と、 それに伴う一連の改革のこと。 その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・ 流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及ぶ。 行なった改革は、版籍奉還、廃藩置県、四民平等、学制の発布、 徴兵令の施行、地租改正、会議を開き、世論に基づいて政治を行なうこと、 などである。 しかし、この明治維新という事件を一国史上の出来事ととらえているかぎり、 明治維新の本質は理解できない。 明治維新の目的は、もうひとつ、欧米列強のアジア侵略を阻止して アジア近隣諸国との同盟関係を創出し、 そして有色人種の地位を向上させたいという遠大な目的も含まれていた。 このアジア解放という問題に関しては、 近隣諸国との同盟関係の構築が非常に困難だった。 近隣諸国がなかなか同調してくれなかったためである。 結果的には孤軍奮闘の末に白人帝国主義連合と その支援にすがった支那(国民政府と共産党政府) に叩きのめされる惨劇に終わった。 19世紀、20世紀の厳しい国際情勢において、 支那(清国)や朝鮮は皇帝や王の独裁体制だった。 朝鮮は結局、王朝内部の権力争い、 国民を顧みない権力闘争が続く中で日本に併合され(韓国併合)、 支那は辛亥革命で近代国家形成へ一歩踏み出したが、国内は不安定を極め、 軍閥が跳梁跋扈して近代国民国家形成や近代化推進に関する意欲と能力は 著しく欠いていた。 それゆえに朝鮮と支那の悲惨な境遇はみずから招き寄せたという 面が多大にあった。 そこで日本はひとりアジア解放の重荷を背負わされ、 大東亜戦争で援軍もなく自滅した。 大敗北を喫したとて、われらが日本の歴史を貶める必要は全くない。 むしろ大いに誇ってしかるべき日本民族の偉業である。 それが明治維新以降、大東亜戦争敗北までの経路である。 われわれはこの先祖の偉業を誇りとして 民族の記憶の奥底に深く長く留めておくべきである。 「明治維新」という言葉について 王政復古の大号令の中では、旧来のものを改め、 すべてを新たに始めることを意味する 「維れ新たなり(これあらたなり)」という言葉が用いられた。 そこで、幕末から明治初期にいたる一連の変革を明治維新という。 近代史上における明治維新の意義を一言でいえば、 それまでの白色人種の独占物と思われた西洋近代文明を、 有色人種も身につけることができることを示した点にある。 他のアジア諸国が西洋の列強に拒絶反応を示し、 白人には絶対にかなわないと諦めたのに対し、 日本は西洋文明を見てその知識や技術を学び自分のものとしてしまった。 これが明治維新の世界史的意義である。 この時期、西洋の列強はアジア諸国を席巻し、 長い歴史を有するインドや支那も西洋列強の力の前に屈せざるを得なかった。 アジアの人々は西洋文明は「挑戦不可能」なものと考え、 白人の支配に従うしかなかった。 例外が日本人だった。日本人は黒船を見て愕然としたが、絶望はしなかった。 日本人は西洋についてはおおかた書物で読んで知っており、 その文明を習得したいと願っていたのだ。 日本は先物取引や、数学など、世界のトップレベルに達していた部分も多く、 近代文明を受け入れる素地も充分だった。 また、日本では指導者が西洋文明を正当に評価する知性と経験があった。 有色人種で初めて西洋の文明を自分のものにしようとして 起きたのが明治維新である。 そして、これが世界の「アパルトヘイト化」を防ぐ日本人の、 長く激しい戦いの始まりだった。 西洋白人の世界で生まれ育った近代文明は、 19世紀初頭から20世紀全般にわたって政治的・軍事的・経済的に 威力を増大し、アジア・アフリカの広大な地域を 植民地や半植民地支配のもとにおいて、 ますますそのたくましい支配力と搾取能力を増進してきた。 「帝国主義」の時代である。 この帝国主義の時代において、 日本もこの膨張する西洋列強の脅威に直面した。 しかし、日本はこの明治維新を出発点にして、 独立主権国家として欧米列強から対等・平等に認知されることを 目標にして奮闘努力を重ね、 およそ半世紀にして自力で欧米的な国民国家を形成することに成功する。 有色人種の国家で欧米帝国主義列強の仲間入りに成功したのは、 大東亜戦争以前は唯一、大日本帝国だけである。 これは世界市場に燦然と輝く歴史的事実である。 国家・国民を挙げて外圧の脅威に対応したのが 明治維新にはじまる近代日本である。 しかし、それより早くすでに江戸時代、 二百数十年の天下泰平のなかにおいて政治・文化・経済・教育・社会の 諸分野で西洋近代的な文明を十分に受容するさまざまな条件は整っていた。 なかんずく国民国家形成や産業経済 あるいは庶民文化発展の基礎条件は確実に成長していた。 外圧の脅威は国家の独立と安全確保への危機意識を高め、 富国強兵政策への強い関心を生み出した。 そして近代的国民軍隊の形成と産業の工業化で富国強兵を目指し、 四民平等で身分制度を取り払い、 国民に参政権を付与して 立憲議会政治を推進したというのが近代日本の実相である。 ●戦後の歴史教育 あきれたことに、戦後の歴史教育では、 上に述べた世界史的視野から明治維新を捉える観点がまったく欠けている。 まず、1830年代以降、江戸封建体制の内部に階級矛盾が膨らみ、 百姓一揆等々が増大し、幕藩体制が行き詰まる。 たまたま、その時期に外圧が到来し、支配階級の危機感はますます深まった。 そこで封建支配階級の再編成が起こり、 江戸幕藩封建体制から明治天皇制絶対主義体制に移行した、 などという講座派史観を教えてきた。 |
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