正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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沖縄(琉球)略年表

どの国も、さかのぼれば、どんどん小さな単位になっていく。

琉球国も、武力が強い集団が周辺を侵略して大きくなっていった国である。

「沖縄独立」を唱える人は、いったい何を根拠にして
何年何月何日にまで さかのぼるのが正しいというのだろうか?

沖縄の琉球国時代は中国(明、清)に朝貢していたので
中国(明、清)の冊封国ではあったが、
中国(明、清)に実効支配されていたわけではなく、別の国だった。
琉球国は一度も中国の領土になった事はない。

◆沖縄(琉球)略年表
●1406年、尚巴志、中山王の武寧を滅ぼし父、思紹を王とする。
●1416年、尚巴志、北山を滅ぼす。
●1421年、尚巴志、中山王に即位。
●1429年、尚巴志、南山を滅ぼして三山全島を統一支配。
●1466年、尚徳王、喜界島に遠征。
●1466年 尚徳王、奄美群島北部を制圧。
●1500年、石垣島でオヤケアカハチの反乱。尚真王が送った琉球軍で制圧。
●1511年 尚真王が久米島を制圧。
●1522年 宮古島の仲宗根豊見親が与那国島のサンアイ・イソバを制圧。
●1571年、尚元王、奄美大島の反乱を制圧。
●1609年、薩摩軍が琉球国に侵攻。
3月4日、薩摩藩の島津氏が3000名の兵を率いて薩摩を出発。
3月8日、奄美大島に進軍。
3月26日、沖縄本島に上陸。
4月1日、首里城まで進軍。
琉球国は4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。
4月5日、尚寧王が和睦を申し入れて首里城開城。
以後、琉球国は薩摩藩の付庸国となり薩摩藩にも貢納を始め、
江戸幕府に使節を派遣するようになり、清と薩摩藩の両属となった。
●1872年、日本政府、琉球藩を設置(琉球王国の廃止)外務省管轄となる。
●1874年、内務省管轄となる。中国への最後の進貢。
牡丹社事件の台湾出兵
宮古島の住民が台湾に漂着し、54名が殺害された事に対し日本が台湾に出兵。
●1875年、中国(清国)への進貢、冊封を禁止。
●1876年、日本政府が琉球藩と清の交流断絶を交付。
幸地親方が清国へ密書を持って渡航。
●1879年、琉球処分。琉球藩にも廃藩置県令。琉球藩廃止。沖縄県設置。
琉球処分官の松田道之が随員32人、警官160人、軍隊400人を率いて
沖縄を訪れ、3月31日、首里城の明け渡しが行なわれた。尚泰王は退位。
●1880年、沖縄県各地に小学校、中学校の設置が始まる。
●1884年、大東島を調査し、沖縄県管轄とする。
●1898年、徴兵制度施行(先島は1902年)
●1909年、府県制(特例)施行、初の県会議員選挙実施。
●1910年(明治43年)、那覇区に電話開通。
●1912年、衆議院議員選挙法施行(宮古・八重山除き定員2名)
●1914年、首里-那覇間に電車開通。
●1919年、衆議院議員選挙法の改正で宮古・八重山を加えて定員5名となる。
●1922年、嘉手納線開通。
琉球貿易図屏風の一部(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)。薩摩藩に服属していた琉球王国は支那への進貢船に「日の丸」を掲げていた。日章旗は琉球王国の船旗の一つであった。
琉球貿易図屏風の一部(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)。
薩摩藩に服属していた琉球王国は中国への進貢船に「日の丸」を掲げていた。
沖縄に内なる民主主義はあるか

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日本の文字「ひらがな」で書かれていた琉球王国の公文書(1523年)


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現代沖縄の言葉は大和古語(平安時代の言葉)
http://mabui.blog.shinobi.jp/%E7%A5%96%E5%85%88%E7%A5%AD%E7%A5%80%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AF%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%8F%A4%E8%AA%9E%EF%BC%88%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%EF%BC%89%E3%80%80

沖縄の言葉

私が三年前に赴任したときに、沖縄アクセントが出身地
鹿児島のカライモ弁に似て、妙に懐かしかったことを覚えている。

そんなことで何かしら沖縄の言葉(以下、うちなーぐち)には親しみを感じ、
色々と調べてみるとますます面白くなってきた。
まずは、うちなーぐちは大和古語の特徴を多く残し、
独特の味わいをもつことに驚く。

大和古語を色濃く残している言葉としては、

おおきい→うふし(おほしの変化)、
美しい→ちゅらし(清らしの変化)、
美人→ちゅらかーぎー(かーぎーは影=容貌)、
頭→ちぶる(つぶりの変化)、
女房→とぅじ(刀自)、
娘→みやらび(女童)、
かわいい→かなさん(かなし+あり)、
答える→いれーゆん(いらふの変化)、
早朝→ひてぃみてぃ(つとめて・・・枕草子の「冬はつとめて」)

等枚挙に困らず、平安朝に戻ったようで嬉しくなる。

さて、うちなーぐちを理解するには沖縄方言則の要所
「①あいうの原則え段→い段、お段→う段に変化、②き→ち変化」
を覚えればいくらか楽になる。

先の語群もそうだが、身近な例をあげれば、
「肝 きも→ちむ、心 こころ→くくる、衣 ころも→くるむ、
黄金 こがね→くがに、風→かじ、水→みじ」などがある。

他に地域的な型として「か行→は行、は行→ぱかふぁ行、ぎ→じ」
などの変化がある。
面白いことに大和古語では、は行はすべてふぁ行で発音していたから、
本当北部のぱ行変化は由緒正しい訛りである。

特に重要なのは「き→ち変化」であり、肝ことばに重要語が多い。

また、有名な「イチャリバチョーデー」は
行き会えば兄弟の変化であることなどすぐにわかる。

さらに、ちゅらはきよらの変化であり、
大和古語では清らしは内面の美しさも加味した最高の褒め言葉である。
よって、巷の表記も美らさから清らさにすべきであり、
「羊が大きいよりも水が青いほうがちゅらさん」。

なお、有名なうちなーぐちにユイマール(相互扶助)があるが、
「結マール」という当て字は解せない。
伊波普猷の「古琉球」を読むと、その語源は、
「大和古語の雇人(ゆひ)+回る」であり、
ユイマールとは農繁期に互いに雇いまわったことから来ている。
自由市場経済化の現在、この原義のほうがよっぽど美しい。

上記の方言則に慣れた上で、うちなーぐちの会話には感嘆し、
前置き、冗談言葉などが多いため、
これら本題に関係ない部分を区別できれば、会話体の理解も近いと思う。

東西南北の「アガリ、イリ、フェ―、ニシ」も面白い。
アガリ、イリは日の出入りを示し、
フェ―は大和古語の南風(はえ)を語源とするまでは皆さんご存知であるが、
ニシだけは知られていない。
風土工学調査によると
「ニシは古(イニシ)であり先祖の方角(沖縄では北、本土では西)を示す」

「ニシは冬季に吹く風の方向であり、東北~西の風を奄美でマニシ、
沖縄でミーニシという様に、九州から南下するにつれて西から北へ
ニシ風の方向が変わる」の二説が有力である。

古(イニシ)説は本土のニシと沖縄のニシの相似性を考えると感動的である。

大正期の古い話だが、「沖縄地名考」で有名な宮城真治が
当時クンチャンと呼ばれていた国頭村に対して、
「クンチャンは明治以降の訛りであり
もともとの読みであるクニカミに正すべきだ」と意見して
誇り高い今の読みに戻ったというのは乱れた言葉を正した良い実例である。
国頭の有名な民謡クンジャンさばくいは旧称の名残である。

民謡で話は飛ぶが、先日民謡教室の練習風景に立ち会い、
主婦層大半の生徒の皆さんが本当に気持ちよく三線を弾いて歌っていて
素朴な民謡の心地よさに聴きしれた。
やはり沖縄民謡はカラオケではなく三線で歌うべきであり、
うちなーぐちの心の理解はそこから始まるのだと思う。
昔から若い女性を褒めることは地域を褒めることであり、
若い女性も民謡教室へ行き地域文化を高めるべきである。

ついでによくある方言笑い話で、若い女性職員が本土から来た上司に終業時に
「帰りましょうね(帰りますの意)」というものだから
一緒に帰ってくれるのかと誤解するのは止めましょうね。

以上、うちなーぐちについて述べたが、
我々ものつくりに勤しむものにとって言葉を含む風土資産は重要であり、
「地域の財産としての公共事業」につまがるものである。

最後に、私がうちなーぐち最高の言葉と思う
「チムウラーキユン(肝が潤う)」を用いての駄琉歌、
「風土の誇りに ちむうらーきゆん 沖縄言葉の面白さよ」。

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ちなみに朝鮮は中国に実行支配されていた中国の属国だった。
しかも中国の冊封国「琉球国」より低い地位だった。
↓↓↓
『「韓国は日本人が作った」黄文雄著』
そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、
下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたことが
「渓陰漫筆」に書かれている。
そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けたと嘆いている。

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2019年10月31日、首里城、火災で焼失。

首里城

1453年、琉球王朝内部の王位継承権争いの戦争で焼失(正殿)
1660年、火災で焼失(正殿)
1709年、火災で焼失(正殿、南殿、北殿)
1945年、大東亜戦争で守礼門から正殿まで全てが山もろとも全壊・焼失。
1986年~2019年1月、日本政府が約260億円の総事業費をかけて復元。
2019年2月、国有のまま管理は国から沖縄県に移管(正殿 北殿 南殿など7棟)。

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首里城は1945年、米軍の砲撃を受け、山もろとも全壊・焼失していた。
1986年から日本政府によって再建が始まり、2019年1月までに復元作業を終え、
2019年2月から国有のまま、運営は沖縄県に移管し、
沖縄県が指定した「沖縄美ら島財団」が管理を行なっていたが、
その直後の2019年10月31日、火災で焼失した。

2014年、米国立公文書館から米軍が1945年に沖縄戦で焼失前の
首里城を撮影したカラー映像が発見され、屋根瓦は赤色では無い事が判明していた。
首里城の瓦などは黒色だった

米軍が1945年に撮影した首里城

戦前の首里城は屋根瓦が黒く、柱の色も着色されておらず、
全体の色調は赤ではなかっのだが、
なぜか戦後の復元作業では首里城の色がChina風になった。

首里城 カラー

元々の首里城は 屋根瓦も黒かった上に 全体の基調もアカでは無かった。

清国皇帝の名のもとに琉球国王を任命する冊封儀式
三跪九叩頭の礼

しかも10年以上前から首里城祭では『三跪九叩頭の礼』が披露されていた。
『三跪九叩頭の礼』というのは、
清国皇帝の名代として清国から派遣された勅使(正使と副使)を前に、
琉球王子が3度ひざまづき、そのたびに3度、頭を地面に付ける儀式で、
それは清朝皇帝を前に下臣が行なう礼であり、
清国が清国皇帝の名のもとに琉球国王を任命するという冊封儀式で、
つまりは「琉球王国はChinaに隷属する冊封国家です」という意味の儀式。
これを首里城祭で国内外の観光客の前で披露するというのは いかがなものか?
Chinaは「沖縄もChina領」と主張することもあるので、
China人観光客らが見たら「やっぱり沖縄もChina領だ」と思うかもしれない。

今までの沖縄県知事は米軍基地のことで
散々、日本政府に文句を言ってきたにもかかわらず、
沖縄県の観光資源である首里城が火災で焼失したら
日本政府に再建の協力を要請してきた。
首里城の管理が国から沖縄県に移った途端に
火災で焼失させた沖縄県の責任は重大であり、
日本政府は財政措置を含めて再建に協力するのであれば、
沖縄県に対して『三跪九叩頭の礼の儀式』の披露の中止や、
首里城の屋根瓦は黒に戻し、柱の着色は行なわず、
全体の色調は赤ではなく、もとどおりに戻すことを
条件にすべきではないだろうか。

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2008/08/04 09:00|年表リンク用資料
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