正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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SAPIO(小学館)2007年4月11日号より引用

封印された占領下の米兵「日本人婦女子凌辱事件ファイル」

米軍の「嘘」を暴く鍵は、占頷下の1945年10月4日に解散させられた
「特高(特別高等)警察」(約6000人)の記録の中にある。
米軍進駐後、「特高」は「治安維持法」に基づく監視の必要もなくなり、
もっぱら進駐軍の素行調査をしていた。
前掲の『マッカーサーの日本』にこの記録のことが一部記されており、
原本をこの目で確かめてみたいと思った筆者は、
国立公文書館でこの資料を発見した。
手書きの原本が白日の下に晒されるのは今回が初めてだろう。

そのファイルが377ページに及ぶ
「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)である。
マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の解散命令までの
米軍の不法行為を特高警察が取り調べたファイルを
内務省警保局がまとめたものだ。

ファイルによれば1945年8月30日~9月10ロの12日間分だけでも
強姦事件9、ワイセツ事件6、警官にたいする事件77
一般人に対する強盗・略奪など424件
(この中には、後述するような理由で
強姦事件も含まれていると考えられる)。
特別事件として「葉山御用邸侵入」「二重橋ニ侵入皇居撮影事件」
「宮様御用列車ニ同乗未遂事件」などが発生している。

「1945年8月30日の記録と8月30日~9月10日の統計」(SAPIOより)
45830記830~910統計SPO

「特高」は解散命令が出た10月4日の記録も残している。
その日の記録には
「公僕学校、倉庫等ニ侵入シ保管品等ヲ不法徴発 
被害発生場所屋内10件 屋外10件」
「両国ノ浴場ニテ女性暴行未遂事件」などとある。
掠れたページもあり、正確な数字ではないが、
全ファイル約1か月間で少なくとも強姦37件(未遂を含む)、
その他の不法行為945件を数える。

実際、「特高廃止」指令が出ると、
全国の「特高」は、書類を焼却してしまった。
しかしス特高」の元締「内務省警保局」の秘密報告書は焼却されず、
この米軍の不名誉な記録は、没収され、米国に持ち去られたのだ。
その後、実は1973年12月日本に返却され、
翌年1月から、国立公文書館に所蔵されていた。

妻36歳、長女17歳に対し拳銃で脅して……

米軍の不法行為を明らかにする前に、
敗戦後、日本政府が日本女性を米軍の「性の暴力」からいかに守るか、
苦心惨憺した様子を少し述べてみたい。
日本政府が「慰安所」設置に直接関与したのは、
戦時中でなく占領下の米軍(進駐軍)のためにだったのだ。

1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、
米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、
池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、
1945年8月28日「特殊慰安施設協会」
(後に、国際親善協会RAAと改称)が設立された。

その目的は、
「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」となっていた。
GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令している。

しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。
実際は主権回後後まで膨大な数の女性が「強姦」されていた。
ファイルに記された調書をつぶさに見ていこう
(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、
その部分は省略して記す)。
強姦事件は、米軍の進駐とほぼ同時に始まっている。
8月30日は横須賀に海兵隊が上陸した日だが、いきなり事件が発生している。

強姦事件

(一)八月三十日午後六時頃横須賀市OO方女中、34右一人ニテ留守居中、
突然米兵二名侵入シ来リ、一名見張リ、
一名ハ二階四畳半ニテ○○ヲ強姦セリ。
手ロハ予メ検索ト称シ、家内ニ侵人シ、
一度外ニ出テ再ビ入リ、女一人ト確認シテ前記犯行セリ

(二)八月三十日午後一時三十分頃横須賀市○○方。
米兵二名裏ロヨリ侵入シ、留守居中ノ右同人妻当○○三十六年、
長女○○当十七年二対シ、拳銃ヲ擬シ威嚇ノ上、○○ハ二階ニテ、
○○ハ勝手口小室ニ於テ、夫々強姦セリ(以下略)》

同9月1日、房総牛島に米軍上陸。ここでも事件発生。
《○○方ニ侵入セル米兵三人ニ留守番中ノ妻(ニハ)
(中略)奥座敷ニ連行、脅迫ノ上ご三人ニテ輪姦セリ》

《九月一日午後六時頃トラックニ乗リタル米兵二名
(中略)市内○○ニ来り女中一名(24)連レ去リ
(中略)野毛山公園内米兵宿舎内二於テ米兵二十七名
(ニ)輪姦サレ仮死状態ニ陥リタルモ
(中略)三日米兵ニヨリ自宅迄送り届ケラレタリ》

このような記載が「特高」解散の10月4日まで続く。

《九月十九日夜十一時頃、(横浜市)保土谷区、出征中○○妻(27)、
(中略)ニ侵入シ「ジャックナイフ」デ情交ヲ迫リ、
被害者之ヲ拒否シテ戸外二逃避セルヲ
(中略)畠(畑)ニ連行、三名ニテ輪姦シタル。
更二連中ノ三名ノ黒人兵ガ同所二於テ輪姦逃走セリ》

調書を総覧すると、米兵の蛮行が眼前に浮かんでくる。

警察官はいたるところで暴力を振るわれ、拳銃を取り上げられている。
一般人は、「乗用車」「ラジオ」「現金」「腕時計」
「背広」や「ゲタ」まで、手当たり次第に強奪されていた。

《九月二日午前十一時三十分頃武装米兵六名ハトラックニテ
横浜市中区山手町二ー二番地共立女学校内、
校長神保勝也二侵入各室ヲ物色シタル後現金二千七百十圓
及ウオルサム腕時計一個ヲ強奪逃走セリ》
とこのような「強奪逃走せり」が続くのだ。

その中に、首を傾げたくなる記述がある。
それは、「民家に米兵が押し入り、
若い女性から腕時計だけ強奪して逃走せり」との記述が散見することである。

貞操は取り返すことができずとも、
せめて当時、貴重だった「腕時計」だけでも、
取り返したいとの思いから被害届を出していたのではと思われる。
先述した945件の強盗・略奪に強姦(あるいは強姦未遂)も
入っているのではないかと考えるのはこのためである。

このような状況は、神奈川県民を震撼せしめたであろう。
当時の朝日新聞(1945年9月5日付)は三股見出しで
「神奈川県の女生徒は休校 教職員が家族を巡回指導」と記している。

しかし、9月19日、GHQ「プレスコード」が発令されて以後は
米兵を批判する記事は、新聞紙面からすべて消えている。
これで米国は、「強姦」など人道上の米軍の犯罪を
封印できたと考えたであろう。
しかし記述のように「特高」の調書は、
言論統制されてからも継続して綴られていたのだ。

青少年性犯罪者が
「米兵の真似して何か悪い」と開き直る

当時の憤りを取材して『黒い春《米軍・パンパン・女たちの戦後》』
を1953年に五島勉氏が出版している。
その内容は、調書よりも残酷さがひしひしと伝わってくる。
五島勉氏は1948年から調査を開始し、本人やその家族・友人・事件の
目撃者など1000人にも及ぶ面接にもとづいて占頷下の空白時期をまとめた。

その中の二九外務省外局・終戦連絡委員会横浜事務局の
北林余志子氏の作成した米軍の横浜市内と県下の一部を含む、
不法行動リストによると、10月末日までで強姦29件となっている。
しかも、届け出ない件数は数十倍になると証言しているのだ。

五島氏は「印刷ミスではない」と断わってこう記す。
「T子(十一歳・武蔵野市小学五年生)R子(同)A子(同)の三人は、
十月(中略)武蔵野の林のなかを仲よく手をつないで歩いていた」
《キャンプ・トコロザワの近くで夢中でスケッチをしていると、
まずR子がおそわれ、次々に米軍の餌食になってしまったのだ。
彼女達のスカートは切られ、何か起こったのか全然わからなかった。
子とA子は気絶し、T子はまた泣き叫ぶと、
アメリカ兵は彼女の顔を蹴り、ジープで去った》(要旨、以下同)

このような事件が全国で続発している中で、
1946年4月東京・大森で恐ろしい事件が勃発した。
《N病院(=中村病院。その後廃業し、跡はビルと道路になった)は
三白のトラックに分乗した米兵によって、
およそ一時間ちかくも病院じゅうを荒らされた。
彼等の総数は二百人とか三百人とかという説もある。
婦人患者のうち重症者をのぞく四十故人と看護婦十七人、
ほかに十五ないし二十人の付添婦・雑役婦などが凌辱された》

「彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちの
ふとんを剥ぎとり、その上にのりかかった」
「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、
一人の兵隊にユカに蹴落とされて死んだ」
「M子などは続けさまに七人の兵隊に犯され、気絶した」

そして、「裸でころがっているあいだを通って、侵入してきたときと同様、
彼等は表玄関と裏口から引き揚げていった」--慄然とする内容である。

安倍首相や駐米大使がひたすら日本は既に「謝罪している」として、
逆に「従軍慰安婦」を既成事実化するかのような姿勢であるのにたいして、
自民党の戸井田とおる議員は2月21日の衆院内閣委員会でこう質した。

「(決議案を提出した)マイク・ホンダ議員に
翻訳して差し上げてもらいたい資料がでてきました。
(中略)これは、官報号外、昭和28年2月27日に載った
第15回国会の社会党の藤原道子議員の質問の議事録です。
(中略)そこにはこのように書かれてあります。
『米軍の暴行事件は、昨年十二月まで独立後」独立後ですよ、
「八ケ月間におきまして千八百七十八件を数え、なお泣き寝入りになって
おりまする件数は膨大な数であろうと想像されております」

戸井田議員は、この資料で米国に攻めに転じよと言っているわけだ。
同官報にはこう続けられている。
「各地における青少年の特に性犯罪、学童の桃色遊戯等の取調の際、
彼らは係官に対して、アメリカ兵の真似をしたことがなぜ悪いかと反問し、
大人の世界に精一杯の抗議をいたしておるのであります」

いまだ数々の戦争犯罪に対して、一度も謝罪したことのない米国に、
なぜ毅然とした態度で挑まぬのか。
米国は、日本を非難する前に、
ワシントン国立公文書館や米軍公文書館で調査してみよ。

慰安婦非難決議の第4頂にこうある。

「現在と未来の世代にわたり、
このようなおぞましい犯罪があったことを教育せよ」
この言葉、そっくりそのまま米国にお返しする。

※加藤良三・駐米大使は決議案が提出されている米国下院議会に、
日本政府は慰安婦問題の責任を認めて謝罪を済ませている、
元慰安婦への補償としてアジア女性基金に4000万ドルを拠出している、
などの書簡を送った。

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以下、YAHOO!知恵袋 mu999nowさんの質問『戦後の謝罪 2007/3/3123:06:21』
のベストアンサー junto_2005さんの回答 2007/4/118:41:42 より
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311201708

占領初期のGHQ1945年9月『月例報告』では、
『日本人は米兵に強力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行われた』
などと記載されています。

また、GHQ外交局長W・J・シーボルトは
『(米軍)戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった』
『米兵達は、ジャップの女なんかには、手を出す気もしない』
と記しています。しかし、これら米国側の記録は真実ではありません。

実は、米軍進駐後『特高(特別)警察(約6千人)』は
『治安維持法』に基ずく監視の必要もなくなり、
10月4日に解散させられるまで専ら進駐軍の素行調査をしていたのです。

『特高廃止』指令が出ると、全国の『特高』は書類を焼却して
しまいましたが、特高の元締め内務省警保局の秘密報告書は償却されず、
米軍の不名誉な記録は、没収され米国に持ち出されたのです。
その後、実は1973年12月日本に返却され、
翌1月から国立公文書館に所蔵されています。

そのファイル(『進駐軍の不法行為(内務省警保局外事課)』
(377ページに及ぶ)によると、マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から
解散させられるまでの10月4日までの米軍の不法行為を
特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたものですが、
1945年8月30日~9月10日の12日間分だけでも
強姦事件9、ワイセツ事件6、警察に対する事件77、
一般人に対する強盗・略奪等424件。

特別事件として、『葉山御用邸侵入』『二重橋ニ侵入皇居撮影事件』
『宮様御用列車ニ同乗未遂事件』などが発生しています。

『特高』は解散命令の出た10月4日の記録も残していますが、
その日の記録には、『各種学校、倉庫等ニ侵入シ保管品ヲ不法挑発、
被害発生場所屋内10件、屋外10件』『両国ノ浴場ニテ女性暴行未遂事件』
などとあります。

掠れたページもあり、正確な数字ではありませんが、全ファイル一ケ月間
だけで少なくても強姦37件、その他不法行為945件を数えます。

中には8月30日午後1時、36歳の妻、17歳の長女に対し
拳銃で脅し強姦した事件、9月1日午後6時24歳女中を
公園に連れ去り27名で輪姦した事件も起きています。

『T子(11歳武蔵野小学5年生)R子(同)A子(同)の3人は、
10月武蔵野の林の中を仲良く手をつないで歩いていた』
『キャンプ・所沢近くで夢中でスケッチをしていると、
まずR子が襲われ、次々に米兵の餌食になってしまった。
彼女たちのスカートは切られ、何が起こったのか全然わからなかった。
R子とA子は気絶し、T子はまた泣き叫ぶと米兵は彼女の顔を蹴り、
ジープで去った』(要旨)

このような事件が全国で続発している中で、
1946年4月最もおぞましく恐ろしい事件が
東京・大森の中村病院で起きました。
米兵200~300人が3台のトラックで分乗してきて1時間近くも病院中を荒らし、
婦人患者のうち重傷者を除く40数人と看護婦17人を、
他に15~20人の付添い婦と雑役婦を陵辱して行った事件です。
『彼らは大病院に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人達の布団を剥ぎ取り、
その上に乗りかかった。』
『2日前に生まれたばかりのフミ子ちゃんは、
1人の兵士に床に蹴落とされて死んだ。』
『M子などは続けざまに7人の兵士に犯され、気絶した。』
そして、『裸で転がっている間を通って、侵入してきた時と同様、
彼らは表玄関と裏口から引き上げていった』と、
この問題を1948年から調査を開始し、本人やその家族、
事件の目撃者など千人にも及ぶ面接に基づいて
占領下の空白時期をまとめた五島勉氏の著書
『黒い春(米軍・パンパン・女たちの戦後)』(1953)に書かれています。

敗戦後、日本政府が米軍の『性の暴力』からいかに守るか、
苦心惨憺した様子が窺えます。
日本政府が慰安所設置に直接関与したのは、
戦時中ではなく占領下の米軍(進駐軍)のためだったのです。

1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が
米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、
池田勇人主税局長の裁断で5千万円の貸付けが決定し、
1945年8月28日『特殊慰安施設協会(後に国際親善協会RAAと改称)』
が設立されました。
その目的は、『関東地区進駐軍将校並びに一般兵士の慰安施設』
となっていました。
GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令しています。
しかし、これでも日本婦女子の貞操は守られなかったのです。
実際は主権回復後まで(いや、回復後も)
膨大な数の女性が『強姦』されていたのです。

自民党の戸井田とおる議員は2007年2月21日の
衆院内閣委員会でこう質しています。
『(決議案を提出した)マイク・ホンダ議員に翻訳して
差し上げてもらいたい資料が出てきました。(中略)
これは、官報号外、昭和28年2月27日に載った第15回国会の社会党の
藤原道子議員の質問の議事録です。(中略)
そこには、このように書かれています。
「米軍の暴行事件は、昨年12月まで独立後」独立後ですよ、
「8ヶ月間におきまして1,878件を数え、なお泣き寝入りになっておりまする
件数は膨大な数であろうと想像されております」』

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アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
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2008/08/07 09:09|年表リンク用資料
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