正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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慰安婦告白本に性奴隷と思えない記述 高額貯金、ダイヤ購入など

【zakzak 2014.03.10】
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140310/frn1403101539006-n1.htm

韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が逆上している。
日本政府が、慰安婦問題をめぐる「河野洋平官房長官談話」の作成経緯を
検証する方針を示したことに、「歴史の真実は生きている方々の証言だ」
などと猛反発しているのだ。

こうしたなか、元慰安婦の証言を記した著書に、
家が購入できる大金を貯金し、ダイヤモンドを買うなど、
とても「性奴隷」とは思えない記述が多々あることが注目されている。

興味深い著書は、元慰安婦という韓国人女性、
文玉珠(ムン・オクチュ)氏が語り、
慰安婦問題に取り組む森川万智子氏が構成と解説をつとめた
「ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」(梨の木舎)だ。

同書によると、韓国・大邱(テグ)の貧しい家庭で生まれた文氏は
16歳の秋、日本人と朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事に呼び止められ、
満州(中国東北部)東安省に連れて行かれ、
朝鮮人の家で慰安婦にさせられた。
大邱に一度戻った後、18歳のとき
「日本軍の食堂で働きに行こうよ、金もうけができるよ」と友達に誘われ、
ビルマ(現ミャンマー)・マンダレーに行き、
だまされて再び慰安婦になった-とある。

第1次安倍内閣は2007年3月、「政府が発見した資料には、
軍や官憲による(慰安婦の)強制連行を直接示す記述はない」
と閣議決定しているが、
文氏は「強制連行」「だまされた」を主張しているわけだ。

興味深い記述は、こう続く。

ビルマでチップが貯まったとして、
文氏は野戦郵便局に500円を貯金したが、
《千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。
母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった。
貯金通帳はわたしの宝物となった》(76ページ)とある。

その後、文氏はビルマ・ラングーンの慰安所に移った。
ここでは、少しは自由に行動していたようだ。

《週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。
人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった》(106ページ)

《ビルマは宝石がたくさん出るところなので、
ルビーや翡翠(ひすい)が安かった。
(中略)
わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、
思い切ってダイヤモンドを買った》(107ページ)

文氏は21歳のとき、タイ・アユタヤの陸軍病院で看護婦修行を始めた。
同書には、母に小さな家が何軒も買える大金を送金した記述もある。

《電報を将校にみせて、『母の葬式に金がいるから、お金を送りたい』
というと、許可が出た。貯金からおろして五千円を送金した》
(137~8ページ)

文氏の境遇には同情を禁じ得ないが、
この本を読む限り、とても「慰安婦=性奴隷」とは思えない。

日本政府は、日本と日本人を貶めている河野談話の作成経緯を
検証するだけでなく、「慰安婦の真実」についても再検証すべきではないか。

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『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』 文玉珠 梨の木舎

P63

ビルマのマンダレーでの経験

戦地の軍人たちの思いと、私たちの思いは同じだった。
妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かねばならない、と。
わたしはその人たちの心持ちがわかるから、
一生懸命に慰めて、それらを紛らわしてあげるよう話をしたものだった。

P68

私は一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。
二、三ヵ月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。
ヤマダイチロウは無事だった。
すぐに慰安所にきた。「ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました。」

ヤマダイチロウは私に向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。
そういう日はマツモト公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、閉店休業だ。
早速私たち慰安婦も一円ずつ出し合って大宴会をしたのだった。

P75

私の手もとには少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。
(中略)
事務を仕事にしている軍人に、
私も貯金できるか尋ねると、もちろんできるという。
兵隊たちも全員、給料を野戦郵便局で貯金していることを私は知っていた。
貯金することにした。
兵隊に頼んで判子も作ってもらい、お金を五百円預けた。
わたしの名前の貯金通帳ができあがってっくると、
ちゃんと五百円と書いてあった。生まれて初めての貯金だった。大邱で

小さい時から子守や物売りをして、どんなに働いても
貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、
こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。
千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。
母に少しは楽をさせてあげられる。
晴れがましくて、本当にうれしかった。
貯金通帳はわたしの宝物となった。

P93

アキャブ(インドに近い島)の回想

ヤマダイチロウは一週間に一度くるはずで、
その日になると、わたしは朝からウキウキしながら待っていた。
反対に、約束の日に何か非常事態でも起きて
勤務しなければならなくなったときなど、なにかあったのではないか、
敵にやられたのではないか、と心配で何も手がつかない。
何度心配したことか。

P106~107

ラングーンでのこと

ラングーンはこれまでにくらべると自由だった。
もちろんまったく自由というわけではないけれど、
週に一度か月に二度、許可をもらって外出することができた。
人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。
(中略)
ラングーンの市場で買い物をしたことは忘れられない。
(中略)
宝石店もあった。
ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。
友達の中には宝石をたくさん集めている人もいた。
わたしも一つくらい持っていたほうがいいかと思い、
思い切ってダイヤモンドを買った。

P107

日本の活動(映画)や内地から来た歌舞伎を観にいったこともあった。
歌舞伎は衣装をたくさんつけて、男が女の役をしているのが珍しかった。

わたしはここラングーンでもすぐに売れっ子になった。
将校の数も前線とはくらべものにならないくらい多かったので、
宴会にたびたび呼ばれた。
チップがもらえるのが楽しみで、わたしは喜んでうたいにいったものだ。

P115~118

サイゴンにて

二カ月ほどかかって帰国許可がでた。
(中略)
すぐにタイを通ってサイゴンに向かうことになった。
船はサイゴンからでるのだそうだ。
(中略)
するとツバメがいった。
「わたしも今朝夢をみたの。かあさんが病気で血を吐いていた。
不吉なことが起きそうだから、私も朝鮮に帰るのをやめる」
ヒロコとキファとヒフミも「それじゃ、わたしもやめる」と賛成した。
(中略)
帰国の許可がおりたのなら、帰らなければならなくなっていた。
それは命令なのだった。帰りたくないのなら逃げるしか方法はなかったのだ。

P120

日本の軍人が出入りしているキャバレーに入った。
海軍のパイロットが数人いて
(中略)
「どうしてこんなところにいるの」と聞く。
「朝鮮に帰りたくないので、ラングーンにまた戻りたいのですが、
証明書を書いてもらうにはどうすればいいでしょうか」
と事情を話してたのんでみた。
「自分たちにはできないけれど、司令部に行けば書いてもらえるだろう。
そこを紹介してあげるから、しばらく遊んでいきなさい。」
パイロットたちは御馳走してくれた。

P121

ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。
こんなおしゃれな恰好でサイゴンの街を闊歩した。
だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。
いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう。

P123

ラングーンにて

ラングーンはやはり大きくてきれいで、いい街だった。

軍人が自転車に乗ってやってきた。そして「ヨシコは乗れるか」と聞く。
「乗れない」と答えると「教えてやろう」という。
よろこんで教えてもらうことにした。
(中略)
私は緑のレインコートを着て、ラングーンの街をスイスイ走った。
女で自転車に乗っている人などだれもいなかったので、
通りをあるく人たちはみな、わたしを振り返って見ていた。
ラングーンの街にでかけることは楽しみだった。
わたしは、ビルマ語と朝鮮語と日本語を使って話した。
買い物することくらいなら言葉で不自由することはなかった。

P126

酔っぱらって切りかかって来た兵長を逆に殺した。
(中略)
日本軍の軍法会議で正当防衛が認められて無罪となった。
(中略)
わたしの無罪に多くの日本人の軍人たちも喜んでくれた。

P137

アユタヤの病院にいた時は母に送金もした。
(中略)
貯金から下ろして5000円送金した。

係の兵隊に頼むと「貯金があるなら全部送ったほうがよい」といった。
私は「あとのお金は朝鮮に帰ってからおろすからいいです」
と答えておくらなかった。
後にあと6000円程度残っていたはずと言っている。
(1992年3月31日付フクニチ新聞)

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以下、英文翻訳

Myself as a comfort woman for Tate Division deployed
in the Burma Theater
(by Mun Oku-chu, published by Nashinoki-sya publishing company)

(An experience in Mandalay of Burma)

Page 63

The soldiers and we had the same thoughts, that is,
we must work hard for the emperor giving up their wives,
children and even lives.
I did my best to solace them by having conversation
with them to ease up their mental burden
very diligently based on understanding of their minds.

Page 68

I prayed for safety of Ichiro Yamada.
After two or three months, the troop unit to which Yamada belonged
returned from the front.
Yamada returned in good health.
He immediately came to the comfort house.
He said “I, private first class soldier Yamada,
have just come back from the front”.

Yamada gave a salute to me. We hugged in full of joy.
Such a day was so special that the commanding officer
Matsumoto allowed the soldiers to enjoy themselves,
so the comfort house was full of excitement
and the work became inactive. And we, comfort women,
contributed 1 yen per woman to hold a big party.

Page 75

I saved up the tip amounting to considerable amount of money.
(Snip) I asked a clerical staff whether or not I could have
a saving account and put the money in the account.
His reply was positive. I had known that all the soldiers put
their earnings in the saving accounts in the field post office
and I decided to put the money in the savings account.
I asked a soldier to make a personal seal
and put 500 yen in the account.
I got my savings passbook and found 500 yen written on the passbook.
I became the owner of the savings passbook
for the first time in my life.
I worked in Teague as a nanny and a street seller from
the childhood but I could not rid of poverty even
if I worked very hard.
I could not believe that I could have so much money
in the savings account.
A small house in Teague costs 1,000 yen.
I could let my mother have an easy life.
I was very happy with joy and pride.

The savings passbook became my treasure.

(Reminiscence of Akyab, an island near to India)

Page 98

Ichiro Yamada should have come once a week
and I used to be in a great mood in that day from the morning.
On the contrary, when he had to work on a scheduled holiday
when an emergency happened, I was so much concerned wondering
if something happened or he was killed by the enemy that
I could not begin the job. I got anxious about him so often as
it is difficult to remember how often.

(In Rangoon)

Page 106~107

I could have more freedom in Rangoon compared with the past time.
Of course, not completely free but I could go out once a week or
twice a month with permission. It was fun to go shopping by rickshaw.

(Nips) I cannot forget the experience of shopping
in a market in Rangoon.
(Nips) There were jewelry shops. As Burma produced much jewels,
ruby and jade were not expensive.
One of my friends collected much jewels.
I thought I had better have a jewel and went and bought a diamond.

Page 107

I went out to see Japanese movies and Kabuki play
of which players came from the mainland of Japan.
It was uncommon for me to see the players putting on many costumes
and the male players portraying women’s role.

I became a popular woman in Rangoon too.
The numbers of officers were much more than those near the front,
so, I was often invited to parties.
I was delighted with invitation to parties
where I sang songs expecting much tips.

(In Saigon)

Page 115~118

It took two months to get permission to return home.
(Nips) It was decided to go to Saigon via Thailand.
The ship was to depart from Saigon.
(Nips) Then Tsubame said
“I had a nightmare in the morning about my mother vomiting up blood.
I am afraid that something unlucky will happen,
so I will not return to Korea.
” Hiroko, Kifa and Hifumi agreed with Tsubame saying
“I will not return too.”
(Nips) We had to go back once the permission to return to
the home country is issued. It was an order.
Only remaining way for someone
who didn’t like to return was to run away.

Page 120

When I went to a cabaret where Japanese military men
had often visited, some navy pilots were there
(Nips) some of them asked me
“why do you still stay here? I replied “
I still stay here because I don’t want
to go back and want to return to Rangoon.”
I asked them “How can I get the certificate and can you help me?”
They replied “We cannot do it but the headquarters may be able to
issue the certificate. We can introduce you to the headquarters.
Would you enjoy yourself here for a while?”
The pilots gave a dinner for me.

Page 121

I put on a pair of high heel shoes and a green raincoat and
carried an alligator leather handbag.
I swaggered about in a fashionable dress.
No one could guess that I was a comfort woman.
It is my happy memory and I felt pride.

In Rangoon

Page 123

Rangoon was a big and beautiful city as expected.
A military person came on bicycle and asked me
“Hi! Yoshiko can you ride a bicycle?”
I replied “No, I can’t.”
He asked “Would you like to learn the riding?”
I decided to learn with pleasure.
(Nips) I rode it smoothly through the town of Rangoon.
I didn't see any woman on bicycle.
Passersby on the street looked back on me.
It was fun for me to go to the town of Rangoon.
I talked with people in Burmese, Japanese and Korean.
I didn’t experience any difficulty in conversation for shopping.

Page 126

I killed a non-commissioned officer
who had drunken and tried to put me to the sword.

(Nips) I won acquittal as legitimate self-defense
and many military men were pleased with
the court decision of innocence.

Page 137

I sent money to my mother when I was in a hospital in Ayutthaya.
I draw down 5,000 yen from the saving
account and send that much money.
When I asked a soldier in charge of the money transfer the transfer
of money, he recommended me to transfer the total amount
if I had more in the account.
I didn’t transfer more replying to him that
I decided not to transfer more and would transfer
it when I go back to Korea. Afterwards,
she said that she still had 6,000 yen in the account.
(The Fukunichi dated Mar. 31, 1992)
& ;nbs p; & nbsp; ; & nbsp; & nbsp;

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慰安婦_資料
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2008/08/09 09:00|年表リンク用資料
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