正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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上海租界 英米日仏伊軍 警備分担地区

大東亜戦争にいたる大きな流れ【2015.4.7版】

1840年・英清アヘン戦争後、欧米各国は中国と条約を結んで
中国内に租界・租借地を設置していきました。

日本も日清戦争後、中国と条約を結んで中国内に租界を設置しました。

「1900年・義和団の乱」で、
義和団や清国軍が外国人排斥運動を起こして外国人を虐殺しまくったので、
列強8ヵ国軍が出動して2ヵ月後に鎮圧しました。
(イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、
イタリア、ロシア、オーストリア(=ハンガリー)と日本)
1901年、戦闘事後処理の『北京議定書』(条約)が北京で調印され、
自国民保護のため欧米・日本の11ヵ国の軍隊が
中国に駐留していいことになりました。
(中国が11ヵ国軍の軍隊駐留を了承したということ。国と国の約束)

支那事変の発端である「1937年7月7日・盧溝橋事件」、
「1937年8月13日~第二次上海事変」ともに
中国側から日本側に武力攻撃してきて始まりました。

「盧溝橋事件」以前も中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(宋哲元29軍)との軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えて差し支えありません。

支那事変の発端は「第二次上海事変」です。

上海共同租界の行政機関である工部局の外国人職員の
ほとんどはイギリス人で、工部局の最高意志決定機関である参事会の参事は
年一度の選挙で選出されていました。(事前に候補者は調整済みの選挙)
1914年までの参事会の構成はイギリス人7名、アメリカ人1名、ドイツ人1名。
1915年の一次大戦からイギリス人7名、アメリカ人1名、日本人1名。
1927年にイギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名となり、
1928年、初めて中国人が入って
イギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名、中国人3名。
1930年、さらに中国人が増員され、
イギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名、中国人5名となりました。
(阿片戦争後の戦後処理条約で、もともと上海はイギリスの租借地だった。)

上海共同租界は、中国と最恵国待遇を含む条約を結んでいる国なら、
どの国の人間でも進出していいことになっていましたので
日本人も進出しており、特に虹口(ホンキュウ)地区に
多くの日本人が居留していて日本人町(日本人居留区)となっていましたが、
正式な日本租界(日本の領域)というわけではありませんでした。

上海共同租界内の警備はアメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍とともに、
日本海軍陸戦隊も加わっていました。
日本海軍陸戦隊は日本人が多く住む虹口地区を含む地区の
警備を担当していました。

【第二次上海事変】
1937年8月12日、蒋介石軍が「1932年の上海休戦協定」に違反して
協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲したので、
日本領事は「1932年の上海休戦協定」の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、蒋介石軍の撤退を要求する共同抗議、および
何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが英米仏は無視しました。

翌13日午前9時30分ごろ、蒋介石軍が日本人町を武力攻撃してきたので、
その地区の警備に当たっていた日本海軍陸戦隊が応戦したものです。
これが支那事変の始まりであり、大東亜戦争の始まりでした。

蒋介石軍は宣戦布告なしに、自衛でもなく何の理由もなく、
事前の予告文書も口頭での通告も要求もなく、
突如として「1932年の上海休戦協定」に違反して協定線内に侵入したうえ、
上海共同租界の日本人居留区域を武力攻撃してきたのです。

日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石は武漢に逃げたので日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。
これが支那事変です。

確認ですが、上海国際共同租界は日本領ではありません。
上海国際共同租界のなかの比較的、日本人が多く住んでいた虹口地区が
通称「日本租界」と呼ばれていた日本人町(日本人居留区)で、
正式な日本租界ということではありませんでしたし、
虹口地区には日本人だけでなく欧米人や中国人も住んでいたのですが、
その日本人町だけが「蒋介石の地上軍」に武力攻撃を受け、

(蒋介石軍の一部はフランス租界にも侵入したため、
一時的にフランスの警官隊とも銃撃戦になった。)

「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町だけでなく、
上海国際共同租界の、あちこちに無差別爆撃を行ないました。
「蒋介石軍の爆撃機」は日本人町を標的にしたけど、
正確に爆弾を落とすことができずに日本人町以外にも無差別爆撃する
結果になったのか、わざと日本人町以外も爆撃したのかは不明ですが、
蒋介石は「日本軍機が無差別爆撃をやった」と世界に宣伝しました。

しかし上海国際共同租界内には約20ヵ国の居留民が暮らしていて、
各国の領事館もありましたので、
蒋介石軍機が無差別爆撃をやっていたことは皆わかっていたはずです。

実質、上海共同租界を支配していたのはイギリスで、
そのイギリスには上海共同租界内の治安を維持し、
居留民の生命・財産を守る責務があったのですが、
上海共同租界内の日本人居留区が蒋介石軍に武力攻撃されたり、
上海共同租界の日本人居留区以外の地区も蒋介石軍に無差別爆撃され、
日本人に限らず、欧米人や中国人を含む約3000人もの居留民が犠牲になり、
租界内の多くの建物が破壊されているにも関わらず、
日本軍と一緒に蒋介石軍と戦うどころか、
逆にイギリスやアメリカなどは蒋介石側に資金・武器テロ支援をしました。

蒋介石は英米などからの強力な資金・武器支援が続けられているので、
日本から蒋介石への、たび重なる和平提案を蒋介石は拒否し続けました。
米英は、日本と中国(蒋介石)の戦争を終わらせてくれなかったのです。

英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルート遮断のため、
日本は仏印と話し合い、条約を結んで合法的に日本軍は仏印に進駐しました。

「仏印が弱っているときに日本が話し合いを持ちかけた」
と批判する人がいますが、
日本が、うまく外交できなかったら無能だとバカにし、
うまく外交できたら、ひどいことをしたと非難する・・・
結局は何でも批判しておけばいいという批判です。

相手が弱っているとき、自国に有利な条約を結ぶというのは、
うまく外交をやったということであって、
相手が強い立場になるのを待ってから外交交渉を持ちかけるというのは、
それこそ無能だと批判されるのではないでしょうか。

仏印と話し合って、条約で進駐したのですから、
なんら批判されることではありません。

1937.8.13~第二次上海事変で
蒋介石から不法テロ攻撃を受けて日本は戦っているのに、
米英が援蒋するから蒋介石は日本からの和平交渉を拒否し続け、
テロ蒋介石側にテロ支援してるのが米英で、
その援蒋ルート遮断のために条約によって合法的に
日本軍は仏印に進駐しているわけで、
仏印進駐は国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。
権益地との距離が縮まっただけで経済制裁を発動して良いなんて、
どこの無法者の理屈なのでしょうか。
米英がテロ支援しなければ仏印進駐などしなくて良かったのです。

日本が仏印進駐すると英米蘭は日本に対して石油禁輸をしてきました。

英米による蒋介石への資金・武器支援や、
日本に対する経済制裁などは、英米にとって何の自衛でもありませんでした。

アメリカは国連か何かのつもりだったのか、
日本に中国から出て行くよう要求していましたが、
なぜ中国から出て行かなければならないのか、
なぜアメリカ一国の言うことを聞かなければならないのか、
被害側の日本にとっては、まったく意味不明なことでした。

日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました。(日米戦争)

支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

ちなみに満洲事変は1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で
終結していましたので、4年後の1937年になって満洲事変を理由に
盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

―――――――

日本の行動で批判されているポイントに対する反論を中心に記述しています。
ソ連の工作に対する日本の対処が批判されているわけではありませんので…。

蒋介石軍を追撃した日本が悪いという人がいますが、
追撃しようとしまいと自衛であることに揺らぎはありません。
攻撃された後、正当防衛して犯人が逃げ、
それを追わなければ自衛で、追ったら自衛じゃないとはなりません。

蒋介石軍が自衛でもなく何の理由もなく、
事前の予告文書も口頭での通告も要求もなく、
突如として「1932年の上海休戦協定」に違反して協定線内に侵入したうえ、
上海共同租界の日本人居留区域を武力攻撃してきたのです。
応戦して当然です。応戦しないほうが、おかしいのです。

攻撃してきた相手は、相手国の正規の軍隊です。

相手国の民間の暴力集団による犯罪なら
蒋介石政権に逮捕や処罰や引渡しを求めたりできるでしょうが、
相手国の正規の軍隊(蒋介石軍)が侵略してきたのですから、
相手が和平交渉に応じないとなれば、
こちらとしては自衛の戦闘を続けて相手を追い込んで
和平交渉に応じさせるという自衛の行動をしても
何ら、おかしくはありません。
1928年の不戦条約は米英仏の要望で自衛権は除外されていました。

日本軍以外の米英仏軍などは
蒋介石軍を追っ払おうとはしませんでした。
日本から応援の上海派遣軍が行って追っ払いました。

日本軍だけが上海租界を守ったという異常な状況でした。

相手国の正規の軍隊によるピンポンダッシュを認めるのでしょうか?

多くの民間人の犠牲者を出されたり建物を破壊されたりしているのに、
去って行く相手の正規軍を、ただ見てるだけでいいのでしょうか?
また来るかもしれませんし、現行犯が逃げているのです。

国際的に主張しても、蒋介石軍を追っ払おうとか、
追い詰めて蒋介石に賠償させようとか、
懲らしめようという雰囲気ではなく、
英米は逆に蒋介石側を応援しているわけです。

今後も無差別爆撃されようが、協定線外から砲撃されようが、
租界に侵入して来て民間人を殺戮されようが追撃しないのでしょうか?
こちらは侵略されている側であり、
こちらからの和平交渉に応じようとしていないのですから
追撃は自衛の行動です。

本来なら英米軍も日本軍と一緒に蒋介石を追い詰めて、
蒋介石と和平交渉して戦闘事後処理の停戦協定を結ぶべきなんです。
蒋介石に責任を取らせ、損害賠償させて、
蒋介石軍が入ってはいけない協定線を もっと上海から離すとか、
日本軍を増派しなくてもいいように、
蒋介石軍の規模を縮小させるなどの条約を締結すべきなのです。

日本軍の追撃を批判しておきながら、
真珠湾攻撃後のアメリカ軍の追撃&原爆投下には何も言わないというのは、
いったい、どこの国の人間なんだ?と言いたくなります。

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★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
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第二次上海事変
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2012/09/02 09:00|年表リンク用資料
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