正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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大東亜戦争は、日本は何も悪いことはしていなかったのに
不法な武力攻撃を受けて始まった戦争です。
―――――――
欧米人・欧米軍と同様に、
日本人・日本軍も条約で合法的にチャイナに居たのですが、
蒋介石軍が日本軍・日本人に不法武力テロ攻撃してきたから
日本軍は応戦・反撃していました。
(1937.7.7盧溝橋事件や1937.8.13~第二次上海事変)
日本からの和平提案を蒋介石が拒否し続けていたから戦闘が長引きました。
長引いた理由は英米が蒋介石に資金・武器支援していたからです。
日本は、英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルートを遮断するため、
仏印と条約を結んで仏印に日本軍が合法的に進駐して
援蒋ルートを遮断すると、
英米が、被害側である日本に対して石油禁輸してきたので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました→日米戦争。
1937.7.7盧溝橋事件もしくは1937.8.13~第二次上海事変から始まる支那事変
と1941.12.8~日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

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大東亜戦争について少しずつ内容を変えながら説明し続けています。
以下は『大東亜戦争に至る流れ 2014年12月17日版』です。

大東亜戦争に至る流れ_2014.12.17版

1931満洲事変―――1933塘沽停戦協定で終結

1937支那事変(中国大陸)―――――――――――1945終結
―――1939第二次欧州大戦(欧州)―――――――1945終結
――――――1941日米直接戦争(太平洋)――――1945終結

↓↓↓

1937支那事変+1941日米戦争=大東亜戦争

―――――――――――――――――

中国における日本租界は、
1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約(下関条約)や、
1896年7月21日の日清通商航海条約により
設置されていました。

欧米も中国と条約を結んで
中国に租界や租借地を設置していましたし、
中国に日本人が居たこと自体は
悪い事ではありませんでした。

1936年12月12日の西安事件で
蒋介石軍(国民党)と毛沢東軍(共産党)は
第二次国共合作し、以後、国共は日本と戦う事にしました。

【1937年7月7日 盧溝橋事件】
日本軍を銃撃してきた集団がいたので、
日本軍は、その銃撃してきている場所を
制圧・撃滅しました。
敵兵の遺体を調査した結果、
支那の国民革命軍第29軍の正規兵である事が判明。
7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』が成立し、
盧溝橋事件は終結しました。

盧溝橋事件で支那の国民革命軍第29軍が
日本軍を武力攻撃してきた動機が偶発的なものであれ、
国民革命軍第29軍の独自の判断であれ、
ソ連・コミンテルンからの指示であれ、
毛沢東の指示であれ、蒋介石の指示であれ、
たとえ盗賊の犯行であったとしても、いずれにしても
「支那側から日本軍に対して武力攻撃してきた」
ことに変わりはありません。

ちなみに日本が支持した汪兆銘・南京政府の樹立は
1940年3月30日なので、
まだ1937年7月7日の盧溝橋事件の時点では
汪兆銘の南京政府はありませんでしたし、
親日の冀東防共自治政府の軍隊も結局は盧溝橋事件後、
1937年7月29日の通州事件で日本人居留民260人を
虐殺しましたので、
「盧溝橋事件は支那軍側、支那側から武力攻撃してきた」
という表現でいいと思います。

何はともあれ日本軍を武力攻撃してきている者たちが
どこの誰で、どういう指示を誰から受けていようが、
とにかく日本軍は武力攻撃されているのですから
反撃して当然です。

たとえば、道を歩いていて誰かに襲われたら、
その相手の身元確認などせずに
逃げるなり反撃するなりするのが普通です。

軍隊が攻撃されたら、どこの軍隊でも反撃します。

盧溝橋事件以前も
中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(支那国民革命軍第29軍)との
軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えても差し支えありません。
また、盧溝橋事件があったからといって、
上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。

本格的な大東亜戦争の始まりは
1937年8月13日~の第二次上海事変です。

1840年・英清アヘン戦争後、
欧米が中国と条約を結んで上海国際共同租界を設置。

1900年、義和団と清国軍が外国人を虐殺しまくったので
(義和団の乱)、
列国8ヵ国の軍隊
(英・米・仏・独・伊・露・オーストリア・日本)
が出動して鎮圧し、
戦闘事後処理の北京議定書1901.9.7(条約)により、
以後、欧米10ヵ国軍とともに
自国民保護のため日本軍も中国に駐留していました。

上海国際共同租界は特定の国の専管租界ではなく、
チャイナと最恵国条項を含む条約を締結した国であれば、
どの国でも進出していいことになっていました。

ですから日本人・日本軍は
上海国際共同租界に行っていました。

欧米が中国と条約を結んで上海国際共同租界を造り、
そこに軍隊を配置し、「中国と最恵国条約を締結した国なら
上海国際共同租界に来ていいよ」と言うから、
日本人は上海共同租界に行ったのであり、上海共同租界は
英米伊仏軍が警備して治安を維持していましたが、
日本も軍を出して警備地区の役割分担をして
治安維持に協力していたのであり、
http://blog-imgs-63.fc2.com/s/e/i/seitousikan/skksbeingkbfsfg.jpg
欧米に日本は従っていたのに、協力していたのに、
1937年8月12日、蒋介石軍が「1932年の上海休戦協定」
に違反して協定線内に侵入し、
上海共同租界の日本人居留区域を包囲しても、
日本領事が「1932年の上海休戦協定」の
締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、
蒋介石軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を
講ずるよう提案を行ないましたが英米仏は無視しました。

翌13日午前9時30分ごろ、
蒋介石軍が日本人町を武力攻撃してきたので、
その地区の警備に当たっていた日本海軍陸戦隊が
応戦したものです。
これが支那事変の始まりであり、
大東亜戦争の始まりでした。

日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので
増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石は武漢に逃げたので日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、
重慶爆撃を行ないました。

米英は不法な蒋介石側に
強力な資金・武器テロ支援をしていたので、
日本から蒋介石への、
たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート
(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで
日本軍が合法的に仏印に進駐して
仏印の援蒋ルートを遮断すると、
アメリカは、合法側・被害者側の日本に対して
石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国から日本だけ出て行けと(ハルノート)、
理不尽で不法な事を要求していました。

日本は石油などの資源がないと
国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。

このように大東亜戦争は日本へのテロ攻撃で始まり、
日本への原爆テロ攻撃で終わったのです。
支那事変から日米戦争までを
総称して大東亜戦争といいます。

欧米が作った条約に日本は従うしかないし、
日本は従っていたのに、
上海共同租界の日本人・日本軍が攻撃を受けているのに、
治安を維持すべき英米軍は知らん顔したのです。

日本人町には日本人以外の
欧米人・中国人も住んでいました。
日本人が多く住んでいたというだけの地区です。

上海共同租界は中国ではありませんでした。
上海共同租界の外が中国でした。

日本の政治・軍体制が悪いから
蒋介石軍は武力攻撃してきたのではありません。

中国の正規の軍隊(蒋介石軍)が武力攻撃してきたので、
単に「治安が悪い」という話でもありません。

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【満州事変】
日本の満州権益は1904年2月8日~1905年9月5日の
日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』

『満州善後条約(1905年12月22日)』
によって得られた正当なものでした。

1931年(昭和6年)9月18日、
奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。

現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして
満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。

このように柳条湖事件は
「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の
機密電報を幣原外相に送ったことにより、
それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、
派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。

鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら
応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。

満洲事変は1933年5月31日の
『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結しました。

4年後の1937年になって
満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で
武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

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上海国際共同租界における米英伊日軍による警備分担(仏租界は仏軍が警備)
http://blog-imgs-63.fc2.com/s/e/i/seitousikan/skksbeingkbfsfg.jpg


そもそも大東亜戦争は日本が武力攻撃されて始まった戦争です。
『大東亜戦争の大きな流れ』
◆1937年7月7日、盧溝橋事件。
条約による合法駐留の日本軍に対して
中国軍(第29軍)が武力攻撃してきました。
7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』が成立。
◆1937年8月13日、第二次上海事変。
中国軍(蒋介石軍)が「1932年の上海休戦協定」に違反して
協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲し、
条約による合法居留の日本人町に対して武力テロ攻撃をしてきました。
上海共同租界内の警備は役割分担で米英伊軍とともに
日本海軍陸戦隊も警備に当たっていました(仏租界は仏軍)。
http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/s/e/i/seitousikan/skksbeingkbfsfg.jpg
日本海軍陸戦隊は日本人居留区域を含む地域の警備に
当たっていたのですから応戦して当然です。
日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので、増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石が武漢に逃げたので、日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。

米英がテロ蒋介石側に強力な資金・武器テロ支援をしていたので、
日本から蒋介石への、たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。

アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで日本軍が合法的に仏印に進駐して
援蒋ルートを遮断しました。
するとアメリカは、合法側・被害者側の日本に対して石油禁輸などの
経済制裁を仕掛け、中国から日本だけ出て行けと、
理不尽で不法な事を言っていたのです。

日本は石油などの資源がないと国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。

このように大東亜戦争は日本へのテロ攻撃で始まり、
日本への原爆テロ攻撃で終わりました。

支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

日本は攻撃されたから応戦、反撃したまでで、
攻撃されなかったならば「アジア開放のため」という理由だけで
日本から米英に戦争を仕掛けるはずはありませんでした。
1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された
大東亜共同宣言で日本はアジア諸国の独立を承認していますので、
国際法上はアジアを解放したといえますし、同共同宣言において、
それを成すための戦争継続が明記されていますので、
アジア解放戦争で間違いありませんが、
日本からすればアジア開放が第一の目的ではなく、
第二次上海事変や援蒋、対日経済制裁という原因あっての大東亜戦争であり、
第一の目的は自存自衛であって、アジア解放はいわばその手段とも言えます。
(アジア開放で自由貿易できるようにして資源確保で生き延びるという事)
戦争遂行のために敵地から物資を頂戴することは禁止されておらず、
敵・白人列強の持ち物である東アジアを奪取したのですが、
日本はそこを植民地にはせず、大東亜宣言で独立を承認しました。

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日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)
によって得られた正当なものでした。
1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。
このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。
支那側が1931.6.27.中村大尉殺害事件の回答を9月18日にしてきましたが、
その事件の回答を送って来ようが来まいが、
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。
満洲事変は1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結しました。
4年後の1937年になって満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。
日本はアメリカによって無理矢理に開国させられて以降、すべて条約によって
行動していました。日本以外の、順法でない「ならず者国家」どもに、
さんざんな目に遭ってきたのが我が日本国なのです。

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どういう話し合いが行なわれていたとか、だれがスパイだったとか、
反対している人がいたとか、ほかの案があったとか、
いろいろあったとしても、歴史的に起こった事実の流れは変わりません。
いずれにしても1937年・支那事変勃発の前年1936年12月12日の西安事件で
蒋介石(国民党)と毛沢東(共産党)は第二次国共合作していたのであり、
とにかく日本側から中国側に武力攻撃を仕掛けて始まった戦争では
なかったし、武力攻撃されたら応戦・反撃するのは当然です。
日本は条約で うまくやっていたのですから、
こちらから戦争を仕掛ける意味はありませんでした。
盧溝橋事件では、日本軍は最初の不法射撃を受けてから7時間も、
1発の応射もせずに隠忍自重を堅持していました。

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2014年7月1日 第二次 安倍晋三政権 集団的自衛権行使容認の閣議決定

【集団的自衛権が履行されずに大東亜戦争は始まった】

1937.7.7盧溝橋事件も1937.8.13~第二次上海事変も
(支那事変・日米戦争の発端)
中国側(蒋介石)から合法駐留の日本軍・合法居留の日本人に対して
武力テロ攻撃してきたから日本軍が応戦・反撃していたものです。

第二次上海事変では上海国際共同租界内を英米伊日軍が役割分担で租界内を
警備していました。(上海共同租界の左下隣の仏租界内は仏軍が自軍で警備)
http://blog-imgs-63.fc2.com/s/e/i/seitousikan/nandesakujosurunokana.jpg
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-689.html
蒋介石軍が1932上海停戦協定に違反して協定線内に侵入、
上海共同租界の【条約による合法居留の日本人町】を包囲しました。

日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏伊などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが、
反日・親蒋介石で固まっていた列国は全く取り上げようとはしませんでした。

つまり、共同租界内の一部が武力攻撃を受けようとしているにもかかわらず、
【集団的自衛権】は発動されなかったのです。

翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して
日本軍との間で戦闘状態となり、第二次上海事変が始まりました。

【集団的自衛権】が発動されなかったどころか、欧米列国は、
不法テロ加害者側である蒋介石軍のほうに資金や武器を支援したので、
たび重なる日本から蒋介石への和平提案を、蒋介石は拒否し続けました。
アメリカが蒋介石に武器を輸送していた援蒋ルート遮断のため、
日本は仏印と平和的に話し合い、条約で日本軍が仏印に進駐し、
援蒋ルートを遮断しました。
すると英米蘭は日本に対して石油禁輸などの経済制裁を行いました。
石油がないと日本は全てがダメになってしまうので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
日本は真珠湾攻撃をしたのです。

第二次上海事変で蒋介石は自分から自衛でも何でもなく
何の通告も要求も宣戦布告もなく、
突然1932年・上海停戦協定線を越えて上海共同租界に協定違反で
侵入してきたうえ、日本人町を包囲して武力攻撃してきて
日本人町以外にも無差別爆撃で欧米日などの民間人3000人を虐殺し、
日本からの和平提案を拒否し続けました。
その蒋介石側に資金・武器支援した欧米、
さらには蒋介石軍に応戦・反撃していた日本への経済制裁を強化した米国。
上海共同租界内を各国の役割分担で警備の任にあたっていた
日本軍こそが、いや、日本軍のみが、
「租界侵略して来た蒋介石軍」と戦って抵抗して租界を守ったのです。
爆撃に来た蒋介石軍機に対して日本軍は高射砲や戦闘機で応戦しました。
上海租界に大きなテロ被害を与えた蒋介石軍が去って行くのを、
だまって見ているだけでいいわけがありません。
相手を制圧して蒋介石を逮捕し、謝罪と賠償は当然の事、
再発防止に向けた協定線の位置の見直しや蒋介石軍の規模縮小や配置、
責任者らの処罰とともに、上海租界の警備についても
締約国内で話し合いを持つべきでした。

―――――――

日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)
によって得られた正当なものでした。
1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。
このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。
支那側が1931.6.27.中村大尉殺害事件の回答を9月18日にしてきましたが、
その事件の回答を送って来ようが来まいが、
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。
満洲事変は1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結しました。
4年後の1937年になって満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。
日本はアメリカによって無理矢理に開国させられて以降、すべて条約によって
行動していました。日本以外の、順法でない「ならず者国家」どもに、
さんざんな目に遭ってきたのが我が日本国なのです。

政治・軍体制が悪いから戦争になったのではなく、
武力攻撃を受けたから応戦して戦争になったのです。

なぜ米中などから「日本だけ中国から出て行け」などと
不法な要求をされなければならなかったのでしょう?

ここで導き出される教訓は何でしょうか?

たとえ条約を守り、ルールを守って行動し、
正当な商取り引きを行なっていて、何も悪いことをしていなくても、
武力攻撃を受けたり、集団的自衛権が履行されなかったり、
石油禁輸されたり、不法な要求をされたり、
原爆を落とされたりすることがあるということですから、

我々は集団的自衛権を過信せず、
なるべく自国の経済水域内でエネルギー・資源を調達し、
食糧自給率を100%にし、潜水艦発射の核武装をすることが、
大東亜戦争の教訓といえるのではないでしょうか。

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大東亜戦争にいたる大きな流れ【2015.4.7版】
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-684.html
『大東亜戦争の大きな流れ』超短縮版
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-665.html
隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-633.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html

「正統史観VS自虐史観」の議論例 (mixi)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-621.html
my日本での議論【佐藤卓さん&hayekさん VS notoichiさん】
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-644.html
my日本での尾辻蒼志vs鮎川龍人
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-671.html

明治以降の日本は世界最高水準の自由な民主主義国家であった!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-261.html
大東亜戦争までの内閣
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-524.html
先帝陛下(昭和天皇)に戦争責任はない。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-263.html

東京裁判(極東国際軍事裁判)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-158.html
2012/08/01 07:07|年表リンク用資料
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