正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1871年(明治4年)、廃藩置県

明治維新期の明治4(1871)年に、
明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を
中央管下の府と県に一元化した行政改革。

当時まで長く士農工商の最上位にあった武士階級が、
自ら進んで特権を放棄し、中央集権国家形成に協力した。
多少のいざこざがあったが、私益を捨てて国家中心に向かった。

武士が特権を捨てて平民になる、この革命を外国の史家は、
武士の集団自殺に等しい決意だと驚き、
その国益を優先する覚悟を絶賛した。

●富国強兵・殖産興業

当時、世界は弱肉強食の時代で、力(軍事力)が絶対支配の時代だった。
軍事力を強化し、外国の侮りに屈しないためには、国を富ませねばならない。
欧化政策を進めて国力を高めなければ、
列強の植民地になってしまう。このためにこの政策が必要だった。
国を富まして兵力を養う富国強兵政策こそ、
明治維新の素晴らしい選択だった。

井上馨は、殖産興業のために財閥育成に血道を上げた。
井上は幕末に伊藤博文らとイギリスに密航し、
ロンドンの反映を目のあたりにして、
イギリスが強力な軍艦や大砲を持っているのは
金があるからだということに気づいた。

一方、日本では攘夷派が勢いを得て列国に無謀な戦いを
挑んだ藩が惨敗を喫している。
このような状況で列国並みの軍備を持つためには、
日本も金持ちにならなくてはと井上らは考えた。
財閥育成に邁進した井上こそ、
近代日本の財政的基盤を作った立役者である。

富国強兵のため第一に徴兵令を出し、兵役の義務を負わせ、
地租を改正して租税の義務を課して国家財政を安定させ、
学制を発布して小学校教育を義務づけた。
この3つの義務を維新の三大義務という。

さらに政府は富国のため、商業の発達、交通、郵便制度などを含む
殖産興業に全力を尽くした。
また西洋文明を積極的にとり入れ「文明開化」を進めて、
西洋に後れを取らない努力をした。

戦後、GHQの政策により、財閥は解体せしめられた。

●岩倉使節団

西欧列強に対して自国の独立を守っていく方法を探るため、
自分達が目標とする国におもむき、
実際に目で見て学んでしまえば手っ取り早いと考え、
派遣されたのがこの使節団だった。

何よりも画期的だったのは、政府の指導者が自ら、
1年10ヶ月もかけて12ヶ国もの先進国を回ったという点にある。

メンバーは、団長の岩倉具視をはじめ、
木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、そうそうたる面々である。

使節団はロンドンやパリで、日本との格差をまざまざと見せつけられる。
そして、進歩した大砲や鉄砲製造の技術を見て、
大久保と木戸は、断固、富国強兵を進めようと決意する。
「もう士農工商などと言っていても駄目だ。ヨーロッパの主要国は徴兵制だ。
武士に生まれなければ武士になれないというような制度ではやっていけない。

また、農より、工と商をまず振興しなければ、欧米諸国にかなわない」
という覚悟をした。
そして、工業や商業をさかんにするには、
徹底した欧化政策を採る以外に道はないという結論に至った。

この使節団の使命の一つは不平等条約の改正の交渉という
重要な使命を負っていたが、重要なのは上記の点である。
2010/02/21 06:00|年表リンク用資料
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